王都の裏通り。
冷たい雨が降っていた。
石畳を叩く雨音だけが響く。
その中を、ひとり歩く男。
ブレイン・アングラウス。
目は虚ろ。
だが内側では燃えていた。
「捨てろ」
あの言葉。
宮本武蔵に言われた一言。
「もう少し捨てれば――林崎甚助に届く」
「それを考えるのが修行よ」
それ以来。
ブレインの頭はその言葉だけだった。
何を捨てる。
技か。
誇りか。
執着か。
恐れか。
欲か。
「なにを」
雨の中。歩く。
「なにを」
眠れぬ夜。
剣を振る。
「なにを」
食事も喉を通らない。
王都に戻ってからずっとだ。
かつてのブレインなら、
強くなる方法は斬ることだと思っていた。
だが武蔵は違った。
「なにを……」
ふらふらと歩く。
雨が全身を濡らす。
だが気づかない。
その姿を見ていた男がいた。
大きな体。
堂々たる姿。
王国最強の戦士。
ガゼフ・ストロノーフ。
ブレインの異常にすぐ気づいた。
「おい」
ブレインは反応しない。
「ブレイン!」
肩を掴まれる。
そこでようやく現実に戻る。
「……ガゼフ」
ガゼフは顔をしかめる。
「どうした」
「死人みたいな顔をしているぞ」
ブレインはしばらく黙る。
そしてぽつり。
「俺は……負けた」
ガゼフの眉が動く。
「誰にだ」
ブレインの目に、あの日の光景が浮かぶ。
木剣。
一撃。
見えなかった。
理解すらできなかった。
「……化け物だ」
「宮本武蔵という男だ」
その名に。
ガゼフの目が大きく開く。
「武蔵……!?」
ブレインが見る。
「知ってるのか」
ガゼフは苦笑する。
「ああ」
「一度剣を交えかけた」
「それだけでわかった」
「危険だ」
ブレインの目が鋭くなる。
「奴は俺に言った」
「捨てろ、と」
「何を捨てればいい」
ガゼフは少し考える。
そして答える。
「それはお前にしかわからん」
ブレインは苛立つ。
「またそれか!」
ガゼフは笑った。
「だが一つだけ言える」
「悩んでいるうちはまだ捨ててない」
その言葉が刺さる。
ブレインは固まる。
雨の中。
剣士二人が立つ。
そして王都のどこかで。
その“元凶”である武蔵が、
屋台で肉串を食いながら、
「うむ、まずい」
と顔をしかめていた。
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ガゼフ・ストロノーフの家。
質素だが整った室内。
暖炉の火が静かに揺れていた。
雨に濡れたブレイン・アングラウスは椅子に座り、ぽつぽつと語っていた。
「あいつは俺に言った」
「捨てれば……林崎甚助になれる、と」
ガゼフは黙って聞いている。
「何を捨てればいいんだ」
声には苛立ちと迷い。
ブレインは右手を出した。
まだ腫れている。
骨こそ折れていないが、筋も腱も深く傷んでいた。
「訓練所で立ち合った」
「何度もだ」
「一太刀も入れられなかった」
「いや……手も足も出なかった」
拳を握る。
痛みでわずかに震える。
「居合を放った」
「あれは俺の最速だった」
「だが奴は……」
言葉が詰まる。
思い出すだけで背筋が冷える。
「見えていた」
「いや、それ以上だ」
「俺が抜く前から、もう終わっていた」
ガゼフはその傷を見る。
そして確信する。
(本気ではない)
武蔵は殺すつもりなら、ブレインは今ここにいない。
「……あの男は尋常ではない」
ガゼフが低く言う。
「もう構うな」
ブレインが顔を上げる。
「逃げろと?」
「違う」
ガゼフは火を見る。
「あれは人の理の外にいる」
「勝ち負けで測る相手ではない」
だが心の中では別のことを思っていた。
(だが俺は……)
(あの男と立ち合わねばならぬ)
カルネ村で交わせなかった約束。
いずれ果たす。
それが自分の義理だ。
ブレインはうつむく。
「だが……」
「考えるのをやめられん」
「捨てるとは何だ」
ガゼフは少し笑った。
「それなら今日はやめろ」
「答えは疲れた頭では出ん」
立ち上がる。
酒を持ってくる。
ブレインに渡す。
「今日は休め」
「考えることは明日でもできる」
ブレインは杯を見る。
その表面に映る自分。
そこにあるのは焦り。
執着。
恐れ。
誇り。
――捨てる。
その言葉がまた浮かぶ。
だが今夜は。
少しだけ眠ることにした。
その頃。
王都の裏路地で、宮本武蔵は宿代を値切っていた。
「高い」
「半分にせい」
宿屋の主人は泣きそうだった。