1991年8月12日、午前3時(モスクワ時間)。
クレムリン宮殿、地下緊急作戦室。
煙草の煙が天井に層を成していた。
空気は緊張と汗と、失敗を恐れる男たちの息で重い。
国防相ドミトリー・ヤゾフ元帥(68)は、地図台に両手をつき、血走った目で極東の状況を睨んでいた。
隣には国家非常事態委員会(G・K・Ch・P)の中心人物である副大統領ゲンナジー・ヤナーエフ、内務相ボリス・プーゴ、KGB議長ウラジーミル・クリュチコフが並ぶ。
「極東軍管区司令官から暗号電報が届いた」
ヤゾフが低い声で言った。「『北海道上陸作戦は予定より8時間早く開始。根室・釧路を制圧。戦車200両が西進中』だと」
ヤナーエフは震える手でウィスキーのグラスを傾けた。
「ゴルバチョフはまだクリミアに軟禁したままか? この作戦は……我々が承認した『限定武力行使』を超えているのではないか?」
クリュチコフKGB議長が冷たく笑った。
「限定など幻想だ。極東の将軍連中は本気で『失われた領土の回復』と信じている。
我々がクーデターを決行するなら、まずは『勝利』が必要だ。アメリカが湾岸で疲弊している今こそ、唯一の機会だ」
ヤゾフは地図上の北海道を指で叩いた。
「問題は時間だ。北部艦隊と極東軍管区の航空戦力は、48時間以内に制空権を確保できると確信している。
しかし陸上では……自衛隊の抵抗が予想より激しい。T-80でも正面から74式を一撃で葬れない場合がある」
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**同時刻 ハバロフスク 極東軍管区司令部**
極東軍管区司令官ヴィクトル・ノヴィコフ大将(57)は、作戦室で苛立っていた。
彼は強硬派の中の強硬派。北方領土を「歴史的にロシアのもの」と信じ、ゴルバチョフの弱腰外交を心底嫌っていた。
「第35軍、第51軍の前進速度が遅い! もっと圧力をかけろ!」
参謀長が報告した。
「同志大将、釧路方面で自衛隊の対戦車ミサイルが効果を発揮しています。89式というやつです。T-80が6両、側面から撃破されました。
また、F-4EJが我がSu-27を3機撃墜……」
「許さん」
ノヴィコフは拳を机に叩きつけた。「Su-27の全編隊を出せ。MiG-29も投入。地上部隊には『容赦なく前進せよ』と伝えろ。民間人がいようが関係ない。
我々は1945年の逆を行くのだ。今回は我々が勝者になる」
彼の目には野心と狂気と、わずかな恐怖が混在していた。
もしこの作戦が失敗すれば、自分は間違いなく粛清される。成功すれば、クーデター後の新体制で国防相かそれ以上の地位が約束される。
通信将校が息を切らして入ってきた。
「同志大将! 第127自動車化狙撃師団から報告。風蓮湖周辺で民間人による散発的な抵抗を確認。一名の海軍歩兵が猟銃で殺害されました」
ノヴィコフは鼻で笑った。
「そんなもの、踏み潰せ。ハバロフスクから追加の空挺部隊を投入する。
目標は48時間以内に帯広占領、72時間以内に札幌到達だ。
アメリカが本格介入する前に、既成事実を作り上げる」
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**モスクワに戻って 午前5時20分**
ヤゾフ元帥は、極東からの戦果報告を聞きながら、ようやくわずかな安堵を覚えていた。
「根室半島完全制圧、択捉・国後・色丹の全島占領を確認。
自衛隊の第2師団は壊滅的打撃を受け、西部へ後退中」
しかしKGB議長クリュチコフは表情を硬くした。
「問題が一つ。アメリカの太平洋第七艦隊が動き始めた。
横田と三沢の米軍基地も異常活動中だ。
我々は『自衛のための限定行動』という建前を徹底し、核は絶対に使うなと極東に厳命せよ。
政治局の残りの連中を抑え込むのも今のうちだ」
ヤナーエフが弱々しく言った。
「世界にどう説明する?」
「説明などいらん」ヤゾフが答えた。「勝てば歴史が我々を正当化する。
負ければ……我々は皆、裏切り者として処刑されるだけだ」
作戦室に重い沈黙が落ちた。
誰もが知っていた。これは賭けだった。
ソ連という巨体の最後の痙攣か、それとも新たな帝国への第一歩か。
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**同時刻 北海道・標茶町上空**
ソ連極東軍管区所属のSu-27が、低空を飛ぶ自衛隊のUH-1ヘリをミサイルで撃墜した。
炎を引いて落ちていくヘリの中で、負傷した高橋拓也が見上げていた。
遠い空に、赤い星の描かれた戦闘機のシルエットが一瞬、光った。
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(続く)