夜。カルネ村、エンリの寝室。
窓の外では虫の声が響いていた。昼間の会議の喧騒もすっかり遠のき、家の中は静まり返っている。
エンリはンフィーレアの胸に頬を寄せ、彼の腕の中で幸せそうに息をついた。
隣の部屋ではレムが眠っている。起こしてしまわないよう、二人は声をひそめていた。
「ねえ、ンフィー……」
「ん? どうしたの、エンリ」
「昼間の会議。トブの森のこと、どうしてあんなに熱心だったの?」
エンリは彼の胸元に顔をうずめたまま尋ねた。
ンフィーレアは少し考えてから、彼女の髪を優しく撫でた。
「もちろん、村を発展させたいからだよ。まだ見つかっていない薬草があるかもしれないし、新しい薬剤を開発できる可能性だってある。そうなれば、村の人たちの役にも立てるだろう?」
「うん……それはわかるわ」
「それに……」
そこで、ンフィーレアの声が少し小さくなった。
「それに?」
エンリが顔を上げる。
ンフィーレアは照れくさそうに視線をそらした。
「君にふさわしい男になりたいんだ」
「え……?」
「君は村長だ。それだけじゃない。今では男爵の地位まで得ている。村のみんなから頼りにされているし、これからだって、きっと大変な仕事がたくさんあると思う」
彼は、エンリの手をそっと握った。
「僕は一介の薬師だ。薬を作ることなら自信はあるけれど、君の隣に立つ人間として、それだけでいいのかなって……時々、考えるんだ」
「ンフィー……」
「僕は君と結婚したい。君と一緒に暮らして、君を支えていきたい。だから、薬師としてもっと腕を磨いて、村のためにも、君のためにも、できることを増やしたいんだ」
その言葉を聞いたエンリは、しばらく何も言えなかった。
自分が村長として認められるまで、どれほど苦労したことだろう。襲撃に怯え、村を守るために必死になり、時には自分の力不足を思い知らされることもあった。
それでも、いつもそばにいてくれる人がいた。
そして今、その人は自分と同じように、未来のことを考えてくれている。
「……ばかね、ンフィー」
「えっ?」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
エンリは彼の胸に再び顔を寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「私は、薬師のンフィーが好きなんだから。偉い人になってほしいとか、私より立派になってほしいとか、そんなこと思ってないわ」
「エンリ……」
「でも……私のことを、そんなに大切に思ってくれていたなんて……嬉しい」
彼女の声は、最後にはほとんど囁きになっていた。
ンフィーレアは、愛おしそうに彼女を抱きしめ返す。
「大切に決まっているよ」
その言葉に、エンリは顔を上げた。二人は見つめ合い、そっと唇を重ねる。
しばらくして、エンリは彼の胸元に頬を寄せたまま、いたずらっぽく微笑んだ。
「ねえ、ンフィー……」
「なに?」
「……もう一回、こうしてぎゅっとして?」
ンフィーレアは一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くしながら笑った。
「うん。もちろん」
彼は彼女を優しく抱き寄せた。
隣室のレムを起こさないよう、二人は小さな声で言葉を交わしながら、夜の静けさの中で寄り添い続けた
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魔導国・玉座の間
「カルネ村からの報告でございます」
アルベドが差し出した報告を、アインズは玉座に座ったまま聞く。
「ユリ・アルファからか。読み上げてくれ」
「はい。カルネ村の共同会議において、トブの森の開発計画が議題に上がったとのことです。提案者はンフィーレア・バレアレ。森の奥地に未発見の薬草や有用な資源が存在する可能性があり、段階的な調査を実施したいと考えているようです」
「ほう……トブの森か」
アインズは骸骨の指で肘掛けを軽く叩いた。
(そういえば、しばらく放置していたなぁ)
帝国との外交、王国との条約、カルネ村とエ・ランテルの共同統治。さらにはバルブロの反乱騒ぎまで起きた。
ここしばらくは、次から次へと問題が舞い込んできたのだ。
トブの森については、森の賢王ハムスケを配下に加えたことで、一応の決着がついたような気になっていた。
だが、よく考えてみれば――森そのものをどうするかについては、ほとんど何も決めていない。
(いや、待て。そもそも私は、あの森の全容をどれほど把握している?)
答えは明白だった。
ほとんど知らない。
(まずいな。支配下に置いた地域について、最低限の情報くらいは把握しておくべきだった。……いや、私はアンデッドの王。知らないことがあっても、それを表に出さなければいいのだ!)
内心の動揺を押し隠し、アインズは重々しく頷いた。
「なるほど。森の開発か。資源の確保という観点からも、検討する価値はある」
「おっしゃるとおりでございます」
アルベドが恭しく頭を下げた。
「ただし、森の奥地には未確認の魔物も多く存在すると思われます。無計画な開発は、カルネ村の安全を損なう恐れがございます」
「うむ。その点も含め、まずは現状を把握せねばならんな」
アインズは玉座から立ち上がった。
「コキュートスとハムスケを呼べ」
「かしこまりました」
アルベドは一礼し、配下に指示を出した。
しばらくして、玉座の間に二つの影が現れた。
ひとりは、鎧をまとった巨大な昆虫型の戦士――守護者コキュートス。
もうひとりは、丸々とした体躯に立派な前歯を持つ巨大なハムスター、ハムスケである。
「アインズ様。オヨビト伺イ、参上イタシマシタ」
コキュートスが片膝をつく。
「お呼びでしょうか、アインズ様!」
ハムスケも慌てて頭を下げた。かつて森の賢王と呼ばれた威厳ある姿は、今ではナザリックの主に仕える忠実な家臣のそれである。
「うむ。今日はトブの森について聞きたいことがある」
「トブノ森、デゴザイマスカ」
コキュートスが頭部を傾けた。
「そうだ。カルネ村から、森の開発を検討したいという報告があった。薬草や木材、その他の資源を探すため、奥地の調査を行いたいそうだ」
「ナルホド」
コキュートスは静かに頷いた。
「そこで、まずは森の現状を知りたい。ハムスケ、お前はあの森を長く支配していたな。森の中には、どのような勢力が存在する?」
「はっ!」
ハムスケは一歩前に出た。
「森の入り口付近と、わたくしがかつて縄張りとしていた一帯については、ある程度把握しております。しかし、森のすべてを完全に掌握していたわけではございませぬ」
「……ほう?」
アインズの意識が、わずかに引き締まる。
「つまり、お前の縄張りの外にも勢力が存在するということか?」
「その可能性は十分にございます。森は広大であり、奥地にはわたくしも立ち入らなかった場所がございますゆえ」
(おいおい……森の賢王なのに、森の全部を把握していたわけじゃないのか)
アインズは心の中で突っ込んだ。
(いや、考えてみれば当然か。現実世界でも、自分の縄張りの外まで把握している動物などいない。そもそもハムスケは動物なのか? 魔獣か? ……今はそこじゃない)
「では、具体的にどのような魔物がいた?」
「森の周縁にはゴブリンやオーガ、その他の獣型の魔物が生息しております。奥地には、より強力な魔物が存在している可能性もございますが、詳細は不明でございます」
「ふむ……」
アインズは腕を組んだ。
「コキュートス。お前はリザードマンたちの支配と統治を任されているが、彼らの住む地域でも、周辺の勢力を把握することは重要だったな?」
「ハッ。支配地域ノ安定ニハ、周辺勢力ノ把握ガ不可欠デゴザイマス。未知ノ勢力ヲ放置スレバ、後ニ予期セヌ問題ガ生ジル可能性ガアリマス」
「そうだ。ならばトブの森についても、開発を始める前に調査する必要がある」
アインズはハムスケに視線を向けた。
「ハムスケ。お前には、まず森の地理と生息する魔物について、わかる範囲で調査の上報告をまとめてもらいたい。以前の縄張りだけでなく、その周辺についてもだ」
「承知いたしました!」
「ただし、無理をする必要はない。未知の強敵がいた場合は、無用な戦闘を避けて報告せよ」
「はっ。アインズ様のご命令、必ずや守りまする!」
ハムスケは深々と頭を下げた。
アインズは続いてコキュートスを見る。
「コキュートス。調査計画について、お前の意見も聞きたい。森の開発が始まった場合、周辺の魔物がカルネ村へ流れ込む可能性がある。その対策も考えておく必要があるだろう」
「御意。調査隊ノ護衛、危険区域ノ指定、魔物ノ生息域ノ把握。順序ヲ定メ、慎重ニ進メルベキデショウ」
「うむ。いきなり森を切り開くような真似はさせるな。まずは調査。それから、利用できる場所を選定する」
アインズは満足げに頷いた。
(よし。これで、とりあえず方針は決まった。あとは二人に調査を進めてもらえばいい。私はその報告を受けて判断する……うん、王らしい仕事だ)
もちろん、その内心は誰にも明かさない。
「ハムスケ」
「はっ!」
「お前は、かつて森の賢王と呼ばれていた。その知識と経験を、今こそ役立てるときだ。期待しているぞ」
「おお……! このハムスケ、アインズ様のご期待に応えるべく、粉骨砕身いたしまする!」
ハムスケの目が輝いた。
かつては森の賢王として君臨していた彼が、今度は森の未来を調べる役目を与えられたのだ。本人にとっても、誇るべき任務だった。
コキュートスも静かに頭を下げる。
「アインズ様。調査ノ結果ガ揃イ次第、開発可能ナ区域ト危険区域ヲ整理シ、計画案ヲ提出イタシマス」
「頼んだぞ」
二人が退室したあと、アインズは玉座に深く腰を下ろした。
(トブの森の開発か……。うまくいけば、カルネ村の発展にもナザリックの利益にもつながる。薬草が豊富なら、ンフィーレアの研究にも役立つだろう)
だが、ふと別のことが頭をよぎった。
(……そういえば、武蔵さんは今どこにいる?)
そのころ、南西へ向かう街道では――。
宮本武蔵が、何か面白いものでも見つけたように、遠くの森を眺めていた。
彼がトブの森の開発計画を知るのは、まだ少し先のことである