世界間を移動できるようになったので世界を弄り回す 作:Ура
別世界の巨大な地下森林から戻った航平は、まず自室の床へ必要そうなものを並べた。
能力を使えば、危険を感じた瞬間に帰還できる。
だからといって、何の準備もせず未知の環境を歩き回る気にはなれなかった。
世界の境界を越えられるようになっても、航平自身の肉体が特別頑丈になったわけではない。毒虫に刺されれば腫れるだろうし、足を滑らせて岩へ頭を打てば、普通に大怪我をする。
何がいるのか分からない場所へ入る以上、最低限の備えは必要だった。
航平はクローゼットや収納棚を探り、使えそうなものを一つずつ取り出した。
強力な携帯ライト。
記録用の小型カメラ。
厚手の手袋と長靴。
水と携帯食。
簡単な救急用品。
サンプルを入れるための蓋つき容器。
それから、歩いた経路へ目印を残すための黄色いテープ。
床へ並べた道具を見下ろしながら、航平は腕を組んだ。
「本格的な探検装備とは言えないけど、最初はこれでいいか」
足りないものが分かれば、あとで買い足せばよい。
未知の世界を探索する機会など、これまでは一生訪れないと思っていた。当然、専門的な道具を持っているはずもなかった。
航平は長袖の服へ着替え、手袋と長靴を身につけた。ライトと救急用品を鞄へ入れ、カメラを胸元へ固定する。
鏡に映った姿は、冒険者というより、山中へ作業に入る一般人に近かった。
それでも、普段着のまま踏み込むよりはましだろう。
装備を一通り点検した航平は、自室の中央へ立った。
発光植物の生い茂る地下空間。
最初に降り立った、水の流れる場所。
そこを明確に思い浮かべる。
次の瞬間、自室の景色が消えた。
◇
冷たく湿った空気が、航平の頬へ触れた。
長靴の底が、柔らかな土へわずかに沈む。
周囲には青緑色の光を放つ植物が群生し、少し離れた場所から水の流れる音が聞こえていた。
自室から持ってきた道具も、すべて揃っている。
航平は周囲を見回したあと、近くに張り出していた太い根へ黄色いテープを結びつけた。
ここを今回の出発地点にする。
能力を使えば、道に迷ったとしても自室へ直接戻ることはできる。それでも、地下森林の地形を調査するなら、歩いた経路が分かる目印はあった方がよい。
帰還できることと、現在地を把握できることは別の話だった。
ライトを点灯し、カメラの録画を開始する。
航平は水音の聞こえる方向へ、ゆっくりと歩き始めた。
地下森林の内部は、遠目に見たときよりも複雑だった。
発光植物が地面を覆い、足を置く場所にも困るほど密集している一帯。
植物が途切れ、黒い岩盤が大きく露出している場所。
浅い水が広がり、長靴の底が泥へ沈み込む湿地。
天井から、木の幹ほどもある根が何本も垂れ下がっている空間。
発光植物がほとんど生えておらず、携帯ライトを消せば何も見えなくなりそうな暗い区域。
一つの環境が延々と続いているわけではない。
わずかな高低差や水の流れによって、育っている植物も地面の状態も変わっていた。
航平は一定の間隔でテープを結び、カメラへ周囲の様子を記録しながら進んだ。
途中、湿った地面に見慣れない跡を見つけた。
三本の細い指が伸びた足跡。
その近くには、丸い蹄に似た別の跡も残っている。
どちらも航平の手のひらより小さいが、何の生物がつけたものなのかは分からない。
離れた茂みから、葉の擦れる音が聞こえた。
航平が足を止めると、音も止んだ。
しばらく待っても、何かが姿を現すことはない。
水辺では、静かな水面に突然小さな波紋が広がった。何かが潜ったのか、下から浮かび上がったのかも確認できなかった。
航平は足跡と水面を撮影するだけに留め、その場から距離を取った。
正体を確かめたい気持ちはある。
だが、それは今回の目的ではない。
今は、最初のダンジョンへ使える区域を探す方が先だった。
しばらく歩いたところで、航平は足を止めた。
目の前に、比較的開けた土地が広がっていた。
地面は緩やかで、大きな岩も少ない。淡く光る植物が適度な間隔で生え、その中央を細い小川が流れている。
地面を覆い尽くすほど植物が密集しているわけではないため、人間でも歩きやすそうだった。
航平は周囲を見回し、思わず笑みを浮かべた。
「ここ、かなりいいな」
明るさがある。
水もある。
地形も険しくない。
初めて足を踏み入れた人間が、地下森林の景色を見渡す場所としては申し分ない。
航平は区域の端まで歩き、どこを境界にするか考え始めた。
しかし、小川の下流を追ったところで、その足が止まった。
水は岩の間を抜け、候補地の外へ流れ出している。
上流も同じだった。
少し遡ると、小川は遠くの岩壁の裏側から流れ込んでいた。この区域だけで水が生まれ、循環しているわけではない。
航平は水辺へしゃがみ込んだ。
流れの中には、小さな葉や細い植物片が混じっている。目を凝らすと、糸くずのような小さなものが水中で動いていた。
上流から、水だけではなくさまざまなものが運ばれてきている。
この一帯だけを切り出した場合、その供給は途絶える。
一方で、流れ出す先だけを塞げば、行き場を失った水が溢れる可能性がある。
周囲に残る足跡も、この場所へ水や餌を求めてやって来た生物のものかもしれない。
「見た目だけで選んじゃ駄目か」
航平は立ち上がり、改めて周囲を眺めた。
この場所そのものは気に入っている。
だが、環境は目に見える範囲だけで成立しているわけではない。
水は外から来て、外へ流れていく。
生物も同じだろう。
ここだけを都合よく切り取れば、水の流れも、植物と生物の関係も崩れる可能性がある。
前回のサンプル実験で、一つの植物だけを別の環境へ移してもうまく維持できないことは分かっている。
空間ごと切り出すにしても、その範囲の決め方が雑なら結果は変わらない。
「ある程度、この中だけで成り立ってる場所を探さないとな」
候補地を惜しく思いながらも、航平は探索を再開した。
◇
必要な条件は、先ほどより明確になった。
切り出す範囲の中に、水の供給元と流出先の両方を含められること。
周囲が岩壁などで区切られ、外部との行き来が比較的少ないこと。
植物と土壌がまとまって存在すること。
人間が歩ける地形があること。
さらに、区域内だけで環境がどの程度維持されるかを確認しやすい場所。
すべてを完全に独立させるのは難しいだろう。
それでも、外部とのつながりが無数にある場所より、必要な範囲をまとめて選びやすい場所の方がよい。
航平は途中で休憩を挟みながら、地下森林を歩き続けた。
持ってきた水を飲み、撮影した映像と来た道を確認する。
発光植物だけでは明るさに限界があり、距離感を掴みにくい。似たような岩や根も多いため、テープを残していなければ、同じ場所を何度も回っていた可能性もあった。
やがて、岩の張り出した狭い場所を抜けたところで、航平の視界が開けた。
そこは、高い岩壁に囲まれた窪地だった。
先ほど見つけた候補地よりも広く、内部には土の地面と岩場が混在している。
岩壁の一部から水が湧き出し、中央付近に小さな池を作っていた。池から溢れた水は細い流れとなり、窪地の端にある地面の裂け目へ吸い込まれている。
発光植物も、水辺だけに偏らず区域全体へ広がっている。
航平は慎重に斜面を下り、池の周囲を歩いた。
湧き水の出ている岩壁。
水が流れ込む裂け目。
土の深さ。
外部へ続いていそうな隙間。
それらを一つずつ確認する。
地下で水がどのようにつながっているのかまでは、外から見ただけでは分からない。
それでも、水の入口と出口を含む地下部分までまとめて切り出せば、先ほどの場所よりは水の流れを維持しやすい。
外部へ続く通路も、完全に開けたものは少なかった。
「候補にするなら、こっちだな」
ここであれば、周囲の岩壁を自然な境界として利用できる。
池と植物。
岩場と土の地面。
人間が歩き回れる広さもある。
あとは、実際に環境ごと切り出したとき、どのような状態になるのかを確かめる必要があった。
航平はいきなり窪地全体へ能力を使うことはせず、池から少し離れた一角へ移動した。
そこには低い発光植物が生え、地面には湿った土が積もっている。
植物の周囲では、小さな羽虫のような生物が何匹か飛んでいた。
航平は数歩下がり、植物を中心とした小さな範囲へ意識を向けた。
地表だけではない。
植物が根を張っている土。
その下にある地層。
植物の周囲を満たす空気。
目で確認できない小さな生物も含め、その場所を一つのまとまりとして指定する。
移動先は、最初に訪れた何もない世界。
航平が能力を使うと、指定した範囲が目の前から消えた。
地面には、切り取った形の窪みが残っている。
航平はそれ以上周囲へ手を加えず、自分も何もない世界へ移動した。
色も目印もない空間の中に、小さな地面が浮かんでいた。
土と岩。
その上に生える発光植物。
周囲には、切り出した範囲の空気も保たれている。
植物は移動前と変わらず、青緑色の光を放っていた。
羽虫も生きている。
土の表面をよく見ると、細い糸のような生物が慌ただしく動いていた。
地球の環境へ直接さらしたサンプルとは違う。
今回は、植物だけではなく、周囲の環境もまとめて移している。
少なくとも、移動直後に目立った異常は起きていなかった。
「これなら、いけそうだな」
航平はしばらく様子を観察したあと、切り出した空間を地下森林の元の場所へ戻した。
土と岩が元の地面へ収まり、境界も見た目には分からなくなる。
発光植物も、そのまま光り続けている。
移動させるだけではなく、元の状態へ戻すこともできる。
小規模な実験は成功だった。
◇
航平は改めて窪地を歩き、最終的に切り出す範囲を決めていった。
周囲を囲む岩壁。
湧き水のある部分。
池と、水が流れ込む裂け目。
土の地面と発光植物。
地下の水路までどの程度含めるかは、目に見える地形だけでは判断できない。そのため、能力で認識できる範囲を少しずつ広げ、水のつながりごと包み込むように指定していく。
外部へ通じる狭い通路については、切り出す境界を岩壁の途中に置くことにした。
あとから別の空間へつなげることもできる。
今は開放せず、最初の区域だけで環境がどのように変化するのかを観察する方がよい。
問題は、生物だった。
窪地を何度か見回ったが、大型の生物は見つかっていない。
しかし、水中や地中、岩の隙間まで調べ尽くすことはできない。小型の生物や虫をすべて取り除けば、今度は植物や土壌へ悪影響が出る可能性もある。
航平が欲しいのは、植物だけを並べた展示空間ではない。
生きた地下森林だった。
「いるものまで全部排除したら、環境ごと持ってくる意味がないか」
危険な生物が含まれていた場合は、移動後に対処する。
少なくとも今の調査では、即座に人間を襲うような大型生物は見つからなかった。
航平は窪地の端へ立ち、選定した区域を見渡した。
水の音。
植物の淡い光。
湿った土の匂い。
目に見えないほど小さなものも含め、この場所で続いている生物の営み。
それらを、ばらばらの物体ではなく、一つの環境として捉える。
指定した範囲を、周囲の世界から切り離す。
移動先は、空気だけが存在する世界。
航平が能力を働かせると、景色が一度途切れた。
次の瞬間。
航平は、先ほどと同じ窪地の中に立っていた。
発光植物は変わらず光っている。
岩壁から湧き出す水は池へ流れ込み、そこから地面の裂け目へ落ちている。
足元の土も、周囲の空気も変わっていない。
だが、岩壁の外側にあった地下森林は消えていた。
区域の境界より先には、何も存在しない空間が広がっている。
先ほどまで別世界の地下森林にあった一角が、環境ごと切り離され、この世界へ移されていた。
航平はしばらく言葉もなく、その景色を見つめた。
まだ、ダンジョンと呼ぶには足りない。
地球側の入口もない。
内部の安全性も、資源として何が存在するのかも分かっていない。
それでも、最初の土台は確かにできた。
「……できたな」
呟いた直後。
離れた岩陰から、葉が擦れる音が聞こえた。
航平は反射的にライトを向ける。
淡い光と白い照明が重なった先で、植物がわずかに揺れていた。
風ではない。
何かが、その奥を通った。
航平はすぐに距離を取り、いつでも自室へ戻れるよう意識を整えた。
調査で見つけられなかった生物が、一緒に移動してきたらしい。
「……まあ、生態系ごと運んだんだから、何もいない方がおかしいか」
正体の分からない気配を前にしても、航平の表情から興味は消えなかった。
最初のダンジョン候補地には、作った本人すら把握していないものが、すでに潜んでいた。