一点は無駄にしたけれど、一点は取れた。掠めただけの微かな手応え。けれど、今の私にはそれが唯一の希望だ。残る一点、これに集中しなければーーと、呼吸を整えようとした、その時だった。
「隙あり!」
陽気な、けれど鋭い声が響く。
正確に狙いを定めたかの、ワザと急所を外したのか。それは不気味なほどであった。耳元で響いた鋭利な音と共に、鋼の刃が私の襟を掠め、そのまま後ろの幹へと深く突き刺さる。襟元を強く引っ張られた勢いで、私の体は宙に浮き、真っ逆さまに落ちそうになる。
『ーーッわ!』
寸前で太い枝に手をかけ、なんとか持ち堪えた。けれど、その拍子に最後の一本を落としそうになり、指先に力を込めてしがみつく。
視線を上げると、私が必死にぶら下がるすぐ隣の枝に、彼はいつの間にか腰を下ろしていた。
「まだまだだな、若旦那」
ひらひらと手を振り、彼は私の頭に手を置くと、髪をくしゃくしゃに撫で回してきた。彼の言う「手加減をしない」というのは、私のことなど掌の上でいくらでも転がせる、という程度の意味だ。実力差をこれでもかと見せつけられ、悔しさよりも先に呆れがくる。
ーーはァ、全く性格の悪い男め
強引に乱された前髪を払いながら、私は暗い森の奥で、小さく溜息を吐き出した。
師匠は私を途中まで送ると言って、別にいいのに、と思いつつもどうせ聞かないとわかっていた私はただその後ろをついて行くばかりだった。
『こんなのを稽古しようだなんて、よく思い至りましたね。フリーの忍者様はお暇なんですか』
私は今晩の稽古に……いや、自分の結果に納得がいかず、そっぽを向いてやった。彼はそんな私を見て、ガキかよとケタケタ笑う。ーー全くガキだよとは言わなかった。
「ーーッハハ!だが、以前に比べちゃア、そこそこ強くなった。私の気配をちゃんと読み取るのだから。当然、私に比べれば動きは鈍いが、その観察眼は信じろ。旦那譲りの冷静さだな」
彼はまた、ぶっきらぼうに私の頭を撫でてくる。
私が彼と初め出会った頃は、少し素っ気ない態度ばかりとっていた。それでも、彼は嫌な顔ひとつせず、ーー若旦那!暇か?稽古をするぞ!と言って、なんのお構いもなしに私を連れ出してくれた。
ーーこの方のようになりたい。いつからかそう思うようになって、その想い日に日に積み重なって、何故そこまでと自分でも理解ができないほどに、強くなっていった。憧れは初恋のように、掴むことのできない希望に等しい。
『どうすれば、貴方の様に強く慣れますか』
と、いつしか口にした真っ直ぐな言葉に彼は目を見開いて、嬉しそうに笑って、
ーー恋文なら、すぐに強くなれるよ、
と言った。顔を向けることなく、彼はいつもより優しく私の頭を撫でたのだ。
夜風が森を吹き抜け、足元の草むらをざわめかせていく。嵐の前触れのような、不気味なまでの静寂が、今日は朝からずっと続いている。その沈黙を埋めるように、どこからか鈴虫の音だけが、絶え間なく夜を震わせていた。
師匠は私を撫でる手をそのままに、何も言わなくなった彼を変に思って私は顔をのぞこうとするが、それはグッと私の頭に力を入れて再び乱暴に撫で始める。私は、なんですかと困惑の声を上げながら下を向くばかりだった。
「恋文。お前なら平気さ。この先も、どこへ行ってもうまくやっていけるよ」
そう言った彼の、大きな掌の温もりが不意に離れていく。ぶっきらぼうに髪をかき乱していた熱が、夜の冷気に奪われて、並んで歩いていたはずの彼は、その言葉を最後に、足音を消した。振り返ってもその姿はなくて、あたりは急に静まり返る。私はわけもわからないまま、その道の真ん中で、中途半端なと苦言を溢しては腑に落ちるような思いでいた。はァ、とため息を吐くと同時に肩を落とした時、私の視線は足元へと下がる、ふと見れば、彼がいつも手慰みに弄んでいた苦無が落ちていた。いや、落としていったのか、置いていったのか、正確なはわからなかったが、手に取れば、ずしりとした鉄の重みと、使い込まれた黒鉄の感触が掌に伝わる。
私はそれを何故か胸に抱いては、ーー狡い人だとただ呟くばかりの夜だった。