理想のオリ主生活 作:松尾シオン
夫婦喧嘩、というものがある。
人類の歴史と同じくらい古い。たぶん、最初の人類の夫婦が、最初の洞窟で、最初の焚き火を囲んだその晩には、もう始まっていた。火の番をどっちがするかで揉めたのか、獲ってきた獲物の分け方で揉めたのか、それとも洞窟の入り口に脱ぎっぱなしにされた毛皮で揉めたのかは知らない。知らないが、始まっていたことだけは間違いない。そして人類が最後の一組になったとしても、その一組はきっと、どこかで何かを巡って揉めている。
夫婦喧嘩には、型がある。
始まりは、たいてい些細だ。
皿の置き場所。
脱ぎっぱなしの靴下。
連絡のなかった帰りの遅さ。
前にも言ったよね、という、例の一言。
些細なことから始まって、些細なことでは終わらない。これが夫婦喧嘩のいちばん恐ろしいところである。どこかの時点で、話は皿や靴下の手を離れ、「そもそもあなたは」という、地平線まで何もない荒野へと飛び出していく。そうなったら、もう誰にも止められない。過去の出来事が次々と掘り返され、三年前の誕生日の一件が、まるで昨日のことのように蘇る。互いの言い分は、二本の線路のようにどこまでも平行に伸びていき、最後には、どちらかが黙り込むか、どちらかが家を出るか、あるいは二人とも疲れ果ててそのまま寝てしまう。
賢い人は言う。
喧嘩するほど仲が良い、と。
別の賢い人は言う。
雨降って地固まる、と。
だが、雨が降っている最中の当事者にとって、そんな格言は傘の代わりにもならない。濡れているのは自分なのだ。地面が固まるのは、ずっと後の話である。
そして、夫婦喧嘩には、もうひとつ厄介な種類がある。
どちらも、間違っていない喧嘩だ。
どちらも、相手のことを、あるいは二人にとって大切な何かのことを、心の底から考えている。考えているからこそ、譲れない。譲れないから、ぶつかる。悪者がどこにもいないので、謝る側も決まらない。
悪者のいない喧嘩ほど、出口の見えないものはない。
カープァ王国の女王夫妻は、結婚してから一年あまり、ただの一度も喧嘩をしたことがなかった。
理由は簡単である。
夫の方が、たいていのことに頷いてしまうからだ。
頷く男と、決める女。
これほど喧嘩の起こりにくい組み合わせも、そうはない。
その夫婦が今、生まれて初めての夫婦喧嘩の、一歩手前に立っていた。
♦
カルロス・善吉・カープァは、赤斑熱に罹っていた。
顔にも体にも、赤い斑点が散る熱病である。斑点そのものは痛くも痒くもない。その代わり、高い熱が何日も居座り、喉が腫れ上がる。熱が出ているのは、だいたい三日。体力のある大人なら、静かに寝て滋養をとっていれば、まず命を落とすことはない。
体力のない乳飲み子と年寄りは、別だ。
後宮の奥の、小さな部屋。
小さな寝台。
その上の、小さな体。
善吉は、浅い息を繰り返していた。熱で赤くなった頬に、さらに赤い斑点が、ぽつり、ぽつりと散っている。いつもなら、腹が減っただの抱っこしろだので王宮中に響く声で泣く子が、今はその泣く力すら、あまり残っていないようだった。
「侍医の見立てでは、九割方は助かるだろう、とのことだ」
隣の控えの間で、アウラが言った。
善治郎は、開いた扉の向こうの息子から目を離せないまま、その言葉を聞いていた。
九割。
九割は、助かる。
十人いれば、九人は助かる。
つまり、十人のうち一人は。
「……アウラ」
「何だ」
「治癒の秘石、使えないかな」
アウラの眉が、ほんのわずかに動いた。
治癒の秘石。
カープァ王家の宝物庫の奥に、大事に大事にしまわれている、双王国の魔道具だ。どんな傷も、どんな病も癒すという。
アウラは、すぐには答えなかった。
考えている顔だった。
夫の言葉を、頭ごなしに撥ねつけたりはしない。この人は、いつだってそうだ。どんなに馬鹿げた提案でも、一度はちゃんと手のひらに乗せて、重さを量ってから答える。
やがて、アウラは静かに首を振った。
「ならぬ」
「でも」
「治癒の秘石は、もう三つしか残っておらぬ。そのうちの一つを、九割方助かると侍医が言う赤子に使えば、貴族どもが黙っておらぬ」
「善吉は、王子だよ」
「わかっておる」
アウラの声は、低く、硬かった。
石畳みたいな声だった。
「だが、あの秘石は、王家の私物ではない。国の命綱だ。私が倒れた時。そなたが倒れた時。国そのものが揺らぐような事が起きた時。そのために取ってある」
アウラは、ほんの一瞬だけ、言葉を切った。
「……カルロスは、今いなくなったとしても、すぐに国政が傾くわけではない。王族であろうと、それだけの者に、秘石は使えぬ」
善治郎は、何かを言おうとした。
言えなかった。
アウラの言っていることは、正しい。
女王としては、たぶん、どこからどう見ても正しい。
頭ではわかっている。
わかっているのに、胸の奥で、何かがじりじりと焦げついていく。
いなくなっても、すぐに国政に影響が出るわけではない。
自分たちの息子のことを、そんなふうに言うのか。
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
侍女たちが、気配を消しながら、じりじりと壁際まで下がっていった。王宮に仕える者は、空気の重さを量る天秤を、たいてい一台ずつ胸の中に持っている。その天秤が今、一斉に同じ方向へ傾いたのだ。
アウラは、夫の顔を見なかった。
善治郎も、アウラの顔を見なかった。
これは、たぶん。
初めての夫婦喧嘩というやつの、玄関先だ。
そう思った時、善治郎は、ふと気がついた。
自分は今、何を責めようとしているのか。
アウラは、女王として、国のために正しいことを言った。秘石は三つしかない。使えば国の命綱が細くなる。九割方助かる子に使えば、王家が私情で国の宝を使ったと言われる。
一方、自分はどうだ。
回復魔法が、使える。
ゲームで一番すごい回復呪文だ。たぶん、赤斑熱どころか、もっとずっとひどい病だって治せる。
それを使えばいい。
使えば、それで済む。
なのに、使ったら正体がばれるかもしれないから、と、黙っている。
自分の身を守るために、黙っている。
国のために秘石を惜しむ女と、自分のために力を隠す男。
どちらが、より身勝手なのか。
天秤なんか使わなくても、答えは最初から出ていた。
自分に、アウラを責める資格なんて、これっぽっちもありはしないのだ。
「……アウラ」
善治郎は、顔を上げた。
「ちょっと、二人だけで話したいことがある。みんなを、下がらせてもらえないかな」
アウラは、夫の顔を見た。
何かを量るような目だった。
しばらくして、アウラは小さく頷き、侍女たちに目で合図をした。侍女たちはほっとしたような顔で一礼し、音もなく部屋を出て行った。扉のそばに控えていたイネスも、最後に一礼して、静かに扉を閉めた。
控えの間に、二人だけが残った。
開いたままの隣の部屋から、善吉の、浅い息の音がかすかに聞こえていた。
♦
「まず、ごめん」
善治郎は、頭を下げた。
「さっき、アウラを責めるみたいな言い方になった。アウラは、正しいことを言ってた。女王として、当たり前のことを。それなのに」
アウラは、目を瞬かせた。
まさか、謝られるとは思っていなかったらしい。
これから喧嘩が始まるのだと、たぶん、身構えていたのだ。夫婦喧嘩の初心者は、二人そろって玄関先で靴を脱ぎかけたまま、固まっていたのである。
アウラの表情が、ふっと緩んだ。
「……いや。そなたが、カルロスのために、あれほど食い下がってくれたのだ。嬉しかった。母として、な」
その言葉が、善治郎の胸に、まっすぐ刺さった。
嬉しかった、と。
この人は、そう言うのだ。
善治郎は、もう一度、頭を下げた。
さっきより、深く。
「……ごめん。もうひとつ、謝らなきゃいけないことがある」
「もうひとつ?」
「俺、アウラに隠しごとをしてる」
アウラは、黙った。
「新しい溶鉱炉のこととか、熱に強い窯のこととか。それから、俺の鍛冶の腕が、どう考えてもおかしいこととか。そういうのに、全部関係してることなんだ」
善治郎は、顔を上げて、まっすぐにアウラを見た。
「聞いたら、たぶん、アウラは怒ると思う。離縁だって言われても、仕方ないと思ってる。でも、話させてほしい」
アウラは、少しだけ気圧されたように、夫の顔を見返した。
初めて見る目だった。
一年間、のんびりと笑い、困ったように頭を掻き、気まずくなると決まって目を逸らしてきた男である。その男が今、少しも、本当に少しも目を逸らさずに、こちらを見ている。
覚悟の決まった目だった。
アウラは、小さく息を吐いた。
そして、苦笑した。
「……いつ話してくれるのかと、思っておったぞ」
「え」
「気づいておらぬとでも思ったか。頭を打ってからこちら、そなたの様子がおかしいことくらい、とうにわかっておる。イネスからも、毎日のように報告が来ておったしな」
善治郎は、口をぱくぱくさせた。
金魚みたいだった。
南大陸に金魚はいないが、もしいたら、たぶんこういう顔をしている。
アウラは、腕を組んだ。
「それと、ひとつ言っておく。今更、そなたを放り出したりなどせぬ。……では、聞かせてもらおう」
善治郎は、しばらく呆然としていた。
見抜かれていた。
とっくに。
毎日、報告されていた。
そして、放り出したりしない、と。
この人は、まだ何も聞いていないうちから、そう言い切ったのだ。
肩から、すとんと力が抜けた。
善治郎は、すべてを話した。
アウラに頭を打たれたあの日、前世の記憶のようなものを思い出したこと。
それと一緒に、忘れていた力も、まとめて思い出したこと。
物の中身が丸ごと見えてしまう目のこと。
何かを作ろうとすると、手が勝手に職人みたいに動いてしまうこと。
あの剣を打った時、体の奥から、剣というものの全てを知り尽くした何かが目を覚ましたこと。
アウラは、黙って聞いていた。
前世の記憶。
にわかには信じがたい話だった。人の魂が、生まれる前のことを覚えているなどということが、本当にあるのだろうか。
だが。
少し前まで、魔力の扱いひとつにもまごついていた夫が、ある日突然、熟練の職人のような手つきで煉瓦を焼き、水車を組み、剣を打ち始めた。イネスの報告も、確かにそう言っていた。
趣味の領域の練度ではない、と。
辻褄は、合う。
腹立たしいほど、きれいに合う。
「……なるほどな」
アウラは、ゆっくりと頷いた。
話は、これで終わりだろう。
そう思った。
「それと」
善治郎が、続けた。
「……それと?」
「魔法、っていうか、魔術も使える」
アウラの動きが、止まった。
「俺の前世の世界の魔術。剣とか、いろんな物を、魔力で作り出す魔術。それから、回復魔法。たぶん、かなりすごいやつ。あと、魔法の道具も、たぶん作れる」
沈黙が落ちた。
重い、というのとは少し違う。音という音が、どこかへ逃げ出してしまったような沈黙だった。
アウラの口元が、ひくりと動いた。
笑っているのか、引きつっているのか、本人にもよくわからない形だった。
「……あ、あまり、からかうな」
声が、少し震えていた。
「からかってない」
善治郎は、静かに首を振った。
「本当なんだ。たぶん、治癒の秘石も、見せてもらえれば、似たようなものなら作れると思う」
アウラは、もう何も言わなかった。
「……しばし、待て」
それだけ言って、アウラは腕を組み、俯いた。
そして、そのまま動かなくなった。
腕を組んだ指だけが、とん、とん、とん、と、一定の拍子で二の腕を叩いている。
とん、とん、とん。
善治郎は、その指の動きを、息をするのも忘れて見つめていた。
怖い。
怒鳴られる方が、まだましだった。
とん、とん、とん。
拍子が、一度も乱れない。
乱れないのが、また怖い。
この人の頭の中では今、いったい何が、どういう勢いで回っているのか。
国益か。王家の血か。双王国か。戦か。離縁か。どこかの塔のてっぺんか。
善治郎の想像力は、こういう時に限って、実に勤勉に働いてくれる。
とん、とん、とん。
とん、とん、とん。
たぶん、三分くらいだった。
善治郎の体感では、三日くらいだった。
三日の間に、善治郎は塔のてっぺんで暮らす自分の老後を、だいたい最後まで想像し終えていた。
やがて、アウラは顔を上げた。
大きく、深く、溜息をついた。
国ひとつ分くらいの重さがありそうな溜息だった。
「……ゼンジロウ」
「は、はい」
「もう一度言う。私はな、今更そなたを手放す気はない」
アウラは、まっすぐに夫を見た。
「だからそなたも、二度と私にこのような隠しごとをするな」
善治郎は、何度も、何度も頷いた。
「……うん。ごめん。本当に、ごめん」
アウラは、もう一度だけ、溜息をついた。
今度の溜息は、少しだけ軽かった。
それから、女王の顔に戻った。
「持っているものは、もう仕方がない。だが、ひとつだけ、固く約束せよ」
「うん」
「人前では、決して使うな。物を作り出す魔術と、回復魔法は、特にだ」
その声は、ひどく真剣だった。
「付与魔法と治癒魔法は、双王国の血統魔法だ。やり方が違おうが何だろうが、同じ種類の力を、余所の国の者が使っている。それが知れた時点で、即、戦になる」
善治郎は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……わかった。絶対に使わない」
頷いてから、善治郎は少し考えた。
「でもさ、アウラ」
「何だ」
「秘密って、いつかはばれるものだと思うんだ。俺がどれだけ気をつけても、いつか、どこかで、何かの拍子に。それに、もしかしたら、善吉にもこの力が受け継がれてるかもしれない」
「…………」
「だったら、ばれてから慌てるより、今のうちに手を打った方がいいと思う。ちょうど今、双王国はガラス玉が欲しくてたまらない。向こうでのガラス玉の値打ちがとんでもなく高い今なら、交渉で何とかならないかな」
アウラは、腕を組んだまま、しばらく考え込んだ。
とん、と一度だけ、指が二の腕を叩いた。
「……確かに、その方が良いだろう」
そして、ふと、顔を上げた。
「だが、その前に」
「うん?」
「そなたの、その回復魔法とやらを、私とカルロスに見せてくれ」
善治郎は、一瞬、きょとんとした。
それから、その言葉の意味が、ゆっくりと、乾いた土に水が染みていくように、胸の奥まで届いた。
顔いっぱいに、笑みが広がった。
「……ああ!」
善治郎は扉を開け、廊下に控えていた侍女に声をかけた。
そして二人は、並んで、隣の部屋へと歩いていった。