第百二十三回 【新章開始 感想100達成記念 ジルクニフの憂鬱】
バハルス帝国、帝城。
執務室にこもったジルクニフは、机の上に広げられた書類を睨みつけていた。
「……銀四トン、絹百八十万メートルか」
何度読み返しても、数字は変わらない。
「兄弟国として、魔導国を兄、我が帝国を弟とする……それ自体は、まあいい」
ジルクニフは椅子の背もたれに身を預けた。
皇帝としてのプライドはある。大陸に名を轟かせたバハルス帝国が、アンデッドの王が治める国の弟になる。屈辱といえば屈辱だ。
だが、そんなものは飲み込めば済む話だった。
問題は、その先である。
「しかし、毎年これだけの物資を献上するとなると……」
ジルクニフは大蔵卿たちとの会議を思い返した。
『陛下、物資の調達そのものは可能でございます』
『ただし、歳貢を優先する場合、財政への負担は避けられません』
『現状の予算を維持するのであれば、軍事費を削減せざるを得ないかと』
『軍事費を削れば、兵の維持、装備の更新、訓練、そして各地の防衛体制にも影響が出ます』
役人たちの回答は、実に明快だった。
出せないわけではない。
だが、出せば別の何かを削らねばならない。
そして、削る対象として真っ先に挙がったのが軍事費だった。
「つまり……」
ジルクニフは指先で机を叩く。
「軍事的にも、魔導国への依存を高めなければならないということか」
歳貢を納めるために軍備を縮小する。
軍備を縮小すれば、自国だけで対処できる問題が減る。
対処できない問題が増えれば、魔導国に助力を求める。
助力を求めれば、ますます魔導国への依存が深まる。
「……よくできた仕組みだ」
皮肉げに笑う。
もちろん、条約に帝国軍の縮小を強制する条項などない。
だが、実際の財政事情が帝国をそうした方向へ押し流していくのだ。
(ラナーめ……)
ジルクニフは額を押さえた。
あの娘が、どこまで計算してこの条件を提示したのかはわからない。
だが、少なくとも自分よりも一枚も二枚も上手だった。
いや、ラナーだけではない。
魔導国の連中もそうだ。
何を考えているのか、ジルクニフにはいまだに読み切れない。
そして、何より厄介なのは――。
「……ふう」
指先に、一本の髪が絡みついていた。
「またか」
最近、抜け毛が増えたような気がする。
以前から悩みの種ではあったが、ここに来てますます激しくなっている。
(このままでは、皇帝を退く頃には髪が一本も残っていないのではないか?)
馬鹿げた考えだとわかっていても、笑えなかった。
「……相談できる奴が欲しい」
思わず口から漏れた言葉。
その瞬間、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
宮本武蔵。
カルネ村にいるという、あの得体の知れない剣豪。
帝国に滞在していた頃から、武蔵の言動には散々振り回されてきた。
常識は通じない。
損得勘定も怪しい。
そもそも、国同士の交渉というものを理解しているのかすら疑わしい
(いや、待て)
ジルクニフは頭を振った。
(あいつに相談してどうする!)
(『面倒なら斬ればよかろう』などと言い出しかねん!)
想像しただけで頭痛がした。
仮に武蔵が親身になってくれたとしても、彼の助言をそのまま採用すれば、外交問題が決闘問題に変わりかねない。
「……やめておこう」
ジルクニフは書類を引き寄せ、もう一度目を通した。
だが、心のどこかではわかっていた。
自分が今、必要としているのは、単に知恵を貸してくれる者ではない。
魔導国を恐れず、皇帝という立場に遠慮せず意見を言える者。
そんな人間は、今の帝国にはほとんど残っていなかった。
フールーダは魔導国へ去った。
ラナーは帝国のために動いているようで、その実、ジルクニフの想定を軽々と飛び越えていく。
大臣たちは有能だが、財政と軍事の数字を示すことはできても、この先の大陸全体の動きを見通せるわけではない。
「……まったく」
ジルクニフは窓の外を見た。
夕日が帝都の屋根を赤く染めている。
かつては、帝国の未来を自分の手で切り開けると信じていた
貴族たちの力を削ぎ、優秀な人材を集め、帝国をより強く、より合理的な国家へ変えていく。
その道筋は、確かに見えていたはずだった。
だが、ナザリックが現れてからというもの、盤上の駒そのものが変わってしまった。
もはや、帝国だけの都合で物事を決められる時代ではない。
「調印の日まで、あと何日だ……?」
机の端に置かれた予定表へ目を落とす。
期限は、刻一刻と迫っていた。
それまでに財務担当者たちと予算を組み直し、各省庁への説明を済ませ、軍部の反発を抑え、皇帝自ら魔導国へ赴く準備も整えなければならない。
しかも、調印式で失態を演じるわけにはいかない。
「……胃が痛い」
ジルクニフは額を押さえた。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「陛下。ラナー殿下より、追加の書状が届いております」
「……何?」
嫌な予感がした。
「内容は?」
「はい。魔導国への訪問日程について、確認をお願いしたいとのことでございます」
「日程……?」
ジルクニフはゆっくりと顔を上げた。
「もう決まっているのか?」
「はい。殿下のお話では、先方との調整も進んでいるとのことです」
「…………」
ジルクニフは無言で天井を仰いだ。
(待て)
(まだ大蔵省との調整すら終わっていないぞ)
(軍事費をどう削るかも、各地の領主への説明も、これからだ!)
そして、ふと気づく。
ラナーは、最初から自分が反対するとは考えていなかったのではないか。
いや、反対したところで最終的には受け入れると見抜いていたのかもしれない。
「……ラナー」
皇帝の口から、力の抜けた声が漏れた。
「お前は本当に、味方なのか?」
返事はない。
ただ、机の上の書類だけが、無情にもそこにあった。
銀四トン。
絹百八十万メートル。
そして、調印期限。
ジルクニフは再び書類を手に取った。
「……大蔵卿を呼べ」
「軍務卿もだ」
「それから、日程の返事を……いや、まずラナーに確認を――」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
どうせ、すでに決まっているのだろう。
「……もういい。何とかする」
皇帝ジルクニフは、深く、深くため息をついた。
帝国の未来を背負う男の悩みは、まだまだ尽きそうになかった。
----------------------------------------------------------------------------ジルクニフは、ラナーが滞在している屋敷を訪れていた。
もちろん、お忍びである。
皇帝が供も連れず、前触れもなく王国の王女が滞在する屋敷を訪れる。普通ならば、いささか常識外れの行動だろう。しかし、今のジルクニフには、そんなことを気にしている余裕はなかった。
魔導国との同盟。銀四トンに絹百八十万メートルという莫大な献上品。軍事費の削減。そして、刻一刻と迫る調印の日。
大臣たちと頭を突き合わせても、名案など出てこなかった。
結局のところ、頼りにするのはラナーだけ。
「……癪に障る」
ジルクニフは小さく呟いた。
ラナーのことは昔から知っている。あの妹のような王女が、どれほど底知れない頭脳を持っているのかも。だからこそ、彼女の助言は頼りになる。
だが、それはそれとして、何もかも彼女の思惑どおりに進んでいるような気がしてならない。
まるで、自分が動くことすら最初から計算に入れられていたかのようだ。
「……まあ、今さら考えても仕方あるまい」
ジルクニフは気を取り直し、屋敷の玄関に備えられた鈴を鳴らした。
しばらくして、扉が開く。
「はい、どちら様でしょうか?」
現れたのは、若い金髪の青年だった。
ジルクニフは、その顔を見てわずかに目を細める。
「……確か、ラナー殿下の夫だったな」
「こ、これは皇帝陛下!」
クライムは相手の顔を認めた途端、顔色を変えた。慌てて膝をつき、礼を取ろうとする。
「いや、構わん。今日は忍びだ。堅苦しい挨拶は抜きにしてくれ」
「は、はい!」
クライムは恐縮しながらも、どうにか姿勢を戻した。
ジルクニフは周囲に目を配る。供も護衛も連れていない。身分を隠しているわけではないが、少なくとも大々的に訪問を知らせるつもりはなかった。
「それより、ラナー殿下は?」
「それが……」
クライムの表情が、申し訳なさそうなものに変わった。
「ラナー様は、お昼寝をされております」
「……昼寝?」
思わず聞き返すジルクニフ。
今、自分がどれほど頭を悩ませているか、彼女は知っているはずだ。いや、知っているどころか、すべてを見通したうえで、あの条件を提示したのではなかったか。
そのラナーが、昼寝。
「はい。申し訳ありません」
クライムは深々と頭を下げた。
「最近、無理に起こそうとすると……その、機嫌が極度に悪くなりますので」
「ほう?」
「ですので、できましたら、ラナー様がお目覚めになるまでお待ちいただけませんか?」
クライムの声音には、真剣な懇願が混じっていた。
皇帝を待たせるなど、本来ならば許されることではない。だが、彼はそれ以上に、眠っているラナーを起こすことの恐ろしさを知っていた。
ジルクニフは黙り込んだ。
ラナーが目を覚ます。
いつもの、柔らかな笑みを浮かべた顔。
「まあ、ジルクニフ様。わざわざお越しくださったのですね」
声は優しい。態度も丁寧。何も問題はない。
――その背後から、どす黒いオーラが立ち昇っている光景を想像した。
『せっかくクライムと過ごす時間を邪魔するなんて……』
そこまで考えたところで、ジルクニフの背筋にぞくりと寒気が走った。
(……やめておこう)
彼は内心で即座に結論を出した。
魔導国の不死者の王と対峙するよりも、眠りを妨げられたラナーの機嫌を損ねるほうが、よほど面倒なことになりかねない。
「ふむ……」
ジルクニフは、何事もなかったかのように顎を撫でた。
「今日は時間がある故、待たせてもらおう」
「そうですか!」
クライムの顔が、ぱっと明るくなった。
その安堵ぶりを見て、ジルクニフは思わず眉をひそめる。
(そこまでか……)
どうやら、クライムにとってラナーの機嫌は、皇帝の来訪よりも重大な問題らしい。
いや、ある意味では当然なのかもしれない。
何しろ、彼はあのラナーの夫なのだ。
「では、こちらへ。客室にご案内いたします」
「うむ、頼む」
クライムに続いて屋敷へと入るジルクニフ。
廊下を歩きながら、彼はふと気になったことを尋ねた。
「ところで、殿下はどのくらい眠られるのだ?」
「日によって違いますが……」
クライムは少し考え込んだ。
「今日は、朝からずっとお休みになっています」
ジルクニフの足が、ほんの一瞬止まった。
「……朝から?」
「はい。昨夜は少しお疲れだったようですので」
「そ、そうか」
ジルクニフは何とか平静を装った。
それ以上、詳しく聞くのはやめておいた。
客室に案内され、椅子に腰を下ろす。クライムが茶を用意している間、ジルクニフは窓の外を眺めた。
(……私は何をしているのだろうな)
バハルス帝国の皇帝が、同盟交渉の相談をするために王国の王女を訪ねた。
その王女は昼寝中で、起こすことすらできない。
そして自分は、彼女が目覚めるのを大人しく待っている。
「……癪に障る」
再び、同じ言葉が口から漏れた。
しかし、今度は先ほどよりも幾分、力がなかった。
クライムが茶を置き、丁寧に頭を下げる。
「ラナー様がお目覚めになりましたら、すぐにお知らせいたします」
「うむ。頼んだ」
クライムが部屋を出ていく。
一人になったジルクニフは、茶碗を手に取り、ゆっくりと息を吐いた。
(……頼むぞ、クライム)
皇帝としての誇りも、政治家としての意地も、今は脇に置くしかない。
魔導国との同盟をまとめるために。
帝国の未来を守るために。
そして何より――この先、あの化け物じみた女に振り回され続けないために。
ジルクニフは、冷めかけた茶を一口すすった。
そのとき、廊下の向こうからクライムの声が聞こえた。
「ラナー様、お目覚めですか?」
ジルクニフは反射的に背筋を伸ばした。
いよいよか。
彼は茶碗を置き、扉のほうを見つめた。
――そして、まだ見ぬラナーの笑顔を思い浮かべ、もう一度だけ身震いした。
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クライムが客室に戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
その表情は、先ほどよりもいっそう申し訳なさそうなものになっている。
「皇帝陛下……」
「どうした?」
「申し訳ございません」
クライムは深々と頭を下げた。
「ラナー殿下は今日、誰とも会いたくないそうです」
「なっ……」
ジルクニフは、思わず言葉を詰まらせた。
(誰とも会いたくない、だと?)
ここまで来て、まさかの面会拒否である。
いや、ラナーの性格を考えれば、何かしらの思惑があるのかもしれない。だが、彼女が自分を呼びつけたわけでもない以上、単に機嫌が悪いだけという可能性も十分にあった。
「そ、それは困るな」
皇帝としての威厳を保とうとしたものの、声がわずかに裏返りかけた。
クライムは困ったように眉を下げる。
「ラナー様は最近、政治向きのお話がお嫌いなようで……」
「政治向きの話が嫌い?」
ジルクニフは思わず聞き返した。
(いや、待て。あのラナーが?)
王国の政治を裏から動かし、魔導国との交渉でもこちらの予想を上回る成果を出した女が、政治の話を嫌がっているというのか。
にわかには信じがたい。
しかし、クライムの顔を見る限り、冗談を言っているわけではなさそうだった。
「……クライム卿」
「は、はい!」
「そこを何とかできないか?」
言ってから、ジルクニフはふと思い出した。
そういえば、この男には名誉爵位を与えたのだった。
身分こそ高くなったものの、クライム自身は相変わらず実直な青年のままだ。政治的な駆け引きとは無縁で、ラナーに対しても、皇帝に対しても、態度を変えようとしない。
(さて、どうする? ラナー殿下の機嫌を損ねず、私の面会を取り次ぐことができるか……)
ジルクニフは、半ば諦めながらもクライムの返答を待った。
「そ、そうですね……」
クライムはしばらく考え込んでいた。
皇帝がわざわざ足を運んでくれたのだ。自分としても、何とか力になりたい。
もちろん、ラナーの意思を無視するわけにはいかない。しかし、話を聞いてもらうよう頼むことくらいはできるはずだ。
「それでは、ラナー様にもう一度お願いしてみます。皇帝陛下は、こちらでお待ちください」
「……頼む」
クライムは一礼すると、客室を出ていった。
扉が閉まる。
ジルクニフは椅子に深く腰掛け、長い息を吐いた。
(まったく……。皇帝が、こんなところで一介の騎士の働きに期待することになるとはな)
だが、悪い気分ではなかった。
クライムは自分の立場を利用してラナーを説得しようとしたわけではない。皇帝の命令だからと強引に押し通そうとしたわけでもない。
ただ、困っている相手のために、もう一度頼んでみようとしている。
実に単純な行動だ。
そして、だからこそ難しい。
(……あの男)
ジルクニフは、先ほどのクライムの表情を思い返した。
ラナーとは長年の付き合いがある。彼女がどれほど恐ろしい頭脳の持ち主であるかも知っている。そんな彼女の夫となった男だ。何か特別な才能や、常人には理解できない計算があるのかと思っていた。
だが、実際に話してみれば、そこにあるのは驚くほど素直な善意だった。
クライムは皇帝に恩を売ろうとしているわけではない。
自分の利益のためにラナーを説得しようとしているわけでもない。
ただ、できることをしようとしているのだ。
「……いい男ではないか」
ジルクニフは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
彼は政治家だ。
人間の言葉の裏を読み、笑顔の向こうにある欲望を探り、善意すらも計算の一部ではないかと疑って生きてきた。
そんな彼からすれば、クライムのような男は危うく見えるはずだった。
だが、不思議なことに、今はそう思わなかった。
(打算など度外視して動ける人間か……)
それは、ジルクニフがとうの昔に失ってしまったものなのかもしれない。
皇帝として国を背負う以上、何もかもを善意だけで決めることはできない。情に流されれば、国民を危険にさらすこともある。
それでも。
あの男のように、誰かのために迷いなく動ける人間がいることは、決して悪いことではない。
「ラナー殿下が惚れるのも、分からんでもないな」
そう呟いたところで、ジルクニフは苦笑した。
(……いや、待て。あのラナーが惚れたということは、あの男はあの男で、とんでもないものを背負わされているのではないか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
ラナーの愛情がどれほど深いものか、ジルクニフは知っている。
そして、深すぎる愛情が時としてどれほど恐ろしいものになるかも、想像できないわけではなかった。
「……クライム卿。どうか、強く生きてくれ」
まだ何も始まっていないというのに、ジルクニフは妙な同情を覚えた。
その頃、ラナーの部屋では――。
「ラナー。ジルクニフ陛下が、どうしてもお話ししたいことがあるそうです」
クライムは、ベッドの上で微笑む妻に、できる限り穏やかな声で話しかけていた。
「……そう」
ラナーは、にこりと笑った。
その笑顔を見て、クライムは一瞬だけ言葉を止めた。
「クライム。あなたは、私にあの方と会ってほしいの?」
「はい。せっかくお越しくださったのですから、少しだけでもお話ししていただけたらと思います」
クライムはまっすぐに答えた。
ラナーは夫を見つめ、しばらく黙っていた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「……クライムがそう言うのなら、会ってもいいわ」
「ありがとうございます、ラナー様!」
クライムの顔がぱっと明るくなった。
ラナーはその様子を眺めながら、心の中でそっと呟いた。
(クライムがお願いするのなら、仕方ないわね。せっかくの二人の時間を削ることになるけれど……クライムの頼みだもの)
もちろん、ジルクニフにそんな事情が伝わることはない。
そして、客室で待つ皇帝はまだ知らなかった。
自分の面会が実現したのは、外交上の重要性でも、帝国の威信でもなく――クライムの一言が理由だったということを。
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「お、お待たせしました」
客室の扉が開いた。
ジルクニフはすぐさま顔を上げる。
そして――固まった。
「…………」
そこにいたのは、クライムとラナー。
ただし、ラナーは自分の足で歩いていなかった。
クライムにお姫様だっこされていたのである。
「…………」
ジルクニフは無言で二人を見つめた。
(……何をしているのだ、あの二人は)
ラナーはというと、クライムの腕の中で実に幸せそうな顔をしていた。まるで、皇帝との面会などどうでもよく、夫に抱きかかえられていることこそが本日の最大の目的であるかのようだ。
「ラナー殿下……その、歩けないのか?」
思わず口にしかけた言葉を、ジルクニフは寸前で飲み込んだ。
聞いてどうする。
聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。
「何かご用でしょうか?」
ラナーがにこやかに尋ねた。
その声はいつもどおり柔らかい。表情も穏やかだ。
しかし、ジルクニフは知っている。
この女の笑顔を額面どおりに受け取ってはいけない。
「す、すまん。例の魔導国との話だ」
ようやく本題を切り出す。
「ああ、あの条件ですね」
「お主、分かっているではないか!」
思わず声が大きくなった。
銀四トンに絹百八十万メートル。
年間の献上品としては相当な負担だ。確かに帝国の財力をもってすれば、支払えない額ではない。財務担当の大臣たちも、帳簿を精査したうえで可能だと回答していた。
問題は、その先なのだ。
「……いや、すまん」
ジルクニフは一度、息を整えた。
ここで怒っても意味はない。そもそも、ラナーに交渉を一任したのは自分だ。彼女が持ち帰った条件を今さら責めるのは筋違いである。
「確かに、あの条件を飲めないわけではない。大臣や役人たちも、実行は可能だと言っている」
「そうですか」
「だが、問題は今後のことだ」
ジルクニフは膝の上で手を組んだ。
「献上品の負担は、今後の帝国財政に影響する。その分、軍事費を削らねばならん。軍備を縮小すれば、魔導国への依存はますます強くなるだろう」
一度依存すれば、抜け出すのは難しい。
魔導国が善意で帝国を守ってくれる間はいい。しかし、国際情勢はいつ変わるか分からない。魔導国の意向ひとつで帝国の命運が左右されるようになれば、それはもはや独立した国家とは言い難い。
「今後の帝国には、外交にせよ内政にせよ、厳しい舵取りが必要になる。私はそれを懸念しているのだ」
「そうですね」
ラナーは、すぐに理解したような顔をした。
ジルクニフは、その反応に少しだけ安堵する。
やはり、この女は話が早い。
「つまり……」
ラナーが小首を傾げた。
「私になんとかしてほしい、ということですね?」
「そ、そうだ」
ジルクニフは、ついに本音を認めた。
皇帝としての意地もある。だが、それ以上に帝国の未来がかかっている。
ここで無用な見栄を張るつもりはなかった。
「頼む。お主に宰相を任せたい」
「宰相、ですか?」
「いや、正式な地位が嫌なら政務顧問でも構わん。とにかく、私のそばで帝国の運営を助けてほしいのだ」
ジルクニフは、ほとんど懇願するように言った。
「私一人では、魔導国との関係を維持しながら帝国を立て直すのは難しい。お主の知恵を借りたい」
ラナーはしばらく黙っていた。
そして、ふと隣のクライムを見上げる。
「ええ~、どうしましょう」
声には、困ったような響きがあった。
しかし、ジルクニフには分からない。
ラナーは今、政治の話を面倒がっているのではない。
夫に相談するという、極めて重要な儀式を行っているのである。
「ねえ、あなた?」
ラナーはクライムの胸元にしなだれかかった。
クライムは、腕の中の妻を落とさないように抱き直しながら、困ったようにジルクニフを見た。
皇帝が困っている。
それは理解できる。
ラナーが優れた知恵を持っていることも知っている。自分には政治の細かなことは分からないが、彼女の力があれば助けになるだろう。
「そ、それは……困っている人は助けないと」
「あなたが困るの?」
「そ、そうだなぁ……」
クライムは言葉に詰まった。
実際、困っているのはジルクニフである。
しかし、皇帝が困っているということは、帝国の人々も困るかもしれない。ラナーが力を貸せば、それを防げる可能性がある。
ならば、自分にできることは、彼女の背中を押すことくらいだ。
「ラナー。もし陛下のお役に立てるのでしたら……お引き受けになってもよいのではないでしょうか」
クライムは真剣な顔で言った。
「あなたがそう言うのなら……」
ラナーは、ぱっと笑顔になった。
「いいですわ。政務顧問ということで」
「…………え?」
ジルクニフは、目を見開いた。
あまりにもあっさりした返事だった。
つい先ほどまで、誰とも会いたくないと言っていた女である。政治の話は嫌いだと、夫を通じて伝えてきた女である。
その女が、今はもう引き受けると言っている。
「ほ、本当か?」
「ええ。ただし、正式な宰相ではなく政務顧問という立場でお願いします。細かな条件は、後ほど相談いたしましょう」
「おお……!」
ジルクニフの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう、ラナー殿下! これで帝国も――」
「ただし」
「……ただし?」
ラナーの笑顔は変わらない。
「私はクライムとの時間を大切にしたいのです。政務顧問になったからといって、毎日朝から晩まで働くつもりはありませんわ」
「そ、それはもちろんだ!」
ジルクニフは即答した。
(何でもいい! まずは引き受けてもらうことが先だ!)
「必要な会議や重要な案件については協力いたします。でも、それ以外の時間はクライムと過ごします。よろしいですね?」
「う、うむ! 構わん!」
「ありがとうございます、陛下」
ラナーは優雅に微笑んだ。
クライムは、ほっとしたように息を吐く。
「よかったですね、ラナー様」
「ええ。あなたのおかげよ、クライム」
ラナーは夫の頬にそっと顔を寄せた。
「……ふふっ」
その笑顔を見たジルクニフは、なぜか背筋に寒気を覚えた。
(……本当に大丈夫なのか?)
だが、今さら引き返すわけにはいかない。
帝国の未来を左右する大仕事だ。ラナーの力が必要なのは間違いない。
そう自分に言い聞かせ、ジルクニフは深々と頭を下げた。
「よろしく頼む、ラナー殿下」
「はい。お任せくださいませ」
その返答を聞き、ジルクニフはようやく安堵した。
――このときの彼は、まだ知らなかった。
この日を境に、バハルス帝国の政務がどれほど効率化されるのか。
財政は整理され、外交は洗練され、軍事と内政の無駄は次々と取り除かれていくことになる。
そして、その中心に立つラナーは、後世の歴史家からこう評されることになるのだった。
「帝国史上、最高にして最悪の政治家」
その隣には、いつも彼女を支える一人の男がいた。
政治の駆け引きには疎く、権力欲もなく、ただ困っている人を放っておけない青年。
ラナーが唯一、心から信頼し、何よりも大切にする夫――クライム。
彼は正式な役職こそ持たなかったものの、ラナーの判断を支え、ときに彼女の暴走を止め、ときに彼女が忘れかけた人の心を思い出させる存在となる。
やがて人々は、彼を畏敬と親しみを込めてこう呼ぶようになった。
「影の宰相、クライム」
こうして、帝国史に残る二人の政治家が誕生したのである。
なお、この日の面会で最も印象的だった出来事について、後日ジルクニフは側近にこう語ったという。
「……いや、あれは本当に驚いた。まさか皇帝である私が、お姫様だっこされた姫に政務を頼み込むことになるとはな」
そして、少し間を置いて付け加えた。
「……いや、待て。そもそも、なぜラナー殿下は抱きかかえられたまま会談に出てきたのだ?」
その疑問に、答えられる者は誰もいなかった。