【完結】 『大切な人を救うために死に戻る能力』 作:破れ綴じ
「すまない、セイラ。待たせた」
「ううん。10分くらい?」
「……正確には12分だ。申し訳ない、付き添いのはずの僕の方が長居して」
「いいよ。付き合ってって言ったのは私なんだから」
優しいな。
……いや優しすぎないか。
1年前の君なら、12分も待たされた時点で「遅い」の一言から始まって、12分ぶんきっちり小言が返ってきていたはずだ。棚の前で六法を見比べている僕の背中に「どれも一緒でしょ」と言うぐらいはしただろう。
しかし最近のセイラの軟化っぷりはどんどん加速している。
待たせた側としては、責められない方がかえって落ち着かないんだが。
でも、12分かかったのだって仕方ないと思う。
法改正は毎年どこかで起きている。一つ前の版を買って、もう変わってしまった条文を前提に答案を書いたら目も当てられない。収録されている法令の数も違うし、判例付きかどうかでも使い勝手は大きく変わる。大学の4年間使うかもしれない一冊だ。妥協はできない。
……できないが、「カリン用の問題集を買いたい」という君の用事はとっくに終わっていたんだよな。
それに加えて、重い。
他にも色々買ったから仕方ないことではあるが……六法というのは想像の倍は重い。
紙の束というより、ほとんど鈍器だ。持ち歩くのはこれ一冊じゃないんだし、毎日こうだとしたら大学生活は思っていたより体力勝負になるのかもしれない。
……いや、違うな。
今一番重いのは鞄じゃない。
「セイラ」
「なに?」
「そこまでしっかり腕を組む必要は無いんじゃないか」
「……寒いから。マコト、あったかいし」
それは僕を暖房器具として扱っているということか? 左腕を丸ごと抱え込んで、肩から全体重を預けてくるのは、暖を取るというより寄りかかっているだけだろう。
しかもこの重さ、パーティーの夜より明らかに増えている。
日に日に重くなっていると思っていたが、気のせいじゃなかったんだな。
確かに今日は冷えるし、君は見るからに薄着だ。寒いのは分かる。
分かるが、僕の重心がずっと左に傾いていることも分かってくれないか。このまま歩き続けたら、左に曲がり続けて元の本屋に戻っていそうだ。
この前ミオに詰められたばかりなんだよな。
二人きりで泊まり、部屋も同じ、勘違いされやすい距離感。あれだけ反省しておいて、舌の根も乾かぬうちにこれとなると……本当に反省の意味があったのかどうか疑わしい。
まああれは離島で泊まりで同じ部屋だったから問題だったのであって、今は地元の夕方の歩道だ。人目もあるし、ただ並んで帰っているだけ。寒いから腕を組んでいる、それだけの話だ。そこまで気にしすぎるべきではないかもしれない。
「そういえばマコト、ルナに借金あるんでしょ? 私のせいで」
「……君のせいではないが。確かに、あるぞ」
「じゃあさ、割の良いバイトがあるんだけど」
「ふむ?」
「カリンの、家庭教師」
……ふむ。
なるほど。
「週一回、2時間くらい。ママが謝礼出すって」
「それは……本職の人間ではなく、僕でいいのか?」
「うん。どうせマコトより教えるの上手い人なんていないし、カリンも喜ぶと思う。家に来てくれたら私も嬉しいから。火曜日はバイトなかったでしょ?」
「まあ、そうだ」
しかし……そうか。
割の良いバイトと聞いただけではそこまで受ける気も無かったが……カリンの家庭教師なら、確かに悪い話では無いのかもしれない。
4月以降は大学生としての生活が始まる訳だし、今のバイトを辞める気もない。
その上、緊急時にはWPPOの分析官としての仕事も出てくる可能性がある。
一年次は必修科目も多いだろうし、あまり時間を取るようなバイトは受けられないというのが本音だ。曜日や時間すら決まっていない予定を抱えているのに、それ以上予定を増やすのは正直不安でもある。
だが、カリンの家庭教師となれば話は別だ。
1. カリンがこれから歩むであろう道は僕がかつて一度通った道だ。
レベル的にも教える分にそう時間はかからないし、既に関係が構築されている以上、家庭教師瀬尾マコトの導入もスムーズに行えるだろう。
2. 僕が今現在金銭を必要としているのも紛れもない事実。
業者ではなく知り合いの個人契約なら、会社を経由しないから給料の中抜きが存在しない。時給が割高になるのも確かに納得だ。
3. 辻家なら歩いて行けるから、移動時間はほとんどかからない。
週一回、2時間。3月中はまだ大学も始まっていないから、すぐにでも始められる。
4. そして辻家には恩もある。
向こうとしても信用ならない人物に任せるより、僕に担当してもらった方が安心できると考えているのだろう。ならセイラに頼めばと思わないでもないが。
5. 何故か火曜はシフトを入れてないことも知られているし。
どうして知られていたのかは気にしないことにしよう。怖くなってきた。
うん。
確かに、悪くないな。
「分かった。一度話をしに伺ってもいいか?」
「大歓迎。いつにする? 今日すぐ?」
「いや、明日にさせてくれ。準備の必要がある」
「……準備?」
そうだ。
雇用条件の次に考えるべきは手続きだ。
謝礼は辻母が出す、と言っていた。
つまりこれは、知り合いの家の手伝いではなく、対価を伴う労働だ。辻家が僕に指導を依頼し、僕がそれを提供し、その対価として謝礼を受け取る。形式としては、立派な雇用関係になる。
雇う側には、相手が仕事を任せるに足る人間かどうかを確かめる責任がある。まして、任せるのは大事な娘の勉強だ。高校生活のスタートで躓けば、その後3年間に響く。
いくら僕が辻家に何度もお邪魔しているとはいえ、それは客としての話だ。客として信用されていることと、講師として適任であることは、全く別の問題じゃないか。
君は「家に来てほしい」と言った。
だが、それは娘としての意見だ。実際に謝礼を出すのは辻母で、判断するのは辻家のご両親だ。紹介者の推薦だけで採用を決めるような雑な家庭なら、そもそも君のような慎重な娘には育たないだろう。
だから準備だ。
履歴書が要るな。
駅前の文房具屋なら売っているはずだ。証明写真も撮っておこう。
服装は入学式用に買ったスーツを使えばいい。
4月に下ろすつもりだったが、一度袖を通しておけば本番でも慌てずに済むだろう。
志望動機も考えておかなくては。
カリンの入学前課題の範囲も、事前におさらいする必要がある。
つまり、これは──
──面接だ。
*
「その、今日はありがとう、瀬尾君。時間を取ってくれて」
「いえ。金銭が発生する話であれば、適当で済ませる訳にはいきませんから」
「それでスーツか……いや、そんな面接ってつもりじゃなかったんだが」
「ところで。どうしてセイラは瀬尾君の隣に?」
「マコトって意外と手もすべすべなんだよね」
「それは僕も思いました。何故娘さんは僕の手を握りながら座っているのでしょうか」
辻父が指摘してくれて良かった。
僕の感覚がおかしい訳ではないんだ。
机を向かいにして、辻母と辻父が座って。そこまではまあ普通だろう。
面接官が二人なのはいい。謝礼を出すのは辻母、家長として辻父が同席するのも自然だ。
そして僕の側にカリンが座ったのも……まあ変だが特別指摘することではない。
言ってしまえば雇用側の人間ではあるんだが、これからは教える側と教わる側になるのだし、話を聞くという点でも僕の隣に着席するのは……まあ、あり得なくないのかもしれない。
問題は君だぞ辻セイラ。
なんで君までこっち側に座っているんだ。
しかもどうして僕とカリンの間を陣取った。紹介者ならせめて向こう側じゃないのか。
割り込まれた時のカリンの顔見たか? 「えっマジかコイツ?」みたいな顔してたぞ?
向かいに辻母、辻父。
こちら側は順番に、僕、セイラ、カリン。
テーブルの上には、昨日駅前の文房具屋で買って、一晩かけて清書した履歴書。
……おかしくないか?
「……セイラ」
「なに、パパ」
「どうして瀬尾君の隣に座っているんだい」
「私がマコトの隣にいたかったから」
何を言っているんだこの女は。
「……じゃあ、瀬尾君を真ん中にすればいいんじゃないか?」
「私がカリンの隣にいたかったから」
「そ、そうか。その、瀬尾君がいいなら僕も何も言わないが」
……なるほど。
僕の隣にいたい。
カリンの隣にもいたい。
両方を満たす席は、確かにここしかない。
論理としては完璧だ。完璧だが、何かが根本的におかしい気がする。
気にしたら負けなのか?
「(もうほとんど家族と同じ態度じゃないか……)」
「(まあまあお父さん。面接は予想外だったけど、これはチャンスじゃない?)」
「(……そうだね。普段はできない質問を瀬尾君にできるかもしれない)」
「(そうよ。これを機に瀬尾君の見極めをしちゃいましょう)」
……だが、辻母と辻父は何やらこそこそ話し合っている。
僕には聞こえないように話し合っているあたり、僕には聞かせられない話題か。
面接官同士の評価基準のすり合わせだろうか。真剣だな。
少なくとも、今の状況を異常だとは判断していない訳だ。
まあいい。座る位置で指導力が変わるわけでもない。
本題に入ろう。
「あの……マコトくんが私の家庭教師になるって面接だよね?」
「そうだぞカリン。何か気になることが?」
「そうだよカリン。何か気になることでも?」
「えぇ……? 気になることしかないよ? 私以外皆おかしいよ?」
「じゃあ早速。大学はどちら? 学部は?」
「履歴書にも書きましたが、法学部です。4月から通います」
「(まあ法学部! 法学部ですってお父さん!)」
「(将来は安泰そうだね)」
おお、声が一段高くなったような。
指導者の学力の確認だろう。
家庭教師を雇うなら最初に聞くべきこと。
妥当だ。
……妥当だが、そこまで喜ぶようなことか?
僕が教えるのは高校一年の科目で、法律ではないんだが。
まあ、あれか。勉強を頑張ったのは受験シーズンだけで、受験が終われば全部忘れました、高校一年のことなんて全く覚えていません……なんてことになったら目も当てられない。
雇用主側の確認事項としては外せない項目なんだろう。
法学部というだけでそこをクリアできるのなら、こちらとしては何も不満は無い。
……っと。
次は辻父か。交代で一つずつ質問するのだろうか。
「週に一度、続けられるのかい? 大学が始まれば忙しくなるだろう」
「急な用事が入る可能性があります。ただ、代替の授業日、あるいは僕が個人で作成した予習復習用の課題を出すことを認めて頂けるのなら、毎週継続することは可能です」
「それは……もっと大変じゃないかい? あまり瀬尾君の自由時間を拘束しすぎるのも悪いんだが」
「いえ。数時間で準備できますし、娘さんのためであればその程度やって当然だと考えています」
「うん……それは……」
元のバイトはある。だが火曜日ではない。
しかし問題は母さんに何かあったときのこと、WPPO、死に戻りのことだ。
CKDから快復したとはいえ、母さんの体がそこまで強くないことを大々的に言いふらす気も無いし、WPPOについては明確に守秘義務がある。意味もないのに「僕は国際機関のエージェントです!」なんて言い出す人間、組織としては迷惑極まりないだろう。
そして、死に戻りについては……もう絶対に話してはならない。セイラがいる目の前で彼女の信頼を裏切るような真似、絶対にNGだ。こればっかりは何が何でも内容を黙秘させてもらう。
だが、存在しないふりをして黙っているのは嘘と同じ。
抱えている予定がある以上、雇う側はそれを知った上で判断するべきだ。
事情こそ話せないが、「そういった可能性がある」ということと、「それについての代替案」の二つを提示するのは面接されている側の義務だろう。そして、先ほどの代替案が認められるなら、家庭教師ができない週は本当に緊急時以外存在しない。
辻父が静かになったのも当然だろう。
娘の勉強を任せる相手が、中身の分からない予定を抱えていると言ったんだ。不安に思わない方がおかしい。マイナス評価は覚悟の上だ。伏せたまま採用されるよりはずっといい。
「将来は何になりたいの? 弁護士さん? 検事さん? それとも公務員?」
「まだ決めていません。ただ、決まりを作る側か、それを守らせる側に関わりたいとは思っています。決まりは、各々の大切な人を守るためにあるものなので」
「……あらぁ。しっかりしてるのね」
……あれ。
さっきの「法学部!」とは明らかに温度が違うような。
僕の将来の進路?
家庭教師の面接で聞くことか?
……いや、目標が定まっているかどうかは、長く続けられるかどうかに関わる。
継続雇用の判断材料……と考えられなくもない。少し苦しいが。
途中で方針を変えて辞める人間より、行き先がはっきりしている人間の方が安心できる。僕のこの回答で「はっきりしている」かどうかを判断できるかどうかは分からないが、何も答えない人間よりはマシだろう。
それはそれとしてセイラ。
何が君の好みに触れたのかは分からないが、指を絡めるのはおかしいと思う。ここが完全に『大切な人』だけで構成された空間で、なおかつ全員それを容認しているからいいが他所ではするんじゃないぞ。
まあ、全員が認めなければそもそもしないんだろうが。
「瀬尾君。旅行の……安否確認の写真に、君が写っていたね」
「はい。隠すようなことではありませんので」
「えっと……それはどうして?」
「一人にしてはいけないと判断したからです」
「そのために……わざわざ、小笠原まで? セイラのために?」
「手痛い出費ですが、それを払うだけの価値はあったと思っています」
……あれ。
いやまあ、いつか聞かれるとは思っていた。
セイラが一人で行くと言った旅行に、気づいたら同年代の男性がついてきていて、明らかに同じ部屋で寝泊まりしているような写真をいくつも送られているんだ。親としては気にならない方がおかしい。
だから聞かれるとは思っていた。まさか今とは思わなかったが。
だが、今の僕は事実しか言っていない。
辻セイラを助けに行ったことは隠すべきことではないし、隠してはいけない。理由は「一人にしてはいけないと判断したから」。これ以上なく、当時の僕の心情をそのまま言い表した一言だ。
出費が痛かったことも、いずれ三好ルナに全額返さないといけないことも事実。しかしあそこであの判断をしていなければ取り返しがつかなかったことも事実。今でも強行して良かったと思っている。
なのに、なぜだろう。空気がおかしい。辻母が、やけに楽しそうに目配せしている気が。
辻父が一人俯きながら「そ、そうか……」と呟いているのも、娘のことが心配だったというだけではなく、僕がどう答えるかを見極めているような雰囲気を感じる。
面接なのだから見極めるのは当然なんだが、それなら質問内容はもっと実務的な内容に寄っていくはずでは……。
「お料理はするの?」
「します。母が最近まで病気で食事制限をしていたので、その間は僕と弟が作ることが多かったです。塩分を控えた和食が中心ですが、やろうと思えば一通りのものは作れます」
「まあ……! 料理ができる男の子は良いわよ」
「ありがとうございます……」
……いや、やっぱりおかしいな。
質問内容がさっきから、僕の想定してきていたものじゃない。
入学前課題の範囲は昨夜のうちに一通りさらってきた。
数と式も、二次関数も、英文法も、どこを聞かれても答えられる。
なのに一問も出てこない。
代わりに出てきたのは……料理の腕の話?
これ、本当に面接か? カリンに勉強を教える上で、料理の腕は関係があるのか?
さっきから……まるで僕が誰かと共同生活をする上で、どれだけ家事能力があるかとか。どれだけ安定した生活を送れるかとか。将来どれぐらい稼げそうかとか……そんな感じの質問ばかりされている気がするんだが。
あっほらセイラがカリンとも指絡め始めた。
やっぱり『大切な人』特有のスキンシップなんだなこれ。甘えられる人間にはとことん甘えようとするセイラの感性が遺憾なく発揮され……。
あっ振りほどかれてる。
まあ暑がりにあんなスキンシップはご法度か。ドンマイ、セイラ。
「瀬尾君……最後に一つだけ、いいかな」
「はい」
「君はもし、この話を……いや、何でもいい。うちの娘と、何かを成し遂げるとしたら」
「……」
「君は、うちの娘に……最後まで責任を持って、接してくれるかな?」
「勿論です。僕に任せて頂いたからには、最後まで娘さんに、責任を持って向き合うことを誓います」
「……そうか、最後まで。それなら……」
「はい。契約に違反することはあり得ません」
何かを成し遂げる。
家庭教師の文脈なら、それはカリンの大学合格以外にないだろう。
そして最後まで。入学前課題から始まって、定期考査を三年分、模試、出願、本番。
合格発表を見届けるまでが、この仕事の「最後」だ。
途中で講師が替われば、指導方針も替わる。教わる側にとっては迷惑極まりない。
だから辻父はその点について確認したかったんだろう。当然の懸念だ。
途中で投げ出したりしないか、手を抜いたりしないか、邪な思いを抱いてはいないか。無責任なことはしてはいけない……講師として当然のことを、雇用主の前で誓えるかと聞いている。
まあ正直、ただの家庭教師にする質問としては、求める回答が少し大袈裟な気がしないでもないが。
そして、僕にとってそれは当然の答えだ。
面接の受け答えとしては、むしろ模範解答じゃないのか?
「なるほど。まあ、大体聞きたいことは聞けたんじゃないかしら」
「そうだね……瀬尾君が、覚悟のある人間だということは改めてはっきりした」
「……瀬尾君、ちょっと三人で相談してくるわね。セイラ、いらっしゃい」
「分かった。マコト、待っててね」
……お、おお。
これだけでいいのか。あまり質問多くなかったが。
それだけ、既に僕を信頼してくれていたということだろうか。
セイラを連れて行ったのは……なるほど? 紹介者の意見も聞くということだな?
推薦の妥当性を、推薦した本人に確かめる。面接だけで判断せず、多角的に評価する。
やはり辻家はきちんとした家庭だ。準備してきた判断は正しかったと言えるだろう。
いくつか質問の意図は読めなかったが……。
「えっと……マコトくん」
「……カリン」
「その……私の部屋で待ってよっか?」
……いや。
どちらかというと雇用主が放置されていることの方がおかしいかもしれない。
*
──「……彼の覚悟は本物だよ。彼個人について、僕が心配することは何も無い」
──「早く行動しないとね。逃がしたら、もうあんなに大きな魚は見つからないかも」
──「? 別にそんなことしなくても、私とマコトは一生一緒にいるけど……?」
──「……肝心なところでヘタレなんだからこの子は。そんな保証無いでしょ」
──「セイラ。そんな発言しているうちにも、他に彼のことを狙っている子が……」
「マコトくん、お疲れ様!」
「ああ。カリンも、待たせてすまなかった」
「ううん全然! いやー、まさかスーツで来るとは思わなかったけど」
そうだろうか。雇用である以上、当然だと思うが。
……もしかして僕が知らないだけでスーツ以上の正装があったり?
だとすると、今リビングで三人が話している内容は「常識ないね瀬尾君」「不採用にする?」みたいな会話なのかもしれない。辻家が僕に好感を抱いてくれていることと、仕事を任せるかどうかは別の話だし、十分あり得るぞ。
「ほら入って入って! 私の部屋、綺麗にしてあるから!」
「そうか、失礼する……確かに、綺麗だな」
「でしょ? これから週一でお客さん来るかもだからねー」
まあ採用されたらの話だが、その心意気は素晴らしい。
実際、前に見た時より片付いている気がする。彼女と仲良くなってからもあまり部屋に入ったことは無かったが、仮死魔霊故の一件で見張っていたことはあるからな。結局は寝落ちてしまったが。
その時よりはかなり整理されている。採用の可否にかかわらず、僕を受け入れるつもりでいたということだろう。そうでなければ、教師に部屋の片付き具合を強調したりしないはずだ。
教わる側にここまで歓迎されているのは素直にありがたい。家庭教師というのは、生徒に嫌がられた時点でほとんど負けだ。少なくともそこは心配しなくていいらしい。
おっと危ない。扉は開けておこう。
ついさっき辻父の前で、最後まで責任を持って向き合うと誓ったばかりだ。
邪な思いを抱かないことは、その中に当然含まれている。
誓ってから五分後に、教え子と二人きりで扉を閉め切った部屋にいるのはおかしいだろう。
カリンは何も気にしていないようだが、気にするのは講師側の仕事だ。
「そういえばカリン、今後部活はどうするんだ?」
「水泳部続けるよー。体形も変わってきたし、ちょっと泳ぎにくくなった気もするけどさ。私、暑いの苦手だし、夏はプールが一番だもん」
「そうか。意欲的なのはいいことだ。できれば僕の弟のアラタとも、その調子で仲良くしてやってくれ。4月から同じ高校だ」
「弟? あー、前言ってたっけ。いーよ!」
カリンはこれからアラタと同じ高校に通う。
アラタはあまり友人が多い方ではないし、周囲の環境が変わるともなれば少し不安なところがあるかもしれない。なんか中学に上がる頃も同じ心配をしていた気がするが。
それに比べ、今はアラタの同い年のカリンがいる。彼女や彼女を通じてにその友人達へと頼めば、アラタはこれまで以上に充実した高校生活を送れるようになるかもしれない。
カリンは素直で良い子だ。僕と同じ「瀬尾」という名字ですぐ気づいてくれるだろう。
「将を射んとする者はまず馬を射よっていうからね。お姉ちゃんはヘタレだし、私が頑張らなきゃ」
「……ん? 将? 馬? ヘタレ?」
「だってそーでしょ? お姉ちゃん、あの旅行が終わってから、マコトくんに何も言ってないって聞いたよ?」
……?
……。
……?
将を射んとする者は、まず馬を射よ。
大きな目的を果たしたいなら、まず周りから攻めろ。
アラタを馬とするなら……将は誰だ。アラタが仕えている相手、アラタの上に立つ人物。
……母さんか?
母さんを、射る? は?
ああいや今はそんな話じゃないか。
カリンが母さんに何かする訳がない。会ったことも無いんだし。
では、どういう意味なんだ。
そもそも、僕の家族を攻略してカリンに何の得がある。
それにセイラがヘタレというのも分からない。
あの姉はヘタレどころか遠慮という概念をどこかに置いてきたような人間だぞ。犯罪行為ですら躊躇なくこなしていくし……ついさっきも、ご両親の目の前で指を絡めてきたばかりだ。
……まあ、アラタと仲良くしてくれるなら、意味はどうであれ僕に文句は無いが。
「ねえ、マコトくん」
「なんだ」
「私ね、マコトくんに憧れてあの高校選んだの」
「……そうなのか?」
「うん。でも、いざ合格したらマコトくんもういないんだもん。ズルいよ」
「……留年しろと?」
「なーに? 私のためにしてくれる?」
「もう少し早く相談してくれたら母さんに聞いてみたが……少し遅かったな」
「普通それで即拒否しないのちょっとおかしいからね」
……そうだったのか。
憧れ。僕に。
……面映いな。
人の目標にされるような生き方を続けてきたつもりではあるが、なんだかんだ僕は「規則にうるさすぎる」と言われることだって少なくなかった。女性の友人もいたのに今まで恋人ができなかったのは、基本的に「委員長は……まあ、うん」「土壇場になったら輝くんじゃない?」「常時これはちょっと……」と言われてきたからだ。
そんな僕に、面と向かって、憧れていると。
悪い気はしない。いや、正直に言えば、かなり嬉しい。
ただ、憧れというのは、向けられた側にも責任が生じるものだ。カリンはそのために一つ進路を決めた。なら僕は、少なくとも彼女が憧れたままでいられる人間でいなければならない。
……その上で、追いかけてきた先にもう僕がいなかった、というのは確かに理不尽な話だ。
「これからは毎週僕がここに来るじゃないか。3年間、責任を持って見させてもらおう」
「んー……3年間っていうのは?」
「ああ、大学受験までだ。途中で投げ出すつもりは無い」
「……そっか。3年間かぁ」
「不満か?」
「ううん。お姉ちゃんが羨ましいなって」
なんで。
何故そこで姉が出てくる。
おそらく交わされる契約は大学受験までだろう。
それ以降も続けてくれと言われれば拒否はしないが、大学以降となるといずれ僕は社会人になる。そうなれば火曜日は時間が取れる日ではなく、出勤する日になってしまう。いつまでもという訳にはいかない。
となると……姉が羨ましいというのは、僕と同い年だからか?
彼女は難しいことをいつでも僕に尋ねることができて、社会人になるタイミングも同じ。だから羨ましい?
しかしこれは君が妹である以上、仕方のないことなんだ。
アラタもいるから、別にそこまで困る必要はないと思うが。
「(お姉ちゃんがこのまま日和り続けて、マコトくん逃がしちゃっても困るからなー。でもマコトくんにはなんとか辻家に来てほしいし、マコトくんがお義兄ちゃんになったら絶対沢山甘やかしてくれるし、うーん……)」
「どうしたカリン。何か不満でもあったか?」
「んー……ちょっと考えごと」
何をそこまで悩んでいるのだろう。
3年経ったら契約終了ではあるが、それでこの家との縁が切れるかと言われれば、そんなことは無い。
この家にはセイラがいる。家庭教師を辞めたところで、僕がここに来なくなる理由にはならない。これまで通り、客として玄関をくぐるだけだ。
終わりを気にする必要なんて、最初から無いんだが……。
「……よし、決めた! マコトくん!」
「何をだ」
「今後3年間よろしくね! お姉ちゃんがヘタレでも、私が頑張るから!」
「?」
「別に、マコトくんと家族になる方法は、お姉ちゃんだけじゃないもんね!」
感想やご意見をお待ちしていますのでよろしければ……(´・ω・`)
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