理想のオリ主生活 作:松尾シオン
頭を打ってから、五日が経った。
たんこぶはとうに引いた。
痛みもない。
それどころか、体はすこぶる調子が良い。
良すぎるくらいだ。
それでも善治郎は「まだ時々頭がふらつく」と言って、公務を休み続けていた。
仮病である。
「……うーん」
後宮の寝室。
寝台の上で、善治郎はごろりと寝返りを打った。
エアコンの風が心地よい。
窓の外では亜熱帯の太陽が容赦なく照り付けているが、この部屋だけは別世界だ。
傍から見れば、王配が昼間から寝台でごろごろしているだけの光景だろう。
だが本人は、いたって真剣に悩んでいた。
――いつまでも、隠しておけるわけがない。
記憶が戻ってからの五日間で、善治郎はそれを嫌というほど思い知った。
なにしろ、解析が便利すぎるのだ。
茶器を手に取れば焼きのむらが気になり、扉を開ければ蝶番の歪みが気になる。
ちょっと気になると、つい「トレース、オン」と心の中で唱えたくなる。
そのたびに、ぐっとこらえる。
気を抜けば、いつか必ずぼろが出る。
ならば、どうするか。
善治郎は、天井を見上げながら指を折った。
投影魔術――駄目。魔力を帯びた剣など作った日には、双王国が飛んできてもおかしくない。
回復魔法――駄目。理由は投影魔術と同じ。
道具作成――駄目。理由は投影魔術と回復魔法と同じ。
身体の強化と、解析くらいなら、まあ。
「……使えるの、地味なのばっかりだな」
ぼそりと呟いて、溜息をつく。
隠しごとがいずればれるなら、ばれた時に「それでもこの婿は手放せない」とアウラに思ってもらえるだけのものを、今のうちに積み上げておくしかない。
つまり、功績だ。
カープァ王国のためになる何か。
だが、それが難しい。
王配が急に国政に口を出し始めれば、貴族たちは何事かと勘ぐるだろう。
女王の夫が何か企んでいる、と思われるかもしれない。
それに、アウラだ。
一年間ほぼヒモとして暮らしてきた夫が、頭を打った途端に国のために働き始めたら。
「……どこかおかしくなったのかと思われそうだなぁ」
善治郎は枕に顔を埋めた。
派手には動けない。
でも、何かしなければならない。
堂々巡りの思考を、もう二日ほど続けていた。
控えめなノックの音がした。
「失礼いたします」
イネスだった。
善治郎の背筋が、反射的にしゃきんと伸びる。
あの日以来、すっかり癖になってしまった。
手にした銀の盆の上には、封蝋の押された書状が一通載っている。
「プジョル将軍より、書状が届いております」
その名前を聞いた瞬間、善治郎の顔がわずかに引きつった。
「……プジョル卿から?」
「はい。二週間後、王都の北の森にて狩りを催すゆえ、ゼンジロウ様にもぜひご臨席賜りたい、とのことでございます」
書状を受け取り、目を通す。
武人らしい力強い筆跡で、丁寧な、しかし有無を言わせぬ調子の招待の文句が並んでいた。
そして末尾には、こう書き添えられていた。
――当日は我が妹も同行させたく存じます。
「…………」
善治郎の脳裏に浮かんだのは、日本で会社員をしていた頃の記憶だ。
やたらとゴルフに誘ってくる、体育会系の後輩がいた。
悪い奴ではないのだが、とにかく押しが強く、断っても断っても懲りずに誘ってくる。
月曜の朝に「先輩、今度の日曜どうっすか!」と肩を叩かれるたび、善治郎はげんなりしたものだ。
あれと、まったく同じ気分だった。
いや、あの後輩は少なくとも、妹を嫁にどうかとは言ってこなかった。
それに、病床の人間を誘ったりもしない。
「相変わらず強引なんだよなぁ……」
思わず漏れた本音に、イネスは何も言わない。
プジョル将軍。
大戦の英雄にして、カープァ王国最強の武人。
かつてはアウラの婿候補にも名が挙がった男で、武功に見合うだけの野心も持ち合わせている。
宮廷で生き抜くだけの政治の才もあるはずなのだが、いかんせん根っからの武人で、何事も真正面から言ってくる。
そして善治郎と顔を合わせるたびに、真正面から言ってくるのだ。
『ゼンジロウ様、我が妹を妻にという話、考えていただけましたか?』
挨拶もそこそこに、それである。
天気の話をするのと同じ調子で、それである。
善治郎がプジョル卿を苦手にしている理由の、半分くらいはこれだった。
そのプジョル卿が、一年前の善治郎のお披露目の宴で、王族から声を掛けられるのを待つという慣例を破り、自ら善治郎の前に進み出て跪いた。
差し出されたのは、一張の弓だった。
竜弓。
成長途中の若い走竜の腱から作られる、希少で強力な弓。
長弓の半分ほどの大きさしかないというのに、その威力は凄まじいという。
――で、受け取っちゃったんだよなぁ。
あの時の善治郎は、まだ記憶も戻っておらず、ただの元弓道部員だった。
そして元弓道部員として、目の前に差し出されたその弓の造りの見事さに、純粋に心を奪われてしまったのだ。
気が付けば両手で受け取り、「素晴らしい弓ですね」と目を輝かせていた。
隣でアウラの顔が凍り付いていたことに気付いたのは、その少し後だった。
その夜、アウラは額に手を当てて、深々と溜息をついた。
あの弓を受け取ったということは、プジョル卿からの狩りの誘いに応える義理ができたということ。
そして王配がプジョル卿と親しくしていると見られれば、それは巡り巡って、女王の立場を揺るがしかねない――。
懇々と説明されて、善治郎は寝台の上で正座して小さくなった。
『受け取ってしまったものは仕方がない。誘いが来たら、私の方で理由をつけて断らせる』
アウラはそう言って、この一年、本当にその通りにしてくれた。
一度目は、公務が立て込んでいるという理由で。
二度目は、善吉が生まれたばかりだという理由で。
そして今回が、三度目である。
善治郎は書状を盆に戻し、イネスを見上げた。
「ねえイネス。もう二回断ってるし……三回目も、断っていいかな?」
イネスは盆を手にしたまま、ほんのわずかに首を傾けた。
考えているのか、言葉を選んでいるのか。
表情からは何も読み取れない。
「お尋ねでございますので、申し上げます」
そして、淡々と語り始めた。
「大戦の英雄からの招待を三度続けて断れば、将軍の顔に公の場で泥を塗ったものと見なされます」
「う、うん」
「将軍の下で戦った兵や騎士の中には、王家は将軍を、ひいては自分たちを軽んじていると受け取る者も出てまいりましょう」
「……うん」
「貴族の方々は、それが陛下のご意向によるものではないかと勘ぐられるかと存じます。将軍との間に何か確執があるのではないか、また、夫を尻に敷いていいように使っているという評価になるかと」
「…………」
「加えまして」
イネスの声の調子は、最初から最後まで少しも変わらなかった。
「ゼンジロウ様は現在、ご体調が優れぬことを理由に、五日にわたり公務をお休みになっておられます。このうえ狩りまでご辞退なされば、ゼンジロウ様は重いご病気なのではないか、という噂が立つものと存じます。お世継ぎのことまで取り沙汰されるやもしれません」
善治郎は、ゆっくりと天井を仰いだ。
仮病が。
ただの仮病が、国を揺るがす大きな火種になって返ってくる可能性に、深いため息を吐く。
「……じゃあ、行かないわけにはいかないね」
「左様でございますか。では、ご出席のお返事をご用意いたします」
♦
「狩りに行く? そなたが?」
その夜、狩りの件を告げると、アウラは目を瞬かせた。
「うん。さすがに三回目は断れないかなって」
「……そうか。いや、そなたがそう判断したのなら、止めはせぬ。できれば私もついていきたかった所ではあるが」
アウラはしばらくの間顔をしかめた後、考えるように顎に手を当てた。
「だが、気を付けよ。あれは隙あらば己の立場を固めようとする男だ。言質を取られるような言葉は、決して口にするな。特に、妹の話にはな」
「……うん。それは本当に気を付けるよ」
「それと」
アウラの目が、すっと細くなる。
「体の方は、もう良いのか」
「え? あ、うん、もうだいぶ良くなったから」
「……そなた、昨日の朝は、まだ頭がふらつくと言っておらなかったか」
「き、今日から急に良くなったんだよ。ほら、狩りって聞いたら気が張ったのかも」
アウラはしばらく善治郎の顔をじっと見ていたが、やがて呆れたように小さく笑った。
「まあ良い。元気になったのなら何よりだ」
♦
二週間後。
王都の北に広がる森の入り口には、狩りの一行が勢ぞろいしていた。
居並ぶ走竜の背には、プジョル卿の配下の騎士や兵、招かれた貴族たち、そして土地の狩人たち。
善治郎の傍らには、護衛として付き従う騎士ナタリオ・マルドナドの姿もある。
「よくぞお越しくださいました、ゼンジロウ様」
一行の先頭で、プジョル卿が走竜の上から深々と頭を下げた。
壮年の、岩のような男だった。
日に焼けた顔には大戦で負ったものであろう古傷がいくつも走り、鍛え抜かれた体からは、立っているだけで周囲を威圧するような気配が滲み出ている。
「三度目にしてようやく、ゼンジロウ様と轡を並べる栄に浴することができました。今日という日を待ちわびておりましたぞ」
「お招き感謝する、将軍。なかなか予定が合わず、失礼した」
――三度目、っていちいち強調するなよ!
こいつ本当に正直だな、と善治郎は内心でげんなりしつつ、王族らしい鷹揚な笑みを貼り付けた。
「ところでゼンジロウ様、我が妹の件ですが」
――ほら来た。
「本日は少々体調を崩しまして、同行が叶いませなんだ。まことに残念。ですが、次の機会には必ず。あれは武人の家の娘ゆえ、丈夫な子を産むことでしょう」
「は、はは……本人もいない故、その話は、また今度ゆっくり、な……」
挨拶もそこそこに、これである。
アウラの「言質を取られるな」という言葉を胸の中で三回唱えながら、善治郎は曖昧に笑ってやり過ごした。
プジョル卿の視線が、善治郎の背に負われた竜弓に向けられる。
「その弓を、お持ちくださったのですな」
「せっかくの贈り物だ、使わぬ手はないだろう」
「光栄の至り。ゼンジロウ様の腕前、本日はぜひ拝見したいものです」
――拝見させるつもりは、まったくないんだけどな。
善治郎の今日の方針は、ただ一つ。
目立たないこと。
ほどほどに弓を引き、ほどほどに外し、ほどほどに楽しんだふりをして帰る。
それだけだ。
森の中を、走竜の群れが進んでいく。
勢子たちが獲物を追い立てる声が、木々の間に響いた。
今日の獲物は、野生の肉竜だ。
王宮の食卓に上る肉竜と同じ種だが、人の手で育てられたものとは気性がまるで違う。
大人の背丈ほどもある巨体を分厚い鱗混じりの皮が覆い、追い詰められると人にも走竜にも構わず突進してくる。
農村では畑を荒らす厄介者として恐れられているらしい。
「出たぞ!」
前方で兵が叫んだ。
茂みを突き破って、巨体が飛び出してくる。
先頭にいた若い兵が、慌てて槍を構えた。
肉竜が突進する。
兵が槍を突き出す。
だが穂先は分厚い皮に弾かれ、ずるりと横に滑った。
勢いを失わない肉竜が、体勢を崩した若い兵へとまっすぐに突っ込んでいく。
善治郎は、考えるより先に竜弓を構えていた。
――足、足でいい。動きを止めるだけでいい。目立たないように――
頭ではそう思っていた。
だが、弓を構えた瞬間、体が勝手に動いた。
部活でアーチェリーをやっていた頃からずっとそうだった。
善治郎には、射る前から中るか、中らないかが分かる。
走竜の背の上でも、上体は少しも崩れずに動いた。
竜弓の強い張りが、腕の中で心地よくしなる。
世界から音が消えた。
見えているのは、突進する獣の、小さな黒い目だけだった。
ヒュッと、子気味良い音を立てて放たれた矢は、風を切り裂き、肉竜の右目に当然のように吸い込まれた。
巨体が、どうと地面に崩れ落ちる。
若い兵の、ほんの一歩手前だった。
森が、しんと静まり返った。
「…………」
善治郎は、弓を構えたままの姿勢で固まっていた。
――やっちまった。
ほどほどに、と決めていたのに。
足でいい、と思っていたのに。
静寂を破ったのは、腹の底から響くような笑い声だった。
「……これは。まことにお見事」
プジョル卿が、走竜の上で膝を打っていた。
「走竜の背から、駆ける肉竜の目を一矢で射抜くとは。やはり、それほどの腕前ではない、というのは謙遜でしたな」
「い、いや、なに。たまたまだ……」
善治郎のしどろもどろの弁明を聞いた取り巻きの貴族の一人が笑った。
「まぐれでこれができる者がおれば、我が軍は今頃、大陸中の戦に勝っておりますな!」
周囲からも、どよめきと称賛の声が上がる。
プジョル卿は満面の笑みのまま走竜を寄せてきて、善治郎の肩をばしんと叩いた。
「ゼンジロウ様、やはり貴方は戦士だ。一目見た時からそう思っておりました。いかがです、改めて我が妹を――」
「そ、その話は良いだろう! さて、せっかくの狩りだ、次の獲物を狙おうか」
善治郎は、引きつった笑みを浮かべながら、走竜の腹を蹴って足早にその場から立ち去った。
♦
陽も傾き、獲物の処理も一段落した一行は、ひと息ついていた。
善治郎が仕留めた肉竜などを囲んで、兵や狩人たちが手際よく解体に取り掛かる。
善治郎はそれを、少し離れたところからぼんやりと眺めていた。
――あれ?
狩人の一人が、腰から刃物を抜いた。
刃こぼれだらけの、くすんだ色の小刀だった。
分厚い皮に刃を入れるたびに引っかかり、狩人は何度も刃を当て直している。
隣の兵が取り出した刃物も、似たようなものだ。
気になる。
ものすごく気になる。
――ちょっとだけ。見るだけだから。
善治郎は、小刀に目を凝らし、心の中でそっと唱えた。
――
頭の中に、小刀の設計概念や、製作に使われた技術、構成する材質、骨格となる構造が浮かび上がる。
そこで理解する。
鉄の中に、細かな滓がいくつも残っている。
硬いところと柔らかいところが、まだらに混じり合っている。
鍛えが甘い。
叩き方も、焼きの入れ方も、ばらばらだ。
あれでは、すぐに欠けるし、すぐに鈍る。
――ひどいな、これ。
おそらく、炉の性能がまだ基準に達していないのだ。
善治郎は、思わず周囲を見回した。
談笑している貴族たちの腰には、それぞれ見事な拵えの剣が下がっている。
鞘には細かな装飾が施され、柄には宝石をあしらったものまであった。
さすがに、あれなら。
そう思って目を凝らし、善治郎は小さく眉を寄せた。
確かに、兵や狩人の刃物よりはましだった。
だが、ましというだけだ。
滓の量が少し減り、鍛えが少し丁寧になっただけで、根本のところは似たり寄ったりの品質だった。
――貴族の剣でも、これなのか。
善治郎は、解体の様子に目を戻しながら考える。
これは、刃物だけの話じゃない。
農民が畑を耕す鍬も、木を切る斧も、家を建てる釘も、台所の包丁も。
この国の鉄器は、きっと全部この鉄で作られている。
頭に浮かんだのは、これまで政務の場で耳にしてきた報告だった。
戦で男手を失い、荒れたままの農地。
そこで暮らす未亡人や老人たちが、細腕で振るう鍬。
すぐに欠け、すぐに曲がり、すぐに使い物にならなくなる鍬。
――鉄だ。
鉄を良くすれば、農具が良くなる。
農具が良くなれば、少ない人手でも畑が耕せる。
大工の道具が良くなれば、家も橋も早く建つ。
刃物が良くなれば、仕事が捗る。
一つの改良が、国のあちこちに広がっていく。
しかも鉄の質を上げるのは、魔法ではなく技術の話だ。
故郷の知識だと言えば、きっと通る。
これなら。
善治郎は、まだ肉竜の皮と格闘している狩人の手元を見つめながら、小さく拳を握った。
これなら、功績になる。
♦
狩りから三日後の夜。
政務を終えたアウラは、私室で狩りに同行したイネスからの報告に耳を傾けていた。
「ゼンジロウ様は走竜の背より、駆ける肉竜を一矢にて仕留められた由。寸分違わずに右目を射抜かれました」
「……一矢で、目を」
「はい。同行した貴族の方々も、口々にゼンジロウ様の腕前を称えておられたそうです。プジョル卿は、大いにお喜びのご様子でした」
アウラはしばし黙り込み、それから、ふっと息を吐いた。
弓は比較的得意だ、という話は、以前本人の口から聞いていた。
だがあの人の好い夫のことだ。
どうせ謙遜しているのだろう、本当はもっとできるのだろう、くらいには思っていた。
思ってはいたが。
「ふん、過ぎた謙遜は嫌味になると何度も言っているのだがな」
呆れたようにつぶやいたアウラだが、自分の頬が少し緩むのがわかった。
毎朝の稽古であれだけ自分をあしらっておいて、精神修養だの健康のためだのと言っていたのだから、嫌味にも程がある。
けれど。
貴族たちが口々に夫の腕前を称えていた、と聞いて、胸の奥がほんの少しだけ温かくなったのも事実だった。
「イネス」
「はい」
「プジョルが妹の話を持ち出したら、婿殿はどうしていた」
「その話はまた今度、と、二度ほどお逃げになっていました」
アウラは、今度こそ声を立てて笑った。