もう、出てこない。
何も出てこない。
あの男の痕跡についてはもう徹底的に調べたはずだ。
2日目は早々に帰って来たから何もできなかったが……今日はずっと来ていない。朝一からずっとずっと調べ続けて……もうありとあらゆる情報は調べ終わったはず。
もうあの男の軌跡に関して、今の僕に分からないことは何一つない。おおまかではあるが家を出たあの日から今日に至るまでどういう道のりを辿って来たのか……全てが手に取るように分かる。
分かりたくなかったが。
なんであの男がどの県に行っていたかなんて知らないといけないんだ。
風俗のレシートの一つでもあればそれを証拠に詰ってやるのに。
そういうものこそ残しておけよ。
しかし、これだけの情報が分かっていれば……。
「次の僕の、助けにはなるはず……」
今日はもうタイムリミット3日目。
辻セイラの話によれば、今日の夕方に何らかの理由で死に戻りが発生するはずだ。
死に戻りの原因が何か分からず、まだ2周目である以上、正確なタイムリミットはまだ分かっていないのが現実。タイムリミットギリギリで電話するという手段を取るのはあまりにもリスキーすぎる。
だから方針としては、何か新たな情報が分かり次第、逐一テキストで送るのがベスト。向こうも作業中だろうから、ギリギリで送ることはどちらにせよ危険だが……。
僕が情報を整理し、あの男の軌跡を徹底的にまとめたのが今日の出来事。
もう分かる情報が無い以上、後は現地に行った二人の情報を待つ以外の道はない。
昨日は空振りだった。
一箇所目、あの男が最初に転がり込んだと思われるアパート。二人が辿り着いた時にはとっくに別の人間が住んでいて、大家も「三年前の入居者のことなんて覚えていない」と言ったらしい。当然だ。三年も経っている。むしろ覚えていてくれる方が奇跡だった。
だから今日が最後だ。
二箇所目。レシートの集中度が最も高い場所。名前からしてアパートの一室ではなく、個人宅。ここで何も出なければ、この周の収穫はゼロになる。
ハルキとアサヒには感謝しかない。
交通費は僕が出すと言ったが、ハルキは「いつか僕とも一緒に遠出しよう」と、アサヒは「こういうのは後の焼肉一回でチャラだろ」とそれぞれ言ってくれた。
僕の家の問題で、二人に金を使わせている。死に戻りすれば消える支出とはいえ、この負債はきちんと計上しておかなければならない。焼肉一回で済ませていい話ではないんだ。
「兄さん」
「ん……アラタか」
「母さんにシングルマザーが受けられる支援制度のこと、説得してきたよ」
……っ、そうだ。
協力してくれているのはハルキとアサヒだけじゃない。アラタもだ。
アラタはこの夏休み期間、「離婚した場合のメリット」を調べて、それを元に母さんを説得し続けてくれていた。必ずしも、あの男がいる必要はないと説得するために……。
1. 児童扶養手当。
離婚すれば受給できる。月額4万円強で、二人目以降は1万円ずつ加算されるはず。
2. 修学支援新制度。
授業料は年間50万円近く減免されるし、給付奨学金もある。僕達は自宅通学に限定されるから給付金額は半減になるが、それでも年間で90万円近く負担軽減されるはずだ。それも二人分。
3. ひとり親家庭等医療費助成。
母さんは定期通院しているから、年間で数万から十数万、自己負担額が減るはずだ。
4. 養育費。
不貞を理由に離婚ができれば、親子関係は消えないから請求できる。あの男は中途半端な人間ではあるが……何故か収入だけなら相応の額ある。年間なら200万円ほど請求できるはず。
慰謝料も合わせれば確実ではないが相当な額だ。
必ずしも家の中で払い続ける必要はない。
……説得材料はこれだけある。
もし、母さんに『事情』が存在せず、抱えている問題が母さんの言う通り金銭問題だけであれば、こういった説得をすることで理解を示してくれてもおかしくないはずだ。
そうなれば、あの男を追い出すかどうかの話し合いに持ち込めそうだが……。
「……どうだった?」
「『理由は説明できないけど、離婚はできない』って」
「っ………………そうか」
しかし……そうか。
いや、なんとなくそんな気はしていたが……そうなのか。
母さんが口にした理由は学費だった。
あの男が学費を出してくれる、だから仲良くしてほしい、と。
ならば代案を示せば通るはずだ。金が理由なら、金を用意すれば消える。
しかし、通らない。
金の問題じゃないのか?
確かに、子供が気づくような金銭問題をあの人が把握していない訳がない。
母さんが、あの男にまだ愛着を抱いている可能性はゼロとして。
……だとすると、やっぱり、『事情』のせいなのか。それとも、僕達がまだ知らないだけで、大人にしか分からない金銭事情が存在するのか。それも僕達には話せないような……。
……分からない。
「兄さん、無理してない?」
「大丈夫だ、アラタ。無理はしていない。母さんのためならどんな行為も無理には相当しない」
「そうだけどさ。何か──あの人を追い出す算段はあるの?」
「……ある」
あるにはある。
ハルキとアサヒが持ち帰る情報次第では、それが決め手になる。
僕達がこれまで証拠を手に入れられなかったのは、まだ僕達が子供だったからだ。最後にあの男と暮らしていたのは三年前で、その時は二人とも中学生と小学生。できる手段なんか限られている。
だが、今は別だ。
「そうだよね。兄さんならそう言うと思ってた」
「だから、アラタは安心して、母さんを見張っててくれ」
「うん。瀬尾家に四人目はいらないものね」
「その通りだ。アラタは非常に聞き分けが良くて僕は涙が出そうだ」
「ふふっ、もう、なにさ」
あの男はある程度注意こそしているものの、詰めが甘い部分もある。
突けばどこかしらに穴があるはず。もしかしたら、それが『能力』に繋がるのかもしれない。
少なくとも、影中トオルのようなガチガチに準備や頭脳戦を仕込んでくるほどの強敵ではない。あの男のような確立された信条もないし、いざとなった時に相手を躊躇なく殺しにかかるほどの覚悟がある訳でもない。
だから、まだ算段はある。
そう思えば影中トオルって結構ヤバイ奴じゃないのか。
よく勝てたな僕は。
「じゃあちょっと買い物行ってくるね」
「ああ」
……アラタ自身、母さんが苦しんでいることや、あの男を追い出さなくてはいけないという事情をしっかり理解しているはず。だが、それをまるで表に出さず、いつも通りのアラタのままで僕や母さんを支えてくれている。
僕は母さんの息子である以上に、アラタの兄でもあるんだ。
この期待に応えない訳にはいかない。
だから、今はただ──二人からの連絡を待つだけだ。
*
──プルルルッ!
「っ! もしもし!」
『マコト、おまたせ──接触できたよ』
「そ、そうか! 良かった!」
き、来た!
しかも、「接触できた」だと。
つまり、あの男が拠点にしていた場所の人間から話を聞くことができたということだ。
これは、かなり朗報じゃないか!
もし相手が男性なら、どういう経緯で知り合ったのかが気になるところだが。
女性なら……失礼な言い方ではあるが浮気相手の可能性がある。不貞の証拠として扱える可能性があるし、もし密接な関係であればあの男から「能力の話」を聞いていたかもしれない。
「その、それで、どうだった。問題は起こらなかったか?」
『大丈夫。初めはものすごく警戒されてたんだけど、「瀬尾ショウゴ」って名前を出した瞬間に雰囲気が変わってさ。そこから愚痴みたいな形で家に上げてもらえたよ。多分、捨てられた人なんだと思う』
「……!」
や、やはり。
やはりそうだったのか。
確定、当たりだ。
その女性は、あの男と関係を持っていた一人。3年間の蒸発期間に拠点として扱われていた場所の家主。不貞の証明になる情報を抱えている可能性がある人物……。
確か、僕の調べた情報では……3年のうち1年間はその女性の部屋に滞在していたはずだ。連絡をしてきたのがハルキだけということは、アサヒはまだ対応中……おそらく早い段階でい追い払われている訳ではないということ。
つまり、何かしらの情報を持ち帰れている可能性がある。
ループを突破後、母さんの『事情』を紐解き、離婚できない理由を解明し、その上でその人と協力すれば……あの男を追い払えるかもしれない。
「それで、何だって?」
『聞いた話では、滞在してたのは1年とちょっと。瀬尾ショウゴは独身と聞いてて、結婚も視野に入れていたけれど、取り合ってもらえなかったって』
「当然だな。憎たらしいことに、あの男には既に婚姻関係が成立している」
『うん。ただ、それについての具体的な証明になるものは残ってないみたい。基本的に会話だけで、写真や書面で残っている証拠はほとんど無いんだって』
「……そうか」
チッ。
やはり証拠は残さないのか。そういうところだけ用意周到だな。
いやしかし、これは確かな手応えだ。母さんを説得する材料が一つ増えた。
求めていた証拠は手に入らないが、何度も積極的に情報を集めて行けばいずれ見つかるかもしれない。それ自体はループ解決後でもいいし、その人がその場所にいることは分かったんだから、次の周からはもっと早い段階でアクションを起こすことができるようになる。
相当大きな収穫だ。
後は、「能力」のことが分かればいいんだが。
「他に、何か話を聞いてはいなかったか? 『俺にはとある力がある』とか」
『う~ん……聞いてないね。途中で一旦休憩を挟むことにもなったし、ずっと情報収集ができた訳でもなくて。僕が今、こうして連絡できているのもそれが原因なんだ』
「休憩?」
『うん』
『その人、実は持病があるみたいで。日高くんは今それの対応をしてくれててさ』
……持病?
「待て。アサヒが今電話に出ていないのはそれのせいか」
『そうだよ……でも、君と電話するのは僕の方がいいだろう?』
「? まあ確かにそうだが」
『そうだろうそうだろう。ふふふ……』
君なら情報を整理して渡してくれるだろうし、要点のまとめ方も上手いだろうからな。
話を聞いて「? 今のはどういうことだ?」ともならないだろうし、どこぞの誰かのように「話は勿論聞いていましたよ(最後のみ)」といった失敗を行うこともないはずだ。
持病を持つ人の対応に、人見知りの君が上手くできそうかと言われても……正直言ってイメージできないし。そういう意味では、電話役が君で、対応役がアサヒというのは妥当だと思う。
しかし、持病……?
あの男は、体が弱い女性を狙って、活動拠点を決めていたということか?
……あの男だと、それがあり得なくはないのが腹立たしいが。
「その病気はかなり重いものなのか。君達が訪問することが負担になるような……」
『そういう訳ではないみたいだよ。偶然とはいえ、人が来てくれて助かるとも言ってたし。ただ、疲れやすいみたいで』
「そ、そうなのか。それは悪いことをした。しっかり食べて休んでもらわないといけないな」
もしこれも、あの男の作戦の内だとしたら相当厄介だ。
いざ自分の不貞が立証される、となった時に証言を行ってくれる人物が病弱で、連続して作業ができない……そういう状況なら自分が逃げる時間を十分に稼げる。
そこまで計算して行っているとしたら、非人道的極まりない。事実が確定するまでは断定できないが、やはりあの男には死んでもらいたい。そう思う理由がまた一つできてしまった。
『いや、沢山は食べられないって』
「え?」
『食事制限しないといけないみたいでさ』
……食事制限?
「ま、待て。少し待ってくれるか」
『……どうしたの?』
「今、少し心当たりが出てきた。その、いくつか質問していいか」
『……! 今の情報で、何かに気づいたのかい?』
ああ。
食事制限というのは、僕にとっては日常だ。気づかない訳がない。
食事制限、とだけ言っているということは詳細を教えてもらった訳ではないのだろう。
そして今はアサヒが対応中。叩き起こして情報を聞き出すということもできない。
だが、やりようによってはいくらでも推測することぐらいできる。
そしてハルキは今現場にいるんだ。僕の質問を、現物を見て確認することができる。
例えば。
「米は……袋に1/25と書いてあるか?」
『あっうん。そうだね、書いてあるよ』
「調味料は減塩のものを使っているか?」
『うん、そうだよ。同じメーカーで統一してるみたいだ』
「キッチンには計量用の器具があったか?」
『あったね。几帳面なのかと思ったけれど』
「野菜や果物類が冷蔵庫に豊富にあるか?」
『それは……違うね。逆に少ない方だと思うな』
「なんらかの薬を処方されているか?」
『……食前に飲まないといけない薬があるとは聞いたね』
そう、か。
そうなのか。
これは、果たして偶然の一致なのか。
それとも、何かしらの意味があるものなのか。
本人が「他の話」を聞いていないと言っている以上、ここでそれを確かめることはできないが、ここまでの情報を鑑みれば、思い当たる可能性はほぼ一つしかない。
不貞の証拠よりも、遥かに重要な証拠になるかもしれない。
「ありがとうハルキ。本当にありがとう。やはり君は僕の親友だ」
『えっ……あっ、そ、そうかい? その言い方だと、君の推測は……当たっていた、ということなのかな? 僕には微塵も分からないんだけど』
「断言はできないが、当たっている可能性が高い。本当に君のおかげだ」
本当に、この情報に僕だけで行きつくことはできなかった。
ハルキとアサヒが協力を提案し、二人で現地に行ってくれなければこうはならなかった。
アサヒがその人に丁寧な対応をしてくれなければ、そもそも家にすら上がれなかったかもしれない。ハルキが迅速かつ正確に情報を伝えてくれなければ、ここまでの理解も出来なかった。
辻セイラも、彼女が協力してくれなければ僕達は一生尾行作戦を繰り返すだけで、得られる情報も既出のものばかり。嫌っているはずの相手を助けようとするあたり、彼女の素の優しさに僕は救われたということだ。
本当に、感謝してもしきれない。
『ふ、ふふふふ……そうか、そうだ、君はやっぱり、僕よりずっとずっと……』
「アサヒにも感謝を伝えておいてくれ。後日別途で礼はする。また三人でどこかに行こう」
『………………そうだね』
*
よし、よし……。
かなりかかったが、もう情報はかなり集まって来た。
後は送信するだけだ。
彼女がタイムリミット前にきちんと確認してくれるといいんだが。
「送信、と……」
1. 低タンパク米。
米袋の1/25は一般的な米の品種や銘柄の表記ではない。タンパク質調整米の表記だ。通常の白米100gあたりのたんぱく質が約6.1gなのに対し、1/25米はそれを25分の1に低減した特殊な米で、たんぱく質含有量が100gあたり約0.25g以下になる。
タンパク質の代謝で生じる老廃物処理の負担を抑えるためには摂取するタンパク質の総量を減らす必要があるが、主食を減らすとエネルギーが不足するから、エネルギーは確保したままタンパク質だけ落とした専用食品を使っているということだ。
2. 減塩調味料
塩分を摂りすぎると体内に水分が貯留し、むくみや高血圧、さらには心不全のリスクが上がってしまう。
僕の推測が正しければ、1日の塩分摂取量を6g未満、進行度によっては3〜5gに制限することが一般的だ。減塩調味料の使用はこれと完全に一致する。
3. 計量用の器具
おそらく、その人は栄養素の摂取量をグラム単位で管理する必要がある。
特にたんぱく質制限食では、主食・主菜・副菜それぞれの量を計量して1日の総摂取量を計算する。食事のたびに計量器具を使うのはあの症例の食事管理としては標準的な運用だ。
4. 野菜や果物がない
これはカリウム制限だ。高カリウム血症を起こすと不整脈や心停止のリスクがある。
野菜や果物はカリウムの含有量が高い食品群の代表格で、特に生の状態では含有量が多い。野菜は茹でこぼしてカリウムを抜くか、そもそも摂取量を大幅に減らすよう指導されているのではないか。
冷蔵庫に野菜・果物がないのは、カリウム制限を行っている証拠だろう。
5. 食前に飲む薬
食前に飲む薬は全体から見れば少数派だ。ほとんどの薬は食後に飲む。
α-グルコシダーゼ阻害薬、速効型インスリン分泌促進薬。メトクロプラミドにドンペリドン。炭酸カルシウム、セベラマー、炭酸ランタンあたりが主な食前薬か。
しかし、糖尿病であれば野菜は推奨される。α-グルコシダーゼ阻害薬と速効型インスリン分泌促進薬は除外されるだろう。メトクロプラミドやドンペリドン等の吐き気止めや漢方薬、あるいは食欲を出す薬、胃を守る一部の薬は……食事制限を行う患者に処方される薬ではない。
おそらく、飲まなくてはいけないのは炭酸カルシウム、セベラマー、炭酸ランタンだ。
つまり、その人が患っているのは……。
慢性腎臓病(CKD)。
母さんと、同じ病気だ。
「……もう一度、確認しよう」
いつ、タイムリミットが来るかは分からない。
時間ギリギリに何が起こるか見極めなければいけない以上、彼女が電話に出られるだけの余裕があるかどうかは分からない。まあ、確認できないほどに忙しいなら前もって伝えているだろうが。
もう一度、見落としが無いかチェックすべきだ。
あの男が能力者だという話、3年間の軌跡、CKD患者の家を拠点にしていた事実、その根拠となる5つの手がかり、母さんの目的が金銭ではない可能性。
伝える情報に齟齬があれば、僕達の苦労も無駄に終わってしまう。
「……あっ」
既読が、ついて──
*
「……ん?」
「どした委員長? 電話か?」
「みたいだ」
「……誰からだい?」
「辻セイラだな……ちょっと出てくる」
『──アンタのお父さん、病人だけを狙うクズ男なんだって?』
は?
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