世界間を移動できるようになったので世界を弄り回す 作:Ура
職業はシステムエンジニア。首都圏郊外の賃貸マンションで一人暮らしをしている、ごく普通の会社員だった。
実家が由緒ある家柄ということもなければ、幼い頃から不思議なものが見えていたわけでもない。前世の記憶を持っていることも、神を名乗る何者かから使命を授けられたこともない。
仕事は在宅勤務が中心で、必要なときだけ都内の事務所へ顔を出す。与えられた業務は期限内に片づけるが、出世のために自分から仕事を抱え込むほどの熱意はない。
勤務時間中はきっちり働き、終業後は趣味に時間を使う。
それが航平の生活だった。
黒髪を短く切り、視力の悪さを補うための眼鏡をかけている。背丈も体格も平均的で、着ているものはパーカーやシャツにジーンズといった、近所の量販店で一式揃うようなものばかりだ。
駅前の人混みに入れば、数秒後には見失える。
本人も、それを気にしたことはなかった。
目立たず、騒がず、それなりに働き、それなりに好きなことをして生きる。
少なくとも、その日の帰宅途中までは、それで何の問題もなかった。
◇
その日は、月に何度かある出社日だった。
終業時刻を少し過ぎてから会社を出た航平は、夕方の駅へ向かって歩いていた。
昼間の熱を残した道路からは、生温い空気が立ち上っている。車道では帰宅時間と重なった車が列を作り、低いエンジン音と排気ガスの匂いが絶えず流れていた。
航平は肩にかけた鞄の位置を直しながら、スマートフォンで時刻を確認した。
帰宅して、適当に夕食を済ませる。風呂に入ったあと、昨日途中で切り上げたゲームの続きをする。
頭の中にあるのは、その程度の予定だった。
駅へ向かうには、交通量の多い道路をまたぐ歩道橋を渡る必要がある。
毎回使っている、何の変哲もない歩道橋だ。
塗装の一部が剥がれた手すり。靴底に硬く響く金属製の階段。頭上には電線が何本も走り、その向こうに夕焼けで赤く染まり始めた空が見えている。
航平はいつもと同じように歩道橋を渡り、反対側の階段へ足をかけた。
そこで、右足の裏が滑った。
「うおっ、あっ、やべっ!」
何が原因だったのか、航平には分からなかった。
靴底が階段の縁を踏み外し、身体が前へ傾く。
咄嗟に手すりへ手を伸ばしたが、指先が金属の表面を擦っただけだった。背負っていた鞄が勢いよく肩からずれ、身体の均衡をさらに崩す。
視界の中で階段が急速に迫ってくる。
歩道橋の上から車道へ落ちるわけではない。だが、このまま階段を転げ落ちれば、無傷では済まない。頭を打つか、腕を折るか、悪ければもっと大きな怪我になる。
航平は反射的に顎を引き、頭を庇うように身体を丸めた。
衝撃に備え、目を閉じる。
その瞬間。
周囲から、音が消えた。
車の走行音も、歩道橋を踏む靴音も、風の音も、すべてが唐突に途切れる。
耳が塞がったという感覚ではない。
世界そのものが、何の前触れもなく切断されたようだった。
航平は身体を固くしたまま、来るはずの衝撃を待った。
一秒。
二秒。
しかし、いつまで経っても身体が階段へ叩きつけられない。
痛みもない。
転げ落ちている感覚すらなかった。
「……?」
息を詰めたまま、航平は恐る恐る目を開いた。
最初に見えたのは、何もない空間だった。
曇り空でも、夜の闇でもない。
色と呼べるものが存在しない。
視線を下へ向けても、足元に階段はなかった。地面もない。先ほどまで握ろうとしていた手すりも、歩道橋も、道路も、建物も消えている。
振り返っても同じだった。
どこまで見ても、何も存在しない。
遠くと近くを区別する目印すらないため、自分が狭い場所にいるのか、果てのない空間にいるのかも判断できなかった。
上下の感覚さえ曖昧だった。
身体はどこにも支えられていないはずなのに、落下している感覚はない。宙に浮いているとも、何かの上に立っているとも断言できない。
ただ、階段から落ちかけていた姿勢だけが解け、航平の身体は何もない場所に取り残されていた。
「……は?」
自分の口から出た声が、静寂の中へ広がった。
小さな声だったが、確かに耳へ届いた。
音が伝わるということは、少なくとも周囲には空気がある。
航平は浅く息を吸った。
呼吸はできる。
肺へ入ってくる空気はわずかに冷たく、変な臭いもない。服が肌に触れる感覚も、眼鏡が鼻の上へ乗っている重さも失われていなかった。
胸へ手を当てる。
心臓が早鐘のように鳴っている。
手のひらには自分の体温があり、指も普段どおり動いた。
夢ではない。
少なくとも、航平の五感はこれを現実だと判断していた。
「階段から落ちて……頭を打ったのか? いや、まだ落ちてなかったよな」
口に出して状況を整理しようとする。
だが、言葉にすればするほど訳が分からなくなった。
階段から落ち、気を失った。
脳が作り出した幻覚を見ている。
それなら説明はつく。
しかし、身体のどこにも痛みがない。頭を打った感覚もなければ、地面に横たわっている感触もない。
頬をつねってみると、普通に痛かった。
「マジかよ……」
何もないというのは、暗闇とはまるで違った。
暗い場所なら、壁や床が見えなくても、どこかに存在していると分かる。手を伸ばせば何かに触れるかもしれないし、目が慣れれば周囲の輪郭を捉えられる。
ここには、その期待すら持てなかった。
自分以外に何もない。
どちらへ進めばいいのかも、そもそも移動できるのかも分からない。
方向を見失うというより、初めから方向そのものが存在していないように思えた。
航平の呼吸が次第に速くなっていく。
数十秒前までは、駅へ向かっているだけだった。
帰宅して、夕食を食べて、ゲームをするつもりだった。
それが、今は見渡す限り何もない場所へ、理由も分からないまま一人で放り込まれている。
「いやいやいや、無理だろ! 俺は家に帰って、飯食って、ゲームの続きをするんだ。だから戻れ。元の場所に戻してくれ!」
誰かへ訴えかけたわけではない。
ここに自分以外の存在がいる気配はなかった。
それでも航平は、縋るように元の場所を思い浮かべた。
見慣れた歩道橋。
塗装の剥がれた手すり。
階段の下を行き交う車。
自分が先ほどまで立っていた場所。
そこへ戻りたいと、心の底から願った。
直後、視界が切り替わった。
何もなかった空間へ、音と色が一斉に戻ってくる。
車のエンジン音。
信号機の電子音。
遠くを走る電車の響き。
排気ガスと、夕方の湿った空気の匂い。
靴底には、硬い足場の感触があった。
航平は歩道橋の階段脇に立っていた。
転落しかけた場所から、ほんの一、二歩離れた位置だった。
伸ばしたままだった腕を下ろし、慌てて手すりを掴む。冷たい金属の感触が手のひらへ伝わり、ようやく自分が地上へ戻ってきたのだと実感できた。
航平は荒い息を吐きながら、その場へしゃがみ込みそうになるのを堪えた。
周囲には何人か通行人がいた。
スマートフォンを見ながら階段を上る会社員。買い物袋を下げた女性。少し先を歩く学生らしい二人組。
誰も航平を見ていない。
突然姿を現した人間がいれば、驚くなり、声を上げるなりするはずだ。だが、そのような様子はなかった。
航平が消えていた時間が極端に短かったのか。
あるいは、たまたま誰の視界にも入っていなかったのか。
腕時計を見る。
先ほどスマートフォンで確認した時刻から、ほとんど進んでいない。
航平は自分の身体を確かめた。
手足は動く。痛む場所もない。服も鞄も、スマートフォンもそのままだ。手の甲に見覚えのない紋様が浮かんでいることもなければ、身体が光を放っているわけでもない。
階段から落ちかけたことを除けば、何も起きていないように見える。
「……なんだったんだ、今の」
声に出しても、答えは返ってこない。
幻覚だったと片づけるには、あの場所の感覚は鮮明すぎた。
肌へ触れた冷たい空気も、音を反響させる静寂も、周囲に何も存在しないことから来る圧迫感も、まだはっきりと覚えている。
何か変な場所へ移動した。
そして、戻りたいと願ったら戻ってこられた。
今の航平に理解できるのは、その二つだけだった。
もう一度試してみようという気にはなれない。
ここで同じことをして、今度は戻れなくなったらどうする。
航平は手すりからゆっくり手を離すと、足元を確かめながら階段を下りた。
今日は帰ろう。
家に帰って、落ち着いてから考える。
それ以外に、今すぐ取れる行動は思いつかなかった。
◇
それから数週間。
航平の生活は、表面上は何も変わらなかった。
朝になれば起きてパソコンを立ち上げ、決められた時刻から仕事を始める。オンライン会議へ参加し、送られてきた仕様書を確認し、プログラムを修正する。
昼になれば簡単な食事を取り、夕方になれば仕事を終える。
同僚から見れば、以前と何も変わらない篠宮航平だった。
だが、終業後の時間はほとんどすべて、歩道橋で起きた現象の検証へ費やされていた。
最初の夜、航平は何も試せなかった。
帰宅してからも何度も歩道橋での出来事を思い返し、インターネットで似た事例を検索した。瞬間移動、異空間、集団幻覚、臨死体験。
当然ながら、役に立つ情報は見つからなかった。
翌日になっても、あの場所の感覚は薄れなかった。
そこで航平は、検証を始めることにした。
怖くないわけではない。
だが、何も知らないまま放置する方が恐ろしかった。
自分の意思とは関係なく再び発動する可能性もある。通勤中ではなく、車道を渡っている最中や、入浴中、睡眠中に起きるかもしれない。
まずは、自分に何が起きたのかを確かめる必要があった。
航平はパソコンに新しいテキストファイルを作り、日付と時刻、実験内容、結果を記録し始めた。
最初に試したのは、あの何もない場所へもう一度行けるかどうかだった。
床へクッションを置き、壊れやすい物を周囲から片づけ、スマートフォンを握る。万が一戻ってきたときに倒れても、怪我をしないための準備だった。
ベッドの端へ座った航平は、歩道橋で見た空間を思い出した。
色のない景色。
地面も建物も存在しない場所。
空気だけがある、あの世界。
そこへ行くことを強く意識する。
次の瞬間、自室が消えた。
また、何もない空間にいた。
航平はすぐには動かず、周囲を確認した。
やはり何もない。
しかし、今回は突然放り込まれたわけではない。自分の意思で移動したという事実が、初回とは比べものにならないほどの安心感を与えてくれた。
握っていたスマートフォンも一緒に来ている。
画面は点灯したが、当然ながら通信は圏外だった。時刻表示は正常に動いている。方位磁針のアプリは方向を定められず、表示が落ち着かない。
航平は数秒だけ滞在し、自室を思い浮かべた。
問題なく帰還できた。
テキストファイルへ結果を書き込む。
『再訪可能。帰還可能。自分の意思で発動する』
次に、何が自分と一緒に移動するのかを試した。
身につけていた服と眼鏡は、歩道橋からの初回移動でも失われなかった。スマートフォンも一緒に移動した。
ならば、手に持っている物はどうか。
航平は台所から、安物のマグカップを持ってきた。
万が一紛失しても困らない物を選んだ結果だった。
右手で取っ手を握り、何もない世界へ移動する。
マグカップは手の中に残っていた。
水を半分ほど入れて試すと、水もこぼれずについてきた。次は床へ置いたまま、取っ手に指先だけを触れてみる。それでも移動した。
どこまでを自分と一緒に移動させるかは、接触の強さよりも航平自身の意識に左右されるらしい。
そこで、航平は一段階発想を進めた。
自分が移動できる。
物を一緒に運べる。
ならば、自分は残ったまま、物だけを送れるのではないか。
机の上へマグカップを置く。
航平はそれを見ながら、何もない世界へ移動させることを意識した。
マグカップが消えた。
音も光もなかった。
初めから机の上に何も置かれていなかったかのように、唐突に姿を消した。
航平はしばらく空になった机を見つめた。
次に、送り出したマグカップを手元へ戻すことを考える。
右手の中に、陶器の重さが生まれた。
驚いて指を開きかけたが、慌てて握り直す。
戻ってきたマグカップには、傷も変形もなかった。
『自分以外の対象のみ移送可能。遠隔で回収可能』
記録へ新しい一文が増えた。
検証はそこから急速に広がっていった。
最初の何もない世界以外へ移動できるのか。
航平は、木々の生い茂る場所を思い浮かべた。
単なる日本の山林ではない。
人間の手が一度も入っていないような、見渡す限り緑に覆われた世界。
イメージを固め、移動する。
次の瞬間、湿り気を含んだ濃い空気が肺へ入り込んだ。
頭上には巨大な葉が幾重にも重なり、隙間から細い光が差している。足元には膝近くまで伸びた草が密集し、どこか遠くから、航平の知らない生き物の鳴き声が聞こえた。
木の幹は何人かで手を回しても届かないほど太く、表面には青みを帯びた苔のようなものが張りついている。
それまで何もない世界しか見ていなかった航平は、あまりの情報量に圧倒された。
同時に、自分が危険な場所へ移動した可能性へ気づく。
草むらの奥で何かが動いた瞬間、航平は反射的に自室へ戻った。
帰還後、しばらくは心臓の音が収まらなかった。
だが、恐怖よりも強く残ったものがあった。
興奮だった。
あの森は、地球上のどこかではない。
少なくとも、航平が知る植物とは明らかに違うものが生えていた。
単に遠く離れた場所へ移動したのではない。
世界そのものが違う。
その考えが、現実味を帯び始めた。
航平は次に、その森から物を呼び出せないか試した。
先ほど見た光景を思い浮かべ、その地面に落ちていた枝を一つだけ選ぶ。
自室のカーペットの上へ、小さな枝が転がった。
長さは三十センチほど。細い枝の先には、青色に近い葉が数枚残っている。表面を触ると、木材らしい硬さはあるものの、地球の樹木とは違う甘い匂いがした。
航平は素手で触れ続けることを避け、ビニール袋へ入れて密封した。
何が付着しているか分からない。
未知の微生物や毒物を、自室へ持ち込んだ可能性もある。
そこで航平は、異物が地球側へ影響しないように隔離する空間を作れないかと考えた。
何もない世界の一部分を切り取り、自室のクローゼットの奥へ接続する。
扉を開いたときだけ、内部が別世界へ通じるようにする。
試してみると、あっさり実現した。
クローゼットの扉を開けると、本来あるはずの壁や衣服の代わりに、何もない空間が広がっていた。扉を閉めれば接続は切れ、次に開けたときには元のクローゼットへ戻る。
航平は青い葉の枝を、その隔離空間へ保管した。
ここまで来ると、検証というよりも、思いついたことが本当に可能かを確かめる作業へ変わっていた。
物を移動できるなら、生物も移動できるのではないか。
物や生物が対象になるなら、建物や土地はどうか。
土地を動かせるなら、その土地を含む空間そのものを切り出せるのではないか。
空間を切り出せるのなら、二つの世界を直接つなぐこともできる。
対象を移すだけでなく、別世界に存在する同じ種類の物と交換することもできるのではないか。
航平は河原で拾ってきた小石を机へ置き、それとよく似た別世界の小石を探すように意識した。
机の上の石が、一瞬で別の石へ置き換わった。
大きさも形も似ているが、表面の模様が違っていた。
交換もできる。
ならば物質だけでなく、温度や重力、大気の性質といった環境も対象にできるのではないか。
さらに、その世界で成立している物理法則や、地球には存在しない現象だけを切り出して持ち込むことも可能なのではないか。
思いつくたび、航平は安全を確認できる小さな規模で試した。
そして、能力はそのほとんどすべてに応えた。
航平には、その力の仕組みを説明する知識はない。
頭の中に操作画面が表示されるわけでもなければ、誰かが使い方を教えてくれるわけでもない。
だが、何をしたいのかを明確に意識すれば、能力は航平の意図を読み取るように働いた。
数週間後。
航平は自室のデスクチェアへ深く座り、パソコンの画面を見つめていた。
画面には、これまでの検証結果をまとめたテキストファイルが開かれている。
別世界への移動。
対象の移送。
呼び出しと送還。
空間の切り取り。
世界同士の接続。
異なる対象の交換。
世界固有の環境や法則への干渉。
試せていないことは、まだいくらでもある。
だが、能力の大まかな性質を判断するには十分だった。
「……なるほどね」
航平は眼鏡を外し、指で目頭を揉んだ。
数秒後、もう一度眼鏡をかける。
自分で入力した記録を上から下まで眺め、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「どうやら俺は、別の世界へ移動するだけじゃなく、世界同士の境界そのものを弄れるらしい」
口に出してみても、現実感のない結論だった。
これは単なる瞬間移動ではない。
異空間へ荷物を収納する能力でもない。
無数に存在するらしい別世界を探し、その中から目的に合う世界を選ぶ。自分や物を移動させ、別世界から何かを呼び出し、空間同士を接続し、必要なら一部分だけを交換する。
航平にとって、世界同士を隔てる境界は、越えられない壁ではなくなっていた。
扉を開ける。
中身を取り出す。
別の部屋とつなげる。
今の航平は、異なる世界そのものを、その程度の感覚で扱えてしまう。
航平は検証結果を眺めながら、テキストファイルの末尾へ新しい一文を打ち込んだ。
『仮称――世界間干渉』
自分でも、いかにも能力名らしい名前をつけることには多少の気恥ずかしさがあった。
だが、記録上の呼び名がないと不便だった。
異なる世界へ移動し、世界を隔てる境界へ干渉する。
現時点で確認できた性質をまとめるなら、これが一番近い。
なぜ自分がこんな力を得たのかは分からない。
調べる方法もない。
ただ、歩道橋の階段から落ちかけたあの瞬間、何らかの偶然が起きた。
意図した者はいない。
航平を選んだ者もいない。
本来なら決して重ならないはずの条件が、偶発的に重なった。
その結果、一人の平凡な会社員が、異なる世界の境界や構造へ干渉できる存在になってしまった。
それだけだった。
航平は自分の両手へ目を落とした。
見た目は以前と何も変わらない。
身体能力が上がったわけでも、知能が飛躍的に向上したわけでもない。明日の朝になれば仕事を始め、締め切りまでに担当部分を完成させなければならない。
神になったという実感など、欠片もなかった。
世界を支配したいとも思わない。
人類を正しい方向へ導く使命を背負ったつもりもない。
もちろん、この力を使えば金銭を得ることも容易だろう。
金や希少金属が大量に存在する世界を探し、少しだけ持ち帰ればいい。地球にはない薬を見つければ、治療できなかった病気を治せる可能性もある。
歴史を変えることすら、できるのかもしれない。
考え始めれば、いくらでも使い道は浮かんでくる。
だが、それらより先に航平の頭へ浮かんだのは、もっと個人的なものだった。
誰も足を踏み入れたことのない新大陸。
地球とは異なる生態系。
見たこともない植物や動物。
現代の装備を整えた調査隊が、未知の世界へ踏み込んでいく光景。
正体不明の怪異を人知れず処理する秘密組織。
地下深くへ続き、未知の資源と危険な生物が存在する巨大迷宮。
これまで小説や漫画、ゲームの中でしか見られなかったもの。
設定を考え、こんな世界があればいいと想像しても、現実には存在しないと分かっていたもの。
それらを、今の航平なら本当に作れる。
何もないところから創造する必要さえない。
別世界が無数に存在するのなら、巨大な洞窟がある世界も、未知の植物が育つ世界も、奇妙な生物が生息する世界もあるはずだ。
必要なものを探し出し、切り取り、組み合わせる。
地球上のどこかに入口を置き、その先を別世界の空間へつなぐ。
内部へ生態系を移し、資源を配置し、人間が探索できるように整える。
それだけで、本物のダンジョンができる。
「……ないなら、自分で作ればいいんだよな」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりと形を持った。
航平は椅子へ座り直し、新しいテキストファイルを開いた。
白紙の画面で入力カーソルが点滅している。
航平は少し考え、キーボードへ両手を置いた。
最初に、何を作るのか。
新大陸は規模が大きすぎる。
異世界そのものと接続するのも、最初の試みとしては影響範囲が広い。
それに比べれば、入口と内部を切り離せるダンジョンは管理しやすい。危険な生物が外へ出られないようにすることもできるし、問題が起きれば接続自体を切ればいい。
何より、航平自身が昔から見たかった。
現実に現れた、本物のダンジョン。
その存在を発見した人間が何を考え、どう調査し、どのような装備を整えて中へ入っていくのか。
想像しただけで、指先が落ち着かなくなった。
「よし。とりあえず、現実に本物のダンジョンを作ろう」
航平はテキストファイルの先頭へ、仮の題名を入力した。
『ダンジョン造成計画』
その下に、思いついた項目を並べていく。
設置場所。
入口の形状。
内部の広さ。
地形。
植物。
生息する生物。
持ち込む資源。
安全装置。
発見されるまでの経路。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
だが、それを面倒だとは感じなかった。
航平の指は止まらない。
これまで頭の中で考えるだけだった設定を、現実のものとして組み立てられる。
机の横には、別世界から持ち帰った青い葉の枝が、透明な袋に入れられて置かれている。
それは、航平が見てきたものが夢でも妄想でもないことを示していた。
画面へ新しい文字が増えるたび、航平の口元には自然と笑みが浮かんだ。
世界は昨日までと変わらず動いている。
誰もまだ、これから何が起きるのかを知らない。
航平だけが知っている。
この何の変哲もなかった現実に、本物の未知が生まれようとしていることを。
その夜、篠宮航平は、世界で最初のダンジョンの設計を始めた。