先生はモームリ   作:風神ぷー

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本日3話投稿予定です。
第十一話→20時
第十二話→21時
第十三話→22時


第十二話 保留

 

 

休暇十四日目。

 

朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。

 

先生はベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。

 

目覚ましが鳴る前に起きた。

 

けれど、以前のように飛び起きることはなかった。

 

枕元の端末へ手を伸ばす。

 

そこで、指が止まる。

 

画面は暗いままだった。

 

通知を確認しなければ。

 

そう思わなかったわけではない。

 

だが、その衝動は十四日前よりずっと弱くなっていた。

 

先生はゆっくりと息を吐く。

 

「……見なくても、大丈夫。」

 

小さく呟いてから、端末を伏せた。

 

休暇に入ったばかりの頃なら、あり得ない行動だった。

 

朝起きて最初に通知を見る。

 

夜眠る直前にも通知を見る。

 

食事中も、散歩中も、喫茶店でも、公園でも。

 

いつでも、どこでも。

 

自分が見落とした連絡の先で、誰かが困っている気がしていた。

 

だが、この十四日間。

 

シャーレは止まらなかった。

 

リンたちは仕事を続けた。

 

アユムも、モモカも、自分たちで考えて動いた。

 

先生がいなくても。

 

修司がいない日ですら。

 

対策室は一日を終えた。

 

その事実を知ってから、先生の中にあった張り詰めたものは、少しずつ形を変えていた。

 

安心。

 

寂しさ。

 

戸惑い。

 

そして、ほんの少しの誇らしさ。

 

どれも一つの言葉にはできない。

 

先生はベッドから起き上がり、窓を開けた。

 

朝の風が部屋へ入り込む。

 

外では、登校する生徒たちの声が聞こえていた。

 

楽しそうな声。

 

眠そうな声。

 

友人を呼ぶ声。

 

どれも、いつものキヴォトスの朝だった。

 

事件のない朝。

 

誰かが泣いていない朝。

 

助けを求める通知ではなく、ただの日常の音。

 

先生はその音を、しばらく黙って聞いていた。

 

「今日で、終わりか。」

 

二週間。

 

最初は、あまりにも長く感じた。

 

そんなに休めるわけがない。

 

自分がいなければ、シャーレは混乱する。

 

そう思っていた。

 

けれど、終わってみれば。

 

短かった。

 

休むことに慣れる前に、休暇が終わってしまう。

 

そんな気さえしていた。

 

朝食を取る。

 

温かいスープ。

 

焼いたパン。

 

簡単なサラダ。

 

以前なら、端末を片手に片付けていた食事だった。

 

今は、温かいうちに食べられる。

 

それだけのことが、少しだけ嬉しかった。

 

そして少しだけ、情けなかった。

 

こんな当たり前のことすら、自分は失っていたのかと思うと、笑うしかなかった。

 

食器を片付け終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。

 

先生は時計を見る。

 

約束の時間ぴったりだった。

 

「本当に時間通りね。」

 

扉を開けると、そこには白石修司が立っていた。

 

紺色のスーツ。

 

白い髪。

 

片手には黒いアタッシュケース。

 

十四日前と、ほとんど変わらない姿だった。

 

「おはようございます。」

 

「おはようございます、コンサルさん。」

 

先生がそう返すと、修司はわずかに目を細めた。

 

「その呼び方、定着しましたね。」

 

「嫌でした?」

 

「いえ。」

 

修司は淡々と答える。

 

「先生専門の経営コンサルタントとしては、職務内容と一致しています。」

 

「真面目ですね。」

 

「不真面目なコンサルは、だいたい資料が派手です。」

 

「偏見では?」

 

「経験則です。」

 

先生は小さく笑った。

 

十四日前。

 

正門前で初めて会った時、この男の言葉は冷たく聞こえた。

 

だが今は、その冷たさの奥にあるものが少しだけ分かる。

 

修司は慰めない。

 

甘い言葉も言わない。

 

けれど、逃げ道を作る。

 

壊れる前に止まるための道を。

 

「今日で休暇も終わりですね。」

 

先生が言うと、修司は短く頷いた。

 

「はい。」

 

「今日は、復帰の手続きですか?」

 

「違います。」

 

「違うんですか?」

 

「結果確認です。」

 

先生は首を傾げた。

 

「シャーレの?」

 

「はい。」

 

修司は一拍置いて続ける。

 

「先生の結果は、まだです。」

 

先生は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。

 

「私の結果は、まだ……?」

 

「行けば分かります。」

 

「またそうやって説明を省く。」

 

「説明は必要になってから行います。」

 

「便利な言い方ですね。」

 

「人類は不要な説明を聞くと眠くなります。実に分かりやすい欠陥です。」

 

「それ、私にも言ってます?」

 

「一般論です。」

 

先生は苦笑した。

 

けれど、不思議と不安はなかった。

 

修司が来たということは、今日も何かを見せるつもりなのだろう。

 

それが心地良いものかどうかは、別として。

 

先生は小さな鞄を持ち、玄関を出た。

 

二人は並んで歩き出す。

 

キヴォトスの街は、いつも通りだった。

 

通学路を歩く生徒たち。

 

開店準備をする店。

 

路面電車の音。

 

遠くで響く笑い声。

 

先生はその一つひとつへ、以前より少しだけ意識を向けられるようになっていた。

 

「十四日前は。」

 

先生がぽつりと呟く。

 

「この音全部が、重く聞こえていました。」

 

修司は前を向いたまま聞いている。

 

「生徒の声を聞くと、守らなきゃって思って。」

 

「誰かが笑っていても、その裏で困っている子がいるんじゃないかって考えて。」

 

「全部、仕事に繋げてしまっていました。」

 

「今は?」

 

先生は少し考えた。

 

「少しだけ。」

 

「ただの朝に聞こえます。」

 

修司は頷いた。

 

「改善しています。」

 

「評価ですか?」

 

「はい。」

 

「褒めてはいないんですね。」

 

「評価しています。」

 

先生はまた笑った。

 

十四日前にも聞いた言葉だった。

 

不器用な肯定。

 

修司らしい。

 

シャーレへ近付くにつれ、先生の足取りは少しずつ遅くなった。

 

自分でも気付いていた。

 

胸の奥に、緊張が生まれている。

 

戻る場所。

 

離れた場所。

 

自分がずっと、日常そのものだと思っていた場所。

 

その建物が、見えてきた。

 

白い外壁。

 

正門。

 

見慣れた入口。

 

先生は足を止める。

 

「……。」

 

修司も少し先で立ち止まり、振り返った。

 

「不安ですか。」

 

「はい。」

 

先生は正直に頷いた。

 

「少し。」

 

「では正常です。」

 

「それも二週間前に聞きました。」

 

「正常な反応は、何度確認しても正常です。」

 

「便利ですね、その言い方。」

 

「便利です。」

 

先生は小さく息を吐いた。

 

正門の向こうでは、生徒たちが行き交っている。

 

誰も先生に気付いていない。

 

それが少しだけありがたかった。

 

先生は一歩を踏み出す。

 

十四日前は、この門を出ることが怖かった。

 

今日は、この門をくぐることが怖い。

 

同じ場所なのに、向きが違うだけで、こんなにも意味が変わる。

 

「行きましょう。」

 

修司の声に、先生は頷いた。

 

「はい。」

 

二人はシャーレの中へ入った。

 

廊下には、穏やかな空気が流れていた。

 

慌ただしい足音はない。

 

怒鳴り声もない。

 

誰かが資料を抱えて走ってくることもない。

 

壁際の掲示板には、新しい業務フローが貼られていた。

 

先生は足を止める。

 

「これは……。」

 

そこには、案件受付の分類表があった。

 

緊急度A。

 

緊急度B。

 

通常相談。

 

各学園一次対応。

 

連邦生徒会集約。

 

シャーレ確認不要。

 

以前なら、ほとんど全てが先生へ流れ込んでいた。

 

だが今は、入口の段階で分けられている。

 

誰が見るべきか。

 

どこへ戻すべきか。

 

どこで止めるべきか。

 

それが、目で見て分かる形になっていた。

 

「こんなに……。」

 

先生は言葉を失う。

 

修司は淡々と答える。

 

「分類しなければ、全てが先生へ届きます。」

 

「確かに。」

 

「川の流れと同じです。」

 

「せき止める場所を作らなければ、低い場所に全部集まる。」

 

先生は掲示板を見つめた。

 

「私は低い場所だったんですか?」

 

「処理能力が高い場所です。」

 

「少し言い方を選びましたね。」

 

「選びました。」

 

「そこは正直なんですね。」

 

「嘘をつく必要がありません。」

 

先生は苦笑しながら、再び歩き出した。

 

対策室の扉が見える。

 

何度も開けた扉。

 

その向こうで、何度も朝を迎えた。

 

何度も夜を越えた。

 

何度も無理をした。

 

先生は扉の前で立ち止まる。

 

手を伸ばす。

 

少しだけ迷う。

 

修司は何も言わなかった。

 

急かさない。

 

代わりに開けることもしない。

 

先生自身が開けるのを、ただ待っていた。

 

先生は深く息を吸い、扉を開けた。

 

シャーレ対策室。

 

そこには、いつも通りの光景があった。

 

リンが端末の前で資料を確認している。

 

アユムが案件一覧を整理している。

 

モモカが通信端末のログを確認している。

 

キーボードを打つ音。

 

資料をめくる音。

 

小さな確認の声。

 

そのどれもが、静かだった。

 

誰も混乱していない。

 

誰も焦っていない。

 

先生が入ってきたことに気付いたリンが、ゆっくり顔を上げる。

 

その表情が、ふっと柔らかくなった。

 

「先生。」

 

アユムも顔を上げる。

 

モモカも通信端末から視線を離す。

 

三人が立ち上がった。

 

リンが一歩前へ出る。

 

「おかえりなさい。」

 

先生は、少しだけ言葉に詰まった。

 

その一言だけだった。

 

助けてください、ではない。

 

待っていました、でもない。

 

山のような書類を差し出されることもない。

 

ただ。

 

おかえりなさい。

 

先生は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「……ただいま。」

 

小さく、そう答えた。

 

対策室には、穏やかな空気が流れていた。

 

先生はゆっくりと室内を見渡す。

 

机の配置が少し変わっている。

 

共有ボードには、案件の進捗が色分けされている。

 

連絡先一覧は見やすく整理され、緊急度別の対応手順が貼られていた。

 

先生の机は、そのまま残っている。

 

けれど、以前のように書類で埋まってはいなかった。

 

置かれているのは、マグカップとペン立て。

 

そして、一枚の薄い資料だけ。

 

「随分、変わりましたね。」

 

先生が言うと、リンは少しだけ誇らしそうに頷いた。

 

「はい。」

 

「白石さんの指導で、業務の流れを整理しました。」

 

モモカが笑う。

 

「最初は大変でしたよぉ。」

 

「書類がどこにあるか、誰も正確に分かってませんでしたし。」

 

アユムも苦笑する。

 

「案件の重複も多かったです。」

 

「同じ相談が、三つの経路から先生へ届いていたこともありました。」

 

先生は目を伏せた。

 

それを、自分は全部受け取っていた。

 

同じ相談でも、別の案件として処理していた。

 

誰かを待たせたくない。

 

そう思って。

 

結果的に、自分をすり減らしていた。

 

「そうだったんですね。」

 

「はい。」

 

リンは静かに答える。

 

「でも、今は入口で整理しています。」

 

「緊急度A以外は、まず担当部署が確認します。」

 

「先生の判断が必要な案件だけ、最終的に上げる形です。」

 

先生は頷いた。

 

「すごいですね。」

 

その言葉に、リンは少し目を伏せる。

 

「先生がいなかったから、やるしかありませんでした。」

 

先生は胸の奥が少し痛んだ。

 

自分がいなかったから。

 

その言葉は、責めているわけではない。

 

それでも、響いた。

 

リンはすぐに顔を上げる。

 

「ですが。」

 

「やってみて分かりました。」

 

「先生に頼らなくても、できることはたくさんありました。」

 

アユムも頷く。

 

「むしろ、今まで先生へ渡しすぎていました。」

 

モモカが肩をすくめる。

 

「便利すぎる窓口って、怖いですねぇ。」

 

「つい何でも投げちゃいますし。」

 

先生は少しだけ笑った。

 

「便利な窓口……。」

 

「はい。」

 

モモカは悪びれずに言う。

 

「先生窓口、二十四時間営業でしたから。」

 

リンがすぐに咳払いした。

 

「モモカ。」

 

「すみません、でも事実ですぅ。」

 

先生は苦笑した。

 

本当に、その通りだった。

 

二十四時間。

 

誰かから連絡があれば返す。

 

夜中でも起きる。

 

早朝でも確認する。

 

休日でも対応する。

 

それを当然だと思っていた。

 

修司が横から静かに言う。

 

「二十四時間営業の窓口は、だいたい壊れます。」

 

「でしょうね。」

 

先生は素直に頷いた。

 

「今なら、少し分かります。」

 

「少しですか。」

 

「少しです。」

 

修司はそれ以上何も言わなかった。

 

先生は自分の机へ向かう。

 

椅子へ手を掛ける。

 

長く離れていたはずなのに、身体は自然にそこへ向かっていた。

 

座る。

 

机に触れる。

 

端末へ手を伸ばす。

 

電源を入れようとした、その瞬間だった。

 

「先生。」

 

リンの声がした。

 

先生の手が止まる。

 

リンは穏やかな顔で、先生の端末を見ていた。

 

「その案件一覧は、現在私が確認しています。」

 

「え……。」

 

先生は自分の手を見る。

 

端末へ伸びた指。

 

無意識だった。

 

自分では、ただ座っただけのつもりだった。

 

ただ、いつものように。

 

「そう……だったのね。」

 

先生はゆっくり手を引いた。

 

「ごめんなさい。」

 

言ってから、先生ははっとする。

 

修司が即座に言った。

 

「謝罪は禁止です。」

 

「まだ有効なんですか?」

 

「休暇最終日まで有効です。」

 

「厳しい。」

 

「再発防止策です。」

 

リンが少し笑う。

 

「先生、大丈夫です。」

 

「案件一覧はこちらで確認しています。」

 

アユムも端末を操作しながら続ける。

 

「今日の受付案件は、既に分類済みです。」

 

モモカが軽く手を振る。

 

「緊急度Aは今のところゼロですぅ。」

 

先生は三人を見る。

 

「そう……。」

 

その声は、安心しているようでもあり、戸惑っているようでもあった。

 

仕事がない。

 

少なくとも、今すぐ自分が処理すべき仕事はない。

 

先生は机の前に座ったまま、少しだけ落ち着かない気持ちになった。

 

何もしなくていい。

 

そう言われることに、まだ慣れていない。

 

対策室の時計が、静かに時を刻んでいた。

 

キーボードの音が響く。

 

リンが資料を確認する。

 

アユムが案件を振り分ける。

 

モモカが通信ログを整理する。

 

その音を聞いていると、先生の指が自然に動いた。

 

机の上の書類へ、手を伸ばす。

 

薄い一枚の資料。

 

何の資料だろう。

 

確認だけなら。

 

そう思った瞬間。

 

「先生。」

 

今度はアユムの声だった。

 

先生の手が、また止まった。

 

「その資料は確認済みです。」

 

「……。」

 

先生は書類から手を離す。

 

「そう。」

 

アユムは申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「必要があれば、こちらから共有します。」

 

「ありがとう。」

 

先生は微笑み返す。

 

だが、その笑みは少し硬かった。

 

まただ。

 

自分はまた、無意識に仕事へ手を伸ばしていた。

 

修司は何も言わない。

 

ただ、少し離れた場所でその様子を見ていた。

 

責めるでもなく。

 

止めるでもなく。

 

記録するように。

 

先生は椅子へ座り直す。

 

何もしない。

 

何もしないで、対策室にいる。

 

それがこんなに難しいことだとは思わなかった。

 

十四日間休んだ。

 

少しは変わったと思っていた。

 

朝、端末を見なくてもいられるようになった。

 

食事も取れるようになった。

 

眠れるようにもなった。

 

けれど、シャーレへ戻った途端。

 

身体は勝手に、以前の自分へ戻ろうとしている。

 

そのことに、先生はまだ完全には気付いていなかった。

 

電話が鳴った。

 

短い着信音。

 

対策室に響いた瞬間、先生の身体が反応した。

 

椅子から腰が浮く。

 

受話器へ手が伸びる。

 

だが、その前にモモカが自然に取った。

 

「はい、シャーレ対策室ですぅ。」

 

先生の手は宙で止まった。

 

モモカは普通に相手と話している。

 

「はい、そちらは担当部署へ共有済みです。」

 

「追加資料は午後までに送ってくださいねぇ。」

 

「はい、失礼しますぅ。」

 

通話はすぐに終わった。

 

モモカはログを入力しながら、何気なく言う。

 

「通常確認でした。」

 

「対応済みです。」

 

先生はゆっくり手を下ろした。

 

「そう……。」

 

三度目。

 

三度目だった。

 

先生はようやく、自分の手を見つめた。

 

自分の意志より先に動く手。

 

自分の判断より先に反応する身体。

 

仕事をしようとしたのではない。

 

仕事があると、勝手に動いた。

 

それはもはや、習慣だった。

 

先生は小さく息を呑む。

 

修司はまだ何も言わない。

 

対策室の中で、先生だけが少しずつ、自分の異常さに気付き始めていた。

 

窓の外では、午前の光が静かに差し込んでいる。

 

シャーレは穏やかだった。

 

リンたちは落ち着いて仕事をしている。

 

何も問題は起きていない。

 

それなのに。

 

先生の胸の奥だけが、静かにざわついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

先生は椅子へ静かに腰を下ろした。

 

何もしない。

 

ただ、それだけ。

 

休暇中、修司は何度もそう言っていた。

 

「休むのも仕事です。」

 

最初は意味が分からなかった。

 

仕事とは動くこと。

 

考えること。

 

判断すること。

 

誰かを助けること。

 

そう信じてきた。

 

だから何もしないことは、先生にとって仕事ではなかった。

 

だが今。

 

目の前では、リンたちがそれぞれの役割を果たしている。

 

リンは案件一覧を確認しながら優先順位を整理する。

 

アユムは届いた資料へ目を通し、必要な情報だけを抜き出していく。

 

モモカは通信記録を更新し、各学園との連絡を続けていた。

 

誰も慌てない。

 

誰も走らない。

 

それでも仕事は止まらない。

 

先生はその光景を、静かに見つめていた。

 

その時だった。

 

「リンさん。」

 

アユムが資料を差し出す。

 

「交通室から追加資料が届きました。」

 

「ありがとうございます。」

 

リンは資料を受け取り、数ページ目を開いた。

 

少しだけ眉が動く。

 

その瞬間だった。

 

先生は椅子から立ち上がっていた。

 

「見せてもらえますか。」

 

リンが顔を上げる。

 

「あ……先生。」

 

先生は資料へ手を伸ばす。

 

しかし、リンは穏やかに微笑んだ。

 

「大丈夫です。」

 

「え?」

 

「添付資料を確認したかっただけです。」

 

リンはもう一枚ページをめくる。

 

「あ、ありました。」

 

確認は数秒で終わった。

 

「問題ありません。」

 

先生は立ったまま動けなかった。

 

「……そう。」

 

リンは少し照れくさそうに笑う。

 

「ご心配をお掛けしました。」

 

先生も笑顔を返す。

 

「いえ。」

 

しかし胸の奥では、小さな違和感が広がっていた。

 

自分は今。

 

完全に仕事を取りに行った。

 

そんな自覚があった。

 

修司は少し離れた場所で、その様子を静かに見ている。

 

何も言わない。

 

止めもしない。

 

ただ見ているだけだった。

 

その沈黙が、不思議と落ち着かなかった。

 

やがて通信端末が鳴る。

 

モモカが受話器を取る。

 

「はい、シャーレ対策室です。」

 

先生は思わず耳を傾けた。

 

「承知しました。」

 

「担当部署へ確認いたします。」

 

「本日中にご連絡いたします。」

 

「ありがとうございます。失礼いたします。」

 

通話が終わる。

 

モモカは通信記録を入力しながら振り返った。

 

「通常確認でしたぁ。」

 

「急ぎじゃないので、午後にまとめて返しますねぇ。」

 

先生は頷く。

 

「何か問題は?」

 

「大丈夫ですよぉ。」

 

「今日中なら十分間に合います。」

 

以前の自分なら。

 

今すぐ返事を書いていた。

 

一分でも早く。

 

少しでも待たせないように。

 

そう考えていた。

 

だがモモカは違う。

 

優先順位を付けている。

 

急がなくていい仕事は、急がない。

 

その方が全体は早く進む。

 

修司が以前言った言葉を思い出す。

 

『急ぐことと、急がせることは違います。』

 

その時は半分も理解できなかった。

 

今なら少しだけ分かる。

 

対策室全体を見渡す。

 

誰も急いでいない。

 

なのに、仕事は進んでいる。

 

その光景は、先生にとって新鮮だった。

 

「先生。」

 

アユムが声を掛ける。

 

「少しだけ、お時間よろしいですか。」

 

「もちろん。」

 

先生は自然とアユムの隣へ立った。

 

画面を見る。

 

案件一覧だった。

 

先生は反射的にマウスへ手を伸ばす。

 

「こちらは……。」

 

途中で止まる。

 

自分の手が、また勝手に動いていた。

 

アユムも気付いたようだった。

 

「あ……。」

 

二人とも固まる。

 

数秒の沈黙。

 

先生はゆっくりと手を引いた。

 

「ご……。」

 

言葉が止まる。

 

修司が静かに言う。

 

「禁止事項です。」

 

先生は思わず笑ってしまう。

 

「まだ最後まで言っていません。」

 

「予測可能でした。」

 

「本当に厳しいですね。」

 

「再発防止です。」

 

対策室へ小さな笑いが広がる。

 

張り詰めた空気ではない。

 

自然な笑いだった。

 

アユムも微笑む。

 

「実は先生へ相談ではなく。」

 

「改善結果を見ていただきたかったんです。」

 

「改善結果?」

 

「はい。」

 

画面には案件処理時間の一覧が表示されていた。

 

休暇前。

 

休暇中。

 

先生は目を見開く。

 

「ほとんど……変わっていない。」

 

「はい。」

 

リンが資料を開く。

 

「最初の数日は遅れました。」

 

「ですが、役割分担を見直したことで、現在は休暇前とほぼ同じです。」

 

先生は数字を見つめ続けた。

 

もっと混乱していると思っていた。

 

もっと残業が増えていると思っていた。

 

その予想は、全部外れていた。

 

「皆さんが頑張ったんですね。」

 

リンは静かに首を横へ振る。

 

「頑張っただけでは続きません。」

 

先生は顔を上げる。

 

「仕事を減らしました。」

 

「仕事を?」

 

「はい。」

 

リンは改善資料をめくる。

 

「先生しかできないと思っていた仕事。」

 

「担当部署で完結できる仕事。」

 

「最初から受けなくてよかった相談。」

 

「全部整理しました。」

 

先生はページをめくる。

 

そこには、自分の名前がほとんどなかった。

 

『先生確認』

 

『先生決裁』

 

『先生対応』

 

以前は並んでいたその文字が消え、

 

代わりに

 

『担当部署』

 

『一次対応』

 

『完了』

 

という文字が並んでいた。

 

先生は静かに呟く。

 

「こんなに変わるんですね……。」

 

リンは穏やかに答えた。

 

「先生。」

 

「仕事は減りました。」

 

「でも、生徒への支援は減っていません。」

 

その一言が、胸へ深く響いた。

 

先生はずっと思っていた。

 

仕事を減らすことは。

 

誰かを見捨てることだと。

 

違った。

 

仕事を整理しても。

 

支援は続けられる。

 

その証拠が、目の前にあった。

 

その時。

 

再び電話が鳴る。

 

先生の身体がわずかに反応する。

 

しかし今度は。

 

自分で止めた。

 

手を膝の上へ戻す。

 

モモカが自然に受話器を取る。

 

「はい、シャーレ対策室です。」

 

先生はその様子を黙って見守った。

 

受話器を取らなかった。

 

立ち上がらなかった。

 

ほんの小さな変化だった。

 

だが、修司はその姿を見て初めて小さく頷いた。

 

先生は自分の両手を見つめる。

 

少しだけ震えている。

 

仕事がしたいわけではない。

 

使命感でもない。

 

ただ。

 

身体が覚えている。

 

十四日休んでも。

 

まだ抜けない。

 

先生はようやく、その事実を受け入れ始めていた。

 

窓の外では、昼の光が静かに差し込んでいる。

 

対策室は今日も穏やかだった。

 

誰も困っていない。

 

誰も慌てていない。

 

それなのに。

 

先生の胸の奥だけが、小さく揺れていた。

 

**私は、本当に休めるようになったのだろうか。**

 

 

 

 

 

 

 

 

対策室には、いつも通りの時間が流れていた。

 

誰かが走ることもない。

 

怒鳴り声も聞こえない。

 

キーボードを打つ音。

 

資料をめくる音。

 

電話応対の声。

 

そのどれもが静かで、落ち着いていた。

 

先生はその音を聞きながら、自分の机へ視線を落とす。

 

何もしない。

 

それだけのことが、こんなにも難しい。

 

「先生。」

 

リンが声を掛ける。

 

「少し、お時間よろしいですか。」

 

先生は顔を上げた。

 

「もちろん。」

 

リンは一枚の資料を差し出す。

 

「改善内容の最終報告書です。」

 

先生は反射的に受け取ろうとした。

 

だが。

 

その手が途中で止まる。

 

数秒。

 

その場に静かな沈黙が流れた。

 

先生はゆっくりと手を下ろす。

 

「……説明だけ、お願いできますか。」

 

リンは少しだけ目を見開く。

 

そして穏やかに微笑んだ。

 

「はい。」

 

資料を開きながら説明を始める。

 

先生は黙って聞いていた。

 

最後まで。

 

途中で資料を取ることもない。

 

自分でページをめくることもない。

 

ただ、聞く。

 

それだけだった。

 

説明が終わる。

 

先生は静かに頷いた。

 

「ありがとう。」

 

リンも小さく頭を下げる。

 

「こちらこそ。」

 

そのやり取りを、修司は黙って見ていた。

 

表情は変わらない。

 

何も言わない。

 

しかし視線だけは、先生の手元から離れなかった。

 

その時。

 

対策室の扉が開く。

 

一人の生徒が慌てた様子で入ってきた。

 

「すみません!」

 

「相談が……。」

 

先生の身体が反応した。

 

椅子から立ち上がる。

 

一歩踏み出す。

 

その瞬間。

 

リンが自然と前へ出た。

 

「どうしました?」

 

先生は立ち止まる。

 

生徒はリンへ事情を説明し始めた。

 

部活動の備品申請。

 

期限の確認。

 

緊急性はない。

 

リンは数分話を聞き、資料を確認する。

 

「担当部署へ連絡しています。」

 

「今日中に返答できますので、ご安心ください。」

 

生徒はほっとした表情を浮かべた。

 

「ありがとうございます!」

 

笑顔で頭を下げ、部屋を出ていく。

 

静寂が戻る。

 

先生は、その背中を見送っていた。

 

何も言わなかった。

 

言う必要がなかった。

 

リンだけで十分だった。

 

修司が静かにアタッシュケースを開く。

 

生命の書。

 

淡い光が対策室を包む。

 

ページがゆっくりと開かれていく。

 

---

 

**案件No.19**

 

**『先生を支える組織』**

 

組織改革   完了

 

責任分散   完了

 

属人化解消  完了

 

業務改善   完了

 

---

 

先生は小さく息を吐く。

 

「終わった……。」

 

その時だった。

 

ページが、ひとりでにめくれた。

 

新しい文字が浮かび上がる。

 

---

 

**世界線修正判定**

 

**保留**

 

---

 

先生の表情が止まる。

 

「……保留?」

 

生命の書へ、さらに文字が刻まれていく。

 

---

 

**保留理由**

 

**救済対象**

 

**復職後判定 未実施**

 

---

 

先生は生命の書を見つめたまま動けなかった。

 

「どうして……。」

 

修司は静かに先生を見る。

 

「先生。」

 

「はい。」

 

「本日。」

 

「仕事へ何回手を伸ばしましたか。」

 

先生は答えられない。

 

修司は続ける。

 

「案件一覧。」

 

「資料。」

 

「電話。」

 

「追加資料。」

 

「相談対応。」

 

「全て、無意識でした。」

 

先生はゆっくりと目を閉じる。

 

否定できなかった。

 

「先生は仕事をしたかったわけではありません。」

 

修司の声は穏やかだった。

 

「仕事がある場所へ来ると。」

 

「身体が勝手に動く。」

 

「それが、十四日間積み重ねた結果です。」

 

先生は静かに息を吐く。

 

「そう……ですね。」

 

「朝、通知を見ないことはできるようになりました。」

 

「眠れるようにもなりました。」

 

「でも。」

 

自分の両手を見る。

 

「ここへ戻ると。」

 

「昔の私へ戻ってしまう。」

 

修司は頷く。

 

「だから保留です。」

 

責める声ではない。

 

淡々とした確認だった。

 

生命の書も、何も語らない。

 

ただ結果だけを示している。

 

リンが先生の隣へ歩み寄る。

 

「先生。」

 

先生は顔を上げる。

 

「今日。」

 

「私は先生へ一度も仕事をお願いしませんでした。」

 

「はい。」

 

「お願いしなくても。」

 

「先生がいてくださるだけで、安心できました。」

 

先生は驚いたようにリンを見る。

 

「でも。」

 

リンは続ける。

 

「安心できることと。」

 

「仕事をお願いすることは、別なんです。」

 

「……。」

 

「先生は先生です。」

 

「でも。」

 

「私たちも、もう自分たちで仕事ができます。」

 

アユムが頷く。

 

「困ったら相談します。」

 

「でも。」

 

「最初から先生へ渡すことは、もうしません。」

 

モモカも笑う。

 

「ちゃんと自分たちで考えてからですぅ。」

 

先生は三人を見つめる。

 

皆、笑っていた。

 

無理をしている笑顔ではない。

 

自然な笑顔だった。

 

先生は少しだけ視線を落とす。

 

「皆さん。」

 

「強くなりましたね。」

 

リンは首を横へ振る。

 

「違います。」

 

先生は顔を上げる。

 

「先生が休んでくださったからです。」

 

その一言に。

 

先生は何も返せなかった。

 

修司が生命の書を閉じる。

 

「案件No.19。」

 

「進捗率に変動はありません。」

 

先生が生命の書を見る。

 

---

 

**進捗率**

 

**65%**

 

---

 

数字は動かない。

 

それでも先生は、不思議と悔しくなかった。

 

十四日前なら。

 

きっと焦っていた。

 

今は違う。

 

「まだ終わっていない。」

 

そう思えた。

 

それだけだった。

 

修司がアタッシュケースを閉じる。

 

「本日の確認は終了です。」

 

先生は静かに頷く。

 

帰ろうとした、その時だった。

 

リンが一枚の書類を持って近付いてくる。

 

「先生。」

 

先生は反射的に手を伸ばす。

 

途中で止まる。

 

数秒。

 

静かな時間が流れる。

 

そして。

 

先生はゆっくりと微笑んだ。

 

「リンさん。」

 

「はい。」

 

「……お願いします。」

 

リンも微笑み返す。

 

「お任せください。」

 

先生は手を下ろした。

 

その姿を見た修司は、ほんのわずかに口元を緩める。

 

誰にも気付かれないほど、小さく。

 

生命の書は反応しない。

 

進捗率も変わらない。

 

それでも。

 

先生は確かに、一歩だけ前へ進んでいた。

 

窓の外では夕日が静かに傾き始めている。

 

案件No.19。

 

その終着点は、もうすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

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