ようやくか、長かった。
ロープウェイの扉が開くまでの時間が、こんなに長く感じたのは初めてだ。
辻セイラの電話から、丁度30分。残りも、おそらく30分。
さっき見積もった通りだ。計算は狂っていないはず。
「九条ノドカは……道に迷ったりしていないよな」
持って来てほしい物と行き先は既に伝えているが、もし時刻通りに現場にいなければ全てが水の泡だ。残り数分しかない状況で電話して呼びつけて現在地を特定して……なんてやっている時間はない。
彼女は定められた通りに行動することが得意だからきっと地図とかを持って来ているだろう。観光ガイドのマップとか、そういうものがあれば一応迷わずに辿り着けるはずだ。九条ノドカはポンコツではあるが、少なくとも方向音痴な一面はこれまで見せてこなかった。
指示さえはっきりしていれば誰よりも正確に動ける人間だ。
電話を切った時点で、もう宿を出る準備を進めているはず。
九条ノドカさえ生き残れば、ループが解ける。
ループが解ければ、これから起きる何かはWPPOが知覚できるものになる。
知覚できれば、あの組織は未来を視て、起きる前に消してくれる。
要は、『九条ノドカの生存』が確定した瞬間に、問題は解決するということだ。
もしそうなれば、この温泉街にいる全員が助かる。
売店の前で写真を撮っている、スキー板を担いだ大学生らしき集団も。ベンチに座って湯気の立つ紙コップを一つ分け合っている老夫婦も。暇そうに雪かきをしている売店の店員も。
30分後にどうなるかなんてここにいる誰も知らないが、九条ノドカさえ助かればそれを知ることなく普段の暮らしを続けられるようになる。分かりやすくて結構だ。
生き残るために重要な条件は──七つ。
1. 旅館より頑丈であること。
山吹屋は歴史ある木造旅館だ。趣があって、料理も美味くて、実に良い宿だと思う。
だが、九条ノドカはあの宿にいて死んでいる。
つまりこれから来るのは、山吹屋を建物ごと押し潰すような規模の何かということだ。
雪崩にそこまでのエネルギーがあるとは思えないが、旅館に籠もるなんて方法は辻セイラが真っ先に試しているはず。だからあの場所に留まることは候補にすらならない。
というか、他の建物もほぼ全て木造建築だ。逃げ込む先としては機能しないだろう。
その点、『あの場所』は違う。
僕が向かっている『あの場所』は、内部に何百トンも雪を詰め込める代物だ。
壁も天井も非常に分厚いし、半分は地面に埋まっているから冬の間雪に覆われていても平気。実際、長い期間これまで使われてきたというのだから雪に埋もれることなんて日常だし、それでも耐えてきたという実績が存在する。
外から雪が押し寄せてきたところで、木造の旅館とは比べ物にならないくらい持ちこたえるはずだ。圧し潰す力に耐えるために建てられたものなんだから、当然だろう。
その上、複数ある中でも一番大きいものだ。内部空間が広いということなのだから、圧し潰されたとしても空間が残りやすいから圧死しにくい。
初日にハルキがパンフレットを読み上げながら案内してくれたおかげで思い出せた。
ありがとう、ハルキ。ありがとう、パンフレット。
2. 時間内に二人とも到着できること。
谷の外のように、限られた時間で到達できない場所は候補に入れられない。
特別な手段があったとしても、僕にはその知識が無いから思いつくこともできない。
しかし、ロープウェイ乗り場から山吹屋までは歩いて約30分。
あの場所はちょうどその中間地点に位置している。
僕はロープウェイ乗り場から、九条ノドカは旅館から、それぞれ準備の時間を含めたとしても出発して到着までかかる時間は15分。何なら、まっすぐ歩くことにかけて彼女の右に出る者はいないから、僕より先に着いて待っているかもしれない。
あの場所であれば、十分に間に合うということは昨日把握した。
この条件もしっかりと満たせているということだ。
3. 閉じ込められても息ができること。
雪崩というものがどんなものかは分からないが、雪という固まれば空気を遮断できるようなものに包み込まれてしまえば、たとえ建物が潰れなかったとしても閉じ込められてしまう可能性がある。
谷の出入り口はあの一本道しかない。そこが埋まれば、救助はすぐには来られないだろう。数時間か、一晩か……通信が生きているかも分からないし、下手をすれば認知されるのに数日かかるかもしれない。
その間に中の空気が尽きたら? 結局九条ノドカは死亡してしまう。
WPPOも未来予知に失敗し、結果は巻き戻り。ただ頑丈なだけの場所に閉じこもっても、そこからすぐ脱出することができなければ雪崩に飲み込まれなくても窒息死で再走必至だ。
しかし、それが意味するのは僕達が「外に出られること」ではない。
閉じ込められても、中で「生き延びることができるかどうか」だ。
あの場所は、何百トンも雪を詰め込めるほど広いんだから、二人分の呼吸くらいで数日のうちに酸素濃度が18%を切って酸素欠乏になる……そんなことは考えにくい。人間二人より、雪の方がよほど場所を取る。
流石に数日もすれば「あの温泉街にいる人間と電話が通じない」と誰かが気づくだろう。その時間まで生き残れば窒息死の可能性も潰え──「九条ノドカの生存」を確定させられる。
確定さえすれば、ループは解除される。
4. 外で夜を越さずに済むこと。
雪山で本当に怖いのは、何かしらの被害に遭った直後よりもその後だと聞く。
大規模な被害の前例は聞いたことが無いが、個人で雪山に臨み遭難してしまった……そんな人々を一番に追い詰めたのは夜をどう乗り越えるかという問題らしい。
怪我をして、濡れて、風に晒されて、体温を奪われて、眠れずに体力を削られて、最後には動けなくなる。もし問題を乗り越えて助かったと思った後でも、本当の地獄が待っているという訳だ。
しかし、屋根と壁があれば、そのほとんどを潰せる。
雪の中を歩き回らなければ、濡れることもない。風も入ってこない。
あの場所は非常に低温の環境ではあるが、夜を越えるための準備を行えるという点では完璧だ。中に入ったら、まず入口から離れ、床に直接座らずリュックか何かを敷けばいい。濡れたら拭いて、手袋や靴下は替える。カイロは首の付け根と腰と腹、太い血管の近くに貼る。食べ物と飲み物は少しずつ分け合う。眠るのは交代で。これを、気温こそ同じだとしても、外と中でやるのでは受けるダメージが大違いだ。
むしろあの場所はその特性上、気温が安定している。外が過度に寒くなったとしても、その影響を受けにくい。生存率を大幅に上昇させられることは間違いない。
5. 今すぐ入れること。
いざ到着しても、入るのに時間がかかるだとか、許可がいるだとか。そんな場所なら結局意味は無い。無理やり強引に押し入ったところで追い出されるのがオチだし、不法侵入で前科がついてしまうかもしれない。
だがあの場所は、違う。
普段こそ一般人が入れるような場所でもないが……今が夏ではないことが効いた。
扉を開閉しても温度変化を気にする必要が無いし、そもそも今の時期は外に雪があるから使わなくても大丈夫。ただ雪を詰めるだけの期間だから観光客向けに常時開かれている。
温泉街の売りの一つで、今の時間は営業中。見学は自由。実際管理人に問い合わせてそれは確認済みだ。『今日は空いてますから、ごゆっくりどうぞ』とまで言われた。
6. 九条ノドカが一人で来られること。
彼女に合流してから案内するようでは時間が足りない。山吹屋に到着するまでに制限時間を使い切ってしまうのだから、本来のルートでは到着した瞬間に雪崩が起きて終了だ。
それに、地図に載っていない場所だと、彼女は怖くて行けないだろう。あれだけ強力な能力者なのに、教えられていない場所に踏み込むのを躊躇うというのも変な話だが、それが彼女の魅力の一つだから仕方がない。
そしてあの場所は先述した通り観光施設。
温泉街のガイドマップにしっかり載っているし、もし地図を持っていないにしても「そこら中にあるのだから」この街の人間には周知されているはずだ。「一番大きなものの場所を教えてくれ」と軽く質問するだけで快く教えてくれるだろう。
そうなればいくら九条ノドカと言えど、間に合わないということは無いはずだ。質問に対する「回答という指示」があれば彼女は安心できる。
7. 辻セイラには思いつけない内容であること。
ここまでの六つは、どれも条件が分かれば誰でも確かめられる。
そして、辻セイラでも思いつけるような内容であれば、既に試されているはずだ。
だが、辻セイラは何度もこのループを繰り返していながら、あの場所には辿り着けなかった。辿り着けていれば、あんな電話はかけてこない。当然だ、辻セイラはこの旅行に来ていないんだから。
彼女がこの温泉街について知れるのは、地図か画面越しの情報だけ。
ガイドマップを開けば、あの施設の名前くらいは載っているだろう。だが、分かるのは名前と場所だけだ。中に何百トンもの雪を詰めても潰れないほど頑丈だなんて、地図には書いていない。実際に行って、中を見て、得意げなハルキの解説を聞いた人間でなければ知りようがない。
地図の上では、あそこはただの観光名所の一つだ。
避難場所の候補になんて、上がるはずがない。
あの場所がどれだけ頑丈かを知っているのは、初日にハルキに連れ回された三人だけ。
そのうち、辻セイラの協力者は僕一人。
──『観光知識がある僕に思いついて、辻セイラには思いつけない』
ロープウェイの中で出した答えは、やはり正しかった。君がいくらループを繰り返しても手に入らない情報を、僕が持っていた。だから君は、泣きながら僕に電話をかけてきたんだろう。
心配するな、辻セイラ。受け取ったぞ。
「っ、見えた!」
残り16分。
一本道の先の、雪を被った低い屋根。
入口の横には、初日に見たのと同じ木の看板。
そして、彼女の姿。
背中にはやけに大きなリュック。両手でガイドマップを握りしめて、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回している。どうして自分がこんな所に呼ばれたのか、まるで分かっていないって顔だ。
まあ、ろくに説明していないんだから当然か。
どちらにせよ、間に合った。
辻セイラには決して辿り着けない場所。
この温泉街で、僕だけが知っている避難所。
「……あっ、瀬尾さーん!」
──雪室だ。
「九条ノドカ! ついてこい!」
「えっあっそんな強く引っ張らな──」
*
暗い。外の光が届くのは入口から数m先まで。
その上、寒い。外よりさらに一段冷える。当然だ、ここは冷やすための場所なんだから。
本当は鉄筋コンクリートでできた施設とかに行った方が良いんだろうな。
しかし、そんな建物は周囲には存在しない。結果的に避難所としてつくられたわけでもない、この大きな雪室が一番の避難所として機能してしまうんだ。
「せ、瀬尾さん? 急に引っ張って、あの、ど、どこまで行くんですか……?」
「一番奥だ。誰もいない方が都合がいい」
「い、一番奥……!? 誰もいない方が!?」
なんだその反応は。
奥まで行かなければ意味がないだろう。
この雪室は、半分が地面に埋まっている。
正確に言えば、入口の辺りだけが地上に顔を出していて、奥へ進むほど土の中へ潜っていく造りだ。
外から雪が押し寄せてきた時、真っ先にその力を受け止めるのは地上に出ている部分だろう。だが奥は、頭の上に何メートルもの土を被っている。雪崩がどれだけの勢いで来ようと、土の中までは流れ込んでこられない。
それに、入口には扉がある。
壁や天井は押し潰す力に耐えるために造られているが、扉は違う。人が出入りするための、開け閉めするための部分だ。壁と同じだけ頑丈に造る理由が無い。もし雪の重さに負けて扉が破られたら、破片ごと雪が吹き込んでくる。入口の近くにいれば、その雪を真正面から浴びることになる。壁は耐えたのに扉のせいで生き埋め……そんな間抜けな死に方は御免だ。
だから、一番奥だ。
迷う理由はどこにも無い。
加えて、もし見学客やスタッフがいたら、高校生が二人、異常な量の荷物を抱えて雪室の一番奥に座り込んでいるのを見て、何事かと声をかけてくるかもしれない。
事情を説明できない以上、下手をすれば不審者扱いされ、管理人に摘まみ出されて全部終わっていた。不審視されないためにも、人気のない場所を選ぶのは当然だ。
どのみち九条ノドカさえ生き残れば、この温泉街の全員が助かる。
なら、ここにいるのは僕と彼女の二人だけで十分ということ。
「頼んだものは全部持って来てくれたか?」
「は、はい! こちらです、問題ないでしょうか」
ふむ。
防寒着。
厚手のものが二着。一着は九条ノドカの分だから、僕の分も含めてちゃんと二人分持ってきてくれたということ。上出来だ、外から着込んでいる分と合わせれば、この気温でも何とかなる。
カイロ。
貼るタイプのものがまとめて一袋。平均温度が50℃前後で、10〜12時間ほど持つものが一般的だから、これで一晩はまかなえる。
携帯食。チョコレートと羊羹。
少量で熱量が取れるものばかりだ。よく分かっているじゃないか。
一口ずつ分け合えば、それだけで体力を保つ助けになる。
ステンレスの保温ボトル。中身は温かいお茶。
冷え切った体に温かい飲み物があるかどうかで、精神的な余裕がまるで違う。
タオルと、替えの靴下。
雪が服の中に入り込んだときや、足が濡れたとき用だ。濡れを放置すると、そこからどんどん体温を持っていかれる。靴下は一足しかないが、まあ、いざという時は九条ノドカに譲ればいい。
……よし。
全部揃っている、指示した通りだ。
「あの……瀬尾さん」
「なんだ」
「これって、その……一晩過ごすための物、ですよね……?」
「ああ。場合によっては、一晩じゃ済まないかもしれないが」
「!?」
いやまあ、急に「今から雪室に一晩籠るぞ」みたいな意図の話を聞かされれば困惑するのも仕方ないが。そんな顔して見返さなくてもいいだろう。目が片方見えないから全体像が分からなくてちょっと怖いんだ。
もし雪室から出られなくなった場合、救助に数日以上かかれば、その間に凍死あるいは餓死してしまう可能性がある。そういったリスクが残っていては、「九条ノドカの生存を確定させた」とは言えない。
WPPOが動く以上これらの荷物を使う必要は無くなるが、こういった準備をしていなければあのカス能力が「まだ九条ノドカは死ぬ可能性がある」と判断して解除されないという未来もあり得てしまう。
準備は万端にしておかなくてはいけない。これもその一端。
「な、何故ですか? 私と瀬尾さんは、お友達ではありますが……てっきり、護衛と調査対象、そうとしか思われていないのだと……」
「理由は説明できないんだ。すまない」
「え、えぇ……? わ、私はこういうことに、ちゃんと手順を要求できる立場なのですが」
こういうことってなんだ。
護衛対象と雪室に入るのに何の手順を要求するつもりだ。
……しかしまあ、事情を知りたいのは当然か。
九条ノドカは、定められた手順通りに動く人間だ。理由の分からない行動を、理由も分からないまま続けるのは、彼女にとって一番苦しいことなんだろう。
だが、説明はできない。辻セイラのこともループのことも話せない。「君はあと十数分で死ぬ予定だった」なんて、なおさら言えるはずがない。
かといって、ここで彼女が納得できずに外へ出てしまえば、全部終わりだ。
なんとか彼女を説得できる言葉が……僕に望む言葉があればいいんだが。
「すまない。だが今は、君と一緒にいたいんだ」
「……え。あ、あの、それはどうして……」
「どうしてもだ。君が大事だから、それでは駄目か」
「………………はい。瀬尾さんが、私を信頼してくれているのなら……」
あれ、信じてくれた。
誠実に言ったからか? やはり誠意というものは伝わるんだな。
理由は言えなくても、本心から頼めば人は分かってくれる。
彼女の様子がおかしい気がするが、とにかく納得してくれたならそれでいい。
残り時間は……あと少し。
静かだな。
外の音は、ここまではほとんど届いてこない。聞こえるのは二人分の呼吸と、九条ノドカが時々漏らす「ひぅ」とか「はふ」とか、よく分からない声だけだ。
やはり寒いのだろうか。さっきから一度もこっちを見ようとしないし、耳が微かに赤い。
霜焼けになりかけているんじゃないか。
まあ、あと少しの辛抱だ。
他の周では、WPPOも雪崩を知覚できなかった。
しかし、九条ノドカの生存が確定した周であれば、未来予知を阻害するものは存在しないから、WPPOは初めから雪崩を認識して削除済みのはず。
それが分かるまで、あと少し。
残り1分。
「……」
残り30秒。
「……」
10秒。
「……」
──0。
……。
…………。
………………。
「何も……起きない」
「えっ?」
来ない。
来ないぞ。
何の音もしない。轟音も、扉が軋む音も、入口から雪が吹き込んでくる気配も無い。
辻セイラの電話から今で丁度1時間のはず。
1分……いや、2分が過ぎた。
誤差があるのかもしれないが、少し経っても全く変化は感じられない。
……本当に解決したのか?
実は、雪崩が起こる原因自体が僕達に認識できないようなものであって、雪崩自体はまだ起きていないが後から発生する可能性が無いか?
ループが解決するまで精神的に不安定な状態の辻セイラに電話をかけたくはないし、そもそも彼女自身ループが解除されたかどうかを感覚で理解できる訳じゃ……。
「……や、やっぱり、未来予知を? ですよね、そうじゃなきゃ説明が……」
「え?」
「いや、だって……瀬尾さん、どうしてこの時間に地震が起こると知っているんですか?」
……?
……っ!
「この時間に起こる地震を『削除した記録』は……まだ公表されていませんよね?」
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