理想のオリ主生活 作:松尾シオン
秘密というものは、抱えている人数によって重さが変わる。
一人で抱えれば、ずしりと重い。
二人で分ければ、少し軽くなる。
三人目に渡ったとたん、秘密であることをやめかける。
カープァ王国の王配、善治郎・カープァが、その日の昼過ぎまで手のひらに載せていたのは、夫婦二人で分け合う、ちょうどいい重さの秘密がひとつきりだった。
善吉の赤斑熱は、あの晩、善治郎が投影した秘石で、とうにきれいさっぱり治っている。
けれど表向きには、四日かけてゆっくりと快方に向かったことになっていた。
一日目は熱が高いが落ち着いている、二日目は喉の腫れが引き始めた、三日目は斑点が薄くなってきた、そして四日目に、ようやく峠を越えた。
侍医であるミシェル医師は毎朝きっちり診察をして、毎朝きっちり首を傾げたが、何も言わなかった。治りが少々良すぎることに文句を言う医者は、この世にあまりいない。
問題は、父親のほうだった。
四日間、善治郎は「父親がそのような顔をするか」と脇腹をつねられ続け、つねる妻の指先には、日に日に手慣れたものが宿っていった。
演技の才能というやつは、どうやら前世で願ったものの中に入っていなかったらしい。
そういうわけで、その日の昼下がり、王宮の小さな応接室で次の予定を待ちながら、善治郎は自分の右手を眺めていた。
火傷がある。
親指の付け根と、人差し指の腹に、ひとつずつ。
ガラス窯の前で、竿の先の溶けたガラスと半日格闘した名残だ。潰れた水ぶくれの上に薄い皮が張りかけていて、物を掴むたびに、ちくりとした。
手が勝手に職人みたいに動いてくれるのはありがたいが、その職人というやつは、どうも自分の手の皮をあまり大事にしない性分らしい。
炉の前に立てば、熱いのも忘れて竿を回す。
気がつけば、手のひらがこうなっている。
扉の脇では、イネスが気配を殺して控えている。
少しだけぼんやりしていよう、と思ったそのぼんやりは、三十秒ももたなかった。
扉の向こうで、護衛の兵士が誰かと押し問答を始めたのだ。
押し問答といっても、兵士のほうが一方的に困り果てていて、相手のほうは朗らかに笑っているだけの、ずいぶんと片側に寄った押し問答だった。
イネスがすっと扉の外へ出て、すぐに戻ってきた。
「ゼンジロウ様。フランチェスコ殿下がお見えです」
「……先触れは?」
「ございません」
「ボナ殿下は?」
「ご一緒ではございません」
善治郎は、天井を仰いだ。
秘密を三日と抱えていられない王子が、子守り役を置いて、一人で来た。
ろくな話ではない気がした。
「……お通しして」
♦
「いやあ、突然すみません、ゼンジロウ陛下。ボナが本国への報告書にかかりきりだったので、邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「それはそれは。ボナ殿下もお忙しいですね」
「ええ。働き者でしょう、あの子は」
お前のせいだろ、とは言わなかった。
言わなかった自分を、善治郎は少しだけ褒めた。
「そういえば、カルロス殿下のご容態はいかがです?」
来た。
四日間仕込まれた通りに、眉を寄せる。目を伏せる。小さく息を吐く。
「おかげさまで、峠は越えたと侍医が。まだ予断は許しませんが」
「それはよかった! ずっと気がかりで」
王子は心底ほっとしたように胸を撫で下ろし、それから首を傾げて、善治郎の顔をまじまじと見た。
「ゼンジロウ陛下、お腹の具合でも?」
「……いえ、大丈夫です」
このことをアウラに報告するべきかどうか、善治郎が少しだけ真剣に悩んでいるうちに、フランチェスコは中庭を歩きませんかと言い出した。
王族同士が供を遠ざけて庭を歩くのは、外交の場では珍しいことではない。
イネスとナタリオには声の届かない柱の陰に控えるよう命じて、二人は中庭の四阿に腰を下ろした。
水路を渡ってきた風が、湿った肌にわずかに涼しい。
水面で砕けた日の光が、四阿の梁にちらちらと揺れていた。
「さて。宝玉の話をしてもいいですか」
そう切り出しかけたところで、王子の目が、善治郎の右手に留まった。
「あ、その前に。火傷してますね。痛そう。ちょっと失礼」
止める間もなかった。
フランチェスコは善治郎の手をひょいと取り、今日はいい天気ですねとでも言うような調子で、短い呪文を唱えた。
淡い光が、手のひらに落ちた。
ひやりとした。
次の瞬間には、もう何もなかった。
水ぶくれの跡も、張りかけていた皮も、ちくりとする痛みも消えて、親指の付け根には、生まれたての赤ん坊みたいな、つるりとした皮膚が残っているだけだった。
それは、ジルベール法王家しか使えないはずの、治癒魔法だった。
善治郎は、自分の目を疑った。
疑って、もう一度自分の指を見た。
見えるものは変わらなかった。
ジルベール法王家の血統魔法。
どんな傷も病も癒すと言われる、シャロワ・ジルベール双王国の――ジルベール法王家のもつ力の一端。
それを、シャロワの王子が使った。
この世界の魔法は血に宿り、シャロワの血は付与魔法を、ジルベールの血は治癒魔法を伝える。
それはこの一年で、善治郎が何度も教え込まれてきた、川が上から下へ流れるのと同じくらいの当たり前だった。
その川が今、目の前で、ひょいと逆さまに流れてみせたのだ。
「……殿下。今のは」
「治癒魔法です。私、シャロワとジルベール、両方の血が流れてるんですよ。だから、付与魔法と治癒魔法の両方が使えるんです。すごいでしょ」
すごいとか、そういう話ではない。
善治郎は、つるりとした手のひらと、目の前の屈託のない笑顔とを、何度も見比べた。
見比べても、どちらも消えてくれなかった。
口を開きかけて、閉じて、また開いた。
言葉のほうが、どこから出ていけばいいのかわからずに、喉の奥で渋滞を起こしていた。
ただ、驚きはしても、それだけだった。
とんでもないものを見たことはわかる。
双王国にとって、これがどれほどの秘密なのかも、なんとなくはわかる。
けれど、それが自分たちにどう関わってくるのかまでは、善治郎の頭は追いついていなかった。
「それで、宝玉の話なんですけど」
フランチェスコは、火傷のことなどもう済んだ話とばかりに、膝の上で指を組んだ。
「欲しいんです。あれがあると、魔道具作りがうんと早くなるので。祖父と父からも、宝玉のためならある程度は話していいって言われてます」
「……お気持ちはわかりました。ですが、宝玉のことは、アウラ陛下のお許しなしには何もお約束できません」
「ですよねえ。じゃあ、ちゃんと釣り合う対価をお出ししないと」
王子は少し考えるように首を傾け、それから、ごく自然な調子で言った。
「私がカルロス殿下に付与魔法をお教えする対価で、宝玉を融通していただく、というのはどうです?」
「……はい?」
善治郎は、間の抜けた声を出した。
カルロス殿下に、付与魔法を。
教える。
何を言われたのか、一語ずつはわかるのに、つなげるとまったく意味をなさなかった。善吉はカープァ王家の子で、カープァ王家の血統魔法は時空魔法だ。付与魔法など、教えようがない。
「あの、殿下。善吉は、カープァ王家の」
「あれ?」
フランチェスコのほうが、きょとんとした。
「ご存じなかったですか。二つの王家の血を引いていて、魔力が並外れて多い人間は、両方の血統魔法が使えることがあるんです。私みたいに。カルロス殿下の魔力量はだいぶ多いと評判でしょう? 私と同じくらいか、たぶんそれ以上、という話も聞きます。時空魔法と付与魔法、両方使えると思いますよ」
風が、止んだような気がした。
実際には止んでいなかった。
止まったのは、善治郎の耳のほうだった。
乳母の指をしゃぶって、けろりと笑っていた、ぷくぷくの頬と乳くさい匂いの、あの善吉が。
付与魔法を。
目の前の王子は、二つの王家の血を引いているから、二つの魔法が使える。
そして善吉にも、カープァとシャロワ、二つの王家の血が流れている。
そこまで考えて、善治郎は、ぞっとした。
「待ってください、殿下。それは、その」
声が上ずった。
「善吉が付与魔法を使えるかもしれないということは、内密にするという話だったはずです。カープァと、双王国のあいだで」
善吉が生まれたとき、双王国はさっそく密約を持ちかけてきた。
善治郎の血筋のことは、互いに伏せておく。
その約束があったからこそ、善吉は今、ただのカープァの王子として、乳母の腕の中で泣いたり笑ったりしていられるのだ。
ところが、フランチェスコは不思議そうに目を瞬かせた。
「え? そちらが内密に事を運びたいのでしたら、私個人としては協力することもやぶさかではないですが、あまり意味は無いと思いますよ」
「……意味が、ない?」
「私がこちらに発つ前の時点ですでに、現国王である祖父と、次期国王である父は、どの機会にゼンジロウ殿の血筋について広めれば、国内外の動揺を最小限にできるか、という方向で話をしていましたから」
善治郎は、今度こそ言葉を失った。
広める。
伏せるのではなく、広める。
それも、するかどうかではなく、いつするかの相談として。
「なぜ、そんな。国王陛下と第一王子殿下は、なぜ」
フランチェスコは、笑っていた。
笑ったまま、ほんの半拍だけ、止まった。
遠くを見るような、指を折って何かを数えるような、そういう半拍だった。
どこかで、水路の水が小さく音を立てた。
「さあ、なんででしょうねえ。ただ、祖父も父も、その約束が最後まで守られるとは思ってないみたいです」
何事もなかったように、元の顔に戻っていた。
「ゼンジロウ陛下って、この先ずっと、側室を一人も取らずにいられます?」
善治郎は、答えられなかった。
答えたい答えは、ある。ずっとアウラ一人でいい。
けれど、それを貫けるかどうかが自分一人の気持ちでは決まらないことくらいは、この一年で、わかるようになってしまった。
「……それでも、宝玉のことは、私の一存では決められません」
どうにかそれだけ絞り出すと、フランチェスコは「うーん」と唸って、腕を組んだ。
それから、何かを思いついたように、ぐっと身を乗り出してきた。四阿の卓越しに、金色の頭が迫ってくる。
さっきまでの、天気の話をするような顔ではなかった。目が、きらきらしていた。
「じゃあ、ここからは、祖父や父には内緒の、私個人のお願いなんですけど」
「……個人の」
「はい。私は、作りたい物が山ほどあるんですよ」
そこから先は、堰を切ったようだった。
「ずっと前から構想があるんです。私が独自に考えている魔道具なんですけどね、たぶん作れると思うんですよ。付与魔法の魔道具。これができれば、シャロワ王家の人間じゃなくても、簡単な量産型の魔道具なら作れるようになるから、作成が一気に進むと思うんです。なのに、なぜか祖父や父は、血相を変えて、それだけは作ってはいかん、って怒るんですよね」
「は、はあ」
「でも、ここなら祖父や父の目が届かないから、好機なんですよ。双王国は砂漠が多いですからね。せめて『水作成』の魔道具だけでも、量産に乗せたいんです。付与魔法使いには毎年水作成の魔道具のノルマでてんてこ舞いですから。宝玉が戴ければ、陛下にも護身用の魔道武器を作らせていただきますよ。それから、それから」
「殿下、少し落ち着いてください」
ぺらぺらと一方的に話し続ける王子の勢いに押されて、善治郎は椅子の上で少しのけぞりながら、どうにか手のひらを向けた。
今、とてつもない爆弾が混ざっていた気がする。
付与魔法を、魔道具にする。シャロワ王家の人間でなくても、魔道具が作れるようになる。国王と第一王子が、血相を変えて止めた代物。
どう考えても、王配が四阿の世間話でつつき回していい話ではない。
善治郎の立場でそれを深く追求するのは、どう転んでも、やぶ蛇になりそうだった。
これは、後でアウラに報告だな。
善治郎が心の中でそう決めているあいだも、王子はまだ、作りたい物の話を楽しそうに続けていた。
政のことを話す時には、半拍止まってから笑ってみせた男が、物を作る話になると、止まるということをまるで知らない。
その落差が、善治郎には少しだけ不思議だった。
「とにかく、宝玉さえあれば、なんです。祖父や父には、まあ、全部を報告しなくてもいいかなって」
「……このお話は、アウラ陛下にお伝えします」
「はい、よろしくお願いします。あ、治癒魔法のことは、ボナには内緒で。知ったら、たぶん倒れちゃいます」
王子が去っていったあとも、善治郎はしばらく
柱の陰から、イネスの視線を感じる。
この距離で、彼女が主の手から火傷が消えたのを見逃すはずがない。
そして、何も聞いてはこないのだ。
善吉の秘密。
自分の秘密。
フランチェスコの秘密。
伏せておくはずだった善吉の血が、遠からず広められるという話。
それから、祖父や父には内緒の、王子個人のお願い。
夫婦二人で、ちょうどいい重さで分け合っていたはずの手のひらの上が、今日、いっぺんに何倍にもなった。
その重みを抱えたまま夕刻を待ち、後宮の居間でアウラと向かい合った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
エアコンの冷気が足もとに溜まり、卓の上では、飲みかけのワインが甘い匂いを漂わせている。
善治郎は昼間のことを、ひとつ残らず話した。
火傷のこと。治癒魔法のこと。善吉が、たぶん付与魔法も使えるということ。
国王と第一王子が、善治郎の血筋をいつ広めるかの相談をしていたこと。
側室の問い。そして、王子の個人的なお願いと、その中に混ざっていた爆弾のこと。
「腹でも下したのかと聞かれた、というくだりは要らぬ」
「いや、一応、正確に報告しようと思って」
「……続けよ」
聞き終えたアウラは、長椅子の背にもたれて目を閉じた。
右手の親指と人差し指が、眉間をゆっくりと揉みほぐす。
ぐい、と押して。
ぐり、と回して。
また、ぐい、と押す。
善治郎は、この仕草を知っている。
ガラス玉が作れると打ち明けた、あの来訪前夜にも、アウラはこうやって眉間を揉んでから「……詳しく聞こう」と言った。
厄介ごとが盤の上に転がり込んできたときはまず、眉間に皺が刻まれる前に、指でそれを押し戻しておくのだ。
けれど今夜は、あの晩ほど怖くなかった。
この指がほぐしているのが、夫をどうするかという悩みの皺ではないと、今の善治郎は知っている。
指が、止まった。
「付与魔法の魔道具の件は、それほど気にする必要はないと思うぞ」
「え?」
「国王と第一王子が血相を変えたのも道理だ。我らが下手に触れれば、火の粉どころか、大火を浴びる。今は、触れるな」
「……うん。わかった」
アウラは、もう一度だけ眉間を押さえてから、手を下ろした。
「では、残りの話だ。ゼンジロウ」
「うん」
「向こうは、約束を破るつもりでいるのだな」
「フランチェスコ殿下の話だと、そうなるね」
「そして、ジルベールの治癒魔法は、とうに双王国の内側で漏れている」
「……うん」
「宝玉を作れるのは、この世で我らだけだ」
「まあ、今のところは。たぶん」
「そして、あの王子は」
アウラは、そこで一度言葉を切った。
「宝玉のためならば、祖父にも父にも、全部を報告せずともよいと言った」
アウラの口の端が、ゆっくりと持ち上がっていった。
大戦を生き延び、この国を戦勝国の一角に押し上げた女が、盤の上に、思いもよらぬ駒が転がり落ちてきたのを見つけた時の顔だった。
駒は、二つあった。
ひとつは、約束を破るつもりの国王と第一王子。正面から向き合う相手だ。
もうひとつは、本国の目をすり抜けてでも、作りたい物のことしか頭にない王子。
「……使えるな」
ぽつりと、アウラは言った。
善治郎の背筋を、何かがぞくりと駆け上がっていった。
牙を見せて笑う雌虎の隣に、うっかり腰を下ろしてしまったような気分だった。
それでも、席を立とうとは思わなかった。
そんな選択肢は、善治郎の頭のどこを探しても、見つからなかった。