理想のオリ主生活 作:松尾シオン
ランドリオン大陸西方の大国、カープァ王国の早朝は、やはり亜熱帯気候らしく湿気た空気を纏っているが、太陽が昇りきっていないため、昼夕に比べると格段に涼しい。
日が低い早朝は、この国で人が快適に体を動かせる唯一の時間帯だ。
カープァ王国女王、アウラ・カープァは、夫である善治郎と登城前の早朝に汗を流すのが、近頃お気に入りの日課だった。
二人しかいない王族であり、アウラは女王でもある。
さらに善治郎は近頃アウラの負担軽減のために政務に顔を出すようにもなったため、スケジュールが合う日も少ない。
朝のこの時間は一見ただの鍛錬のようにも見えるが、女王夫妻にとっては数少ない、気を張らなくとも良いプライベートの時間なのだ。
カンカンと、互いの手に持った短槍ほどの長さの木の棒をぶつけ合わせる音が、後宮の中庭に響く。
「フッ!」
裂帛の気迫と共に、アウラが巧みに棒を突き出し、善治郎の胴を狙う。
鋭い突きだった。
一撃一撃に重心を乗せ、踏み込みも確かで、並みの相手なら十分に仕留められるタイミング。
しかし、善治郎は事も無げにその攻撃をかわし、いなし、決してアウラのペースに持ち込ませない。
棒が空を切るたび、アウラの中に微かな苛立ちが積もっていく。
武芸に格別の自信があるわけではないが、アウラとて先の大戦を生き残り、カープァ王国を戦勝国の一角へと導いた指導者である。
王族と言えど、女と言えど、一般の騎士に後れを取らない程度には鍛えている。
しかも、善治郎は明らかに手加減をしている。
だというのに、アウラからすれば底が見えないほど強かった。
アウラの攻撃は全ていなされる。
弾かれる。
崩される。
しかし、反撃はない。
それがまた腹立たしい。
アウラが視線を少し上に向ければ、善治郎の白い髪が早朝の斜光を受けて鈍く輝いている。
カープァ王国の女としてはかなり身長の高い方のアウラではあるが、善治郎はこの国ではほとんど見かけないほどの長身だ。
そして、服の上からでもわかるほどに鍛え上げられた筋肉がまとわりついている。
肩から腕、背中にかけての厚みは、長い年月をかけなければこうはならないとわかる、機能美すら感じる体つきだ。
肌はカープァ王国人と同じく日に焼けた褐色だが、髪は黒髪だらけの人々の中では目立つ、色を失った白。
切れ長の瞳は見る者を射抜くように鋭い。
戦士。
そうとしか評価しようがない。
しかし。
「我が婿殿は、本当に戦士ではなかったのか? ハッ!」
問いかけながら振るわれたアウラの棒を、善治郎はまた軽々と弾く。
苦笑する夫の顔に、汗はほとんどない。
鳶色の目が、困ったように細くなった。
「一応弓道部だったし、ジム……鍛錬所で体も鍛えてたけど……向こうでの武芸って、なんというか、戦うためというより精神修養って感じだからなぁ……ジムで鍛えてたのも健康のためだし」
どこか困ったような顔でそう言った善治郎に、アウラは鼻白んだ。
結婚して既に一年が経過し、子どもも生まれた。
アウラの夫は大変人柄が良く、今の言葉にも悪気は一切ないのは、これまでの経験からよく知っている。
朝の時間のこのようなやり取りも、一度や二度ではない。
ない、のだが。
自分を圧倒しておきながら、精神修養しかやっていない、などと言われるのは、やはり面白くない。
健康のため、に至っては、もはや喧嘩を売られているとしか思えない。
健康のために鍛えた男に、女王が一本も取れないのである。
少し懲らしめてやるか、とアウラはニヤリと笑い、カープァ王国を戦勝国へと導いた王らしく策を弄した。
「ふう……では、今日はこのくらいにしておくか」
アウラが善治郎に向けていた棒の先端をゆっくりと下ろし、大げさに一息ついてみせると、善治郎も構えを解き、つられるように脱力した。
「うん、そうだね。僕も少し水浴びしてくる」
「……汗をかいているようには見えないが?」
「え?」
アウラは声のトーンをやや落とし、独り言を呟くように続ける。
「これでも、その辺の兵には後れを取らない自信があったのだがな……まさか、健康のための運動以下の腕前しかないとは。いやはや、自らの力不足を恥じるばかりだ」
「え、あ、いや! アウラ、さっきのはそういうことじゃなくてね!」
人の良い夫が慌てながら、しかしアウラからやや目を逸らしつつ、懸命に弁解をしようとしている。
アウラはそれを横目で確認しながら、善治郎の視界に入らないよう静かに半歩だけ位置をずらし、棒を少し強く握った。
善治郎は気まずくなると、目を逸らす癖がある。
この一年でその癖が出るタイミングも学んだ。
そして、
「隙ありッ!」
ゴス、と。
少し鈍い音と共に、善治郎の頭頂部に棒が振り下ろされた。
――あ。
しまった、と思ったのは、良すぎた手応えのせいだ。
いつもなら、どんな不意打ちでもひょいとかわしてしまう夫である。
だから少しばかり本気で振り下ろした。
――まさか、本当に当たるとは。
善治郎の長身が、ゆっくりと傾いていく。
大木が倒れるように、という表現を、アウラは生まれて初めて目の当たりにした。
ずしん、と中庭の芝生がわずかに揺れた。
「……ゼンジロウ?」
返事はない。
アウラはすぐにしゃがみ込み、夫の顔を覗き込んで、鼻の前に手をかざす。
息はある。
だが、明らかに意識がない。
「ゼンジロウ! ……誰かおらぬか! 医者を呼べ! 医者だ!」
声を荒げて叫びながら、アウラは思っていた。
――やり過ぎた、と。
遠くで、侍女たちの悲鳴と、慌ただしく駆けてくる足音が聞こえ始めていた。
女王が王配を棒で殴り倒した、という噂が後宮を一周するのに、半日もかからないであろうことも、アウラにはよくわかっていた。
♦
夢を見ていた。
どこなのかは、わからない。
ただ、誰かに何かを聞かれていた。
――望みを。
「じゃあ、あれ。fate/stay nightのアーチャー・エミヤになりたい。かっこいいから」
――他には。
「え、まだいいの? じゃあ回復魔法! ゲームで一番すごいやつ」
――他には。
「太っ腹だなぁ。んー……あ、魔法の道具とか作れたら楽しそう。それで」
ほとんど、コンビニでおにぎりを選ぶくらいの気軽さだった。
深く考えた様子は、まるでない。
「あ、ていうか、これ本当に叶うの? まあいっか」
誰に願ったのかは、思い出せない。
いつのことだったのかも、霞がかかったように判然としない。
ただ、言いたいことだけ言って満足した自分の背後で、
何かが、やけに律儀に頷いたような気がした。
♦
「――叶ってるぅ!?」
叫びながら飛び起きて、善治郎は頭頂部の激痛に悶絶した。
「いっ……たぁ……!」
頭に手をやると、包帯が巻かれていた。
後宮の寝室だった。
窓から差し込む光の角度からして、昼前だろうか。
枕元に控えていた医師が、驚いて腰を浮かせている。
「お、お目覚めになりましたか、ゼンジロウ様! お加減は……」
「あ、うん……大丈夫……たぶん……」
医師がいくつか質問をして、頭の具合を確かめ、陛下にご報告して参ります、と慌ただしく出て行った。
一人になった寝室で、善治郎は寝台の上に座り込んだまま、呆然と自分の両手を見下ろした。
思い出した。
思い出してしまった。
あの願いを口にしたのは、自分だ。
正確には、生まれる前の自分だ。
そして、あのノリで言った三つの願いは、全部叶っていた。
「……もうちょっと、ちゃんと考えて願えよ……」
過去の自分に、心の底からそう言いたかった。
「……いや、待て。待て待て待て」
大学に入った頃から、髪が白くなり始めた。
肌にはまだらに褐色が差し、背は冗談のように伸び続けた。
医者には白髪はストレスだろうと言われた。
アーチェリーの全国大会では、拍子抜けするほどあっさり優勝してしまった。
ジムに通い始めたら、トレーナーが感心するほど筋肉が付いた。
「ストレスじゃなかったんだ……」
あの頃、本気で悩んだのに。
白髪染めのコーナーで、三十分も立ち尽くしたのに。
ためしに、と善治郎はおそるおそる寝台の枠に手を置いてつぶやいてみた。
「
瞬間、見えた。
立体画像のように、頭の中に寝台の設計図が浮かんできた。
「うわっ」
慌てて手を離す。
善治郎は頭を抱えた。
落ち着け。
落ち着け、山井善治郎。
これは、まずい。
たぶん、相当まずい。
この世界では、魔法は王家の血に宿るものだ。
カープァ王家の血が伝えるのは、時空魔法。
ではこの、触っただけで物の中身が丸わかりになる力は、何だ。
善治郎の脳裏に、善吉が生まれた時のことがよみがえる。
双王国の血統魔法を受け継いでいるかもしれない。
定かですらない、可能性があるというだけで、双王国は密約を申し出てきた。
生まれたばかりの赤子を巡って、思惑と思惑がぶつかり合う日々。
そして渦中で、アウラは顔色一つ変えずに、ひとつひとつの可能性を量り、国にとって最善の手を淡々と打ち続けていた。
頼もしかった。
頼もしかったけど、ちょっと怖かった。
あの人は、女王だ。
国益のためなら、きっと、大抵のことはやる。
善治郎の想像力が、ここぞとばかりに暴走を始めた。
――ゼンジロウ。そなたのその力、王家にとっては災いの種だ。
――今日をもって、離縁とする。
――安心せよ。善吉は私が立派に育てる。
氷のような目でそう告げるアウラ。
荷物をまとめて王宮を追い出される自分。
いや、追い出されるならまだいい。
得体の知れない力を持った元王配など、どこかの塔に一生幽閉されてもおかしくない。
「ヒモ生活どころの話じゃないな……」
善治郎は寝台に突っ伏し、晴れ上がった頭頂部を枕にぶつけて悶絶した。
――言えない。
――これは、絶対に、言えない。
その時、寝室の扉が勢いよく開いた。
♦
「………」
「………」
南大陸らしい酷暑の太陽が、真上から燦燦と照り付ける昼時。
カープァ王国の後宮の寝室で、ベッドの上で顔を真っ青にした善治郎と、そのすぐそばで立ったまま、所在なさげに視線をいったりきたりさせる女王アウラがいた。
扉を開けた瞬間、アウラは見てしまったのだ。
目を覚ました夫が、自分の顔を見るなり、顔を歪め、ふいっと目を逸らして俯くのを。
――怒っている。
――あの温厚な婿殿が、怒っている。
当然だ。早朝に頭を棒で殴られて気絶させられ、怒らない人間などいない。
アウラは、言葉を失っていた。
一方の善治郎も、言葉を失っていた。
ちょうど脳内で離縁を言い渡されていたところに、本人が来たのである。
目を合わせられるわけがない。
謝らなければ、とアウラは思っていた。
言えない、と善治郎は思っていた。
二人の間を、沈黙が支配する。
善治郎が元の世界から持ってきた、エアコンの低い駆動音だけが、石造りの部屋中に響いていた。
「……ゼンジロウ」
先に口を開いたのは、アウラだった。
「その……すまなかった」
女王が、深々と頭を下げた。
「え、ちょ、アウラ!?」
「少しからかうつもりだったのだ。いつものそなたなら、あのくらい難なくかわすと思って……いや、言い訳だな。私が悪い。本当に、すまぬ」
「いやいやいや! 頭上げて! 怒ってないから!」
「……本当か?」
「本当だよ! むしろ僕の方こそごめん!」
「なぜそなたが謝る」
――隠しごとをしてるからです。
とは、もちろん言えない。
「え、えっと……油断してたから? ほら、精神修養が足りなかったっていうか」
「…………」
「あ、いや、今のは嫌味じゃなくて!」
慌てる善治郎を見て、アウラの肩からようやく力が抜けた。
小さく、吹き出すように笑う。
「そなたは、まったく……」
アウラは寝台の端に腰を下ろし、善治郎の頭の包帯に、恐る恐る指を伸ばした。
「痛むか」
「ちょっとだけ。たんこぶになってるみたい」
「医師の話では、骨に異常はないそうだ。だが、しばらくは安静にせよと。今日の午後と明日の予定は、イネスに言って空けさせておく」
「ありがとう」
「何か欲しいものはあるか。何でも言え。今日ばかりは、何でも聞いてやる」
女王の目が、真剣だった。
罪悪感で、ちょっと潤んでいる気さえする。
善治郎の胸に、ぐさりと何かが刺さった。
――やめて。そんな目で見ないで。こっちは今まさに隠しごとをしてるんです。
「だ、大丈夫! 寝てれば治るから!」
「……そうか?」
「うん!」
アウラは名残惜しそうに立ち上がった。
大国の女王は忙しい。
午後も公務が詰まっているのだ。
「夕刻にまた来る。大人しく寝ていろ」
「うん。いってらっしゃい」
扉が閉まる。
善治郎は、深々と息を吐いて寝台に倒れ込んだ。
頭頂部を枕にぶつけて、二度目の悶絶をした。
♦
悶絶が収まった頃、控えめなノックの音がした。
「失礼いたします」
入ってきたのは、イネスだった。
アウラが善治郎の世話係として付けた、中年のメイドだ。
先王の代から王宮に仕えている古参で、身の回りの世話だけでなく、善治郎の予定の管理まで一手に引き受けてくれている。
この一年、彼女がいなければ、善治郎の王宮での生活は一日たりとも回らなかっただろう。
「陛下のご指示により、本日午後と明日のご予定はすべて取り消しました。先方には、ゼンジロウ様はご体調が優れぬためとお伝えしてございます。お食事は医師の勧めに従い、消化の良いものをご用意いたします」
「ああ、うん。ありがとう、イネス」
いつも通りの、淡々とした報告だった。
頭に包帯を巻き、青い顔をした主を前にしても、イネスは何があったのかとも、具合はどうかとも聞かない。
平民のメイドが王族に問いを向けることはしない。
それが、この国の身分の序列というものだ。
いつも通りだ。
いつも通りの、はずだった。
――あれ?
善治郎の目が、勝手にイネスを追っていた。
まず、足音。
石の床を歩いてきたのに、ほぼ無音。
次に、重心。
一礼する時も、まったくぶれない。
そして、目線。
部屋に入ってきた瞬間、まず窓、次に部屋の隅、最後に善治郎。
とどめに、立ち位置。
寝台からも扉からも等しく数歩。
どちらへでも、すぐに踏み出せる場所。
――前々から、何となく只者じゃないとは思ってたけど。
今なら分かる。
分かってしまう。
これは、訓練を受けた人間の動きだ。
――この人、メイドじゃなくて、忍者では?
善治郎は、真顔でイネスを見つめた。
イネスは、真顔で見つめ返してきた。
「……何か、ございましたでしょうか」
「い、いや! 何でもない! いつもありがとうね!」
思わずお礼なんかしてしまった。
イネスは、ほんのわずかに間を置いてから、静かに一礼した。
「他に御用がございましたら、お申し付けくださいませ」
音もなく、部屋を出て行く。
扉が閉まった後も、善治郎はしばらく背筋を伸ばしたまま固まっていた。
――あの人を俺に付けたの、アウラだよね。
――え、俺、もしかして一年間ずっと見張られてた?
――それとも護衛? どっち?
答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、隠しごとをするには、あまりにも手強い人がいちばん近くにいる、ということだった。
「……詰んでない? これ」
エアコンだけが、のんきに唸っていた。