静寂だった。
いつもなら生徒たちの相談や依頼で賑わうシャーレ本部。
書類を抱えて走る足音や、生徒たちの笑い声が絶えないその場所は、今だけは異様なほど静まり返っていた。
その沈黙の中心で、七神リンは一枚の紙を見つめていた。
白い紙。
黒い文字。
そして、一番上に書かれた二文字。
『辞表。』
理解できない。
いや、理解したくなかった。
リンはゆっくりと顔を上げる。
机の向こうには、一人の先生が立っていた。
いつもと変わらない制服。
いつもと変わらない穏やかな笑顔。
それなのに、その表情だけはどこか遠く、まるで長い戦いを終えた人間のような疲れを滲ませていた。
「……先生。」
リンの声は自然と震えていた。
「これは、何ですか。」
先生は少しだけ目を伏せる。
そして静かに答えた。
「辞表です。」
あまりにも落ち着いた返事だった。
まるで、今日の天気を話すような穏やかさ。
だからこそ現実味がなかった。
「辞表……?」
「はい。」
「どうしてですか。」
リンは一歩前へ出る。
「何か問題があったなら、生徒会で対応します。予算でも、人員でも、できる限り手を尽くします!」
先生は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
その一言だけで、リンの胸は締め付けられる。
感謝ではない。
諦めの笑顔だった。
「ですが、もう決めました。」
リンは机に手をつく。
「先生!」
乾いた音が部屋に響く。
「先生がいなくなったら、シャーレはどうなるんですか!」
先生は窓の外へ視線を向けた。
校庭では今日も生徒たちが笑い合っている。
誰かが走り、誰かが転び、誰かが手を差し伸べる。
そんな当たり前の日常を眺めながら、小さく呟いた。
「私は先生です。」
「だから、生徒を助けるのが仕事です。」
一度だけ息を吐く。
「でも最近は、生徒を助ける前に、自分が壊れてしまいそうなんです。」
リンは言葉を失った。
先生は淡々と続ける。
「朝から晩まで相談を受けて。」
「学園同士の問題を仲裁して。」
「書類を書いて。」
「作戦を立てて。」
「ようやく一人を助けたと思えば、別の誰かが泣いている。」
静かな声だった。
叫びでもない。
愚痴でもない。
ただ事実を並べるような口調が、かえって胸を刺した。
「終わらないんです。」
先生は少しだけ笑う。
「私も、人間だったみたいです。」
その笑顔を見た瞬間、リンは理解した。
この人はもう限界なのだと。
引き止める言葉が見つからない。
何を言っても、この人をさらに苦しめるだけなのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
先生は一歩下がると、深々と頭を下げた。
「短い間でしたが、お世話になりました。」
その言葉を最後に、踵を返す。
扉が静かに開き、閉まる。
部屋には辞表だけが残された。
「……先生。」
リンは動けなかった。
机の上の紙を見つめることしかできない。
先生が辞める。
そんな未来を、一度も想像したことがなかった。
その時だった。
「リンさん!」
勢いよく扉が開き、一人の生徒が飛び込んでくる。
「先生が外へ歩いていくのを見ました! どこかへ行くんですか?」
リンは答えられない。
口を開いても、声が出なかった。
「……リンさん?」
生徒の視線が机へ落ちる。
辞表。
その文字を見た瞬間、表情が凍り付いた。
「嘘……ですよね?」
誰も答えない。
その沈黙だけで十分だった。
「先生が……辞める?」
その呟きは廊下へ漏れ、瞬く間に広がっていく。
「え?」
「先生が?」
「どういうこと?」
ざわめきがシャーレ全体を包み込む。
相談に来ていた生徒。
依頼を持ってきた生徒。
偶然通りかかった生徒。
皆が足を止め、不安そうな表情で顔を見合わせる。
誰も信じられない。
しかし、誰も否定できなかった。
リンは静かに辞表を握り締める。
震えているのは紙ではない。
自分の手だった。
「……まだ。」
小さく呟く。
「まだ、間に合います。」
その言葉は、自分自身へ向けたものだった。
リンは辞表を抱え、部屋を飛び出す。
向かう先は、シャーレ最深部。
限られた者しか立ち入ることを許されない極秘区画だった。
認証装置が次々と作動する。
重い隔壁がゆっくりと開いていく。
その先の部屋には、一冊の巨大な本が静かに浮かんでいた。
純白の表紙。
黄金の装飾。
神秘的な光を放つその本は、まるでこの世界の理そのものを記しているかのようだった。
**生命の書。**
その隣には、一人の少女が眠っている。
淡い桃色の髪。
雪のように白い肌。
感情という概念すら存在しないかのような、静かな寝顔。
リンはゆっくりと歩み寄る。
「……ミコリ。」
その名を呼んだ瞬間。
少女の瞳が静かに開かれた。
宝石のような桃色の瞳が、まっすぐリンを映す。
表情は変わらない。
驚きも、戸惑いも、感情らしいものは何一つ見えない。
ただ機械のように、少女は小さく口を開いた。
「……救援申請を確認しました。」
静かな声だった。
抑揚はない。
感情も感じられない。
眠っていた少女はゆっくりと身体を起こすと、リンへ視線を向けた。
「対象案件を照会します。」
「先生の退職案件です。」
リンは短く答えた。
「受理。」
それだけ告げると、少女――ミコリは生命の書へ手をかざす。
次の瞬間、本が淡い光を放ち始めた。
無数の文字が宙へ浮かび上がる。
数字。
名前。
組織図。
誰にも読めない情報が次々と流れていく。
リンはただ見守ることしかできなかった。
数秒後、ミコリは小さく口を開く。
「危機レベルA。」
「シャーレ機能維持率、二十八パーセント。」
「先生不在による生徒支援能力、著しく低下。」
「現状のままでは七十二時間以内に各学園への影響が発生します。」
リンは息を呑んだ。
「……そんなに。」
「はい。」
「通常対応では解決不能。」
「モームリへの案件移管を推奨します。」
リンはゆっくりと頷いた。
もう迷いはなかった。
「お願いします。」
ミコリは再び生命の書へ手を伸ばす。
「案件番号十九。」
「対象世界、接続開始。」
生命の書のページが独りでにめくられていく。
一ページ。
二ページ。
十ページ。
百ページ。
止まることなく進み続ける。
やがて一枚のページで静止した。
そこに映し出されたのは、一人の男の情報だった。
リンは思わず目を細める。
「この人が……。」
白石修司。
年齢、三十一歳。
職業。
経営コンサルタント。
それ以外の情報は閲覧権限が設定されているのか、黒く塗り潰されていた。
リンは首を傾げる。
「経営……コンサルタント?」
教師ではない。
軍人でもない。
傭兵でもない。
キヴォトスでは聞き慣れない肩書きだった。
「本当にこの人なんですか?」
ミコリは即答する。
「適合率九十九・九八パーセント。」
「モームリ登録案件。」
「十八件完了。」
「成功率百パーセント。」
その数字にリンは思わず目を見開く。
「十八件……?」
「はい。」
「担当した全案件を解決済み。」
「今回が十九件目です。」
リンは言葉を失う。
先生専門の支援組織。
そんなものが存在していたことすら知らなかった。
「転送を開始します。」
生命の書がさらに強く輝く。
部屋全体が白い光に包まれた。
その光は徐々に一か所へ集まり、人の形を作っていく。
輪郭が現れる。
肩。
腕。
足。
そして、一人の男が静かに姿を現した。
真っ白な髪。
紺色のスーツ。
片手には黒いアタッシュケース。
まるで長年仕事を続けてきた営業マンのような雰囲気だった。
男は周囲を見回す。
焦りはない。
驚きもない。
初めて訪れた場所とは思えないほど落ち着いていた。
リンは恐る恐る口を開く。
「あの……。」
男は視線だけを向ける。
「初めまして。」
そう言おうとしたリンの言葉を遮るように、男は静かに首を横へ振った。
「違います。」
「え……?」
「あなたにとっては初対面でしょう。」
男は淡々と言葉を続ける。
「ですが、私にとっては。」
ほんの少しだけ周囲を見渡す。
部屋。
生命の書。
ミコリ。
リン。
その全てを一瞥し、静かに告げた。
「十九件目です。」
その一言に、リンは固まった。
「十九件……?」
「はい。」
男はそれ以上説明しない。
代わりに床へ視線を落とす。
そこにはリンが握り締めていた辞表が落ちていた。
男はそれを拾い上げる。
一文字ずつ目を通す。
数秒。
静かに紙を閉じる。
「退職理由は。」
リンは小さく俯く。
「過労です。」
「精神的にも、もう限界だったと……。」
男は何も言わない。
アタッシュケースを床へ置く。
留め具を外す。
中から取り出したのは銃でも武器でもなかった。
薄型のノートパソコン。
電源を入れる。
慣れた手付きで画面を開く。
「七神リンさん。」
「は、はい。」
「確認します。」
キーボードを叩く音だけが部屋へ響く。
「組織図。」
「現在の人員配置。」
「業務内容。」
「先生の一週間の勤務記録。」
「生徒からの相談件数。」
「未処理案件。」
矢継ぎ早に並ぶ確認事項。
リンは圧倒される。
この男は先生の安否を聞かない。
励ましもしない。
慰めもしない。
最初に見ているのは、人ではなく組織だった。
「先生を追いかけなくていいんですか?」
思わず口をついて出た。
男は画面から目を離さない。
「必要ありません。」
「え……?」
「辞める人間を止めても解決しません。」
静かな声だった。
しかし、その言葉には不思議な説得力があった。
男はゆっくりと画面を閉じる。
そして初めてリンの目を見る。
「先生は壊れたのではありません。」
「壊したのは組織です。」
リンは息を呑んだ。
男はアタッシュケースを閉じる。
「ならば直すべきものは一つ。」
ほんのわずかに口元が動く。
「組織です。」
その言葉と同時に、シャーレの時計が静かに時を刻んだ。
白石修司。
経営コンサルタント。
先生を引き止めるためではない。
二度と先生が辞めなくて済む組織を作るために。
十九件目の案件が、静かに幕を開けた。