国境を越えた辺りから、肌を刺す空気は変わり始めた。栄えている土地、そうでない土地、未開拓の土地、山々を気の赴くままに歩いた。
そうやって一月ほど、私たちは拠点を東から西へと移したのだ。日本大国とは想像していた以上に広いもので、正直に言って、私はかなり疲れている。
いやしかし、海上で何ヶ月も船に揺られ、遠くを見渡しても空を見上げても、ただ青いばかりで境目が分からなくなっていくあの絶望感に比べれば、ーー地面を踏み締めて歩けるだけ、ずっとマシだ。
この無愛想な父と何日も共に食事をするのも、今や慣れたものだが、流石に、道中の私たちの会話には何とも花がない。
『父上。僭越ながら申し上げたいのですが』
「なんだ」
山菜粥を頬張る手を止めず、父が低く応じる。
『私も年頃なんですよ』
「知っている……」
『最後まで聞いてください』
「……」
そこま聞くと父は、私が本題を言うより先に「ちょっと出る……」と逃げるように席を立ち、天幕から離れていった。
まるで、私に気を遣うように。ーー実の息子に、気を遣う?一体何に、だ!ーー私ただ、話題が堅苦しいです。国家情勢などを聞かされても楽しくはないんですよ。もっと、こう…そろそろ桜が咲きますね、とか。もうすぐ川辺でヤマメやニジマスを取れますね、とか…穏やかな話をしませんか?ーーと、言いたかっただけなのに。
このとき私は、ガラスにヒビが入るように、釘で心臓を打たれたような気を味わった。にしても、父のあの物言いようのない感じの逃げ方…まさか、これは、私と言う息子に訪れてしまった思春期を察して恥ずかしくて逃げたな。
だとしたら相当な勘違いをされたぞ…父親としてどうなんだ?そして私の気持ちはどうなんだ!実の父親にそんなことを話す馬鹿がいるのか?いない、いるわけない。
でも現に私はそういう話をしようとした息子だと父上に勘違いされた。
(なんだこれ……決して恥じることでもないのに、父上があのような対応を取るのが悪いんじゃないのか?それだけは被害妄想じゃないか。ひどい、なんだか傷ついた……ひどい)
私はその場で机に突っ伏し、ぐるぐると思考を巡らせた。ーーいや、もしかすると、物静かな父なりに「ついに息子の反抗期が来たのかもしれない。下手に口を挟むのはよそう」とか……。
ーーそうだ、きっとそうだ。そうに違いない。否、そう言うことにしよう。
(私は私の尊厳を守らねば……)
そうやって、みるみる熱くなる顔を両手で押さえながら、ブツブツ言い訳を述べながら人足先に食事を済ませ、忘れたい一心で床に着いた。
*
相変わらず私たちは旅を続けている。それに、目的地へ徐々に近づきつつあり、山道や森を歩く道中、春の訪れも度々目にしている。
『これは』
「子鹿、親鹿の足跡か」
実に春になった。川辺ではヤマメが泳いでいるし、私は自慢の観察力で獲物を見つけては、お手製の釣具を使って今夜の晩御飯になる魚へと狙いを定めた。ーーこの時期のヤマメにハズレはない!
『よし、掛かった』
私はヤマメの口に針が食い込むよう慎重に引っ張り上げる。すると、水面を割って銀色の体が翻った。陽を弾いた鱗が一瞬だけ白く光り、細身の魚体が流れに抗って暴れる。岩影へ潜ろうとするのをいなしながら、私はゆっくり竿を立てた。やがて観念したように寄ってきたそれを、静かに川縁へ滑らせる。
掌に収まったのは、春らしく身の締まった良いヤマメだった。
『上等だな。あいつが見たら喜ぶだろうな』
私は、自分のその一言で江戸にあった気持ちがじわり、じわりと冷たく思い起こされていくのを感じ取った。願っても叶わない約束をしてしまったこと、それはもう、二度と償うことのできない罪だった。
ーーああ。破ってしまったなァ。私は肩を落とし、水面に映る自身の顔を見て情けなく思った。どこの誰に届くわけでもない、胸の内ではただひたすらに独白を並べるばかりだ。ーーもっとあいつをわかってやりたかった。もっと、あいつに自分のことをたくさん知ってもらいたかった。でも、こんな別れが来るのなら、情なんて置いてこない方がいいと思ってしまったんだ。それなのに、大好きになってしまった。最初こそ素っ気なくしていたのに、あいつは何度も話しかけてきて、つい絆されてしまった。
あいつは寺小屋の中での成績も良くて、人当たりも良くて、何でも持っているような奴だった。私は少し嫉妬していたんだと思う。
それから、あいつは喧嘩が好きじゃなかった。理由は弱かったことくらいだったが、その弱さにつけこんだ奴らが、あいつに恥ずかしい思いをさせようとしたのを私は見過ごせなかった。
「男なのに、情けないよな……こんな、こんな…」
あいつは俯いて、大粒の涙がぼたぼたと音を立てながら膝に落ちていくばかりだった。
「ーー私さ、体が弱くって、それから髪を低く結ってる所為で、女みたいだって。でも、この髪型は母さんのお気に入りだったからさ。こうしてると、落ち着くんだ」
あいつは、母親が随分前に亡くなったらしい。母親の真似をして低く結ってみれば、下の妹たちが「母様みたい」と喜ぶからと、それに自分も母親を忘れたくないとあいつは言った。
『変じゃないよ、貴方は全然変じゃない』
「ーーそれは本当か?嘘じゃないのか?」
『こんな嘘ついても仕方ないだろう、ーーもう、泣くなよ、励ましたりするのは得意じゃないんだ』
「おい!そんなッ、今の言葉は女だったらもっと泣いているぞ!笑っている方が好きだとか、もっと言ったらどうなんだッ!」
『なんだよそれ。男なのに情けないとか喚いたくせに、貴方が言うの?』
「ーーハハッ。本当だ、私って変なやつ」
あしらったつもりの私の言葉にあいつは笑ってくれた。今まで誰かとこんなくだらないことで笑うなんてなかったから、少し拍子抜けしたが、それでも、私の一言で笑顔になってくれた事実は照れ臭かった。
「恋文って不器用なんだな」
『ーーッわ、悪かったね』
「いままで素っ気なかったのって、不器用だからでしょ。何となくそうなんじゃないかなーって思ったよ、誰とも話さないし、いつも顰めっ面だし」
ーー顰めっ面という言葉は聞き捨てならん!私は身を乗り出して勢いよく言った。
『そんなことない!顰めっ面なんて言うな、私は父上と違うんだ……』
「……? なんだ、父さんと暮らしてるのか?」
『ーーあぁ。そうだよ。私は父上と二人暮らしだ。私の家は商人だからな。これ内緒だからな、あまり言うなと言われているんだ』
「フン。いいぞ、内緒にしてやる。ーーその代わり私と仲良くしてくれ恋文。お前のこともっと知りたいんだ。ダメか?」
あいつは私の手を取ると首を傾げ、眉を八の字に作って優しく笑いかけた。思えば、これはあいつが見た母の真似事だったのかもしれない。一瞬、ほんの一瞬だが、女性のようなあどけない仕草にドキッとしたのは、言うまでもない。
『なんか、そういう言い回しをされると悪い誘いを受けているみたいで返答に困るな』
「ーーわかッた、わかッたから!ともッ、友達になろう恋文。私と仲良くしよう、お願いだよ」
あいつは必死こいて私の肩を掴むと揺さぶってそう言う。それがなんだか面白くてつい呆れるような笑い声を上げた。
『ーーはは、あは。わかったいいよ、友達になるよ、仲良くもする』
「本当かい?」
『ほんと、ほんと』
ーーそっか。よかッた!これからもよろしくな、恋文。
きっかけはなんであれど、私はこれまでの旅で初めてできた友達があいつになった。今では懐かしいと過去に変わってしまったが、ふとした拍子に思い出してしまう。
ーー笑ってる方がいいよって、今だったら言えたのにな。そんな、唯一の友達に、私は別れを告げられなかった。
パチパチと弾ける火の粉が宙を舞う。焚き火を囲んだ二人分の串刺しにされたヤマメが、陽炎に揺れて見える。朦朧とした意識の中で、私は舟を漕いでいた。すぐそばに腰をかけていた父の大きな手が頭に触れている。
そんな私の視界は歪みつつある。
ーーどうせなら、あいつと食べたかったな。なんて、口にできない言葉を胸の内に呟いた。
生温い何かが、静かに頬を伝った。