北海道侵攻 1991 ― 赤い波濤   作:陽HARU

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第3話 遅滞と絶望の狭間

 

1991年8月12日、午前11時15分。

釧路平野西縁・弟子屈町付近。

 

高橋拓也二等陸曹は、焼け焦げた戦闘服のまま、肩に負傷した部下の伍長を背負って林道を西へ這っていた。

29歳の彼は、旭川の農家出身だった。高校を卒業して自衛隊に入ったのは「ただ安定した仕事が欲しかった」だけ。まさか本物の戦争になるとは、夢にも思っていなかった。

 

「班長……俺、もういい……置いてけ……」

 

伍長の息が荒い。腹部に被弾し、血が止まらない。高橋は歯を食いしばった。

 

「黙れ。家族の顔を思い出せ。お前には嫁とガキがいるんだろ。俺には……まだ何もない」

 

高橋の脳裏に、去年別れたばかりの恋人の顔がよぎった。

「自衛隊なんか辞めなよ。いつか本当に戦争になったらどうするの?」

あの言葉が、今になって胸を抉る。

 

前方に第5師団の後方支援部隊の姿が見えた。89式装甲戦闘車が掩護射撃をしながら負傷者を回収している。

しかしその上空を、ソ連軍のSu-25フロッグフット攻撃機が低空で旋回していた。

 

「散開! 伏せろ!」

 

高橋が叫んだ瞬間、23mm機関砲の弾雨が地面を削った。木々が爆ぜ、土が噴き上がる。

すぐ近くで89式が直撃を受け、乗員が炎をまとって転げ出た。

 

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**同時刻 東京 首相官邸 地下危機管理センター**

 

海部俊樹首相は、額に汗を浮かべながら受話器を握りしめていた。

隣にはまだ就任したばかりの石川防衛庁長官と、事務次官たちが青ざめた顔で並んでいる。

 

「アメリカ側はどうだ!」

 

外務事務次官が震える声で答えた。

 

「ブッシュ大統領とは直接通話しました。『湾岸戦争の後遺症で即時派兵は困難だが、太平洋第七艦隊を緊急展開する』とのことです。ただし……空母『インディペンデンス』は現在インド洋、到着まで最短でも8日かかると」

 

「8日など待てん! 北海道が落ちる!」

 

首相は机を叩いた。

実際、米軍の動きはすでに始まっていた。

在日米軍三沢基地と横田基地では、F-16C/Dの緊急出撃準備が進行中だったが、日本政府の「専守防衛」憲法解釈の壁と、日米安保条約の「事前協議」条項が足枷となっていた。

米軍太平洋軍司令部はすでに「限定支援作戦」を立案していたが、政治的承認が遅れていた。

 

防衛庁長官が報告を続けた。

 

「北部方面総監部より最新情報。道東の第2師団は戦力の約45%を失いました。釧路・根室はほぼ制圧され、ソ連軍は現在、標茶・弟子屈方面に戦車200両以上を展開中です。

自衛隊は遅滞戦闘に移行、帯広・富良野で第二・第三防衛線を構築中……」

 

首相は深く息を吐いた。

 

「国民に避難指示を出せ。札幌以南への緊急疎開を……。そして、ソ連に対して……いや、今のソ連に誰が話が通じる?」

 

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**午後0時40分 富良野盆地東部 自衛隊第三線**

 

高橋はようやく後方部隊に合流し、野戦病院のテントに部下を預けた。

彼自身も腕に包帯を巻かれながら、与えられた89式対戦車ミサイルの射手として再配置された。

 

丘の上から双眼鏡を覗く。

地平線一面に、ソ連軍の戦車とBMP-2歩兵戦闘車の波が迫っていた。

T-80の125mm砲が火を噴き、こちらの陣地を削っていく。

 

「ミサイル! 発射準備!」

 

高橋は89式の誘導装置に目を当てた。

敵先頭のT-80をロックオン。

発射。

 

「ミサイル発射!」

 

白煙を引いて飛ぶ89式。

敵車は反応装甲を爆発させて防いだが、続く2発目が側面に命中し、炎上した。

周囲から歓声が上がるが、それはすぐに絶叫に変わった。

 

ソ連軍の自走砲2S19「ムスタ-S」が、後方から152mm榴弾の弾幕を降らせ始めた。

大地が連続して爆発し、土砂と人体が舞い上がる。

高橋の隣にいた若い一等陸士が、爆風で吹き飛ばされ、動かなくなった。

 

「くそっ……!」

 

高橋はもう一度ミサイルを構えた。

その指は震えていた。恐怖ではなく、怒りと無力感で。

 

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**同時刻 根室市街地残存部**

 

佐々木美咲(19)は、父親の遺体を湿原の奥に埋め、独りで山道を北上していた。

漁師の娘として育ち、銃など撃ったこともなかったが、父親の猟銃(散弾銃)を握りしめていた。

 

道端に倒れていた自衛隊員の死体から、89式小銃と手榴弾を奪った。

手が血でべっとり濡れる。

 

「父さん……ごめん……私、逃げて生きるよ」

 

彼女の瞳には、すでに諦めではなく、静かな決意が宿っていた。

遠くでヘリのローター音が近づいてくる。

Mi-24か、それとも自衛隊のUH-1か。判断がつかない。

 

突然、背後からロシア語が聞こえた。

 

「Стой!(止まれ!)」

 

美咲は振り返り、散弾銃を構えた。

目の前にいたのは、若いソ連海軍陸戦隊の兵士(おそらく19〜20歳)だった。

互いに銃を向け合い、数秒の沈黙。

 

兵士の目にも、恐怖と迷いがあった。

美咲は引き金を引いた。

至近距離の散弾が兵士の胸を抉り、彼は倒れた。

 

美咲は吐き気を堪えながら、その場から全力で走り出した。

これが、彼女の戦争の始まりだった。

 

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**午後2時55分 太平洋上空**

 

米空軍のE-3 Sentry早期警戒機が、すでに日本海付近に到達していた。

データリンクで自衛隊と情報を共有し始めている。

しかし本格的な戦闘機派遣はまだ。

米政府は国連安保理での非難決議と、ソ連(ロシア連邦移行派)への外交圧力を優先していた。

 

第七艦隊の空母戦闘群は、ようやくフィリピン東方海域を北上中だった。

 

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