先生はモームリ   作:風神ぷー

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もし良かったら感想書いて頂けると嬉しいな☺️


第十話 休み方を知らない教師

 

 

先生が休暇へ入って、七日目。

 

朝のキヴォトスは、今日も穏やかだった。

 

駅前では制服姿の生徒たちが友人と笑い合いながら登校し、商店街には開店準備を進める店員たちの姿がある。

 

遠くでは列車がホームへ滑り込み、その発車ベルが街の喧騒へ溶け込んでいく。

 

何気ない朝。

 

事件も事故もない、いつも通りの景色だった。

 

その街並みを、小さな喫茶店の窓際から静かに眺める人物がいる。

 

先生だった。

 

テーブルの上には、湯気を立てるコーヒーカップが一つ。

 

香ばしい香りが漂っている。

 

それでも先生は、ほとんど口を付けようとしなかった。

 

視線は何度もテーブルへ置かれたスマートフォンへ向かう。

 

画面を開く。

 

通知はない。

 

メールも。

 

着信も。

 

シャーレからの連絡も、一件も届いていない。

 

画面を閉じる。

 

コーヒーを一口飲む。

 

窓の外を見る。

 

……数十秒後。

 

またスマートフォンを手に取っていた。

 

「……また、見ちゃった。」

 

小さく苦笑する。

 

自分でも分かっている。

 

確認したところで何も変わらない。

 

それでも、指は勝手に画面を開いてしまう。

 

休暇へ入った初日はもっと酷かった。

 

十分おきに通知を確認し、音が鳴った気がしては慌てて画面を開く。

 

実際には何も届いていない。

 

それでも「見落としているだけかもしれない」という考えが頭から離れなかった。

 

二日目も。

 

三日目も。

 

同じことを繰り返した。

 

七日目になった今、回数は少し減った。

 

それでも完全にはやめられない。

 

先生はスマートフォンを伏せる。

 

ふと気付く。

 

コーヒーは、もうすっかり冷めていた。

 

「あ……。」

 

いつからだろう。

 

運ばれてきた時には湯気が立っていたはずだ。

 

それなのに、一口飲んだきり、ずっと手を付けていなかった。

 

先生は少しだけ申し訳なさそうな顔でカップを持ち上げる。

 

ぬるくなったコーヒーを口に含む。

 

味は変わっていない。

 

けれど、どこか物足りなかった。

 

「何をやってるんだろう、私。」

 

そう呟いた瞬間、店員が新しい水を持ってきた。

 

「おかわり、お持ちしましょうか?」

 

「あ、いえ……大丈夫です。」

 

店員は柔らかく微笑み、一礼して去っていく。

 

その背中を見送りながら、先生は窓ガラスへ映る自分の姿をぼんやり見つめた。

 

疲れた顔をしている。

 

休暇へ入って一週間。

 

本来なら少しは表情も柔らかくなっているはずだった。

 

それなのに、自分はまだ仕事のことばかり考えている。

 

「リンは、大丈夫かな。」

 

自然と名前が口をつく。

 

アユム。

 

モモカ。

 

連邦生徒会。

 

各学園。

 

次々と顔が浮かぶ。

 

そして、その度にスマートフォンへ視線が向く。

 

先生は小さく首を振った。

 

「駄目ね。」

 

「休むって、どうやるんだっけ。」

 

その言葉は、自分でも驚くほど自然に零れ落ちた。

 

休み方が分からない。

 

そんなこと、今まで考えたこともなかった。

 

店内のテレビから昼のニュースが流れる。

 

「本日もキヴォトス各地で大きな事件・事故の情報は入っておりません。」

 

その一言へ、先生は思わず耳を傾ける。

 

事件がない。

 

事故もない。

 

それは教師として喜ぶべきことだ。

 

本当にそう思う。

 

それなのに胸の奥では、別の自分が囁く。

 

『本当に?』

 

『誰かが隠しているだけじゃない?』

 

『リンたちは無理をしていない?』

 

先生はゆっくり目を閉じた。

 

その考えが、自分を苦しめていることは分かっている。

 

皆を信じたい。

 

でも、身体が信じさせてくれない。

 

七日間続いたその癖は、もう仕事というより習慣だった。

 

仕事へ向かうこと。

 

誰かを助けること。

 

案件を処理すること。

 

それ以外の時間を、私はいつから失ってしまったのだろう。

 

先生は静かに立ち上がる。

 

会計を済ませ、店を出る。

 

目的地は決めていない。

 

ただ、歩こうと思った。

 

それだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

先生はゆっくりと歩く。

 

少し歩くと、小さな公園が見えてきた。

 

芝生では、低学年と思われる生徒たちが元気よく走り回っている。

 

鬼ごっこをしているのだろうか。

 

笑い声が、公園いっぱいに響いていた。

 

先生は近くのベンチへ腰を下ろし、その光景をぼんやりと眺める。

 

その時だった。

 

「あっ!」

 

一人の生徒が石畳の段差へ足を取られ、そのまま前のめりに転んだ。

 

「いたた……。」

 

すぐに近くにいた二人の生徒が駆け寄る。

 

「大丈夫?」

 

「どこか痛い?」

 

転んだ生徒は膝を押さえながら、小さく笑った。

 

「平気、平気!」

 

「本当に?」

 

「うん! ほら!」

 

立ち上がろうとした瞬間、少しだけふらつく。

 

すると、一人が無言で腕を差し出した。

 

「ほら。」

 

「あ、ありがと。」

 

その手を借りて立ち上がると、もう一人の生徒が制服についた砂を軽く払ってあげる。

 

「血は出てないね。」

 

「なら大丈夫!」

 

三人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い出した。

 

「もう転ばないでよ!」

 

「次はちゃんと前見て走る!」

 

「約束だからね!」

 

そう言い合いながら、また元気よく駆け出していく。

 

その後ろ姿を見送りながら、先生は自然と頬を緩めていた。

 

「……そうよね。」

 

小さく呟く。

 

困った時に手を差し伸べるのは、教師だけではない。

 

生徒たちもまた、お互いを支えながら毎日を過ごしている。

 

私が知らなかっただけで。

 

こういう当たり前の優しさは、ずっとこの街にあったのだ。

 

先生は静かに空を見上げる。

 

自分が駆け付ける現場は、いつも事件や事故が起きた場所だった。

 

だからこそ、「何も起きていない日常」を、どこか見落としていたのかもしれない。

 

生徒たちは、ただ守られる存在ではない。

 

困っている友達へ手を差し伸べ、支え合い、笑い合いながら成長していく。

 

その姿を見つめながら、先生は胸の奥の張り詰めた糸が、ほんの少しだけ緩んでいくのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

先生はベンチから立ち上がった。

 

公園には、相変わらず生徒たちの笑い声が響いている。

 

その声を背中に聞きながら、ゆっくりと歩き出した。

 

焦る必要はない。

 

急ぐ理由もない。

 

本来なら、それでいいはずだった。

 

それなのに足取りはどこか落ち着かない。

 

何か忘れ物をしているような。

 

どこかへ急がなければならないような。

 

そんな感覚だけが胸の奥に残っている。

 

先生は苦笑した。

 

「本当に困った癖ね。」

 

休暇に入って七日。

 

仕事はしていない。

 

案件も処理していない。

 

それでも身体だけは、仕事を探してしまう。

 

商店街へ入る。

 

昼時ということもあり、多くの生徒たちで賑わっていた。

 

クレープを食べながら笑い合うグループ。

 

雑貨店のショーウィンドウを覗き込む生徒たち。

 

ゲームセンターから聞こえてくる楽しそうな歓声。

 

どれも、自分とは無縁だと思っていた光景だった。

 

いや。

 

正確には違う。

 

無縁にしてしまっていた。

 

先生はゲームセンターの前で立ち止まる。

 

店内から聞こえてくる笑い声。

 

クレーンゲームへ夢中になる生徒たち。

 

景品を取って大騒ぎしている様子を眺めながら、小さく首を傾げた。

 

「最後にゲームセンターへ入ったのって……。」

 

思い出せない。

 

学生の頃だっただろうか。

 

シャーレへ来てから、一度も入っていない気がする。

 

先生は少し考えてから、小さく笑う。

 

「入ってみようかな。」

 

自分でも驚くような言葉だった。

 

ほんの少しだけ。

 

仕事とは違うことをしてみよう。

 

そんな気持ちになったのだ。

 

自動ドアをくぐる。

 

電子音が耳へ飛び込んでくる。

 

色とりどりの筐体。

 

賑やかな音楽。

 

制服姿の生徒たち。

 

先生は店内をゆっくり歩く。

 

クレーンゲーム。

 

音楽ゲーム。

 

シューティングゲーム。

 

どれも見覚えはある。

 

けれど遊び方が思い出せない。

 

「……。」

 

百円玉を取り出しかけた手が止まる。

 

何を遊べばいいのか分からない。

 

何が好きだったのかも思い出せない。

 

結局、先生は何もせず店を出てしまった。

 

外へ出ると、少しだけ風が強くなっていた。

 

「何やってるんだろう。」

 

思わず笑ってしまう。

 

遊ぼうと思って入った。

 

それなのに、遊び方が分からなかった。

 

いや。

 

分からなかったのではない。

 

**「遊ぶ」という発想そのものが、自分の中から抜け落ちていた。**

 

仕事を終わらせる。

 

誰かを助ける。

 

書類を読む。

 

会議へ出る。

 

その繰り返しが、いつしか自分の日常になっていた。

 

先生は商店街を抜け、大きく息を吸う。

 

空を見上げる。

 

雲がゆっくりと流れていく。

 

その時だった。

 

ふと、道路標識が目に入る。

 

**シャーレ →**

 

先生は足を止めた。

 

「あれ……?」

 

今、自分はどこへ向かおうとしていたのだろう。

 

目的地なんて決めていなかった。

 

散歩をしていただけのはずだった。

 

それなのに。

 

気が付けば、シャーレへ続く道を歩いていた。

 

先生はしばらくその標識を見つめる。

 

胸の奥が、小さく痛んだ。

 

「私……。」

 

思わず苦笑する。

 

「結局、帰る場所って思ってるのね。」

 

それは職場という意味ではない。

 

シャーレは、いつの間にか自分の日常そのものになっていた。

 

だから身体が、無意識にそこへ向かってしまう。

 

先生は静かに息を吐く。

 

「少しだけ……。」

 

「近くまで行ってみようかな。」

 

誰に言い訳するでもなく、小さく呟いた。

 

その一歩が、この休暇の中で初めて、自分自身と向き合う時間になることを、先生はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

先生はそのまま歩き続けた。

 

どこへ向かうとも決めず、ただ足の向くままに。

 

商店街を抜ける。

 

横断歩道を渡る。

 

信号が青へ変わるのを待ち、また歩く。

 

考え事をしていると、時間は驚くほど早く過ぎていく。

 

修司のこと。

 

リンたちのこと。

 

シャーレのこと。

 

気付けば、頭の中はまた仕事ばかりだった。

 

「駄目ね……。」

 

苦笑しながら顔を上げる。

 

その瞬間だった。

 

「……え?」

 

思わず足が止まる。

 

見覚えのある建物。

 

見慣れた外壁。

 

そして入口へ掲げられたプレート。

 

**シャーレ。**

 

先生はしばらく動けなかった。

 

「どうして……。」

 

目的地なんて決めていなかった。

 

散歩をしていただけのはずだった。

 

それなのに。

 

身体は迷うことなく、この場所まで歩いてきてしまった。

 

先生は小さく笑う。

 

「本当に……重症ね。」

 

呆れるような声だった。

 

休もうと思って街へ出た。

 

本を読もうとした。

 

公園でのんびり過ごした。

 

それでも最後には、無意識のうちにシャーレへ向かっている。

 

頭では休もうとしている。

 

けれど身体は、仕事へ戻ろうとしている。

 

それほどまでに、この場所は自分の日常になっていた。

 

先生は建物を見上げる。

 

窓の向こうでは、人影が動いている。

 

誰かが資料を運んでいるのだろう。

 

電話を取る姿も見える。

 

以前なら、この時間の自分もあそこにいた。

 

案件を確認し、リンと相談し、アユムへ予定を確認して、モモカへ書類を渡す。

 

そんな毎日だった。

 

自然と足が一歩前へ出る。

 

玄関までは、あと数十メートル。

 

そこで先生は立ち止まった。

 

「……違う。」

 

小さく首を振る。

 

今日は休暇中だ。

 

修司との約束もある。

 

それに何より、自分で決めたはずだった。

 

**今は仕事へ戻らない。**

 

そう決めたはずなのに。

 

足は動かない。

 

帰るべきか。

 

このまま入るべきか。

 

迷いながら建物を見つめていると、不意に背後から落ち着いた声が聞こえた。

 

「ここに来られると思っていました。」

 

先生はゆっくりと振り返る。

 

そこには、スーツ姿の修司が立っていた。

 

驚いた様子もない。

 

まるで、この場所で会うことを最初から知っていたかのように。

 

先生は少し困ったように笑う。

 

「見つかっちゃった。」

 

修司も小さく笑みを浮かべる。

 

「ええ。」

 

「先生は、とても真面目ですから。」

 

二人の間を、午後の穏やかな風が静かに吹き抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先生は少し困ったように笑った。

 

「見つかっちゃった。」

 

修司も小さく微笑む。

 

「ええ。」

 

「先生は、とても真面目ですから。」

 

その言葉に、先生は苦笑するしかなかった。

 

「笑わないで。」

 

「散歩していたら、たまたま……。」

 

言いかけて、言葉が止まる。

 

自分でも分かっていた。

 

"たまたま"ではない。

 

目的地を決めて歩いていたわけではない。

 

それでも身体は迷うことなく、シャーレまで来てしまった。

 

修司は追及しなかった。

 

「少し歩きませんか。」

 

そう言って、建物とは反対方向へ歩き始める。

 

先生も黙ってその後を追った。

 

二人の間に会話はない。

 

聞こえるのは風の音と、生徒たちの笑い声だけだった。

 

しばらく歩いたところで、修司が静かに口を開く。

 

「休めていますか。」

 

先生はすぐには答えられなかった。

 

「……。」

 

答えは分かっている。

 

休めていない。

 

けれど、それを認めることが、どこか悔しかった。

 

「難しいわ。」

 

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「仕事を忘れようと思っても、気付けば考えてしまうの。」

 

「朝起きても。」

 

「ご飯を食べても。」

 

「街を歩いていても。」

 

「ずっとシャーレのことばかり考えてる。」

 

修司は黙って聞いている。

 

先生は少し俯いた。

 

「変よね。」

 

「休みなのに。」

 

「仕事をしていない方が落ち着かないなんて。」

 

修司は否定もしなければ慰めもしなかった。

 

代わりに、一つだけ質問する。

 

「先生。」

 

「先生は、休日に何をしていましたか。」

 

「え?」

 

思わぬ質問だった。

 

休日。

 

そう言われて先生は考える。

 

映画。

 

旅行。

 

買い物。

 

趣味。

 

頭の中へいろいろ浮かぶ。

 

けれど。

 

どれも思い出ではなかった。

 

「……。」

 

沈黙が続く。

 

先生はゆっくりと笑う。

 

その笑顔は、少しだけ寂しかった。

 

「仕事。」

 

修司は何も言わない。

 

「休みの日も資料を読んでた。」

 

「相談が来たらシャーレへ行って。」

 

「予定が空いたら書類を片付けて。」

 

「気付いたら一日終わってた。」

 

一つ一つ思い出すたびに、自分でも苦笑してしまう。

 

「趣味なんて聞かれても……。」

 

「思い付かなかった。」

 

修司は空を見上げる。

 

雲がゆっくり流れていた。

 

「仕事は、大切です。」

 

静かな声だった。

 

「ですが。」

 

「仕事だけで人は生きられません。」

 

先生は何も返せなかった。

 

反論できなかった。

 

胸のどこかでは、ずっと分かっていたからだ。

 

仕事をしている時だけ、自分には価値がある。

 

誰かを助けている時だけ、自分は教師でいられる。

 

そんな考えに、少しずつ縛られていたことを。

 

修司は先生の方を見ないまま続ける。

 

「先生。」

 

「もし今日、シャーレへ入ったら。」

 

先生は小さく息を呑む。

 

「皆さんは喜ぶでしょう。」

 

「先生が戻ってきた、と。」

 

「ですが。」

 

「その瞬間に、この一週間で積み上げたものは崩れ始めます。」

 

先生はゆっくりとシャーレの建物を振り返る。

 

窓の向こうでは、人影が動いている。

 

誰かが笑っている。

 

電話が鳴る。

 

書類を抱えて歩くリンの姿が、小さく見えた。

 

みんな、働いている。

 

私がいなくても。

 

いつも通りに。

 

修司はそこで初めて先生の方を見る。

 

「先生。」

 

「信じてあげてください。」

 

「皆さんを。」

 

その一言だけだった。

 

説得ではない。

 

命令でもない。

 

ただ、静かな願いだった。

 

先生はシャーレを見つめたまま、小さく目を閉じる。

 

胸の奥にあった焦りは、まだ消えていない。

 

それでも。

 

その焦りとは別に、もう一つの感情が芽生え始めていた。

 

**「私がいなくても、大丈夫なのかもしれない。」**

 

その考えを受け入れるには、もう少し時間が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人は、そのままシャーレの前へ並んで立っていた。

 

午後の日差しが建物の窓へ反射し、静かな光を落としている。

 

先生は何も言わず、ガラス越しに対策室を見つめた。

 

扉一枚隔てた向こう側では、いつも通りの時間が流れている。

 

リンが端末を確認しながら何かを指示している。

 

アユムは新しく届いた案件を整理し、次々と関係部署へ振り分けていく。

 

モモカは電話口で誰かと話しながら、時折困ったように笑っていた。

 

どこか慌ただしい。

 

けれど、不思議なくらい落ち着いている。

 

誰かが走り回る姿はない。

 

「先生をお願いします!」

 

そんな声も聞こえてこない。

 

先生は静かに目を細めた。

 

「あんなに忙しいのに……。」

 

思わず零れた言葉だった。

 

修司は隣で静かに頷く。

 

「皆さん、それぞれ自分の仕事をしています。」

 

それだけだった。

 

それ以上は何も説明しない。

 

先生も何も聞かなかった。

 

その必要がなかったからだ。

 

部屋の奥で、リンが一枚の書類へ目を通す。

 

少しだけ考えたあと、アユムへ何かを伝える。

 

アユムが頷き、すぐに端末を操作する。

 

案件は止まらない。

 

誰かを待つこともない。

 

その一連の流れを見て、先生は小さく笑った。

 

「リン……。」

 

最初にシャーレへ来た頃。

 

リンは何かあるたびに先生の判断を仰いでいた。

 

「先生、この案件ですが……。」

 

「先生、こちらをお願いします。」

 

その声を聞くのが日常だった。

 

けれど今は違う。

 

自分で考え。

 

自分で判断し。

 

必要な時だけ周囲と相談している。

 

その姿は、一週間前より少しだけ頼もしく見えた。

 

モモカも同じだった。

 

以前なら「先生ぇ」と困ったように笑いながら書類を持ってきていた。

 

今は電話を終えると、自分で資料を整理し、次の仕事へ移っている。

 

アユムも変わった。

 

予定を確認するだけではない。

 

案件全体を見渡し、優先順位を整理し、自然と全体を支えている。

 

先生は思わず息を吐いた。

 

「みんな……成長したのね。」

 

その言葉へ、修司は少しだけ首を横に振る。

 

「違います。」

 

先生は修司を見る。

 

「皆さんは、もともとできる力を持っていました。」

 

「その力を使う機会が、今までなかっただけです。」

 

先生は再びガラスの向こうを見る。

 

確かにそうなのかもしれない。

 

自分が先に答えを出してしまっていた。

 

困らせたくない。

 

待たせたくない。

 

負担を掛けたくない。

 

そんな思いから、自分一人で抱え込んでいた。

 

その結果、皆から成長する機会まで奪ってしまっていたのかもしれない。

 

先生は静かに目を伏せる。

 

胸の奥に、小さな後悔が生まれる。

 

けれど、不思議と苦しくはなかった。

 

それ以上に、大きな安心があった。

 

シャーレは止まっていない。

 

誰か一人へ頼る組織ではなくなり始めている。

 

その事実を、自分の目で確かめられたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

先生は、もう一度だけシャーレを見上げた。

 

窓の向こうでは、いつもと変わらない時間が流れている。

 

リンが資料を確認し、アユムが端末を操作する。

 

モモカは電話口で相手の話を聞きながら、何かをメモしていた。

 

誰かが慌てて走ることもない。

 

大声が飛び交うこともない。

 

忙しい。

 

それでも落ち着いている。

 

そんな空気が、ガラス越しにも伝わってきた。

 

先生は静かに目を細める。

 

一週間前なら、この時間も自分はあの中にいた。

 

案件を確認し、判断し、各学園へ連絡を取る。

 

終わったと思えば、また新しい案件が届く。

 

その繰り返しだった。

 

そして、誰よりも先に答えを出すことが、自分の役割だと思っていた。

 

「……違ったのね。」

 

思わず言葉が零れる。

 

修司は隣で静かに立っているだけだった。

 

何も言わない。

 

先生も、その沈黙を心地よく感じていた。

 

「私。」

 

「みんなを信じているつもりだった。」

 

少しだけ自嘲気味に笑う。

 

「でも、本当は違った。」

 

「心配だから。」

 

「迷わせたくないから。」

 

「負担を掛けたくないから。」

 

「そんな理由を並べて、全部自分で抱え込んでた。」

 

先生はガラス越しにリンを見る。

 

リンは誰かへ確認を取ることもなく、資料へ目を通し、自分の言葉で判断を下していた。

 

あの姿を見ていると分かる。

 

最初からできなかったわけじゃない。

 

自分が、先に答えを出してしまっていただけだった。

 

「……ごめんね。」

 

その謝罪は、誰にも届かない。

 

けれど、先生には必要な言葉だった。

 

修司が穏やかな声で尋ねる。

 

「後悔していますか。」

 

先生は少し考え、ゆっくりと首を横へ振る。

 

「いいえ。」

 

「後悔とは少し違うかな。」

 

「もし時間を戻せても、私はきっと同じことをしていたと思う。」

 

「誰かが困っていたら、放っておけないから。」

 

その答えを聞いて、修司は小さく頷いた。

 

「それでいいんです。」

 

「先生が優しいからこそ、皆さんは先生を頼った。」

 

「それは間違いではありません。」

 

「ですが。」

 

先生は修司を見る。

 

「優しさだけでは、組織は守れません。」

 

その一言だけだった。

 

先生は再びシャーレへ目を向ける。

 

その意味が、今なら少しだけ分かる。

 

優しさだけで抱え込めば、いつか必ず限界が来る。

 

先生自身が、それを証明してしまったのだから。

 

しばらくの沈黙が流れる。

 

夕方の風が、二人の間を静かに吹き抜けた。

 

先生は小さく笑う。

 

「休むって、難しいわね。」

 

修司も穏やかに笑う。

 

「仕事を忘れることが休みではありません。」

 

「仕事がなくても、自分らしく過ごせるようになること。」

 

「それが、本当に休めている状態です。」

 

先生は空を見上げた。

 

夕焼けが少しずつ街を茜色へ染め始めている。

 

「まだ、そこまでは行けそうにないかな。」

 

「ええ。」

 

修司も否定しなかった。

 

「だから二週間あるんです。」

 

先生は思わず笑ってしまう。

 

「あの時は長いと思ったけど……。」

 

「今は、少し短いかもしれない。」

 

その言葉に、自分でも驚いた。

 

休暇を終わらせたい。

 

そう思っていたはずなのに。

 

今はもう少しだけ、この時間が必要だと感じている。

 

先生はシャーレへ向かって小さく一礼した。

 

誰かへ見せるためではない。

 

自分自身の区切りとして。

 

「今日は帰るわ。」

 

そう言って踵を返す。

 

もう迷いはなかった。

 

修司も何も言わず、その隣を歩き始める。

 

二人の背中が夕暮れの街へ溶けていく。

 

その頃、シャーレ対策室では、誰も気付かないまま午後の業務が続いていた。

 

先生がここまで来ていたことも。

 

そして、何も言わず帰っていったことも。

 

誰一人知らない。

 

それでいい。

 

今はまだ、それでいいのだ。

 

---

 

生命の書が静かにページをめくる。

 

**案件No.19**

 

**『先生を支える組織』**

 

進捗状況更新。

 

**45%**

 

淡い光とともに、数字が静かに書き換わる。

 

**50%**

 

ミコリは生命の書を見つめ、小さく呟いた。

 

「案件進行率、五十パーセント。」

 

「組織改革、順調。」

 

「次段階へ移行します。」

 

誰にも聞こえないその声だけが、静かな対策室へそっと溶けていった。

 

 

 

 

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総合評価:189/評価:7.5/連載:2話/更新日時:2026年06月23日(火) 13:25 小説情報

先生は汚い大人です(作者:こうすけ増田劇場版)(原作:ブルーアーカイブ)

大人だ先生だ言って笑顔で愛想よく振り向く?無理に決まってんだろ。▼最低な大人?ありがとう、最高の褒め言葉だ。


総合評価:819/評価:7.25/連載:11話/更新日時:2026年06月18日(木) 19:51 小説情報


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