「どうした!」
鋭い女性の声が長城の上に響いた。
兵士たちが一斉に道を開ける。
白銀の甲冑をまとい、長剣を腰に下げた女性騎士が馬から降り立った。
「おお!」
「レメディオス聖騎士団長様!」
レメディオス・カストディオ。
聖王国最強と名高い聖騎士団長である。
彼女は周囲を見回し、眉をひそめた。
「うむ。」
「たまたまこの近くに用件があって寄ったら、壁が破られたと大騒ぎになっていてな。」
「それで来てみた。」
隊長が武蔵を指差す。
「この男が……。」
「壁を破ったようです。」
レメディオスは武蔵を上から下まで眺める。
ぼさぼさの髪。
旅装束。
腰の刀。
どう見ても貴族には見えない。
「……なんだと?」
目が鋭くなる。
「どこかに亜人どもが潜んでいるに違いない!」
「周囲を探せ!」
「はっ!」
兵士たちが散っていく。
隊長が付け加えた。
「本人はリ・エスティーゼ王国の男爵と名乗っています。」
「男爵だぁ?」
レメディオスは鼻で笑った。
「こんな汚い身なりの男爵がいるものか!」
「おおかた亜人どもの間者だろう!」
「捕縛しろ!」
兵士たちが一斉に槍を構える。
ターニャは小さくため息をついた。
(最悪だ。)
(典型的な先入観で動くタイプか。)
武蔵は肩を竦めるだけだった。
「困った。」
「話をしようと思っただけなんじゃが。」
レメディオスは剣を抜く。
「黙れ!」
「抵抗するなら斬る!」
武蔵は苦笑する。
「最近の若い者は気が短い。」
その言葉にレメディオスの額へ青筋が浮かぶ。
「誰が若い者だ!」
「貴様!」
「聖騎士団長たる私を愚弄するか!」
武蔵は本当に不思議そうな顔をした。
「いや。」
「見たところ三十にも届いておらぬじゃろ。」
「わしから見れば十分若い。」
その一言で、周囲の兵士たちは思わず顔を見合わせた。
(団長にそんなことを言った奴は初めてだ……。)
ターニャは小声で呟く。
「武蔵さん。」
「今は挑発しない方がいいと思います。」
「挑発?」
武蔵は首を傾げる。
「本当のことを言っただけなんじゃが。」
レメディオスは剣先を武蔵へ向けた。
「ならば力づくで口を割らせる!」
その場の空気が一気に張り詰めた。
------------------------------------------------------------------------------------
「つまり――。」
武蔵は口元を緩めた。
「わしと立ち会いたいということか。」
「それならそう言えばよいものを。」
その笑みに、レメディオスの額へさらに青筋が浮かぶ。
ターニャは二人を交互に見て、小さく頭を抱えた。
(最悪の組み合わせだ。)
(こっちは口より手が出るタイプ。)
(あっちは戦いとなると嬉々として乗るタイプ。)
(誰か止めてください……。)
レメディオスは剣を正眼に構える。
「どうした!」
「早く剣を抜け!」
武蔵は腰の刀へ軽く触れた。
だが、そのまま手を離す。
「……。」
「わしの刀が嫌だと言っておる。」
「抜くに値せん、と。」
その一言で兵士たちは息を呑んだ。
レメディオスの瞳に怒りが宿る。
「なんだと!」
「私が弱いというのか!」
武蔵は悪びれる様子もなく頷いた。
「まあ。」
「そういうことじゃな。」
その瞬間。
レメディオスの堪忍袋の緒が切れた。
「おのれぇぇぇ!」
「私を侮辱しおって!」
地面を蹴る。
一気に間合いを詰め、聖剣が一直線に武蔵へ振り下ろされる。
「はぁぁっ!」
鋭い一撃。
だが――
武蔵は半歩だけ身体をずらした。
風を切る剣先が鼻先を通り過ぎる。
「ほう。」
「速さはある。」
レメディオスは返す刃で横薙ぎに払う。
武蔵は今度は身を沈めるだけで避けた。
さらに突き。
袈裟斬り。
逆袈裟。
連続攻撃が続く。
しかし武蔵は刀を抜かない。
最小限の動きだけで、すべてを見切ってかわしていく。
兵士たちは目を疑った。
「団長の剣が……。」
「当たらない……。」
「一度も……。」
ターニャは腕を組みながら分析する。
(すごい。)
(避けているんじゃない。)
(攻撃が来る場所へ、最初から立っていない。)
(予測している……。)
(これが宮本武蔵。)
十数合打ち込んだレメディオスは、一旦距離を取る。
息は乱れていない。
だが焦りが表情に現れていた。
武蔵は相変わらず自然体のまま立っている。
「もう終わりか。」
「……。」
「今度は、わしから一つ聞こう。」
武蔵は静かに問いかけた。
「お主。」
「何を守るために剣を振っておる?」
怒りに任せて剣を振るっていたレメディオスは、その問いに一瞬だけ言葉を失った
------------------------------------------------------------------------------------
武蔵は静かにレメディオスを見つめた。
刀は抜かない。
ただ、まっすぐ相手の目を見る。
「お主は国の騎士団長と聞く。」
「その剣は、誰のためにある。」
レメディオスは息を整えながら睨み返す。
武蔵は続けた。
「怒りに任せて振るう剣。」
「それがお主の騎士道か。」
その言葉は、剣よりも鋭く胸に刺さった。
「ち……違う!」
思わず叫ぶ。
「私は……。」
「では。」
武蔵は一歩だけ近づいた。
「自分の姿を顧みるがいい。」
レメディオスははっとした。
荒い呼吸。
怒りで強張った顔。
無意識に力の入り過ぎた手。
そして、周囲には不安そうに見つめる部下たち。
(私は……。)
(何をしている。)
壁を破った男を見た瞬間、事情も聞かず敵と決めつけた。
救助された人々の存在も十分に確かめなかった。
「違う……。」
「私は……。」
「姫様のために……。」
聖王女カルカの笑顔が脳裏に浮かぶ。
『レメディオス。剣は民を守るためにあるのですよ。』
その言葉を思い出した瞬間、胸が締め付けられた。
怒りのまま剣を振るった自分は、その教えとは正反対ではないか。
手から力が抜ける。
カラン――。
長剣が石畳へ落ちた。
兵士たちが驚いて声を上げる。
「団長!」
レメディオスは俯いたまま呟く。
「私は……。」
「取り乱していた。」
「事情も聞かず、あなた方を敵と決めつけた。」
武蔵は小さく頷く。
「人は誰しも怒る。」
「それ自体は悪いことではない。」
「だが。」
「怒りがお主を振り回してはならん。」
「剣は己の心で振るうものじゃ。」
「心が剣に振られては、真の剣士でも騎士でもない。」
しばらく沈黙が流れる。
やがてレメディオスは深く頭を下げた。
「……すまなかった。」
「まずは事情を聞かせてほしい。」
武蔵はようやく笑みを浮かべる。
「うむ。」
「その一言が聞きたかった。」
その様子を見ていたターニャは、心の中で静かに感心していた。
(力で勝ったんじゃない。)
(相手の剣じゃなく、心を止めた。)
(……これが宮本武蔵か。)
張り詰めていた長城の空気は、ようやく少しだけ和らいだ