HELLSINGの少佐がミレニアムで教師をしている話 作:海鮮横丁
『それでは、会場の皆々様!準備は出来ましたでしょうか!!』
『本日、司会進行役を務めさせていただくのはこの私!!ミレニアムが誇るエンジニア部の豊見コトリです!!』
ミレニアムが誇るフィットネスセンター内の体育館。
いつもはボール遊びに興じる場所で、今とある祭りが開催される。
『それでは!青コーナー!!大尉さんです!いつものように軍服を着込み涼し気な表情を浮かべています。今回の参加は少佐の指示だったそうですが、少しは拒否しても罰は当たらないと思いますよ』
『続いて赤コーナー!!こちらは二人がエントリーしています。我がミレニアムが誇る最強!C&Cが00の美甘ネル先輩と大尉と遊べると聞いて参加したゲーム開発部のアリスさんです!!皆様、選手に温かい拍手をお送りください!』
体育館の中央で自然な動作で立つ大尉とネル。ニコニコと楽しそうに笑うアリス。
『今回の発案者である少佐は最近暇そうな大尉の身体を心配してとのことですが、全力で嘘でしょう!!大尉、昨日エンジニア部に来て作業手伝ってくれてありがとうございました!!』
『ルールは簡単!皆さん小さい時に一度はやったことがあるでしょう!鬼ごっこです!時間は30分。ネル先輩とアリスさんのどちらかが大尉に触れたら勝ち。大尉側は30分間逃げ切れたら勝者になります!!』
『それでは!5カウントで始まりますよ!!』
首を軽く回し、手足を軽く振るネル。
ニコニコと大尉を見て、ネルに手を振るアリス。
ひっそりと頷き開始を待つ大尉。
『5』
会場上空のパネルに数字が点る。
会場中の声が唱和する。
『4』
ワクワクと爪先立ちになるアリス。
重心を前に移すネル。
『3』
大尉の視線が静かに二人を捉える。
『2』
ネルが舌で軽く唇を舐める。
ぴょんと軽く跳ね楽しそうに周囲を眺めるアリス。
『1』
歓声が、止まる。
誰もが息を呑む。
『スタート!!』
床が爆ぜる。
ネルが一直線に踏み込み。
アリスが笑顔のまま横へ回り込む。
完璧な挟撃。
――のはずだった。
「……は?」
ネルの目の前から、
大尉が消えていた。
違う。
消えたのではない。
気付けば、
二人の包囲の外へ歩くように抜けていた。
軍靴の音だけが、
静かに遅れて響く。
「くっそ!やっぱ早えっ!」
「もう後ろですか!?」
ゆっくりと大尉が二人を見据える。
「……」
「は!相変わらずだなおい」
「チビメイド先輩。次はアリスが前に出ます」
会場中が興奮で割れる。
『え、やっばネル先輩!』
『大尉、どうやって動いたの今?』
あちらこちらから声がさざ波のように続く。
『29:50』
「アリス突撃します!」
「……」
アリスが真っ向から大尉に突撃する。
アリスの手が真っ直ぐに大尉に伸びる。
大尉は、それを軽く払いながらもネルを注視する。
ネルが大尉の後ろに一瞬で回り、手を伸ばす。
触れる寸前に大尉の姿が掻き消える。
「上だチビ!」
「はい!」
急いで体制を立て直し、ネルの身体を踏み大尉に迫るアリスの手。
ゆっくりと降下しながら、空中で腕を絡めアリスの体制を崩す。
「え?は、わ!アリスは落ちます!?」
「だーくっそ!やっぱ簡単には捕まらねえか」
空中でジタバタと手足を振るアリスを軽く飛び上がり捕まえるネル。
その間に難なく着地した大尉を目で追いながら、次はどう攻めるか考える。
『28:23』
軽く首を傾げ、空中の二人を大尉は眺める。
「いやーやはり大尉は早いね」
満足そうに何度も頷きポップコーンを口に運ぶ少佐。
その横で若干引いた目で大尉を眺めるユウカ。
「あの人のああいう姿初めて見ましたけど、目で追えないくらい早いんですね」
「もっと早いよ彼は」
さらりと口にし、紙コップを口に運ぶ。
「お、どうやらネル君が次の動きを決めたらしい」
少佐の視線は若い挑戦者から一度も外れていない。
体育館の空気が一段、張り詰める。
ネルが着地と同時に体勢を整えるより早く、視線だけが大尉を追う。アリスも軽く膝をつきながら、口元はまだ笑っているが目だけは鋭い。
「まだ動けるなチビ」
「はい!今度は本気でいきます!!」
その声が落ちた瞬間。
大尉の足元の床が、わずかに鳴った。
――次の刹那。
「っ!」
ネルの前方が“空白”になる。
踏み込みではない。加速でもない。
ただ一歩目を置く前に、位置情報そのものが書き換わったような移動。
ネルの拳が空を切り、風だけが残る。
「またかよ……!」
アリスが横から追いすがるが、その動線の“延長線上”に大尉はいない。最初からいなかったみたいに、視界の端にしか残らない。
観客席がざわつく。
『今の見えた!?』
『いや無理でしょ……消えたぞ完全に!』
コトリがマイク越しに叫ぶ。
『現在も鬼ごっこは継続中です!!時間は28分を切りました!!しかし大尉選手、未だ一度も接触されていません!!』
ネルが歯を見せて笑う。
「…やるじゃねえか。燃えるぜ」
「大尉ははぐれメタルみたいですね!」
ぶんぶんと腕を振り回して嬉しそうに跳ね回るアリスの額を軽く押す。
「落ち着け。これから走り回るんだろ」
「は、そうでした。アリス落ち着きます!」
元気に敬礼をするアリスを軽く撫でながら大尉が居る場所を見る。
まるで最初からそこにいたという気楽さでそこに立っている。
「行くぞ!」
二人の同時ダッシュで、空気が一瞬だけ“裂けた”。
ネルは地面を蹴るというより、床そのものを踏み抜くように加速する。アリスは軽い身体を弾丸みたいに投げ出して、わずかに遅れて追従する形だが、その軌道は妙に正確だ。さっきまでの「突進」じゃない、“狩りの動き”になっている。
そして――大尉。
「…」
一瞬だけ楽しそうに目を細め、トンと軽い音を残して姿が消える。
「また上ですか!」
「下だ!」
上に目を向けたアリスに向かって、滑るようにというかほぼ液体の様な動きで下に潜る大尉。
二人の腰より下の位置に大尉の頭がある。
一瞬、体育館の空気が「変な間」で止まる。
アリスの視線が上に行ったまま固まり、
ネルの視線はすでに“下”に落ちている。
そのさらに下――床スレスレ。
そこに、大尉の“頭だけ”がある。
いや、正確には頭だけに見える。
身体の重心も、足音も、呼吸の気配すら、極端に圧縮されている。まるで人間の形をした影が、物理法則のギリギリ外側を滑っているみたいに。
「……は?」
アリスが素で声を漏らす。
ネルは逆に笑いが出た。
「おいおい、そこまで低くなる必要あるか?」
次の瞬間。
大尉の“頭”が、床をなぞるように横へ流れる。
滑る。
踏み込みじゃない。
跳躍でもない。
ただ、空間の隙間を“擦って移動している”。
アリスが反射で手を伸ばす。
「そこですっ!」
指先が床すれすれを切る。
しかし――
掴めない。
そこにはもう“高さ”がない。
ネルが一気に踏み込む。
「下にいるなら!」
拳が振り下ろされる。
だがその瞬間、大尉の頭が“ほんの数センチだけ”沈む。
床に潜ったわけじゃない。
ただ、存在の位置がさらに低くなる。
結果としてネルの拳は、空気を殴る形になる。
「……っ、マジか!」
アリスが目を見開く。
「ネル先輩、今の当たらないんですか!?」
「当たるだろ今のは!!」
少しだけ楽しそうに言い返すネル。
その下で、大尉の声が静かに落ちる。
「……」
短い呼吸。
そして――
スッ。
本当に“音が一段下がる”みたいな感覚で、大尉が立ち上がる。
いや、立ち上がったというより
“通常の高さに戻ってきた”。
その戻り際が自然すぎて、一瞬二人とも遅れる。
ネルが肩で笑う。
「……あー、これちょっと予想外だな」
アリスは逆にテンションが上がっている。
「でも楽しいです!!すごいですこれ!!」
コトリの声が裏返る。
『え、今のどうやって!?説明できません!!物理の授業では習ってません!!』
観客席も完全に混線している。
『あれ回避ゲームじゃなくて空間バグだろ!』
『触れたら勝ちってルールの方が無理ゲーじゃん!!』
大尉は何も言わない。
ただ一度だけ、ネルとアリスを見る。
その視線は挑発でも優越でもなくて。
「まだやるのか」という確認だけ。
ネルが息を吐く。
「やるに決まってんだろ」
アリスも頷く。
「まだまだ行きます!!」
そして二人が同時に踏み出す。
今度は追うのではない。
“逃げ道そのもの”を消しにいく動き。
ネルの踏み込みはさっきまでの「速さ」じゃない。床を蹴った瞬間に重心が“置き換わる”ような、無理やり理屈を捻じ曲げた加速。アリスもそれに合わせて、遅れを“許容しない角度”で追従する。
二人とも、もう遊びの顔じゃない。
「逃げ道そのものを消す」――その言葉通り、体育館の空間を“分割”し始めていた。
ネルが左。アリスが右。
そして中心にいるはずの大尉の周囲に、見えない柵みたいな圧が立ち上がる。
『えっ、今の動きヤバくないですか!?』
『ネル先輩はともかくアリスさんもすごい動けるんですね!』
コトリの声が半ば悲鳴になる。
『残り時間27分台突入です!!ですが依然として大尉選手、接触ゼロ!!』
その“ゼロ”が、異常さとして会場に突き刺さる。
ネルが低く笑う。
「ぜってえ捕まえてやる…」
「アリスも頑張ります!」
二人が姿がまた会場内から消える。
「二人共本気だねえ」
「あれぐらい本気で任務もやってくださいよネル先輩」
少佐が今度はフランクフルトを齧りながら呑気に感想を零す。
隣の少佐の食欲に軽く引きながらも、真剣に鬼ごっこの様子を眺めるユウカ。
「お?」
『おおっと!ネル先輩の腕が初めて大尉の袖にかすりました!!』
会場が一瞬だけ静まり、次いで爆発した。
『すげえネル先輩流石!』
『はーよく液体の大尉を触れるもんだ』
「ネル先輩すごいです!アリスも次は触ります!」
アリスの言葉を受けて、何度か拳を確かめるように握る。
「アンタ大分面白い身体してんな」
試すように大尉を見れば、こんなに早く触られると思っていなかったようで。
何度か瞬きを繰り返す大尉の姿が目に入る。
『おおっと!ネル先輩何か掴んだようです。時間はまだ25分と45秒あります。まだまだ攻撃は続きますよ!!』
「次行くぞ!」
「はい!」
二人して同時に駆け出す。
今度はネルが真っ直ぐに突っ込み、アリスが横から回り込む。
「おらよ!」
ネルの手が真っ直ぐに大尉に迫る。
一歩後退しながら腕を払う。
「チビ!」
払われた手を無理やり捩り、大尉に近付ける。
アリスが横合いから伸ばした手が大尉の服を危うく掠る。
「まだです!」
もう一歩アリスが踏み込む。
アリスの手が大尉の頭上を虚しく通過する。
沈み込んだのだ。
あの巨体が。
「こんの!」
身体を無理やりに捩り、大尉に蹴りを放つ。
それを読んでいたように身体がバネの様に飛び跳ねる。
「逃がすか!」
「アリスも追います!!」
上空高く、天井まで飛び上がった大尉がゆっくりと落ちてくる。
それを迎え撃つように飛び上がる。
『ウチの天井って何mあるっけ』
『この前補修した時ついでに上げたから40mくらい』
『おおっと!鬼ごっこでまさかの空中戦だ!!時間は22分を切りました。さあどうなる!』
「とんでもねえ身体能力してやがるなホントに」
「アリスは楽しいです!」
無言で落下してくる大尉を迎え撃つ。
手を伸ばした瞬間に姿が消える。
「後ろだチビ!」
「はい!」
アリスの真後ろに現れた大尉に向かって腕が伸びる。
大尉の帽子を掠めるように腕が伸びる。
伸び切った瞬間、腕を掴まれ。
――腕を掴まれ、
その瞬間、空気が“止まった”。
いや、止まったように感じたのはアリスの方だ。
「え――」
掴まれた腕が動かない。力じゃない。固定でもない。
ただ、“そこから先の操作権”が奪われたような感覚。
大尉の指が、軽く絡む。
次の瞬間。
ぐるり、と視界が回った。
「わっ、わわわっ!?」
アリスの身体が宙で翻る。
投げられた、というより――空間ごと裏返されたような回転。
「チビ!」
ネルの声が飛ぶ。
だがその時にはもう、大尉の姿は“そこにいない”。
代わりにいたのは、落下軌道の途中に滑り込む影。
「……っ!」
ネルの拳が空を切る。
そして――
ドン、と鈍い音。
アリスが、ネルの腕の上に軽く着地する形で受け止められていた。
「うわっ!ネル先輩すみません!落ちるところでした!」
「謝るとこそこじゃねえ!」
ネルが舌打ち混じりに笑う。
その数メートル先。
大尉は、何事もなかったように着地していた。
軍靴が床を叩く音だけが、やけに静かに響く。
『……今の、何が起きました?』
コトリの声が一瞬だけ遅れる。
『え、あの、アリスさんが……投げられて……ネル先輩が受けて……え?』
観客席も同じだった。
理解より先に“現象”だけが流れている。
ネルが肩を回す。
「今のはさすがに読めねえな」
アリスは目を輝かせている。
「すごいです!今の、すごいです!!」
「褒めてる場合かよ」
ネルが笑いながら一歩前へ出る。
空気がまた変わる。
さっきまでの“追う側”じゃない。
完全に“戦術の形”に入った動き。
「……なあ、大尉」
ネルが軽く首を傾ける。
「それ、まだ本気じゃねえだろ」
大尉は答えない。
ただ一度、目を細める。
アリスが小さく跳ねる。
「じゃあアリスももっと頑張ります!」
「いやお前は少し落ち着け」
ネルが即ツッコミを入れた瞬間。
――床が鳴った。
今度は大尉ではない。
ネルだ。
踏み込みと同時に、体育館の空間が一瞬“横にずれた”。
アリスがそれに合わせて動く。
二人の連携が、さっきまでの「挟撃」ではなく、“網”に変わる。
ネルが前を潰す。
アリスが逃げ道を塞ぐ。
そしてその中心に――
大尉がいるはずの座標が、急速に圧縮されていく。
『残り時間20分を切りました!!』
コトリの声が跳ねる。
『ネル先輩とアリスさんの連携、完全に形になっています!!これはいけるか!?いけるのか!?』
ネルが低く笑う。
「今度こそ捕まえるぞ」
アリスも真剣な顔で頷く。
「はい!今度は逃がしません!」
二人が同時に踏み込む。
“空間を削るような一歩”。
その瞬間だった。
大尉が――消えた。
いや。
今度は誰も追えなかった。
視線が、間に合わない。
ネルの横をすり抜けた“気配だけ”が、後方に移動する。
アリスが振り返るより早く。
すでにそこにいる。
「……!」
ネルの目が鋭くなる。
「今のは……違うな」
アリスが息を呑む。
「さっきと……」
大尉は、静かに立っている。
今度は低くも高くもない。
ただ、“普通の距離”にいる。
だが――
その普通が、一番怖い。
少佐がポップコーンを一粒放り込む。
「なるほどね。切り替えたか」
ユウカが横目で見る。
「何をですか」
少佐は笑う。
「逃げ方を、変えたんだよ」
その言葉と同時に。
大尉が一歩、踏み出した。
今度は逃げない。
ネルとアリス、二人の中心へ。
“自分から”入ってきた。
空気が一段、重くなる。
ネルが息を吐く。
「……上等だ」
アリスも笑う。
「アリス、行きます!」
そして――
三つの影が、再び交差した。
大尉の呼吸音が耳に響く。
それくらい接近しているのだ。
「あ、当たらないんですけど!」
「うっせえ!見れば分かる」
「…」
いっそ面白いくらいに当たらない。
この至近距離でだ。
00の自分の攻撃が掠りもしない。
「いやあ、ネル君もアリス君も大尉相手に存外やるものだ」
「…何であの距離で鬼ごっこしてるんですか3人とも」
「大尉が逃げるばかりでは面白くないだろう。劇を見たことはないかねユウカ君」
ニヤニヤとコーラを流し込みながら笑う少佐に諦めたように笑う。
時計を見ると『18:56』だった。
『18:56』
その数字が表示された瞬間、空気の“温度”が変わった。
もう観客のざわめきはない。あるのは、理解できない現象を受け入れてしまった人間特有の、妙な静けさだ。
ネルが一度だけ息を吐く。
「……マジで腹立つな」
アリスは逆に笑っている。
「でも、楽しいです!」
「そこは同意する」
軽くツッコミを入れつつも、ネルの目は完全に“狩りの目”だった。
大尉は動かない。
いや、正確には――“動く必要がない位置”にいる。
ほんの一歩で、どちらにも届き、どちらからも外れる場所。
「いやー大尉が楽しそうで何よりだよ」
「あれ楽しそうなんですね。いつもの無表情だから分からなかった」
ゆらりと大尉の気配が薄くなる。
「随分と多芸だなおい!」
「上ですネル先輩!」
上空に目をやると大尉の姿はもうなく。
慌てて周囲の気配を探る。
「今度は横かよ!」
突如沸いた気配に向かって肘打ちを放つも空ぶる。
空を切った肘打ちの反動を、そのまま“次の一歩”に変えるようにネルが踏み込む。
だが――そこにもいない。
「くそっ……!」
アリスが横から滑り込むように追撃する。視線、手、足、全部が一致しているのに、掴めるはずの“中心”だけが空白だ。
「ネル先輩!どこですかこれ!」
「知るか!いるのは分かってんだよ!!」
叫びながらも、二人とも理解していた。
“見失っている”んじゃない。
“見えているのに当たらない”。
「チビ。今から言うことをよく聞け」
「?分かりました」
「大尉の動きの根幹にあるのはバカみたいな数の実戦経験だ。それをあのアホみたいな身体能力で底上げしてやがる」
「でも、それならアリス達もかなりの実戦を!」
「年季が違うんだろうな」
『おっと、ネル選手とアリス選手立ち止まって作戦会議か。時間は後15分程です。果たして間に合うのか!』
空気が、一瞬だけ“休憩”を挟んだみたいに静まる。
でもそれは、嵐の前の静けさというより――
「次の段階に入る準備完了」の沈黙だった。
ネルが軽く肩を回す。視線は外していない。
大尉は静かにこちらを待っている。
まるで久しぶりに遊んでもらっている飼い犬のような印象を受ける。
「でもアリスたちも負けません!」
その瞬間だった。
『残り時間15分を切りました!!ここからは完全に後半戦です!!』
コトリの声が、スイッチのように会場を再起動させる。
大尉がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「大尉、勝負です!」
「ぜってえ捕まえるからな!」
大尉の腕がこちらに向かって伸びる。
絡めとるような腕の動きを最小の動作で躱し、反撃に手を伸ばす。
当然のようにそこに大尉の姿はなく。
アリスの真横に現れる。
「読んでましたよ!」
「おぉ!?」
観客席からどよめきが漏れる。
アリスの声と同時。
その小さな身体が、大尉の“出現地点”へほとんど反射で滑り込んでいた。
今までの追従じゃない。
“先読み”だ。
「捕まえました!!」
アリスの両腕が伸びる。
その指先が――
軍服の袖を、確かに掠めた。
『ああっと!?今触った!?触りました!?』
コトリが絶叫する。
体育館中の視線が一点に集まる。
だが。
「……」
大尉の姿が、ぬるりと“ズレた”。
違う。
避けたのではない。
触れる直前に、身体の重心そのものを回転させていた。
アリスの腕の内側を滑るように抜け、
逆にアリスの背後へ回る。
「えっ――」
「まだだチビ!」
ネルが吠える。
その瞬間にはもう、
ネルが大尉の“移動先”へ拳を置いていた。
置いていた、という表現が正しい。
殴るためじゃない。
“そこに現れる”と決め打った軌道。
空気が軋む。
大尉の視線が、初めてわずかに細くなる。
「……」
軍靴が、半歩だけ止まった。
その“停止”こそが異常だった。
今まで一度も、
完全には止まらなかった男が。
『止まった!!』
誰かが叫ぶ。
ネルの口角が吊り上がる。
「ようやく掴んだぜ」
拳ではない。
ネルの左手。
開いた掌が、
大尉の肩へ真っ直ぐ届く。
――届く、はずだった。
スッ。
大尉の身体が、
今度は“後ろ”ではなく“下”へ消える。
「またそれか!!」
ネルが叫ぶ。
だが違う。
沈み込んでいない。
“力を抜いた”。
それだけだ。
骨すら消えたみたいに、
全身から重さが消失している。
ネルの手が肩を掠め、
数本の銀髪だけが宙に舞う。
アリスの目が輝く。
「今です!!」
今度はアリスが飛ぶ。
真上。
大尉が“低くなる”なら、
逆に上から押さえる。
単純だが、
この短時間で導き出した答えとしては正しい。
そして――
その判断は、
初めて大尉を“挟んだ”。
上からアリス。
前からネル。
逃げ道が、一瞬だけ消える。
会場全体が息を止める。
『いっ――』
コトリが言葉を失う。
大尉の目だけが、
ほんの少しだけ二人を見る。
その視線は。
驚きだった。
次の瞬間。
――トン。
軽い音。
大尉が、
アリスの落下速度に合わせて“同じ方向へ跳んだ”。
「え?」
アリスの視界から、
大尉が消えない。
同じ軌道。
同じ速度。
空中で並走している。
ありえない。
重力を共有しているみたいな動き。
「なっ……!」
ネルが踏み込む。
だが遅い。
空中の大尉が、
アリスの肩を軽く押す。
押されたアリスの身体が、
回転しながらネル側へ落ちる。
「うわわっ!」
「チビ!」
受け止めに入ったネル。
その一瞬。
たった一瞬だけ、
二人の意識が互いへ向く。
そして。
大尉が着地した。
静かに。
何事もなかったみたいに。
『…………』
体育館が、静まり返る。
誰も叫ばない。
理解が追いつかない。
コトリですら、
マイクを握ったまま固まっていた。
やがて。
「っはは……!」
ネルが笑った。
肩を震わせながら。
「マジで化け物じゃねえかアンタ」
アリスも目をキラキラさせている。
「今のすごかったです!!空中で並んでました!!」
「感想そこかよ……!」
だがネルも否定しない。
むしろ。
その目は、さっきよりずっと楽しそうだった。
『残り時間――13分42秒!!』
ようやく再起動したコトリの声が響く。
『未だ決着つかず!!しかし!!しかし今のは完全に“大尉選手が読まれていた”場面でした!!』
観客席が爆発する。
『いけるぞネル先輩!!』
『アリスちゃん頑張れー!!』
『いや大尉おかしいだろ今の!!』
少佐が愉快そうに笑う。
「いいねえ。大尉も完全にスイッチ入ってる」
ユウカが半目になる。
「これ本当に鬼ごっこなんですよね?」
「もちろん」
少佐は即答した。
「ちょっと命懸けなだけで」
「全然もちろんじゃないんですよ」
その頃。
体育館中央。
ネルが拳を鳴らす。
「分かってきたぜ」
アリスも頷く。
「はい!大尉、ちゃんと避けてます!」
大尉は黙って二人を見る。
その沈黙が、
逆に肯定みたいだった。
ネルがニヤリと笑う。
「つまり避けきれねえ状況にすりゃいい」
その瞬間。
空気が変わる。
今までで、一番。
「…」
大尉が何を思ったのか体育館に視線を走らせる。
小さく息を吸う音がこちらに届く。
たんと小さな音がして大尉が跳ぶ。
あっさりと観客席の手すりに立ち、こちらを見下ろす。
『おおっと!大尉選手まさかの観客席を戦場に選択しました!!確かにルールで決められてはいませんが、まさかの選択です!』
「遊んでやがるな」
「アリスも楽しいです!」
二人して飛び上がり大尉を追う。
「え、あれありなんですか?」
「ルールでは別に禁止されていないだろう?」
「それはそうなんですけど」
納得がいかないユウカはコーヒーを一口入れ、気分を変えるように戦場になった観客席を眺める。
あれだけ動き回っているのに怪我一つ負わせていないのだ大尉は。
むしろアリスちゃんとネル先輩の邪魔するように動いているのがここからなら良く分かる。
「大尉!ここは危ないので下に降りましょう」
「手前ら邪魔だ!」
ネルもアリスも怪我をさせないように周囲の観客を避けねばならず。
大尉は持ち前の運動能力で避けていればいい。
単純だが、効果的だ。
「急につまんねえ手を使いやがって!」
「……」
一瞬目を伏せ、周りの観客を気遣う素振りを見せる。
周囲に観客の悲鳴が響き、酷く落ち着かない。
誰一人として怪我などないが、いきなりステージの真ん中に立たされたのだ。
悲鳴の一つや二つあげたくなるだろう。
「アリスは勇者です」
真っ向から大尉を睨む。
「だから危ないので下に降りましょう大尉」
「……」
しっかりと立ち止まり、アリスの方に視線をやる。
しばし、迷うような様子を見せ。
大尉は、観客席の手すりの上で静かにアリスを見る。
周囲ではまだ悲鳴混じりの歓声が飛び交っている。
ネルは苛立ったように舌打ちしながらも、観客を巻き込まない位置取りへ無意識に身体をずらしていた。
アリスだけが、真っ直ぐだった。
「アリスは勇者です」
小さな胸を張って言い切る。
「だから危ないのはダメです」
「……」
大尉の視線が、ほんの少しだけ周囲へ流れる。
怯えながらもスマホを構える生徒。
巻き込まれまいと距離を取る観客。
それでも試合を見続けようとしている視線。
その全部を確認して。
――ふっ。
大尉の身体が、手すりから消えた。
「下だ!!」
ネルが叫ぶ。
直後。
ドン、と重い着地音。
大尉は再び体育館中央へ戻っていた。
『おおっとぉ!!大尉選手、自主的にメインステージへ帰還です!!』
コトリの絶叫で会場が一気に沸き返る。
『アリスさんの説得成功!?これは勇者ポイント高いですよ!!』
「おいチビ、犬の躾じゃねえんだぞ」
「でも降りてくれました!」
「……まあな」
ネルが苦笑しながら肩を回す。
その表情は、さっきまでより柔らかい。
だが。
次の瞬間。
空気が変わる。
『残り時間――10分!!』
数字が切り替わった瞬間だった。
歓声が一段低くなる。
疲労。
集中。
熱気。
三人とも、既にかなり動いている。
それでも。
誰一人、止まる気配がない。
ネルが前傾になる。
「ラストスパートだ」
アリスも拳を握る。
「はい!」
大尉は静かに二人を見る。
その目が。
ほんの少しだけ細まる。
「……」
そして。
今までで最も深く。
腰を落とした。
「来るぞチビ!!」
ネルが叫ぶ。
瞬間。
――爆音。
床が砕けたみたいな衝撃。
今までの“消える移動”じゃない。
真正面からの、純粋な加速。
「っ!?」
ネルの身体が反応するより先に。
大尉が。
二人の“間”を抜けていた。
風圧だけでアリスの髪が跳ねる。
「速っ――!」
ネルが反転。
だが。
今度の大尉は逃げない。
むしろ近い。
近すぎる。
視界の端。
呼吸の音。
軍服の擦れる音。
全部が至近距離にある。
なのに。
触れられない。
「アリス行きます!!」
アリスが飛び込む。
大尉の肩へ。
今度こそ。
その瞬間。
大尉の腕が、ふわりと動いた。
押していない。
払っていない。
ただ。
“進行方向を一センチだけずらした”。
それだけで。
アリスの突撃が、ネルの踏み込みと噛み合う。
「うおっ!?」
「わぷっ!?」
空中でぶつかりそうになった二人の間を。
大尉が静かに通過する。
『なんですか今のぉ!?』
『避けたっていうか誘導してません!?』
観客席が悲鳴みたいな歓声を上げる。
ネルが笑う。
「くっそ……!」
でも。
その笑みは完全に戦闘狂の顔だった。
「最高に楽しくなってきたじゃねえか」
アリスも目を輝かせる。
「はい!!」
二人が再び駆ける。
今度は呼吸が合っている。
言葉もいらない。
ネルが圧を掛け。
アリスが出口を潰す。
その瞬間。
大尉の足が止まった。
本当に、一瞬。
その静止を。
ネルは見逃さなかった。
「捕まえたァ!!」
ネルの腕が伸びる。
横からアリスも飛び込む。
左右同時。
完全包囲。
観客席が総立ちになる。
『いっ――』
誰もが確信した。
今度こそ届く、と。
そして。
大尉は。
「……」
初めて。
笑った。
ほんの少しだけ。
次の瞬間。
大尉の身体が沈む。
低い。
いや違う。
“膝をついた”。
今までの回避じゃない。
自分から姿勢を崩した。
ネルの腕が空を切る。
アリスの手も届かない。
そのまま。
床を滑るように回転。
二人の足元を抜ける。
「うお!?」
「下です!?」
そして。
回転の勢いそのままに立ち上がる。
軍靴が、静かに床を鳴らす。
『な、なんなんですかその動きぃぃぃ!?』
コトリが半泣きだった。
『鬼ごっこの挙動じゃありません!!』
少佐が腹を抱えて笑っている。
「ははは!とうとうスライディング回避まで出したか!」
ユウカが頭を抱える。
「だから何なんですかあの人……!」
『残り時間5分!!』
会場の熱気が限界まで跳ね上がる。
ネルが肩で息をする。
アリスも額に汗を浮かべている。
それでも。
二人とも笑っていた。
「絶対捕まえる」
「はい!」
大尉は静かに構える。
そして。
三人が。
最後の加速へ踏み込んだ。
床が裂けるような音が、同時に三つ響いた。
ネル。
アリス。
そして大尉。
三方向から生まれた加速が、体育館中央で衝突する。
『残り5分!!ラストスパートです!!』
コトリの声すら遠い。
もう観客席の誰も、まともに目で追えていなかった。
見えるのは。
床を走る衝撃。
空気の揺れ。
時折ぶつかる影。
そして。
「右だチビ!」
「はい!」
ネルの声に、アリスがほとんど反射で動く。
大尉が消える“先”。
そこへ先回りする。
今度は読みじゃない。
経験で作った連携だ。
「……!」
大尉の足が、一瞬だけ止まる。
その“止まり”へ。
アリスが飛び込んだ。
「捕まえ――」
届く。
誰もがそう思った。
だが。
大尉の身体が、今度は“前”へ崩れた。
避けたんじゃない。
自分から転倒した。
「えっ!?」
アリスの腕が空を切る。
その真下。
床スレスレを滑るように、大尉が抜ける。
「またそれかァ!!」
ネルが吠える。
だが今回は違う。
滑り抜けながら。
大尉の腕が。
アリスの背中を、軽く押した。
「わっ!?」
勢いを崩され、前につんのめるアリス。
そこへ。
ネルが飛び込む。
「チビ危ねっ――」
二人がぶつかる寸前。
大尉が二人の間へ戻ってくる。
低い姿勢のまま。
「なっ――!?」
ネルの目が見開かれる。
大尉の肩が、ネルの腕の内側へ潜る。
そのまま。
クルリ。
最小動作。
ネルの身体が半回転する。
「おぉ!?」
勢いを殺され、体勢が流れる。
そして。
アリスとネルが、同時に逆方向へズレた。
完全に崩された。
『また崩したぁぁぁ!!』
コトリが叫ぶ。
『大尉選手、二人の連携を全部利用しています!!』
観客席がどよめく。
『今の柔術!?』
『いや体術!?』
『鬼ごっこでやる動きじゃねえ!!』
少佐がニヤニヤ笑う。
「完全に遊び慣れてきたな大尉」
「遊びってレベルじゃないんですけど……」
ユウカはもうツッコミも疲れていた。
その頃。
中央。
ネルが息を吐く。
「……なるほどな」
アリスが首を傾げる。
「ネル先輩?」
「こいつ、“逃げる”だけじゃねえ」
ネルの目が鋭くなる。
「こっちの動きを使ってやがる」
その言葉で。
アリスの目も変わる。
「……あ」
理解した。
今まで何度も。
ぶつかりそうになった。
動線をズラされた。
勢いを逸らされた。
全部。
大尉が“二人を操縦していた”。
大尉は黙っている。
否定もしない。
その沈黙が答えだった。
ネルが口角を吊り上げる。
「面白え」
アリスも笑う。
「なら逆に利用します!」
『残り3分!!』
空気が震える。
三人同時に踏み込む。
今度のネルは速くない。
低い。
重い。
逃げ道を“圧縮”する歩き方。
アリスは逆。
軽い。
跳ねる。
予測不能に軌道を散らす。
二人が真逆の性質で、大尉を挟む。
「……」
初めて。
大尉の視線が細かく動いた。
読む量が増えている。
ネルが笑う。
「ようやく迷ったな」
その瞬間。
アリスが消える。
「!?」
今度は大尉の方が反応した。
上。
違う。
横。
違う。
「ここです!!」
真後ろ。
アリスの手が伸びる。
大尉が半歩回る。
そこへ。
ネルの掌が置かれる。
「逃がすか!」
完全包囲。
逃げ道ゼロ。
体育館中が立ち上がる。
『いっけぇぇぇぇ!!』
大尉の呼吸が、わずかに深くなる。
そして。
――トン。
軽い音。
次の瞬間。
ネルの身体が、前へ倒れる。
「……は?」
押されていない。
投げられていない。
なのに重心だけ崩れている。
アリスも同時に体勢がズレる。
二人の“間”。
そこだけが、綺麗に空いた。
大尉が抜ける。
静かに。
本当に静かに。
『抜けたぁぁぁ!?』
コトリが絶叫する。
ネルが床を蹴って立て直す。
「今のは読めねえ!」
アリスも転がりながら笑う。
「すごいです!!」
「楽しそうだなお前!」
だが。
その時だった。
ピピピピピッ!!
会場に電子音が鳴り響く。
巨大パネル。
『00:00』
一瞬の静寂。
そして。
『しゅ、終了ぉぉぉぉぉぉぉ!!』
体育館が爆発した。
歓声。
拍手。
悲鳴。
笑い声。
全部が混ざる。
ネルがその場に大の字で倒れる。
「っはぁ……クソ、捕まんなかった……!」
アリスも床にぺたんと座り込む。
「でも楽しかったです!」
その数メートル先。
大尉は静かに立っていた。
呼吸も乱れていない。
軍服の乱れすら少ない。
ただ。
ほんの少しだけ。
口元が柔らかい。
ネルがそれを見て笑う。
「……アンタ、今笑っただろ」
「……」
否定はない。
アリスがパッと立ち上がる。
「またやりましょう!!」
即答だった。
「次は絶対捕まえます!」
ネルもニヤリと笑う。
「今度は人数増やすか?」
大尉は少しだけ考えて。
静かに頷いた。
その瞬間。
観客席が再び爆発する。
『次回開催決定だぁぁぁ!!』
コトリが絶叫し。
少佐は腹を抱えて笑い。
ユウカは遠い目で天井を見上げた。
「……絶対また床壊れますよねこれ」
「予算申請頑張りたまえ」
「他人事みたいに言わないでください!!」
そんな騒ぎの中心で。
大尉は静かに、少しだけ満足そうに目を細めていた。