この世界において、貨幣とは何か。
それは金属の塊である。
金貨には金が含まれ、銀貨には銀が含まれる。銅貨には銅が含まれる。
少なくとも、これまではそう考えていればよかった。
リ・エスティーゼ王国とバハルス帝国。
両国の金貨は、長らくほぼ同じ価値で取り引きされてきた。国力には差があっても、金貨そのものの品位や流通量、商人たちの信用が、その価値を支えていたからだ。
金貨一枚は金貨一枚。
商人たちはそう考え、両国をまたいで商品を運び、帳簿をつけ、利益を計算していた。
ところが――。
魔導国の誕生が、その常識を揺るがし始めた。
アンデッドの軍勢を擁し、圧倒的な武力と魔法技術を持つ国。しかも、その頂点に立つのは、魔導王、アインズ・ウール・ゴウン。
その魔導国が独自の金貨を発行し、商取引に用いるようになったのである。
当初、商人たちは様子見を決め込んだ。
何しろ、相手はアンデッドの王が治める国だ。今後も安定して貨幣を発行し続けられるのか。魔導国が滅びた場合、その金貨はただの金属片になってしまうのではないか。
誰もが疑った。
しかし、魔導国と王国の共同支配下に入ったエ・ランテルでは、治安が改善し、物流が整備され、商取引が活発化していった。
魔導国金貨を受け取っても、以前より安全に商売ができる。
魔導国と取引をするなら、魔導国金貨を持っていた方が便利だ。
そして、魔導国金貨でしか買えない商品まで現れ始めた。
需要が生まれれば、貨幣は流通する。
流通すれば、信用が生まれる。
こうして魔導国金貨は、徐々に国境を越えていった。
王国金貨と帝国金貨の価値が、すぐさま暴落したわけではない。
だが、これまで二つの国の貨幣が中心だった世界に、第三の選択肢が現れたのである。
それだけで、商人たちの判断は変わり始めた。
そして、もう一つ。
銀である。
帝国は魔導国との同盟を結ぶにあたり、毎年、銀4トンと絹180万mを歳幣として納めることになった。
4トン。
数字だけを見れば、国家の財政に関わる巨大な取り引きである。
だが、その影響は宮廷の財務官が頭を抱えるだけでは終わらなかった。
帝国が大量の銀を毎年必要とする。
ならば、その銀はどこから調達するのか。
鉱山から掘り出すにしても、採掘量をすぐに増やすことはできない。商人から買い集めるにしても、帝国が必要とする量が明らかになれば、売り手は簡単には値を下げなくなる。
銀の需要が高まれば、銀の価格は上がる。
もちろん、歳幣のすべてが一度に市場から消えるわけではない。帝国がどこから銀を調達するのか、どれほどの量が既に蓄えられているのかによって、影響は変わる。
それでも、市場は先を読む。
帝国が銀を必要とする。
その事実だけで、銀を手放すのをためらう者が出始めていた。
さらに、リ・エスティーゼ王国でも事情は変わりつつあった。
バルブロの乱をはじめとする国内の政治的混乱。王族と貴族の勢力再編。国境の再整備。そして、魔導国との協定によって新たに生じた行政上の負担。
国を立て直すには、兵士が必要だ。
兵士を雇うには金が必要だ。
武具を製造し、修理し、軍備を整えるには、金貨だけでは済まない。銀や銅も必要になる。
王国でも銀を求める動きが強まっていた。
帝国が買う。
王国も買う。
だが、銀の供給が急に倍になるわけではない。
その結果、銀の価格には上昇圧力がかかり始めていた。
一方で、魔導国金貨は流通を広げ、従来の金貨との交換比率にも変化の兆しが見え始めていた。
これまで、貨幣の価値は安定していた。
少なくとも、商人たちが普段使う範囲では。
しかし今、その安定が崩れようとしている。
金貨と銀貨。
王国と帝国と魔導国。
国家の事情、商人の思惑、物資の需給。
それらが複雑に絡み合い、貨幣の価値を少しずつ動かしていく。
そして――。
この変化を見逃すわけがない者がいた。
カルネ村。
魔導国と王国の国境に位置し、エンリ・エモットが村長を務める小さな村。
畑が広がり、家畜が飼われ、村人たちが日々の暮らしを営む場所。
一見すれば、国際的な貨幣相場などとは無縁の土地である。
だが、村には一人、いた。
畑の収穫量だけでなく、商人の荷車の数を気にする女。
穀物の値段だけでなく、金貨と銀貨の交換比率を気にする女。
そして、村の特産品を売って得たわずかな利益から、次の商機を探そうとする女。
エンリ・エモット。
彼女はまだ知らない。
この世界に、為替相場を専門に扱う巨大な市場も、精巧な取引端末も、刻一刻と変わる価格を表示する板も存在しないことを。
だが、そんなものがなくても、商人の口から聞いた交換比率を記録し、各地の相場を比較し、値動きを予測することはできる。
必要なのは、情報と、計算と、度胸。
そして何より――。
欲望である。
「……なるほどね」
カルネ村の自宅。
エンリは机の上に並べた数枚の帳簿を見つめていた。
片方には、村の収支が記されている。
もう片方には、交易に出た商人から聞き取った、各地の貨幣交換比率が記されていた。
魔導国金貨。
帝国金貨。
王国金貨。
そして銀貨。
彼女は一本の指で、帳簿の数字をなぞった。
「銀が高くなる、か……」
帝国が大量の銀を必要としている。
王国も銀を必要としている。
ならば、今のうちに銀を買っておけば、後で高く売れるかもしれない。
もちろん、逆もある
帝国が備蓄銀を放出すれば、価格は下がるかもしれない。鉱山の増産が進めば、供給が増えるかもしれない。魔導国が貨幣制度そのものを変更すれば、これまでの予測がひっくり返る可能性もある。
相場に絶対はない。
それは、エンリにも分かっていた。
彼女は大きく息を吸い、帳簿の端に小さく書き込んだ。
――銀価格、上昇の可能性。
――魔導国金貨、流通拡大。
――交換比率、継続調査
そして、その下にもう一つ。
――初期投資額、要検討。
「……よし」
エンリは顔を上げた。
村長としての仕事は山ほどある。
畑の管理、住民の生活、国境の防衛、村の特産品の開発。さらに、アインズや武蔵、ガゼフたちと相談しながら村の将来を決めていかなければならない。
それでも。
村のために使える金が増えるのなら、試してみる価値はある。
いや。
村のためだけではない。
うまくいけば、もっと大きな利益を得られるかもしれないのだ。
エンリは帳簿を閉じた。
その表情には、村長としての真剣さと、まだ誰にも知られていない野心が同居していた。
「……やるしかないわね」
こうして、カルネ村の村長は決意した。
魔導国金貨と銀の相場変動を利用した、資産運用を。
ただし、彼女には一つだけ問題があった。
この世界には、信用取引も、先物取引も、証拠金取引も、損切り注文もない。
取引に失敗すれば、失った金は戻ってこない。
そして何より――。
エンリは、まだFXという言葉すら知らなかった。
それでも彼女は、帳簿の余白に大きく書き込んだ。
『銀を買う』
その瞬間。
一人の村長の、長く険しい投資人生が始まったのである。