先生はモームリ   作:風神ぷー

11 / 14
本日3話投稿予定です。
第十一話→20時
第十二話→21時
第十三話→22時



第十一話 大人のいない一日

 

 

先生が休暇へ入って、八日目の朝。

 

シャーレ対策室の扉を最初に開けたのは、リンだった。

 

廊下にはまだ人の気配が少ない。窓の外では朝の光が建物の壁を淡く照らし、遠くから列車の走る音が小さく聞こえてくる。

 

リンは静かに鍵を開け、対策室へ入った。

 

照明を点ける。

 

端末の電源を入れる。

 

空調を確認する。

 

いつもと同じ手順だった。

 

それなのに、部屋の中はいつもより少し広く感じられた。

 

理由は分かっている。

 

先生の席が空いている。

 

そして、今日はもう一つ。

 

修司の席も空いていた。

 

リンはその二つの空席を見つめる。

 

先生の机には、使い慣れたマグカップが置かれたままだった。ペン立ても、読みかけの資料も、休暇前とほとんど変わっていない。

 

修司の席は対照的に、無駄なものがない。整えられた書類と、昨日の帰り際に置かれた一枚の紙だけが残っている。

 

リンはその紙を手に取った。

 

そこには、短い文章が書かれていた。

 

**本日は休暇をいただきます。**

**業務判断は、皆さんへお任せします。**

**白石修司**

 

たった三行。

 

それだけだった。

 

説明も、注意事項も、細かな指示もない。

 

いかにも修司らしい文面だった。

 

リンは思わず小さく笑った。

 

「本当に……任せるんですね。」

 

不安がないと言えば嘘になる。

 

先生がいない一週間には、少しずつ慣れ始めていた。けれど修司までいない一日は、初めてだ。

 

昨日までは、何かあれば修司がいた。

 

答えを出してくれるわけではない。けれど、必要な時に問いを投げ掛け、考える方向を示してくれた。

 

その存在が、どれほど心の支えになっていたのか。

 

空席を見て、リンは改めて実感する。

 

だが、そこで立ち止まってはいられなかった。

 

先生も休んでいる。

 

修司も休んでいる。

 

ならば今日、ここを動かすのは自分たちだ。

 

リンは紙を机の上へ戻し、端末を起動した。

 

数分後、アユムが対策室へ入ってきた。

 

「おはようございます、リンさん。」

 

「おはようございます。」

 

アユムは荷物を置きながら、いつものように先生の席へ目を向ける。

 

そして次に、修司の席を見た。

 

「……白石さん、まだ来ていないんですか?」

 

リンは首を横へ振った。

 

「今日はお休みです。」

 

「えっ。」

 

アユムの声が、少しだけ大きくなる。

 

「白石さんもですか?」

 

「はい。昨日の帰りに、このメモを置いていかれました。」

 

リンが紙を差し出すと、アユムはそれを読み、しばらく黙り込んだ。

 

「皆さんへお任せします……。」

 

その言葉を小さく繰り返す。

 

そこへモモカもやって来た。

 

「おはようございますぅ……。」

 

まだ少し眠そうな声だったが、室内の空気を察したのか、すぐに首を傾げる。

 

「あれ? 修司さんもいないんですか?」

 

「今日はお休みです。」

 

「えぇ……先生だけじゃなくて、修司さんまで?」

 

モモカは目を瞬かせ、二つの空席を交互に見た。

 

「大人、全滅じゃないですか。」

 

「言い方。」

 

アユムが苦笑する。

 

しかし、否定はできなかった。

 

今日の対策室には、先生もいない。

 

修司もいない。

 

大人と呼べる存在が、誰もいない。

 

一瞬だけ、室内に沈黙が落ちた。

 

それは不安の沈黙だった。

 

だが、長くは続かなかった。

 

リンが静かに手元の端末へ視線を落とす。

 

朝の案件一覧が、すでに届き始めていた。

 

「始めましょう。」

 

その一言で、空気が変わった。

 

アユムが席へ着き、端末を開く。

 

モモカも椅子へ腰掛け、通信ログの確認を始める。

 

リンは全体案件一覧を開き、優先順位を確認した。

 

先生がいない。

 

修司もいない。

 

けれど、仕事は待ってくれない。

 

そして、だからこそ止めてはいけなかった。

 

「本日午前の受付予定案件です。」

 

アユムが読み上げる。

 

「通常案件、二十八件。」

 

「広域支援案件、現時点ではゼロ。」

 

「要確認案件、四件。」

 

「緊急度Aは?」

 

「二件です。ただし、どちらも即時対応が必要な内容ではありません。」

 

リンは頷いた。

 

「では、通常案件から処理します。」

 

アユムが最初の案件を表示する。

 

「トリニティから、合同行事に関する警備計画の確認依頼です。」

 

リンは資料へ目を通した。

 

開催場所。

 

参加人数。

 

警備担当。

 

救護班の配置。

 

交通規制の有無。

 

数日前なら、先生へ確認するべきか迷っていただろう。

 

けれど今は違う。

 

判断基準はすでにある。

 

「他学園との調整は発生していません。」

 

「警備体制もトリニティ内部で完結しています。」

 

「シャーレ確認事項ではありません。」

 

リンは資料を閉じる。

 

「トリニティへ返送してください。」

 

「必要であれば、警備計画のテンプレートだけ共有します。」

 

「承知しました。」

 

アユムが入力する。

 

処理は一分も掛からなかった。

 

次の案件。

 

「百鬼夜行から、道路使用に関する申請です。」

 

モモカが資料を確認する。

 

「交通室案件ですねぇ。」

 

「時間帯も通常枠ですし、特殊対応は不要です。」

 

リンは頷く。

 

「交通室へ共有してください。」

 

「記録だけ残します。」

 

「はーい。」

 

次の案件。

 

「ヴァルキューレから、巡回区域変更に関する相談です。」

 

アユムが資料を表示する。

 

リンは少し考える。

 

広域支援ではない。

 

連邦生徒会全体の判断も必要ない。

 

ヴァルキューレ内部で対応可能な範囲だ。

 

「通常の連携手順で問題ありません。」

 

「返送してください。」

 

「了解しました。」

 

案件は、次々と処理されていく。

 

誰も大声を出さない。

 

誰も走らない。

 

誰も「先生に確認します」と言わない。

 

そして誰も、「白石さんならどうしますか」とも言わなかった。

 

静かな時間が流れていた。

 

けれどそれは、停滞ではない。

 

組織が動いている音だった。

 

モモカが通信ログを見ながら、ぽつりと呟く。

 

「……普通ですねぇ。」

 

アユムが顔を上げる。

 

「普通?」

 

「はい。」

 

モモカは少しだけ笑った。

 

「先生も修司さんもいないのに、普通に仕事してます。」

 

リンは手を止めずに、次の案件を確認した。

 

「普通にできるようにするための、この一週間でしたから。」

 

その声は落ち着いていた。

 

自分で言ってから、リンは少し驚く。

 

強がりではない。

 

本当に、そう思えていた。

 

先生がいないから特別な一日なのではない。

 

修司がいないから不安な一日なのでもない。

 

誰かが休んでも、誰か一人に頼らず、いつもの仕事を進める。

 

それが今日の目的だった。

 

リンは次の案件を開く。

 

画面に並ぶ文字を見つめながら、静かに息を吸う。

 

「次をお願いします。」

 

アユムが頷く。

 

「はい。」

 

朝のシャーレ対策室には、今日もキーボードの音が響いていた。

 

大人のいない一日。

 

その最初の一時間は、何事もなく過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

朝の業務が始まって、一時間ほどが過ぎた。

 

対策室には、規則正しくキーボードを打つ音が響いている。

 

「次の案件です。」

 

アユムが画面を確認する。

 

「アビドス自治区から、防災訓練実施報告。」

 

リンは資料へ軽く目を通した。

 

「受領で問題ありません。」

 

「共有フォルダへ保存してください。」

 

「承知しました。」

 

処理が終わると、次の案件が表示される。

 

「ミレニアムから試験運用設備の経過報告です。」

 

「通信障害の改善結果と、運用データになります。」

 

リンは資料を確認し、小さく頷いた。

 

「改善会議の資料へ追加してください。」

 

「はい。」

 

案件は滞ることなく流れていく。

 

確認する。

 

判断する。

 

振り分ける。

 

その繰り返しだった。

 

慌ただしさはある。

 

それでも、不思議と慌てる空気はない。

 

「百鬼夜行から道路使用申請です。」

 

「交通室案件ですねぇ。」

 

モモカが資料を確認しながら言う。

 

「通常対応で大丈夫です。」

 

「お願いします。」

 

「はーい。」

 

短いやり取りだけで案件は処理され、新しい通知が届く。

 

誰かを待つこともない。

 

誰か一人へ判断が集中することもない。

 

それぞれが自分の役割を果たし、仕事は自然と前へ進んでいく。

 

その時だった。

 

モモカが通信ログの入力を終え、小さく首を傾げる。

 

「……あれ?」

 

アユムが顔を上げた。

 

「どうしました?」

 

モモカは対策室を見回しながら、不思議そうに笑う。

 

「朝からずっと仕事してますけど。」

 

「一回も。」

 

少し考えてから続けた。

 

「『どうしましょう』って言ってません。」

 

その一言に、部屋が静かになる。

 

リンも思わず手を止めた。

 

言われてみれば、その通りだった。

 

案件は決して少なくない。

 

判断に迷う場面もあった。

 

電話で確認が必要な案件も届いている。

 

それでも。

 

「どうしましょう。」

 

その言葉は、一度も口にしていない。

 

アユムも処理済み一覧を見ながら、小さく驚く。

 

「本当ですね。」

 

「以前なら、誰かが必ず言っていました。」

 

モモカは苦笑する。

 

「そのあと、『先生へ確認しましょう』とか。」

 

「『修司さんならどう考えますかねぇ』ってなってましたよねぇ。」

 

リンは静かに先生の席へ目を向けた。

 

その隣には修司の席もある。

 

どちらも空席だった。

 

それでも。

 

案件は止まっていない。

 

誰かが困って立ち尽くすこともない。

 

リンは自然と笑みを浮かべる。

 

「皆さんが、自分で考えられるようになったんですね。」

 

その言葉へ、アユムとモモカも静かに頷いた。

 

成長した。

 

そんな大げさな実感はない。

 

ただ、一つひとつの案件へ向き合い、自分たちで考え、自分たちで決める。

 

その積み重ねが、いつの間にか当たり前になっていた。

 

アユムが次の案件を表示する。

 

「次をお願いします。」

 

「はい。」

 

リンが頷く。

 

モモカも端末へ向き直った。

 

再び対策室へ、キーボードを打つ音が静かに響き始める。

 

その音は、一週間前と何も変わらない。

 

けれど、その音を奏でる組織は、確かに少しずつ変わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

午前十時四十分。

 

対策室へ一本の通知が届いた。

 

これまでの通常案件とは違い、画面には**「広域調整案件」**の文字が表示される。

 

アユムが思わず表情を引き締めた。

 

「リンさん。」

 

「広域案件です。」

 

リンも画面へ視線を向ける。

 

「内容は?」

 

「トリニティ、ゲヘナ、ミレニアムによる合同防災訓練です。」

 

「実施予定地の都合で、日程変更が必要になったそうです。」

 

モモカも端末を覗き込む。

 

「三学園ですかぁ……。」

 

思わず部屋が静かになる。

 

決して難しい案件ではない。

 

だが、関係者が多い。

 

日程を一つ動かすだけでも、多くの部署との調整が必要になる。

 

以前なら。

 

真っ先に先生へ報告していた案件だった。

 

リンは資料を最後まで読み終え、ゆっくり息を吐く。

 

「まず確認しましょう。」

 

「各学園とも、訓練そのものは延期ではなく日程変更を希望しています。」

 

「はい。」

 

アユムが頷く。

 

「代替候補日は三日提示されています。」

 

「なら。」

 

リンは端末を閉じた。

 

「まずは三学園の担当者へ連絡します。」

 

「空いている日程を確認しましょう。」

 

「了解です。」

 

三人は自然に動き始めた。

 

モモカはトリニティへ通信を繋ぐ。

 

アユムは三学園の行事予定を一覧へ表示する。

 

リンは連邦生徒会の共有スケジュールを確認しながら、調整可能な日程へ印を付けていく。

 

誰も急がない。

 

誰も焦らない。

 

確認。

 

整理。

 

共有。

 

その繰り返しだった。

 

十分後。

 

最初の回答が届く。

 

「トリニティ、第二候補なら問題なしとのことです。」

 

「ありがとうございます。」

 

五分後。

 

「ミレニアムも第二候補で調整可能です。」

 

さらに数分後。

 

「ゲヘナも確認が取れました。」

 

アユムが一覧表を見ながら小さく笑う。

 

「三学園とも、第二候補で一致しています。」

 

リンは全体資料を見直す。

 

訓練会場。

 

交通規制。

 

医療班。

 

警備体制。

 

変更が必要な項目を一つずつ確認していく。

 

抜けはない。

 

「この内容で通知します。」

 

「はい。」

 

モモカが送信ボタンを押す。

 

画面へ完了通知が表示された。

 

案件終了。

 

リンは時計を見る。

 

開始から、およそ三十五分。

 

三人とも、しばらく黙って画面を見つめていた。

 

最初に口を開いたのはモモカだった。

 

「……終わっちゃいましたねぇ。」

 

その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

 

アユムも小さく息を吐いた。

 

「もっと時間が掛かると思っていました。」

 

リンは処理完了の表示を見つめながら、静かに微笑む。

 

「私もです。」

 

「でも。」

 

「皆さんが必要な情報を最初に整理してくれたので、迷いませんでした。」

 

モモカは照れくさそうに笑う。

 

「私は電話しただけですよぉ。」

 

「その『電話しただけ』が大事なんです。」

 

リンは穏やかに答えた。

 

「誰か一人が全部やるんじゃなくて。」

 

「それぞれが自分の役割を果たしたから、三十分で終わったんです。」

 

対策室は再び静かになる。

 

誰も「先生がいれば」とは言わなかった。

 

誰も「修司さんなら」とも口にしなかった。

 

その必要がなかったからだ。

 

アユムが新しい案件一覧を開く。

 

「それでは。」

 

「午後の案件へ移ります。」

 

リンは小さく頷いた。

 

「お願いします。」

 

午前中最大の案件は、何事もなく終わった。

 

派手な出来事は何もない。

 

だがその静かな成功こそが、この一週間でシャーレが積み重ねてきた変化を、何より雄弁に物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 

広域調整案件が完了すると、対策室には再び穏やかな空気が戻った。

 

アユムが処理済み案件へチェックを付ける。

 

「広域調整案件、完了しました。」

 

「未処理案件は残り十二件です。」

 

リンは画面を確認し、小さく頷いた。

 

「予定より早いですね。」

 

「午後は通常案件が中心になりそうです。」

 

「はい。」

 

アユムも笑顔で答える。

 

その後に届くのは、各学園からの日常的な報告ばかりだった。

 

設備点検の完了報告。

 

合同行事の参加人数変更。

 

備品申請。

 

どれも担当部署だけで完結する内容であり、対策室は必要な確認だけを行い、順番に処理していく。

 

部屋へ響くのは、キーボードを打つ音と通信端末の通知音。

 

誰かが慌てて立ち上がることもなければ、焦った声が飛び交うこともない。

 

それぞれが自分の仕事へ集中し、自然と時間が流れていく。

 

モモカは軽く伸びをした。

 

「なんだか今日、一日が早く感じますねぇ。」

 

「そうですね。」

 

アユムも時計へ目を向ける。

 

「まだお昼前なのに、午前中の予定がほとんど終わっています。」

 

リンは予定表を見ながら、小さく微笑んだ。

 

「皆さんのおかげですね。」

 

「一つの案件を誰か一人が抱え込まなくなりました。」

 

「だから他の仕事も止まりません。」

 

その言葉に、二人は静かに頷く。

 

しばらくして、アユムが処理一覧を確認しながら首を傾げた。

 

「リンさん。」

 

「はい。」

 

「今日の処理件数なんですが……。」

 

一覧を見比べながら続ける。

 

「先生がお休みに入る前と、ほとんど変わりません。」

 

モモカも画面を覗き込む。

 

「あ、本当ですねぇ。」

 

「件数も、処理時間も大きく変わってません。」

 

リンも数字へ目を落とした。

 

一週間前なら、考えられなかった結果だった。

 

先生がいない。

 

修司もいない。

 

それでも、仕事は滞っていない。

 

モモカがぽつりと呟く。

 

「なんだか、不思議ですねぇ。」

 

「先生がお休みで。」

 

「今日は修司さんまでお休みなのに。」

 

「ちゃんと仕事が進んでます。」

 

アユムも穏やかに笑う。

 

「皆で考えて、皆で動けば。」

 

「ちゃんとできるものなんですね。」

 

リンは二人の言葉を聞きながら、静かに対策室を見渡した。

 

先生の席。

 

修司の席。

 

どちらも空席のままだ。

 

それでも、部屋の空気は落ち着いている。

 

以前のような不安はない。

 

リンは自然と微笑んだ。

 

「連邦生徒会も。」

 

少しだけ間を置いて続ける。

 

「少しは成長できたみたいですね。」

 

モモカとアユムも、小さく笑みを浮かべた。

 

誰か一人が組織を支えるのではない。

 

それぞれが自分の役割を果たし、互いに支え合う。

 

そんな当たり前が、この対策室には少しずつ根付き始めていた。

 

キーボードを打つ音が、再び静かに響き始める。

 

その音は、一週間前と何も変わらない。

 

けれど、その音を奏でる**連邦生徒会**は、確かに以前とは違っていた。

 

 

 

 

 

 

昼休憩を終えると、三人は再びそれぞれの席へ戻った。

 

午後の対策室も、午前中と変わらない空気が流れている。

 

「午後最初の案件です。」

 

アユムが一覧を確認する。

 

「ヴァルキューレから巡回報告。」

 

「受領のみです。」

 

「お願いします。」

 

リンが頷く。

 

モモカは報告書を共有フォルダへ登録しながら、小さく笑った。

 

「今日は電話も少ないですねぇ。」

 

「広域案件が午前中に終わりましたからね。」

 

アユムがそう答える。

 

午後に入ってから届く案件は、どれも通常業務ばかりだった。

 

設備更新の報告。

 

備品補充の申請。

 

行事日程の共有。

 

担当部署へ振り分ければ完了する内容が続いている。

 

慌ただしさはある。

 

それでも、一つひとつを落ち着いて処理できていた。

 

リンは画面の右上へ表示された時計を見る。

 

午後三時。

 

予定より少し早い。

 

「未処理案件は?」

 

「残り五件です。」

 

アユムがすぐに答える。

 

「緊急案件はありません。」

 

「了解です。」

 

そのまま仕事は進み続ける。

 

誰かが判断している間も、他の二人は別の案件を進める。

 

手が止まる時間がない。

 

だから待ち時間もない。

 

修司が何度も口にしていた言葉を、リンはふと思い出した。

 

> 「組織は、人を待つ時間が一番もったいない。」

 

あの時は、少し冷たい考え方だと思った。

 

けれど今なら分かる。

 

誰かを待たなくても動けるからこそ、誰も無理をしなくて済むのだ。

 

午後四時過ぎ。

 

アユムが最後の案件へチェックを入れた。

 

「終了しました。」

 

「本日の受付案件、すべて処理完了です。」

 

モモカが思わず時計を見る。

 

「えっ。」

 

「まだ四時過ぎですよ?」

 

「いつもなら、この時間でもまだバタバタしてますよねぇ。」

 

リンも予定表を確認する。

 

確かに今日の案件数は少なくなかった。

 

それでも、残業が必要な状況ではない。

 

「……。」

 

三人は顔を見合わせる。

 

誰からともなく、小さく笑みがこぼれた。

 

「終わりましたね。」

 

アユムが静かに呟く。

 

「はい。」

 

リンも頷く。

 

「全部、自分たちだけで。」

 

その言葉に、モモカは少し照れくさそうに笑った。

 

「なんだか。」

 

「自信、ついちゃいますねぇ。」

 

誰も否定しなかった。

 

それは過信ではない。

 

今日という一日を、自分たちの力で最後までやり遂げた。

 

その事実だけが、三人の胸へ静かな自信として残っていた。

 

リンは先生の席へ目を向ける。

 

その隣には修司の席。

 

どちらも朝と変わらず空席のまま。

 

それでも今日は、一度も困らなかった。

 

その事実が、何より嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

終業時刻。

 

対策室には静かな空気が流れていた。

 

窓の外では夕焼けが街を淡く染め始めている。

 

アユムは端末を閉じると、処理一覧をもう一度確認した。

 

「本日受付案件。」

 

「四十三件。」

 

「未処理案件。」

 

「ゼロ件です。」

 

リンも最後の資料を確認し、静かに閉じた。

 

「お疲れ様でした。」

 

「お疲れ様でした。」

 

三人の声が重なる。

 

それだけで、今日の業務は終わった。

 

誰かへ報告する必要もない。

 

誰かの確認を待つ必要もない。

 

それぞれが立ち上がり、机の上を片付け始める。

 

モモカは書類を棚へ戻しながら、小さく笑った。

 

「終わっちゃいましたねぇ。」

 

「ええ。」

 

アユムも穏やかに頷く。

 

「思っていたより、あっという間でした。」

 

リンは施錠前の確認を終え、室内をゆっくり見渡した。

 

先生の席。

 

修司の席。

 

朝と変わらず、どちらも空席だった。

 

その景色を見つめていると、モモカが何かを思い出したように口を開く。

 

「……あ。」

 

「どうしました?」

 

アユムが振り返る。

 

モモカは少し照れくさそうに笑った。

 

「今日。」

 

「一回も。」

 

「先生にも、修司さんにも相談しませんでしたねぇ。」

 

部屋が静まり返る。

 

誰も言葉を返さない。

 

リンは静かに今日一日を思い返した。

 

朝。

 

修司の置き手紙を見た時は、不安だった。

 

二人とも休み。

 

本当に大丈夫なのだろうか。

 

そんな気持ちが確かにあった。

 

午前中には広域調整案件も届いた。

 

少しだけ緊張した。

 

けれど。

 

自分たちで考えた。

 

話し合った。

 

役割を分担した。

 

そして解決した。

 

午後も同じだった。

 

誰かが答えを出すのを待つことは、一度もなかった。

 

リンは自然と笑みを浮かべる。

 

「そうですね。」

 

「本当に、一度もありませんでした。」

 

アユムも小さく笑う。

 

「前なら考えられませんでした。」

 

「何かあるたびに、『先生へ確認しましょう』って言っていましたから。」

 

「修司さんにも、すぐ聞いていましたしねぇ。」

 

モモカが懐かしそうに笑う。

 

三人は顔を見合わせた。

 

どこか誇らしい。

 

けれど、それを口にするのは少し照れくさい。

 

そんな空気だった。

 

リンは先生の机へ歩み寄る。

 

静かに手を置き、小さく微笑んだ。

 

「先生。」

 

「もう少しだけ、ゆっくり休んでいてください。」

 

続けて、修司の机へ視線を向ける。

 

「修司さんも。」

 

「今日は、本当にありがとうございました。」

 

感謝を伝える相手は、この場にはいない。

 

それでも、その言葉は自然と口からこぼれた。

 

修司は、自分たちの代わりに仕事をしてくれたわけではない。

 

答えを教えてくれたわけでもない。

 

自分たちが、自分たちで立てるように支えてくれた。

 

だから今日という一日があった。

 

リンは照明を消す。

 

対策室が夕暮れの色へ包まれる。

 

施錠を終え、三人は廊下へ出た。

 

「帰りましょうか。」

 

「はい。」

 

「今日は少し寄り道でもしたいですねぇ。」

 

そんな他愛ない会話を交わしながら、三人は並んで歩き出す。

 

対策室には、もう誰もいない。

 

先生も。

 

修司も。

 

それでも連邦生徒会は、今日という一日を最後まで止まることなく走り切った。

 

それは誰か一人の力ではない。

 

皆で積み重ねた、小さな成長の証だった。

 

---

 

その頃。

 

公園のベンチへ腰掛けていた修司は、缶コーヒーを飲みながら静かに夕空を見上げていた。

 

隣では、ミコリが生命の書を開いている。

 

ページが淡く光る。

 

**案件No.19**

 

**『先生を支える組織』**

 

進捗状況更新。

 

**60%**

 

淡い光とともに、数字が静かに変わる。

 

**65%**

 

ミコリは小さく微笑んだ。

 

「本日の業務、異常なし。」

 

「連邦生徒会、自立を確認。」

 

修司は生命の書を閉じさせる。

 

「異常がない。」

 

「それが今日、一番の成果です。」

 

夕暮れの風が静かに吹き抜ける。

 

誰も知らない場所で、案件No.19はまた一歩、終着点へ近付いていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。