帝都の一角。
以前とは比べものにならないほど立派な屋敷で、ラナーとクライムは新しい生活を送っていた。
屋敷には庭があり、使用人たちが行き交い、食事の時間になればきちんと料理が運ばれてくる。
その中には、かつてワーカーとして活動していたフォーサイトの面々もいた。
「庭の手入れは終わりました!」
「買い物はこちらです!」
「夕食の準備も整えております」
屋敷のことは彼らが手際よくこなしてくれる。
以前のように、クライムが朝から晩までラナーの身の回りの世話をする必要はなくなった。
それだけでも、クライムにとっては大きな変化だった。
そして――。
ラナーが身ごもっている今、以前のように夜まで気を張る必要もない。
少なくとも最近のクライムは、かなり穏やかな日々を過ごしていた。
ただ一つ。
ラナーに出すお茶だけは、今でもクライム自身が用意している。
「ラナー様、お茶です」
「もう、クライムったら」
ソファに座っていたラナーが、ぷくっと頬を膨らませた。
「私、あなたの奥さんよ?」
「え?」
「そんな遠慮した言い方、やめてくれないかしら」
「……あ、ああ」
クライムは少し困ったように笑った。
「すまない。ラナー」
「うふふ。それでいいの」
ラナーは満足そうに微笑む。
だがクライムは内心で苦笑していた。
――長年の習慣というものは、そう簡単には変えられない。
ラナーにどれだけ「遠慮しないで」と言われても、彼女を呼ぶときにはどうしても昔の癖が出てしまう。
そんなクライムを見つめながら、ラナーが身体を寄せてくる。
「ねえ、あなた」
「ん?」
「私、そろそろ安定期なの」
「そ、そうか」
クライムは素直に頷いた。
「それは……よかった」
ラナーはにっこりと笑う。
その笑顔が、なぜか妙に意味ありげだった。
「だからね」
「?」
「今夜は、精のつく料理を作るようにお願いしておきました」
「…………」
クライムの動きが止まる。
「わかりますよね?」
「…………」
ラナーが顔を近づける。
「あなた?」
「……あ、ああ」
クライムはなんとか返事をした。
そこで改めて、今日のラナーの服装を見る。
いつもより華やかで。
どこか大胆で。
明らかに自分を意識させるような装いだった。
「ふふっ」
ラナーが楽しそうに笑う。
「今夜は、ゆっくりお話しましょうね」
「……ああ」
クライムは頷いた。
そして心の中で、ふと遠いところにいる一人の男を思い浮かべる。
――武蔵さん。
自分はいま、本当に幸せなんでしょうか。
答えはすぐには出なかった。
けれど。
隣で幸せそうに笑うラナーを見れば、少なくとも――。
「クライム?」
「なんでもない」
「そう?」
ラナーは首を傾げると、再び彼の肩に寄り添った。
「それなら、今夜も一緒にいてくださいね」
「……ああ」
クライムは穏やかに微笑んだ。
帝都の夜は、静かに更けていった。
-------------------------------------------------------------
静かに暮れゆく帝都。
夜の帳が街を包み、ラナーとクライムの新居にも静かな時間が訪れていた。
そして――ラナーの寝室。
「ねえ、あなた……来てえ」
以前のラナーからは想像もつかないような、甘えた声だった。
「わ、わかった。今行くよ。ちょっと待っていてくれ」
クライムは一度深呼吸した。
「…………よし」
覚悟を決め、寝室へ向かおうとした、そのときだった。
ドンドンドンッ!
「……?」
突然、玄関の扉を激しく叩く音が響いた。
「こんな時間に?」
クライムが立ち止まる。
しばらくして、今度は寝室の扉が控えめに叩かれた。
コン、コン。
「あの……」
聞こえてきたのはイミーナの声だった。
「お城からの御使者です。皇帝陛下から急な御用があるとかで……」
クライムの顔が固まった。
――よりによって、今か。
もちろん、イミーナたちも知っている。
ラナーがこういう時間を邪魔されることを、極端に嫌うことを。
以前も同じようなことがあった。
そのときのラナーは――。
『今、この私を呼び出したの?』
笑顔なのに、背後から凄まじい圧力を放っていた。
その姿を見たイミーナたちは、それ以来、夜のラナーの部屋を訪ねることには細心の注意を払っていた。
しかし今回は、皇帝陛下からの使者である。
無視するわけにもいかない。
「……そうですか」
ラナーの声がした。
「帝城からの使者ね」
「はい……」
「へえ……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
空気が変わった。
クライムの額に冷や汗が浮かぶ。
「ラ、ラナー……?」
振り返ったクライムが見たのは、にっこりと笑っているラナーだった。
ただし――。
その背後から放たれる圧力は、とても妊娠中の妻が夫に見せるものではなかった。
クライムは思った。
――この圧……。
――武蔵さんやセバスさんに匹敵する……!
扉の向こうでは、イミーナが固まっている。
「……あの、ラナー様?」
「ええ。すぐ行きます」
にっこり。
「皇帝陛下からのお使いですものね」
「は、はい……」
ラナーは寝室の扉を開けた。
笑顔だった。
完璧な笑顔だった。
だが、イミーナには分かっていた。
――これは怒っている。
しかも、ものすごく。
クライムはそんなイミーナを見て、心の中でそっと呟いた。
(……気の毒に)
そして同時に――。
(俺も、かなり気の毒なんじゃないだろうか……)
帝都の夜。
皇帝からの突然の呼び出しによって、ラナーとクライムの穏やかな夜は、思わぬ方向へ転がり始めていた。
-------------------------------------------------------------
「……で?」
部屋に通された使者を前に、ラナーは不機嫌そうに尋ねた。
先ほどまでの甘い雰囲気は、すっかり消えている。
「は、はい。皇帝陛下より、ラナー様に直接ご相談したいことがあるとのことでございます」
「どのようなことで?」
「そ、それは――」
使者が言葉を濁す。
「いいです。分かっていますから」
ラナーは、使者が答え終わる前に静かに遮った。
「皇帝陛下が何を相談したいのか、おおよその見当はつきます」
「は……」
使者――エルヴィスは戸惑った。
その顔を見て、ラナーは微笑む。
「それはそうと……」
声の調子が変わった。
「使者殿。あなたのお名前は?」
「は、エルヴィスと申します」
「エルヴィス……」
ラナーはその名前を口の中で転がすように呟く。
「なかなかいいお名前ですこと」
にこり。
笑顔だった。
しかし――目は笑っていない。
クライムとイミーナは、ほぼ同時に思った。
(これは……まずい)
「エルヴィスさん」
「は、はい」
「ご結婚は?」
「は?」
唐突な質問に、エルヴィスは目を瞬かせた。
「いえ……妻がおります。子供も一人」
「そう」
ラナーは満足そうに頷いた。
「奥様がいらっしゃるのなら……分かりますよね?」
「……?」
エルヴィスには、まだラナーの意図が分からない。
「今頃、奥様は怒っていらっしゃるでしょうねえ」
「え?」
「せっかく夫婦水入らずで過ごしている時間に、不躾に人が押しかけてくるんですもの」
「…………」
「しかも、その用件が『相談したい』ですって」
ラナーは笑っている。
だが、その声は妙に低い。
「ねえ、エルヴィスさん」
「は、はい……」
「あなたのお宅に、こんな時間に人が突然やって来たらどうします?」
「!」
ようやく、エルヴィスにも意味が分かった。
「は、はぁ……」
返答に困りながらも、彼は頭を下げる。
「申し訳ございません。しかし、皇帝陛下より直々に――」
「いいんですよ」
ラナーはあっさりと言った。
「家臣の務めですもの」
そして、笑顔。
「この借りは、たっぷり陛下から取り立てますので」
「…………」
エルヴィスは背筋に冷たいものを感じた。
出発前。
皇帝ジルクニフから言われた言葉が、今さら脳裏によみがえる。
――ラナー殿下を怒らせるなよ。
当時は、単なる冗談だと思っていた。
帝国で知られる「黄金姫」。
慈愛に満ちた、美しく聡明な王女。
そんな人物を怒らせるなと言われても、さほど気にはしていなかった。
しかし――。
(こ、この女性……)
(とんでもない食わせ者だ……!)
エルヴィスの生存本能が、猛烈な警報を発している。
「で、では……私はこれで失礼いたします」
「まあ」
ラナーが首を傾げる。
「あら、まだお茶も差し上げていませんのに」
「い、いえ!」
エルヴィスは慌てて首を振った。
「妻も待っておりますので!」
「あら、そう」
ラナーは微笑んだ。
「家庭は大事にしないといけませんものね」
そして振り返る。
「イミーナ」
「はい」
「御使者殿をお送りして差し上げて」
「承知しました」
イミーナがエルヴィスの横に立つ。
「御使者殿、こちらへ」
「は、はい!」
エルヴィスはほとんど逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく静寂。
「…………」
クライムは黙っていた。
そして――。
「……あーん」
「え?」
振り返ると、ラナーが両手を広げている。
「クライムぅ」
先ほどまでの威圧感など、どこにもない。
甘えるような声で、ラナーがクライムに抱きついた。
「もういやよぉ」
「ラナー……」
「せっかくの楽しみだったのに、邪魔されるなんて」
「……ああ、そうだね」
クライムは苦笑しながら、ラナーの頭を優しく撫でる。
ラナーは満足そうに目を細めた。
「ふふ……やっぱりあなたが一番ね」
「…………」
クライムはラナーの髪を撫でながら、ふと窓の外を見る。
帝都の夜は静かだった。
しかし――。
(今夜は……長くなりそうだ)
そんな予感だけは、妙にはっきりとしていた。