武蔵転生記   作:masasoukoku

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エ・ランテル回です


第百二十五回 【エ・ランテルの豚】

都市エ・ランテル。

 

本来ならば、リ・エスティーゼ王国の直轄市である。

 

王国東部の要衝にして、交易と軍事の両面で重要な意味を持つこの都市は、長年にわたり王国の支配下に置かれてきた。

 

しかし、今は違う。

 

魔導国との取り決めによって、エ・ランテルは両国による共同統治という、前例のない体制に移行していた。

 

都市の行政を担うのは、従来どおり都市長パナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイア。そして、魔導国側の代表として派遣されたセバス・チャンが、王国側との調整にあたることになっている。

 

二つの国の思惑が交差する都市。

 

その舵取りを任されている男こそ、パナソレイであった。

【挿絵表示】

 

 

彼は、ランポッサ三世から都市長の任を受けて以来、エ・ランテルの発展に尽力してきた。

 

道路の整備、商業区画の拡張、物流の改善、そして都市を訪れる商人や冒険者たちへの対応。

 

華やかな武勲を立てたわけではない。歴史に残るような大戦で英雄になったわけでもない。

 

だが、都市というものは、英雄の剣だけでは発展しない。

 

毎日のように持ち込まれる陳情をさばき、利害の対立する商人たちを調整し、治安を維持し、税収を確保する。

 

地味で、面倒で、終わりのない仕事。

 

パナソレイは、それを長年続けてきた男だった。

 

もっとも――彼の外見は、そうした仕事ぶりから想像されるものとは少々異なっていた。

 

豊かな腹回り。

 

二重になった顎。

 

歩くたびに揺れる肉付きのよい身体。

 

上等な衣服に身を包んでいても、隠しきれない肥満体である。

 

「まるで豚だな」

 

事情を知らない者は、彼の姿を見ると、陰でそう囁いた。

 

「よくもまあ、あれで都市長が務まるものだ」

 

「美食と酒に溺れているのだろう」

 

「王国の役人というのは、ずいぶんと楽な商売らしい」

 

そんな陰口を耳にしても、パナソレイは気にしなかった。

 

いや、正確には、気にしていないように見せていた。

 

彼は知っている。

 

人間というものは、目に見える姿で相手を判断したがる生き物だ。

 

痩せていれば有能に見える。立派な髭を蓄えていれば威厳があるように見える。豪華な衣装を着ていれば、偉い人間だと思い込む。

 

ならば、太った身体を見て侮る者がいても不思議ではない。

 

むしろ、都合がよかった。

 

相手が自分を侮っている間に、その者の言葉を聞き、行動を観察し、何を考えているのかを探ることができるのだから。

 

パナソレイは、ただの豚ではなかった。

 

獰猛な猪。

 

普段は泥の中でのんびりと身体を休めているように見えても、ひとたび敵を見定めれば、太い牙を剥いて突進する。

 

それが彼の本性だった。

 

そして今、その猪の前には、これまで経験したことのない難題が横たわっていた

 

魔導国との共同統治である。

 

相手は、死を超越した不死者の王アインズ・ウール・ゴウン。

 

その配下には、常識では測れない力を持つ者たちが揃っている。さらに、魔導国側の代表としてやって来るのは、礼儀正しく、物腰も穏やかな執事セバス・チャンだという。

 

だが、パナソレイは油断していなかった。

 

穏やかな物腰と、政治的な思惑は別物だ。

 

相手が善人であろうと、悪人であろうと、共同統治という仕組みの中では利害が衝突する。王国側の権益を守ろうとすれば、魔導国側の要求とぶつかることもあるだろう。

 

そのたびに感情的になっていては、都市の行政など成り立たない。

 

(さて……どうしたものか)

 

パナソレイは執務室の椅子に腰を下ろし、机の上に積まれた書類を眺めた。

 

魔導国側との権限分担。

 

徴税制度の調整。

 

冒険者ギルドとの連携。

 

都市の治安維持。

 

そして、両国の商人が安心して取引できる環境の整備。

 

問題は山積みだった。

 

だが、彼は口元をわずかに吊り上げた。

 

「ふん……面白くなってきたではないか」

 

誰もいない執務室で、低く呟く。

 

王国の直轄市だったエ・ランテルは、今や二つの国が共同で治める都市となった。

 

それは危機であると同時に、これまでにない発展の機会でもある。

 

魔導国の技術、資源、そして圧倒的な軍事力。それらをうまく活用できれば、エ・ランテルは大陸でも有数の都市へと成長する可能性がある。

 

もちろん、相手の言いなりになるつもりはない。

 

都市の利益を守るためなら、頭も下げよう。笑顔も浮かべよう。時には相手を立てることも必要だ。

 

だが、譲れないものまで譲るつもりはなかった。

 

「さて、セバス殿はどのような人物かな」

 

パナソレイは新たな書類を手に取った。

 

太った都市長は、今日も静かに仕事を始める。

 

周囲の者たちは、彼を豚と呼ぶかもしれない。

 

しかし、エ・ランテルを守るために牙を剥くべき時が来れば、彼らも思い知ることになるだろう。

 

この都市長は、ただの豚ではない。

 

エ・ランテルという獲物を守り、敵を見定め、好機が来れば迷わず突進する――獰猛な猪なのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

エ・ランテル市庁舎。

 

王国と魔導国による共同統治が始まって以来、都市長パナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイアは、幾度となく新たな統治者との面会を重ねてきた。

 

商人、貴族、軍人、冒険者ギルドの関係者。

 

相手が誰であろうと、パナソレイは変わらない。

 

柔和な笑みを浮かべ、腹の前で両手を組み、相手に話をさせる。そして、相手が何を求め、何を隠し、どこまで譲歩するつもりなのかを見極める。

 

相手が自分を侮ってくれれば、なお都合がよかった。

 

太った身体。垂れた頬。ゆったりとした衣服

 

見た目だけで判断する者は、彼を豚と呼ぶ。

 

だが、豚と侮った者が、次の瞬間には牙を突き立てられていることもある。

 

そして今日、彼は魔導国側の代表と初めて顔を合わせることになった。

 

「魔導国側の代表、セバス・チャン様がお見えになりました」

 

「お通ししなさい」

 

扉が開く。

 

最初に目に入ったのは、白髪を整え、黒い執事服を寸分の乱れもなく着こなした老紳士だった

 

背筋は真っ直ぐ。歩調は一定。足音は驚くほど静か。

 

その一歩一歩に、無駄がない。

 

そして、その後ろには一人のメイドが控えていた。

 

セバスは部屋の中央まで進むと、丁寧に一礼した。

 

「お初にお目にかかります。魔導国より参りました、セバス・チャンと申します。このたびは、エ・ランテルの共同統治に関する職務を担うこととなりました。どうぞよろしくお願いいたします」

 

「これはご丁寧に。都市長のパナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイアです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 

パナソレイも笑顔で応じた。

 

二人の視線が交差する。

 

その瞬間、パナソレイの胸中で、ひとつの言葉が浮かんだ。

 

(……まるで山だな)

 

セバスの体格が特別に大きいわけではない。

 

むしろ、年齢を感じさせる外見である。威圧的な鎧を身につけているわけでもなく、武器を携えている様子もない。

 

それなのに、そこに立つだけで動かしがたい存在感があった。

 

山。

 

そう、山である。

 

そこにあることが当然であり、押しても引いても動かない。たとえ周囲の景色が変わろうとも、その存在そのものは揺らがない。

 

(この男は、一度決めたことを簡単には曲げぬ。いや、梃子でも動かぬと言うべきか)

 

パナソレイは、これまで数多くの人間を見てきた。

 

声を荒らげて威圧する者。肩書を振りかざす者。己の力を誇示して相手を従わせようとする者。

 

そうした人間は、扱いやすい。

 

怒らせれば判断を誤る。持ち上げれば気をよくする。利益をちらつかせれば、簡単に態度を変える。

 

だが、目の前の男には、それらが通用する気がしなかった。

 

穏やかな表情。礼儀正しい言葉遣い。

 

しかし、その奥には、何があっても揺るがない芯がある。

 

(人間の姿をしているが……あの異形種の国にあって、これほどの存在が、ただの人間であるはずもあるまい)

 

もちろん、セバスが人間であるかどうかなど、パナソレイには確かめようがない。

 

だが、確かなことがひとつあった。

 

この男を、外見や肩書だけで判断してはならない。

 

「こちらが、私の補佐を務めるツァレでございます」

 

セバスの紹介に、隣のメイドが一歩進み、丁寧に頭を下げた。

 

「ツァレと申します。よろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ。共同統治では何かとご苦労もあるでしょうが、どうぞよろしく」

 

パナソレイは彼女にも笑顔を向けた。

 

(ふむ……小娘だが)

 

年若い女性だ。

 

控えめな身のこなしで、目立つところもない。少なくとも、表面上はそう見えた。

 

だが、パナソレイの視線は、彼女の顔からセバスへと移り、再びツァレへ戻った。

 

ほんの一瞬。

 

セバスが彼女の立ち位置を確かめるように目を向ける。

 

ツァレもまた、その視線を受け止める。

 

言葉はない。

 

それでも、二人の間には、互いを気遣う者だけが持つ、柔らかな空気が流れていた。

 

職務上の信頼だけではない。

 

上司と部下という関係だけでもない。

 

そこには、明らかに恋人同士のそれがあった。

 

(なるほど……)

 

パナソレイの笑みは変わらない。

 

しかし、その内側では、ひとつの判断が下されていた。

 

(この男にも、守りたいものがあるというわけか)

 

セバス自身は、そう簡単に揺らがない。

 

金でも、名誉でも、脅しでも、容易には動かせまい。

 

ならば、その隣にいる女性はどうか。

 

(セバスの弱みは、この娘か……)

 

そこまで考えたところで、パナソレイは心の中で小さく首を振った。

 

弱みと決めつけるのは早い。

 

大切な者がいるからこそ、人は強くもなる。

 

ましてや、この男がどれほどの存在なのか、まだ十分にわかってはいない。

 

ただ、交渉の際に覚えておくべきことがひとつ増えた。

 

それだけで十分だった。

 

一方、セバスもまた、目の前の都市長を観察していた。

 

(……単なる豚ではありませんね)

 

柔和な笑顔。

 

人当たりのよい口調。

 

そして、ゆったりとした身体つき。

 

一見すれば、権力の座に長く居座っただけの、肥え太った役人に見える。

 

しかし、セバスの目は、その奥にあるものを見逃さなかった。

 

パナソレイの瞳。

 

笑みを浮かべているにもかかわらず、その眼差しには獰猛な光が宿っている

 

相手の動きを見逃さず、隙を探り、好機が訪れれば一気に食らいつく。

 

それは、ただの政治家の目ではなかった。

 

(獰猛な獣……それも、自分の縄張りを熟知した獣ですか)

 

エ・ランテル。

 

この都市は、パナソレイにとって単なる任地ではない。

 

長年にわたって育て上げ、守り、発展させてきた場所だ。

 

共同統治となったからといって、簡単に手放すつもりなどないだろう。

 

そして、セバスは理解していた。

 

自分がこの都市に来た以上、パナソレイは必ずこちらを試す。

 

どこまで譲るのか。何を要求するのか。魔導国の権威をどの程度まで認めるのか。

 

礼儀正しく微笑みながら、相手の腹の内を探ってくるに違いない。

 

(よろしいでしょう)

 

セバスは穏やかに微笑んだ。

 

(私もまた、この都市を任された者として、果たすべき務めがあります)

 

相手が獰猛な獣であるならば、それを承知したうえで対峙すればよい。

 

無用に牙を剥く必要はない。

 

しかし、こちらが退くべきでないと判断したときは、決して退かない。

 

それがセバスの覚悟だった。

 

その隣で、ツァレもまた、パナソレイを見つめていた。

 

(……似ている)

 

彼の顔を見た瞬間、胸の奥に、古い記憶がよみがえった。

 

かつて自分を弄び、傷つけた貴族たち。

 

人を見下し、立場の弱い者を好きなように扱い、自分の欲望を満たすことを当然と考えていた者たち。

 

パナソレイの豊かな身体つきや、柔和な笑顔は、どこか彼らを思い起こさせた。

 

一瞬、身体が強張る。

 

だが、ツァレはすぐに目を細めた。

 

違う。

 

この男の視線は、自分に向けられているようでいて、そうではなかった。

 

彼は自分の顔を見ている。

 

服装を見ている。

 

そして、セバスとの関係を見ている。

 

だが、そこに浮かぶ関心は、女性を品定めする男のそれとは違う。

 

(……この人の興味は、私ではない)

 

ツァレは静かに息を吐いた。

 

(この都市そのもの……エ・ランテルを、どう守り、どう動かすか。それを考えている)

 

かつての貴族たちは、人を自分の所有物のように扱った。

 

しかし、この都市長が見ているのは、個人の容姿や身分ではない。

 

都市を構成する人々、商人の利益、街の発展、そして共同統治によって生じる力関係。

 

彼にとって、人も物も、都市という大きな盤面の中にあるのだろう。

 

それが善意からなのか、野心からなのか。

 

ツァレには、まだわからなかった。

 

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 

この男は、見た目ほど単純ではない。

 

そして、こちらを侮ってもいない。

 

(気をつけなければ……)

 

ツァレは再び、セバスの隣に控えた。

 

彼女の表情に、先ほどの緊張はもうなかった。

 

セバスがここにいる。

 

それだけで、彼女は落ち着いていられた。

 

パナソレイは二人の様子を見て、目を細めた。

 

「さて、セバス殿。さっそくですが、今後のエ・ランテルについて、いくつかお話ししたいことがございます」

 

「ええ。私も、ぜひお聞かせいただきたいと思っておりました」

 

二人は再び笑顔を交わした。

 

片や、都市を守り抜いてきた獰猛な猪。

 

片や、揺るがぬ信念を持つ山のような執事。

 

その間にあるのは、まだ何も始まっていない、静かな会談の空気だった。

 

だが、互いに理解していた。

 

目の前の相手は、決して侮れない。

 

そして、この共同統治は、ただ書類に署名すれば済むような仕事ではない。

 

笑顔の下で、二人の腹の探り合いは、すでに始まっていた

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