理想のオリ主生活 作:松尾シオン
カルロス・善吉・カープァの熱が、引いた。
あれほど真っ赤だった頬は、少しずつ元の色を取り戻し、体中に散らばっていた赤い斑点も、日を追うごとに薄くなっていった。浅く苦しげだった息は、深く、穏やかになった。
侍医のミシェルは、王子の小さな胸に耳を当て、喉の奥を覗き込み、額に手を当て、それから深々と息を吐いた。
峠は、越えられました、と。
乳母は泣いた。
侍女たちも泣いた。
王宮の奥で働く者たちの顔に、ようやく安堵の色が戻ってきた。
カルロス殿下は、小康状態。
危機は去った。
あとはゆっくりと養生なされば、きっと元のようにお元気になられるでしょう。
それが、王宮の誰もが知っている、カルロス殿下の容態である。
ただし。
本当のことを言えば、赤斑熱は、とっくの昔に、きれいさっぱりいなくなっていた。
峠を越えたどころではない。峠そのものが、ある晩、跡形もなく消し飛ばされたのだ。王子の体の中には、もう病の欠片ひとつ残っていない。ゆっくり養生するまでもなく、本人は今すぐにでも乳母の髪を引っ張りに行きたくてうずうずしている。
そのことを知っているのは、この王宮で、たった二人。
王子の父と、母だけだった。
♦
「フランチェスコ殿下より、カルロス殿下のお見舞いに伺いたいとのお申し出がございました」
執務室で、侍従が恭しく告げた。
アウラは、書類から目も上げずに答えた。
「断れ」
一秒もかからなかった。
「は」
「赤斑熱は、一度罹れば二度と罹らぬという病ではない。客人を病の床に近づけるわけにはいかぬ。そう丁重に伝えよ」
至極もっともな理由である。
どこからどう突ついても、文句のつけようがない。
侍従が一礼して下がっていき、話はそれで終わるはずだった。
ところが、しばらくして侍従は戻ってきた。
さっきより、少しだけ困った顔をしていた。
「フランチェスコ殿下より、重ねてのお申し出でございます」
「何だ」
「カルロス殿下のご容態が思わしくないようであれば、双王国の治癒の秘石をお使いいただいても構わない、と」
アウラの手が、止まった。
羽根筆の先から、インクが一滴、ぽたりと落ちた。
治癒の秘石を、使っても構わない。
ただで。
アウラは、ゆっくりと顔を上げた。
ただより高いものはない、という言葉がある。
世の中の真理というのは、だいたいこういう、身も蓋もない短い言葉の中に詰まっている。
カープァの王宮で育ち、大戦をくぐり抜けてきたアウラは、その言葉の正しさを、骨の髄まで、いや骨の髄のさらに奥の、髄の芯のあたりまで知っていた。
無償の好意には、必ず見返りがくっついている。
見えないところに。
こっそりと。
靴の裏に張りついた何かみたいに。
小さな贈り物なら、くっついている見返りも小さい。
では、それが治癒の秘石なら。
国ひとつが傾くほどの値打ちのある魔道具を、ただでどうぞと差し出してくるのなら。
その裏にくっついている見返りは、いったい、どれほどの大きさになるのか。
考えただけで、背骨のあたりが冷たくなった。
「……断れ」
アウラは、もう一度言った。
「カルロスの容態は落ち着いた。双王国の貴重な秘石を使っていただくには及ばぬ。お心遣いには深く感謝する、とな」
「は」
侍従が、一礼して下がった。
扉が閉まった。
執務室には、アウラと、部屋の隅に控えるファビオだけが残った。
アウラは、背もたれに体を預けた。
そして、誰にも気づかれないように、そっと息を吐いた。
首筋を、冷たい汗が一筋、伝っていった。
フランチェスコの申し出が恐ろしかった、というのもある。
あるにはあるが、それだけではない。
アウラは、見てしまったのだ。
あの夜。
夫の、魔法を。
♦
あの夜。
熱にうなされる善吉の寝台の傍らで、善治郎は、まるで今夜の夕飯は魚にしようか肉にしようか、くらいの気軽さで、こう言った。
「じゃあ、とりあえず回復魔法からね」
アウラは、身構えた。
魔法というものを、アウラはよく知っている。
なにしろ王族というのは皆大きな魔力を持ち、特別な魔法のーー血統魔法の使い手であるのだから。
魔法を使うには、まず魔力を練らねばならない。
それから、魔法語で詠唱をする。
長い詠唱を。
一音でも発音をしくじれば、魔法は形にならずに霧散する。
どれだけの魔力を、どの順番で、どの太さで流し込むか。
精神を研ぎ澄まし、慎重に組み上げていく。
慣れてくればそれほど神経を張らなくてもよくなるが、それでも、精神的な動揺があれば発動しなくなることもある。
戦場で魔法を、それも戦闘中に唱えられる者は達人であり、各国に10人もいないはずだ。
魔法とは、そういうものだ。
少なくとも、アウラはそう教わってきたし、そうやって使ってきた。
ところが、夫といえば、この間まで魔力の操作すら覚束ないようだったのに、今はまるで緊張した様子がない。
魔力を練る様子もない。
詠唱を始める気配もない。
精神を研ぎ澄ますどころか、どこか楽しげですらある。
善治郎は片手を軽く掲げて、たった一言、こう言った。
「ベホマズン!」
光が立ちのぼる。
柔らかくて、温かい光だった。
足元からふわりと湧き上がったそれは、寝台の上の善吉を包み、傍らに立つアウラを包み、ついでに善治郎自身も包み込んだ。
次の瞬間、アウラは、自分の体から何かがすうっと抜け落ちていくのを感じた。
節々の痛み。
朝の稽古でひねった手首の、じんとした疼き。
それから、もう何年もの付き合いになる、肩の頑固な凝り。
そして、戦場で負った小さな擦り傷、切り傷の数々。
すべてが消えた。
一瞬で。
跡形もなく。
さよならも言わずに。
アウラは、思わず自分の肩に手をやった。
軽い。
嘘みたいに軽い。
女王という重い荷物を背負うようになってから、肩がこんなに軽かったことは、ただの一度もなかった。
肩というのは、本来こういうものだったのか、とアウラは少し感動すらした。
寝台の上を見ると、さっきまで苦しげに顔を歪めていた善吉の呼吸が、明らかに穏やかになっていた。
「…………」
アウラは、言葉を失っていた。
魔法語も使わず。
魔力の加減も量らず。
ただ一言、聞いたこともない言葉を、ちょっと元気に口にしただけで。
これが、魔法なのか。
これを魔法と呼ぶのなら、自分がこれまで魔法と呼んできたものは、いったい何だったのか。
ところが、当の夫は、寝台の善吉をじっと見下ろして、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめん、アウラ。俺、勘違いしてた」
「……勘違い?」
「これさ、体力を全部回復させるだけなんだ。病気そのものを治すやつじゃない。だから、赤斑熱は治せない」
アウラは、夫の顔と、息子の顔を、交互に見た。
「……だが、赤斑熱は、体力さえあれば乗り切れる病だ。侍医もそう言っていたであろう? 体力が回復したのなら、もう案ずることはないのではないか」
「いや、駄目だ」
夫は、首を振った。
いつになく、きっぱりとした声だった。頷く男が、首を横に振っていた。
「念のため、ちゃんと治したい。アウラ、治癒の秘石を見せてくれないかな。さっきも言ったけど、見せてもらえさえすれば、すぐ同じものを作れるから」
さっきの話し合いで、夫がそう言っていたのは覚えている。
覚えてはいる。
だが、言葉として理解できることと、それを頭の中で絵にできることとは、まったく別の話だ。
治癒の秘石を、作る。
それも、見るだけで。すぐに。
どう頑張っても、想像することができない。
だが、もし、それが本当にできるのなら。
治癒の秘石を、量産できるのなら。
それは、あらゆる意味でとんでもないことだ。
アウラは、黙って部屋を出た。
王のみ開けることができる鍵を自ら開け、奥にしまわれた小箱を取り出し、ふたたび部屋へ戻った。
小箱の蓋を開ける。
手のひらに収まるほどの、白い石だった。
形は、角という角をすべて丁寧に削ぎ落とした、小ぶりな直方体。
白い地に、うっすらとマーブルの模様が流れている。
見た目は、ただの白い石だ。
川原で拾ってきたと言われたら、たぶん信じてしまう。
だが、ただの石ではない。
この石ひとつに、並の魔法使い一人分に匹敵する魔力が込められている。
ただでさえ作るのに長い時間のかかる魔道具の中でも、とびきり手間のかかる、とびきり貴重な品だ。
カープァ王国が何年もかけて、頭を下げて、金を積んで、双王国との友好関係を築いて、ようやく手に入れたものだ。
夫は、その石を、ちらりと見た。
ちらりと。
ほんとうに、ちらりと。
市場で野菜の品定めをするよりも、短い時間だった。
そして、小さく呟いた。
「
夫の手のひらの上に、白い光が、ぽっと灯った。
光は、すぐに形をとった。
角をすべて削ぎ落とした、小ぶりな直方体。
白い地に、うっすらと流れるマーブルの模様。
アウラの手の中にあるものと、寸分違わぬ石が、夫の手のひらにちょこんと乗っていた。
「…………」
アウラは、二つの石を見比べた。
形が、同じだった。
模様が、同じだった。
石から立ちのぼる魔力の気配までもが、まったく同じだった。
何年もかけて。
頭を下げて。
金を積んで。
ようやく、ようやく手に入れてきたものを。
この男は、ちらりと見ただけで、作ってみせた。
「はい」
夫は、作ったばかりの石を、事も無げにアウラに差し出した。
焼きたての菓子でも手渡すような手つきだった。
「これで、善吉を治してあげて」
アウラは、震える手でそれを受け取り、寝台の善吉に、そっとかざす。
『癒せ』
治癒の秘石に魔力を込めながら、短く魔法語を唱える。
白い石が、淡く光った。
善吉の頬に散っていた赤い斑点が、潮が引くように消えていく。
熱で赤らんでいた顔が、元の色を取り戻していく。
先ほどの善治郎の魔法で少し回復して、それでも浅かった呼吸が、徐々に深く、穏やかになっていく。
やがて、善吉はぱちりと目を開けた。
自分の両親の顔を、不思議そうに見上げた。
そして、王宮中に響き渡るような声で泣き始めた。
元気な声だった。
この数日、一度も聞いていなかった声だった。
世界でいちばんうるさくて、世界でいちばんありがたい泣き声だった。
♦
アウラは、執務室の背もたれに体を預けたまま、天井を見上げていた。
あの夜の光景が、まだ目の奥に焼きついている。
とんでもない力だった。
いや、とんでもない、などという言葉では、まるで足りない。
回復魔法だけではない。
治癒の秘石を、ちらりと見ただけで作り出す力。
おそらく、他の魔道具も同じように作れるのだろう。
夫は、魔法の道具も作れると言っていた。
これが、双王国に知れたら、どうなるか。
考えるまでもない。
戦だ。
付与魔法と治癒魔法を独占することで、国力を向上させ、南大陸中央の覇者の座に座っている国である。
その独占を、根っこからひっくり返しかねない男が、隣の国にいる。
しかもその男は隣の国の王配で、のんびりと笑いながら、焼きたての菓子みたいな手つきで秘石を差し出してくる。
間違いなく、戦になる。
だが。
アウラは、目を閉じた。
これほどの力を、蔵の奥にしまいこんで腐らせておくことも、できない。
王として、それは見過ごせない。
カープァ王国は、まだ戦の傷が癒えていない。
畑は荒れ、経済も上向いてきたとはいえ、以前ほどではない。
何より、民の心身に。
大戦が残した爪痕は、深い。
王都にも、地方にも、親を失った子がいる。
夫を失った女がいる。
戦で手足を失い、もう畑に出られない男がいる。
アウラは、ふと、夫の魔法によって自分の古傷がすべて消え去ったことを思い出した。
善治郎自身、まだよく魔法の性能について分かっていない様子だった。
わかっていることは、広い範囲で体力を全快させることと、傷を癒すこと。
もし、大戦で傷を負って、表舞台に出られなくなってしまった貴族たちを治すことができれば。
戦傷を負って引退した将を、兵を、癒すようなことができれば。
彼らは王家に対して多大な恩情を抱くだろう。
もちろんそうなれば、善治郎の発言権が強くなりすぎる、という弊害はあるが。
それでも、やるべきだと思っている自分にアウラは気付いていた。
少々悔しいが、時空魔法そのものより、王家にとって大きな力となるだろう。
炉を作り、鉄を良くした。
剣を打った。
ガラスも作れるという。
治癒の秘石まで、作ってみせた。
魔法だけでなく、善治郎の知識や力を、うまく使うことができれば。
この国はさらなる発展を遂げる。
そう思う。
とはいえ、そのために戦になっては、元も子もない。
国を富ませるための力が、国を滅ぼす火種になる。
そんな馬鹿げた話はない。
しかし、女王は考えずにはいられなかった。
国のため。
息子のため。
そして、あの、のんびりと笑う夫のため。
もし、善治郎の能力を全て使うことができれば。
アウラは、こめかみを押さえた。
答えが指の隙間から出てくるわけではない。
それはわかっている。
わかっているが、押さえずにはいられなかった。
「陛下」
部屋の隅から、平坦な声がした。
ファビオだった。
「お顔の色が優れないようですが」
「……少し、考えごとをしておるだけだ」
「左様でございますか」
ファビオは、それ以上何も言わなかった。
ただ、その目が、一瞬だけ、女王の首筋を伝う汗の筋に留まったような気がした。
アウラは、それに気づかないふりをした。
窓の外では、亜熱帯の午後の日差しが、石畳を白く白く焼いていた。