先生はモームリ   作:風神ぷー

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第一話 先生はモームリ

静寂だった。

 

いつもなら生徒たちの相談や依頼で賑わうシャーレ本部。

 

書類を抱えて走る足音や、生徒たちの笑い声が絶えないその場所は、今だけは異様なほど静まり返っていた。

 

その沈黙の中心で、七神リンは一枚の紙を見つめていた。

 

白い紙。

 

黒い文字。

 

そして、一番上に書かれた二文字。

 

 

『辞表。』

 

 

理解できない。

 

いや、理解したくなかった。

 

リンはゆっくりと顔を上げる。

 

机の向こうには、一人の先生が立っていた。

 

いつもと変わらない制服。

 

いつもと変わらない穏やかな笑顔。

 

それなのに、その表情だけはどこか遠く、まるで長い戦いを終えた人間のような疲れを滲ませていた。

 

「……先生。」

 

リンの声は自然と震えていた。

 

「これは、何ですか。」

 

先生は少しだけ目を伏せる。

 

そして静かに答えた。

 

「辞表です。」

 

あまりにも落ち着いた返事だった。

 

まるで、今日の天気を話すような穏やかさ。

 

だからこそ現実味がなかった。

 

「辞表……?」

 

「はい。」

 

「どうしてですか。」

 

リンは一歩前へ出る。

 

「何か問題があったなら、生徒会で対応します。予算でも、人員でも、できる限り手を尽くします!」

 

先生は優しく微笑んだ。

 

「ありがとうございます。」

 

その一言だけで、リンの胸は締め付けられる。

 

感謝ではない。

 

諦めの笑顔だった。

 

「ですが、もう決めました。」

 

リンは机に手をつく。

 

「先生!」

 

乾いた音が部屋に響く。

 

「先生がいなくなったら、シャーレはどうなるんですか!」

 

先生は窓の外へ視線を向けた。

 

校庭では今日も生徒たちが笑い合っている。

 

誰かが走り、誰かが転び、誰かが手を差し伸べる。

 

そんな当たり前の日常を眺めながら、小さく呟いた。

 

「私は先生です。」

 

「だから、生徒を助けるのが仕事です。」

 

一度だけ息を吐く。

 

「でも最近は、生徒を助ける前に、自分が壊れてしまいそうなんです。」

 

リンは言葉を失った。

 

先生は淡々と続ける。

 

「朝から晩まで相談を受けて。」

 

「学園同士の問題を仲裁して。」

 

「書類を書いて。」

 

「作戦を立てて。」

 

「ようやく一人を助けたと思えば、別の誰かが泣いている。」

 

静かな声だった。

 

叫びでもない。

 

愚痴でもない。

 

ただ事実を並べるような口調が、かえって胸を刺した。

 

「終わらないんです。」

 

先生は少しだけ笑う。

 

「私も、人間だったみたいです。」

 

その笑顔を見た瞬間、リンは理解した。

 

この人はもう限界なのだと。

 

引き止める言葉が見つからない。

 

何を言っても、この人をさらに苦しめるだけなのではないか。

 

そんな考えが頭をよぎる。

 

先生は一歩下がると、深々と頭を下げた。

 

「短い間でしたが、お世話になりました。」

 

その言葉を最後に、踵を返す。

 

扉が静かに開き、閉まる。

 

部屋には辞表だけが残された。

 

「……先生。」

 

リンは動けなかった。

 

机の上の紙を見つめることしかできない。

 

先生が辞める。

 

そんな未来を、一度も想像したことがなかった。

 

その時だった。

 

「リンさん!」

 

勢いよく扉が開き、一人の生徒が飛び込んでくる。

 

「先生が外へ歩いていくのを見ました! どこかへ行くんですか?」

 

リンは答えられない。

 

口を開いても、声が出なかった。

 

「……リンさん?」

 

生徒の視線が机へ落ちる。

 

辞表。

 

その文字を見た瞬間、表情が凍り付いた。

 

「嘘……ですよね?」

 

誰も答えない。

 

その沈黙だけで十分だった。

 

「先生が……辞める?」

 

その呟きは廊下へ漏れ、瞬く間に広がっていく。

 

「え?」

 

「先生が?」

 

「どういうこと?」

 

ざわめきがシャーレ全体を包み込む。

 

相談に来ていた生徒。

 

依頼を持ってきた生徒。

 

偶然通りかかった生徒。

 

皆が足を止め、不安そうな表情で顔を見合わせる。

 

誰も信じられない。

 

しかし、誰も否定できなかった。

 

リンは静かに辞表を握り締める。

 

震えているのは紙ではない。

 

自分の手だった。

 

「……まだ。」

 

小さく呟く。

 

「まだ、間に合います。」

 

その言葉は、自分自身へ向けたものだった。

 

リンは辞表を抱え、部屋を飛び出す。

 

向かう先は、シャーレ最深部。

 

限られた者しか立ち入ることを許されない極秘区画だった。

 

認証装置が次々と作動する。

 

重い隔壁がゆっくりと開いていく。

 

その先の部屋には、一冊の巨大な本が静かに浮かんでいた。

 

純白の表紙。

 

黄金の装飾。

 

神秘的な光を放つその本は、まるでこの世界の理そのものを記しているかのようだった。

 

**生命の書。**

 

その隣には、一人の少女が眠っている。

 

淡い桃色の髪。

 

雪のように白い肌。

 

感情という概念すら存在しないかのような、静かな寝顔。

 

リンはゆっくりと歩み寄る。

 

「……ミコリ。」

 

その名を呼んだ瞬間。

 

少女の瞳が静かに開かれた。

 

宝石のような桃色の瞳が、まっすぐリンを映す。

 

表情は変わらない。

 

驚きも、戸惑いも、感情らしいものは何一つ見えない。

 

ただ機械のように、少女は小さく口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「……救援申請を確認しました。」

 

静かな声だった。

 

抑揚はない。

 

感情も感じられない。

 

眠っていた少女はゆっくりと身体を起こすと、リンへ視線を向けた。

 

「対象案件を照会します。」

 

「先生の退職案件です。」

 

リンは短く答えた。

 

「受理。」

 

それだけ告げると、少女――ミコリは生命の書へ手をかざす。

 

次の瞬間、本が淡い光を放ち始めた。

 

無数の文字が宙へ浮かび上がる。

 

数字。

 

名前。

 

組織図。

 

誰にも読めない情報が次々と流れていく。

 

リンはただ見守ることしかできなかった。

 

数秒後、ミコリは小さく口を開く。

 

「危機レベルA。」

 

「シャーレ機能維持率、二十八パーセント。」

 

「先生不在による生徒支援能力、著しく低下。」

 

「現状のままでは七十二時間以内に各学園への影響が発生します。」

 

リンは息を呑んだ。

 

「……そんなに。」

 

「はい。」

 

「通常対応では解決不能。」

 

「モームリへの案件移管を推奨します。」

 

リンはゆっくりと頷いた。

 

もう迷いはなかった。

 

「お願いします。」

 

ミコリは再び生命の書へ手を伸ばす。

 

「案件番号十九。」

 

「対象世界、接続開始。」

 

生命の書のページが独りでにめくられていく。

 

一ページ。

 

二ページ。

 

十ページ。

 

百ページ。

 

止まることなく進み続ける。

 

やがて一枚のページで静止した。

 

そこに映し出されたのは、一人の男の情報だった。

 

リンは思わず目を細める。

 

「この人が……。」

 

白石修司。

 

年齢、三十一歳。

 

職業。

 

経営コンサルタント。

 

それ以外の情報は閲覧権限が設定されているのか、黒く塗り潰されていた。

 

リンは首を傾げる。

 

「経営……コンサルタント?」

 

教師ではない。

 

軍人でもない。

 

傭兵でもない。

 

キヴォトスでは聞き慣れない肩書きだった。

 

「本当にこの人なんですか?」

 

ミコリは即答する。

 

「適合率九十九・九八パーセント。」

 

「モームリ登録案件。」

 

「十八件完了。」

 

「成功率百パーセント。」

 

その数字にリンは思わず目を見開く。

 

「十八件……?」

 

「はい。」

 

「担当した全案件を解決済み。」

 

「今回が十九件目です。」

 

リンは言葉を失う。

 

先生専門の支援組織。

 

そんなものが存在していたことすら知らなかった。

 

「転送を開始します。」

 

生命の書がさらに強く輝く。

 

部屋全体が白い光に包まれた。

 

その光は徐々に一か所へ集まり、人の形を作っていく。

 

輪郭が現れる。

 

肩。

 

腕。

 

足。

 

そして、一人の男が静かに姿を現した。

 

真っ白な髪。

 

紺色のスーツ。

 

片手には黒いアタッシュケース。

 

まるで長年仕事を続けてきた営業マンのような雰囲気だった。

 

男は周囲を見回す。

 

焦りはない。

 

驚きもない。

 

初めて訪れた場所とは思えないほど落ち着いていた。

 

リンは恐る恐る口を開く。

 

「あの……。」

 

男は視線だけを向ける。

 

「初めまして。」

 

そう言おうとしたリンの言葉を遮るように、男は静かに首を横へ振った。

 

「違います。」

 

「え……?」

 

「あなたにとっては初対面でしょう。」

 

男は淡々と言葉を続ける。

 

「ですが、私にとっては。」

 

ほんの少しだけ周囲を見渡す。

 

部屋。

 

生命の書。

 

ミコリ。

 

リン。

 

その全てを一瞥し、静かに告げた。

 

「十九件目です。」

 

その一言に、リンは固まった。

 

「十九件……?」

 

「はい。」

 

男はそれ以上説明しない。

 

代わりに床へ視線を落とす。

 

そこにはリンが握り締めていた辞表が落ちていた。

 

男はそれを拾い上げる。

 

一文字ずつ目を通す。

 

数秒。

 

静かに紙を閉じる。

 

「退職理由は。」

 

リンは小さく俯く。

 

「過労です。」

 

「精神的にも、もう限界だったと……。」

 

男は何も言わない。

 

アタッシュケースを床へ置く。

 

留め具を外す。

 

中から取り出したのは銃でも武器でもなかった。

 

薄型のノートパソコン。

 

電源を入れる。

 

慣れた手付きで画面を開く。

 

「七神リンさん。」

 

「は、はい。」

 

「確認します。」

 

キーボードを叩く音だけが部屋へ響く。

 

「組織図。」

 

「現在の人員配置。」

 

「業務内容。」

 

「先生の一週間の勤務記録。」

 

「生徒からの相談件数。」

 

「未処理案件。」

 

矢継ぎ早に並ぶ確認事項。

 

リンは圧倒される。

 

この男は先生の安否を聞かない。

 

励ましもしない。

 

慰めもしない。

 

最初に見ているのは、人ではなく組織だった。

 

「先生を追いかけなくていいんですか?」

 

思わず口をついて出た。

 

男は画面から目を離さない。

 

「必要ありません。」

 

「え……?」

 

「辞める人間を止めても解決しません。」

 

静かな声だった。

 

しかし、その言葉には不思議な説得力があった。

 

男はゆっくりと画面を閉じる。

 

そして初めてリンの目を見る。

 

「先生は壊れたのではありません。」

 

「壊したのは組織です。」

 

リンは息を呑んだ。

 

男はアタッシュケースを閉じる。

 

「ならば直すべきものは一つ。」

 

ほんのわずかに口元が動く。

 

「組織です。」

 

その言葉と同時に、シャーレの時計が静かに時を刻んだ。

 

白石修司。

 

経営コンサルタント。

 

先生を引き止めるためではない。

 

二度と先生が辞めなくて済む組織を作るために。

 

十九件目の案件が、静かに幕を開けた。

 

 




イメージ図です。


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