乾いた風が、砂漠を静かに吹き抜けていた。
かつては人の声で満ちていた街並みも、今では砂に沈み、遠くに見える建物の影だけが、そこに都市があったことを伝えている。
アビドス高等学校。
広大な砂漠の中に残された、古びた校舎。
その一室に、朝早くから一人の大人がいた。
先生は机に向かい、黙って書類を読んでいた。
机の上には、銀行との交渉資料。
今月の収支報告。
カイザーから届いた督促状。
校舎修繕の見積書。
生徒たちから預かった依頼書。
そして、まだ手を付けられていない書類の山。
先生はそれらを一枚ずつ確認し、必要な箇所へペンを走らせていく。
動きは速くない。
決して器用でもない。
けれど、投げ出すことだけはしなかった。
扉が開く。
「先生、おはようございます」
奥空アヤネが、資料を抱えて部室へ入ってきた。
先生は顔を上げる。
「ああ」
短い返事。
それだけだった。
アヤネは慣れた様子で机の横へ立つ。
「今日の予定です」
「午前中は商店街の見回り」
「午後は銀行との面談」
「その後、廃線地区の確認依頼が入っています」
先生は紙面へ目を落とし、静かに頷いた。
「分かった」
「あと……」
アヤネは少し言いづらそうに視線を落とした。
「カイザーから、また連絡が来ています」
先生は何も言わず、アヤネの差し出した封筒を受け取った。
「俺が対応する」
「すみません……」
「気にするな」
短い言葉。
けれど、アヤネの表情は少しだけ和らいだ。
この先生は、言葉が多い人ではない。
励ますのも上手くない。
気の利いた冗談を言うわけでもない。
だが、頼まれたことから逃げない。
それをアヤネは知っていた。
だから、申し訳なさと同時に、安心もしてしまう。
それが余計に、胸を重くすることもあった。
「先生、おはようございます」
柔らかな声と共に、十六夜ノノミが顔を出した。
「朝ご飯は食べましたか?」
先生は少しだけ考える。
「まだ」
「またですか」
ノノミは困ったように笑った。
「ちゃんと食べないとダメですよ?」
「あとで」
「先生の『あとで』は信用できません」
「……努力する」
「努力じゃなくて、食べてください」
ノノミの言葉に、先生は少しだけ困ったように眉を下げた。
その表情を見て、黒見セリカが大きくため息をつく。
「本当に不器用よね、先生って」
「もっと要領よくできないの?」
先生は素直に首を横に振った。
「苦手だ」
「即答しないでよ!」
セリカは思わず声を上げる。
けれど、本気で怒っているわけではなかった。
先生が嘘をつかないことを、セリカも分かっている。
できないことを、できるとは言わない。
分からないことを、分かったふりもしない。
だから腹が立つ。
そして、だから信じられる。
「先生」
砂狼シロコが、窓際から静かに声をかけた。
「見回りの準備、できた」
「ああ」
「行こう」
「分かった」
短いやり取り。
それだけで、先生は席を立った。
派手な指示はない。
作戦も簡潔。
この先生は、戦術に優れているわけではない。
交渉が得意なわけでもない。
組織をまとめる能力も、決して高くない。
それでも。
アビドス対策委員会の生徒たちは、この先生を信じていた。
理由は単純だった。
この人は、逃げない。
どれほど不利な状況でも。
どれほど借金が膨らんでも。
どれほど理不尽な相手に責められても。
この先生だけは、最後まで自分たちの隣に立っていた。
だから、信じられる。
万能だからではない。
強いからでもない。
逃げないから、信じられる。
それが、世界線000020の先生だった。
昼過ぎ。
見回りを終えた先生が部室へ戻ると、机の上にはさらに書類が増えていた。
アヤネが申し訳なさそうに立ち上がる。
「先生……銀行との面談資料です」
「それと、来月の予算案」
「あと、カイザーへの回答案も確認をお願いします」
先生は一つずつ受け取った。
「ああ」
ただ、それだけ。
文句は言わない。
拒まない。
誰かに押し付けることもしない。
全部、自分の机へ積んでいく。
「先生」
ノノミがサンドイッチを差し出した。
「これだけでも食べてください」
先生は資料から目を離さない。
「あとで」
「またそれですか……」
セリカが机を叩く。
「先生!」
「だから、その『あとで』は信用できないって言ってるでしょ!」
先生は少し困ったように笑う。
「すまない」
「謝るくらいなら食べなさいよ!」
「あとで食べる」
「だから!」
セリカは言い返そうとして、結局言葉を飲み込んだ。
先生は本気でそう言っている。
本気で、あとで食べるつもりなのだ。
ただ、その「あとで」が来る前に、次の仕事が来る。
そしてまた後回しになる。
いつもそうだった。
部屋の隅。
小鳥遊ホシノは、机に突っ伏したまま片目だけを開けていた。
「…………」
先生の様子を、じっと見ている。
朝から何も食べていない。
返事が少し遅い。
肩を回す回数が増えた。
笑い方が、少しだけ硬い。
他の皆は、まだ気付いていない。
いや、気付いていても、見ないようにしているのかもしれない。
先生はまだ立っている。
まだ仕事をしている。
まだ「大丈夫」と言っている。
だから、大丈夫なのだと。
そう思いたくなる。
ホシノは、ゆっくり目を細めた。
先生が資料をめくる手が、ほんの一瞬だけ止まる。
額を押さえる。
すぐに何事もなかったように、またペンを動かす。
その一瞬を、ホシノは見逃さなかった。
「……先生」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声だった。
夕方。
銀行との面談を終えた先生は、部室へ戻ってきた。
表情はいつも通り。
だが、手に持った資料の端が少しだけ折れていた。
セリカが真っ先に近寄る。
「どうだったの?」
先生は椅子に座る。
「猶予はもらった」
「本当!?」
「少しだけだ」
「少しでもすごいじゃない!」
ノノミが明るく笑う。
「先生、ありがとうございます」
アヤネも深く頭を下げた。
「本当に助かりました」
先生は首を横に振る。
「まだ終わってない」
「でも、今日は一歩前進です」
アヤネの言葉に、先生は少しだけ目を伏せた。
「そうだな」
短く、そう答えた。
ホシノはその顔を見る。
疲れている。
達成感よりも、次の問題を考えている顔だった。
一つ終われば、また次。
一つ防げば、また次。
アビドスの問題は、砂漠のように終わりが見えない。
その全てを、先生は一人で受け止めようとしている。
ホシノは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
夜。
生徒たちは帰り支度を始める。
「先生、今日は早く帰ってくださいね」
アヤネが念を押す。
「ああ」
「本当ですか?」
「ああ」
ノノミも続ける。
「ご飯も食べてくださいね」
「ああ」
セリカが睨む。
「全部『ああ』で済ませない!」
先生は少しだけ困ったように笑った。
「分かった」
「絶対だからね!」
「分かった」
シロコは先生をじっと見つめる。
「先生」
「ん」
「無理はよくない」
先生は少しだけ黙った。
そして、短く答えた。
「大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間。
ホシノの胸が、きしむように痛んだ。
まただ。
また、その言葉。
大丈夫。
先生が一番言ってはいけない言葉。
けれど、先生が一番よく使う言葉。
皆が帰った後。
ホシノは廊下の角で足を止めた。
部室の灯りは、まだ消えていない。
扉の隙間から、中を覗く。
先生は一人だった。
机に向かい、また書類を書いている。
ノノミが置いていったサンドイッチは、まだ包装されたまま。
コーヒーは冷めきっている。
先生は小さく肩を回し、顔をしかめた。
「……っ」
それでも手は止めない。
ホシノは、扉から離れた。
「……全然、大丈夫じゃないじゃん」
乾いた廊下に、彼女の声だけが落ちた。
先生は悪い人ではない。
むしろ、良い人だ。
だから危ない。
良い人ほど、自分が壊れるまで止まらない。
ホシノは静かに歩き出した。
誰かが止めなければならない。
先生は、自分から助けを呼ばない。
だったら。
自分が呼ぶしかない。
砂漠の夜風が、校舎の窓を静かに鳴らした。
その音だけが、誰にも言えない少女の決意を聞いていた。
その日の夜。
アビドス高等学校。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、校舎には乾いた風の音だけが響いていた。
対策委員会の部室には、まだ灯りがついている。
先生は一人、机へ向かっていた。
銀行との面談記録。
来月の予算案。
商店街からの依頼報告。
カイザーへの回答書。
積み上がった書類は、昼よりもさらに増えていた。
「……」
先生は黙ったまま、一枚ずつ目を通していく。
ペンを持つ右手が止まる。
小さく肩を回した。
「っ……」
痛みを堪えるように顔をしかめる。
だが、それも一瞬だけだった。
すぐにペンを握り直し、再び書類へ向かう。
机の隅には、昼にノノミが置いていったサンドイッチ。
包装は開けられていない。
コーヒーも、すっかり冷めていた。
先生は時計を見る。
午後九時四十分。
「……あと少し」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その声は、自分自身を励ますためのものだった。
廊下。
ホシノは帰宅する足を止めた。
「……まだだ」
部室の灯りは消えていない。
静かに扉へ近付く。
隙間から中を覗くと、先生はまだ机へ向かっていた。
昼から何一つ変わっていない。
いや。
少しだけ違った。
先生の動きが、明らかに遅くなっている。
書類を一枚めくる。
数秒止まる。
考える。
書く。
また止まる。
そんな動作を繰り返していた。
ホシノは気付く。
集中力が落ちている。
先生は決して仕事が速い人ではない。
だからこそ、疲れれば、その影響がすぐに表れる。
それでも。
先生は止まらない。
止まれない。
ホシノは、扉の前で小さく息を吐いた。
「……先生」
声は届かない。
届かせるつもりもなかった。
先生はきっと、声をかければこう言う。
「大丈夫だ」と。
そして、また笑う。
その笑顔が、ホシノにはもう怖かった。
翌朝。
部室。
「先生、おはようございます!」
ノノミが笑顔で入ってくる。
「ああ」
先生はいつも通り返事をした。
いつも通り。
少なくとも、本人はそう見せようとしていた。
「……先生」
アヤネが少し首を傾げる。
「昨日、ちゃんと帰れましたか?」
「ああ」
「何時ですか?」
先生は少し考える。
「……覚えてない」
部室が静かになった。
セリカが眉をひそめる。
「覚えてないって、どういうこと?」
「終わったら帰った」
「終わったって何時よ」
「……分からない」
先生は本当に分からないようだった。
仕事が終わった時間を覚えていない。
それだけ長時間、目の前の作業だけを見ていたということだ。
アヤネの表情が曇る。
「先生」
「今日は私も書類を手伝います」
先生は首を横に振った。
「いや」
「でも……」
「アヤネには他の仕事がある」
「それは……」
「俺がやる」
きっぱりと言い切った。
セリカが机を叩く。
「だから何でも一人でやろうとしないで!」
先生は静かに答える。
「皆にも仕事がある」
「だから先生も私たちの仕事なの!」
その言葉に、先生は少しだけ目を丸くした。
しかし。
結局、苦笑するだけだった。
「ありがとう」
「でも、大丈夫だ」
また、その言葉だった。
大丈夫。
その一言で全部を閉じる。
苦しいことも。
疲れていることも。
本当は手が足りないことも。
誰にも頼れないことも。
全部、蓋をする。
ホシノは机に突っ伏したまま、その声を聞いていた。
「……」
目を閉じる。
けれど眠ってはいなかった。
先生の声が、耳に残る。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
何度も聞いてきた言葉。
今までは、それで安心できた。
先生がそう言うなら、きっと何とかなる。
先生なら最後まで一緒にいてくれる。
そう思えた。
でも、今は違う。
その言葉を聞くたびに、胸の奥が冷たくなる。
先生が本当に大丈夫なら。
そんなに何度も言う必要なんてない。
昼休み。
ホシノは一人、中庭のベンチに座っていた。
手には、シャーレから配布されていた各種支援制度の電子資料。
本当は、暇つぶしのつもりだった。
いや、違う。
暇つぶしのふりをしていただけかもしれない。
何か、先生を止める方法がないか。
先生を怒らせずに。
先生を傷つけずに。
先生一人に背負わせない方法がないか。
そんな都合のいいものを探していた。
画面をスクロールする。
学園支援制度。
設備補助制度。
緊急物資支援。
経営改善制度。
そして、一つだけ見慣れない項目が目に留まった。
**S.C.H.A.L.E.経営支援対策室**
**通称 モームリ**
「……モームリ?」
ホシノは小さく呟く。
その名前は、どこか軽く聞こえた。
けれど、説明文を読み始めた瞬間、指が止まった。
---
**対象者本人、または関係者による申請を受け付けます。**
**対象者本人が助けを求められないと判断した場合、代理申請を認めます。**
---
ホシノは、無言で画面を見つめる。
続きを読む。
---
・責任感から限界を隠している場合
・業務が一人へ集中している場合
・組織全体へ重大な影響が予想される場合
・先生本人が助けを拒否している場合
---
一行読むたびに、先生の顔が浮かんだ。
夜遅くまで部室に残る背中。
冷めたコーヒー。
食べられないまま置かれたサンドイッチ。
疲れた表情。
そして。
「大丈夫だ」
その言葉。
ホシノは端末を握る手に力を込めた。
「……先生」
先生は助けを拒否しているわけじゃない。
たぶん、本気で分かっていない。
どこからが限界なのか。
どこからが危険なのか。
どこから人に頼っていいのか。
その線引きが、先生には分からない。
だから全部、自分でやる。
全部、自分で抱える。
そして、笑う。
不器用で。
真面目で。
嘘が下手で。
でも、自分にはだけは嘘をつく。
ホシノは画面を閉じた。
空を見上げる。
砂漠の空は、腹立たしいほど青かった。
「先生は」
小さく呟く。
「絶対、自分じゃ申請しない」
それだけは分かった。
分かってしまった。
だから。
誰かが、代わりに助けを呼ぶしかない。
でも。
その「誰か」が自分でいいのか。
ホシノは、答えを出せないまま、端末を胸に抱えた。
その日の夜。
ホシノは寮の自室へ戻っていた。
机の上に置かれた端末を、静かに見つめる。
画面には、先ほど開いていたモームリの制度説明。
指先は何度も送信画面へ進もうとしては止まり、また戻る。
「……本当に、これでいいのかな。」
小さく呟く。
先生には何も相談していない。
勝手なことをしようとしている。
先生はきっと困る。
怒るかもしれない。
「余計なお世話だ。」
そう言われるかもしれない。
ホシノはゆっくり目を閉じた。
その瞬間。
今日一日の光景が、次々と思い浮かぶ。
朝。
「朝ご飯は?」
「あとで。」
昼。
「先生、一緒に食べましょう。」
「あとで。」
夕方。
「今日は早く帰ってくださいね。」
「大丈夫だ。」
夜。
誰もいない部室。
積み上がった書類。
冷めたコーヒー。
包装も開けられていないサンドイッチ。
そして。
疲れ切った顔を、一瞬だけ見せた先生。
ホシノは静かに首を横へ振る。
「違う。」
「先生。」
「もう違うよ。」
机の上へ視線を落とす。
先生は、いつも言う。
「大丈夫。」
その言葉を聞くたびに、自分たちは安心してきた。
先生がそう言うなら。
先生なら。
きっと何とかしてくれる。
そう信じてきた。
でも。
今は違う。
「……違う。」
胸の奥が苦しくなる。
「先生。」
「先生は。」
震える声が漏れる。
「先生は、もう無理だ。」
その一言を口にした瞬間。
胸の奥で何かが崩れた。
それは先生への失望ではない。
信頼を失ったわけでもない。
むしろ逆だった。
先生を信じているからこそ。
先生が限界を認められない人だと知っているからこそ。
ホシノは、その現実を受け入れなければならなかった。
「だから。」
「今度は私が。」
「先生を助ける。」
ホシノはゆっくり端末を操作する。
代理申請フォームが開いた。
---
**申請者**
小鳥遊ホシノ
**対象者**
アビドス高等学校 先生
---
申請理由。
入力欄だけが静かに点滅している。
ホシノは深呼吸をした。
そして、一文字ずつ入力していく。
---
**先生が限界です。**
**でも先生は、絶対に助けを求めません。**
**だから、私が助けを呼びます。**
---
入力を終えても、すぐには送信できなかった。
画面を見つめる。
先生の顔が浮かぶ。
優しく笑う顔。
不器用に謝る顔。
「ありがとう。」
そう言ってくれた顔。
ホシノは小さく笑った。
「ごめんね。」
「先生。」
「これは、お節介だから。」
右手がゆっくり動く。
送信。
画面が淡く光を放つ。
---
**代理申請を受け付けました。**
---
短い表示だけが現れる。
静かな部屋。
ホシノは端末を閉じた。
もう取り消せない。
けれど、不思議と後悔はなかった。
先生は、自分では止まれない。
だったら。
先生の代わりに。
助けを呼ぶ人がいてもいい。
「先生。」
「今度は、私が守る番だから。」
窓の外では、砂漠の夜風が静かに吹いていた。
その風は、誰にも知られることなく。
少女の決意を乗せて、遠い空へと流れていく。
そして数時間後。
一人のコンサルタントが、その決意に応えるため、アビドスの地へ降り立つことになる。
白い光が静かに消えていく。
乾いた風が頬を撫でた。
修司はゆっくりと目を開く。
目の前には、どこまでも続く砂漠。
その中央に、一つの校舎が静かに建っていた。
アビドス高等学校。
「座標確認。」
隣に立つミコリが淡々と告げる。
「世界線000020。」
「転移誤差なし。」
「対象組織、アビドス高等学校。」
修司は校舎を見上げた。
外壁には補修の跡。
窓ガラスは古い。
それでも、放置された建物ではない。
壊れたものを直しながら、必死に維持している。
そんな痕跡が至る所に残っていた。
「維持管理はされている。」
修司が呟く。
ミコリが頷く。
「経営状態とは一致しません。」
「通常、資金不足の組織は施設維持も停止します。」
「誰かが無理をしています。」
修司は短く答えた。
「そういうことだ。」
二人は校門をくぐった。
その時だった。
「先生!」
校舎の中から少女の声が響く。
「銀行からまた連絡が来てる!」
「ああ。」
返ってきたのは短い返事だった。
修司は足を止める。
「俺が対応する。」
その声は落ち着いていた。
だが、どこか張り詰めている。
校舎の入口から、一人の男性が姿を現した。
黒髪。
白いシャツ。
右手には大量の書類。
目元には隠し切れない疲労。
その後ろから、対策委員会の五人が続く。
最初に反応したのはシロコだった。
一歩前へ出る。
「止まって。」
短い声。
警戒の視線が修司へ向けられる。
続いてセリカも前へ出た。
「誰?」
「ここ、部外者は立ち入り禁止なんだけど!」
修司は立ち止まり、両手を見える位置へ下ろした。
「白石修司。」
「S.C.H.A.L.E.経営支援対策室より派遣されました。」
「外部コンサルタントです。」
「……経営支援対策室?」
アヤネが聞き返す。
聞いたことのない部署だった。
「先生。」
「ご存じですか?」
先生は静かに首を横へ振る。
「知らない。」
「ですよね。」
セリカはさらに警戒を強めた。
「じゃあ何なのよ!」
「突然来て、外部コンサルタントですって!」
「怪しすぎるじゃない!」
シロコも小さく頷く。
「怪しい。」
修司は否定しなかった。
「当然です。」
「部外者を簡単に信用する組織なら、私はその方が心配になります。」
その返答に、セリカが一瞬言葉を失う。
「……何なの、この人。」
その時。
後ろから穏やかな声が響いた。
「その人なら大丈夫だよ。」
全員が振り返る。
ホシノだった。
ホシノは修司の隣まで歩いてくる。
そして先生へ向き直る。
「先生。」
「ごめん。」
「私が、シャーレの外部支援制度へ代理申請した。」
部室前が静まり返る。
先生は少しだけ目を見開いた。
「……代理申請?」
ホシノは頷く。
「先生本人が助けを求められない時。」
「関係者が代わりに支援を依頼できる制度。」
「私が申請した。」
「どうして。」
先生の問いは短かった。
責める口調ではない。
純粋な疑問だった。
ホシノは少しだけ俯く。
「先生。」
「最近、ずっと無理してた。」
「……。」
「夜も部室に残って。」
「ご飯も食べなくて。」
「眠れてなくて。」
「それでも。」
「大丈夫って笑うから。」
先生は何も言わなかった。
セリカも、アヤネも、ノノミも。
初めて知る話だった。
先生は静かに口を開く。
「俺は。」
「まだ、大丈夫だ。」
ホシノは首を横へ振る。
「違う。」
「先生。」
「もう無理なんだよ。」
沈黙が落ちる。
先生は反論できなかった。
昨夜の自分を思い出してしまったからだ。
誰もいない部室。
終わらない書類。
冷えたコーヒー。
食べられなかった昼食。
時間すら覚えていない帰宅。
どれも否定できない事実だった。
その様子を、少し離れた場所からミコリが見つめていた。
数秒間、沈黙する。
やがて修司へ視線を向けた。
「質問があります。」
「何だ。」
「対象者は著しく疲弊しています。」
「しかし本人は正常であると回答しました。」
「矛盾しています。」
修司は先生から視線を外さず答えた。
「人間は、自分の限界を正確には測れない。」
「特に責任感が強い人ほどな。」
ミコリは続ける。
「理解できません。」
「限界なら停止するべきです。」
修司は小さく息を吐いた。
「合理的にはそうだ。」
「でも人間は、守りたいものがあると止まれない。」
ミコリは先生を見る。
さらにホシノを見る。
「申請者も泣いています。」
ホシノは驚いて頬へ触れた。
指先が濡れていた。
「あれ……。」
自分でも気付いていなかった。
修司は静かに答える。
「安心したからだ。」
「安心。」
「一人で抱えなくていいと思えた。」
「だから涙が出た。」
ミコリはしばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……理解できません。」
修司は少しだけ笑う。
「まだ理解しなくていい。」
「人間は説明だけじゃ分からない。」
「見て。」
「経験して。」
「少しずつ覚えていけばいい。」
ミコリは静かに頷いた。
「経験。」
「記録します。」
そして、ホシノを見つめながら、小さく一言だけ付け加えた。
「人間は。」
「安心すると、泣くことがある。」
その声は、今までより少しだけ柔らかく聞こえた。
修司は横目でミコリを見る。
何も言わない。
だが、その小さな変化には気付いていた。
アビドスへ来たのは、組織を救うためだけではない。
隣を歩く少女もまた、この世界で何かを学び始めていた。
静かな風が、部室の窓を揺らした。
誰も口を開かなかった。
先生はゆっくりと俯く。
「……迷惑を掛けた。」
その一言に、ホシノは静かに首を横へ振った。
「違う。」
「先生が悪いんじゃない。」
「先生は、ずっと頑張ってくれた。」
「だから。」
「これ以上、一人で頑張らなくていい。」
先生は目を閉じた。
「休んでください。」
その言葉なら、今まで何度も聞いてきた。
対策委員会のみんなが。
先生の身体を気遣い、何度も声を掛けてくれていた。
「ちゃんとご飯を食べてください。」
「今日は早く帰ってください。」
「無理はよくない。」
「一人で抱え込まないでください。」
そのたびに、先生は笑って答えてきた。
「大丈夫だ。」
そう言えば、生徒たちは安心してくれる。
そうすれば、また明日も頑張れる。
そう信じていた。
だから。
弱音だけは吐かなかった。
だが、今回は違う。
ホシノが伝えたかったのは、休んでほしいというお願いではない。
「先生。」
「これ以上、一人で背負わなくていい。」
その一言だった。
生徒を守るために立ち続けてきた。
誰よりも前に立ち。
誰よりも責任を背負い。
自分が支えなければならないと信じてきた。
それなのに。
いつの間にか。
今度は、生徒たちが自分を守ろうとしていた。
先生は小さく息を吐く。
胸の奥に張り詰めていた何かが、少しだけほどけていく。
「……ありがとう。」
その声は、震えるほど小さかった。
その沈黙を破ったのは、修司だった。
「先生。」
落ち着いた声が、静かな部室に響く。
「私は、あなたを評価するために来たわけではありません。」
先生がゆっくりと顔を上げる。
修司は続けた。
「教師として優秀か。」
「人格者か。」
「努力が足りているか。」
「そうしたことを判断するために派遣されたわけではありません。」
修司は部室を見回した。
年季の入った机。
補修された壁。
棚に並ぶ資料。
そして、先生が抱えたままの書類。
「私の仕事は。」
「組織を診ることです。」
「人を裁くことではありません。」
その言葉に、部室の空気が少しだけ和らいだ。
先生は静かに頷く。
「……何をすればいいでしょうか。」
修司は短く答えた。
「まず、現状を確認します。」
「先生。」
「現在、あなたが担当している業務を教えてください。」
先生は少し考え、一つずつ答え始めた。
「銀行との交渉。」
「会計管理。」
「依頼受付。」
「地域との連絡。」
「設備管理。」
「授業。」
「生徒対応。」
「カイザーとの交渉。」
「……ほかにも細かい仕事があります。」
修司は最後まで黙って聞いていた。
そして、一つだけ尋ねる。
「それらの業務を。」
「先生以外が担当できるものはありますか。」
先生は答えようとして口を開く。
だが、言葉が続かなかった。
思い浮かばない。
誰かに任せた記憶がない。
いつからか、自分が全部やるのが当たり前になっていた。
その沈黙だけで、修司には十分だった。
「ありがとうございます。」
「現状は把握しました。」
セリカが腕を組む。
「それで?」
「何が分かったの?」
修司は静かにアタッシュケースを開いた。
中から、一冊の黒いファイルを取り出す。
先生たちへ見せるように開くと、そこには案件概要が整理されていた。
ミコリが淡々と説明する。
「案件資料。」
「対象組織。」
「アビドス高等学校。」
「事前調査完了。」
「経営状況。」
「財務状況。」
「代理申請内容を確認済みです。」
修司はファイルを閉じる。
「現場へ来る前に、案件資料には一通り目を通しています。」
「最低限の事前調査は済ませています。」
先生は小さく頷いた。
「……だから、アビドスの状況をご存じだったんですね。」
「はい。」
修司は静かに答える。
「ですが。」
「資料だけでは分からないことがあります。」
「だから現場へ来ました。」
セリカが眉をひそめる。
「資料で分からないこと?」
「人です。」
修司は即答した。
「数字だけでは、人の限界は分かりません。」
部室が静まり返る。
修司は先生へ視線を向けた。
「借金は、今回の案件ではありません。」
「案件資料によれば。」
「借入金と資金不足は、以前からアビドス高等学校が抱えている経営課題です。」
「つまり。」
「私が今回派遣された理由は、借金ではありません。」
ホシノが静かに尋ねる。
「じゃあ……今回の案件は?」
修司は先生を真っ直ぐ見つめる。
「先生一人へ。」
「学校運営に必要な役割が集中してしまったことです。」
部室は静まり返った。
修司は先生を真っ直ぐ見つめる。
「先生一人へ。」
「学校運営に必要な役割が集中してしまったことです。」
先生は息を呑んだ。
修司は穏やかな口調のまま続ける。
「代理申請書にも、その内容が記載されていました。」
「申請者は。」
「先生本人ではありません。」
ホシノを見る。
「小鳥遊ホシノさんです。」
ホシノは静かに頷いた。
修司は再び先生へ視線を戻す。
「先生。」
「一つ、お聞きします。」
「はい。」
「もし今日。」
「あなたが体調を崩し、一週間休まなければならなくなったら。」
「この学校は、今まで通り運営できますか。」
先生は言葉を失った。
頭の中で考える。
銀行との面談。
地域からの依頼。
カイザーとの交渉。
会計処理。
書類作成。
そのほとんどが止まる。
「……。」
答えられない。
アヤネも。
ノノミも。
セリカも。
シロコも。
誰も口を開かなかった。
修司は小さく頷く。
「それが。」
「今回の案件です。」
部室に重い沈黙が流れる。
修司は先生を責めるような口調ではなかった。
事実だけを、静かに積み重ねていく。
「借金。」
「資金不足。」
「人手不足。」
「それらは以前から存在していた課題です。」
「ですが。」
「先生が赴任されてから。」
「学校運営に必要な判断と責任が、一人へ集中するようになりました。」
「その結果。」
「先生が休めない組織になっています。」
先生は静かに俯いた。
修司の言葉を否定できなかった。
ホシノが代理申請をした理由も。
今なら分かる。
修司は続ける。
「先生は。」
「組織を支えています。」
「ですが。」
「組織は先生を支えられていません。」
その一言に。
部室の空気が止まった。
ホシノは目を閉じる。
その言葉を。
誰かに言ってほしかった。
ずっと。
先生は、生徒たちを支えてくれていた。
でも。
先生を支える仕組みは、どこにもなかった。
修司は静かに資料を閉じる。
「だから私は派遣されました。」
「先生を代わるためではありません。」
「先生が休める組織を作るためです。」
先生はゆっくりと顔を上げた。
その目には、驚きと戸惑いが混じっていた。
「……私を。」
「休ませるために?」
「はい。」
修司は迷いなく答えた。
「休めない組織は、長く続きません。」
「それは企業でも。」
「学校でも同じです。」
その言葉を聞きながら、ミコリは静かに先生を見つめていた。
そして修司へ視線を向ける。
「質問があります。」
「何だ。」
「対象者は。」
「組織を維持するため、自身を犠牲にしていました。」
「合理的ではありません。」
修司は少しだけ考えてから答えた。
「合理的じゃない。」
「だから人間なんだ。」
ミコリは首を傾げる。
「理解できません。」
「人間は。」
「自分が壊れると分かっていても。」
「守りたいもののために立ち続けることがある。」
ミコリは先生を見る。
さらにホシノを見る。
二人の表情を、静かに観察していた。
「……記録します。」
「守りたい対象が存在する場合。」
「人間は合理性を超えた行動を選択する。」
修司は小さく笑った。
「いい記録だ。」
「ですが。」
ミコリは続ける。
「効率は著しく低下します。」
修司も頷いた。
「ああ。」
「だから。」
「周囲が止めなければいけない。」
その言葉に。
ホシノは少しだけ笑った。
「……うん。」
「だから。」
「私が止めた。」
その笑顔は、今までより少しだけ穏やかだった。
部室に、静かな沈黙が流れた。
誰も言葉を返せない。
先生は机の上へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。
修司は責めることなく、穏やかに続けた。
「先生。」
「私は、あなたを休ませるためだけに来たわけではありません。」
先生がゆっくり顔を上げる。
「あなたが休める組織を作るために来ました。」
「……。」
「一人が倒れただけで止まる組織は、長く続きません。」
「誰か一人が頑張り続けることで成り立つ組織も、同じです。」
修司は部室を見回した。
「組織とは。」
「誰か一人が支えるものではありません。」
「互いに支え合える状態を作って初めて、組織になります。」
先生は静かに拳を握る。
その言葉は、今まで誰からも言われたことがなかった。
ずっと。
自分が支えなければならないと思っていた。
支える側が倒れてはいけない。
そう信じていた。
修司は静かに問い掛ける。
「先生。」
「あなたは、生徒たちを信頼していますか。」
「……しています。」
迷いのない返事だった。
「では。」
「生徒たちは、先生を信頼していますか。」
先生は対策委員会の五人を見る。
アヤネ。
ノノミ。
セリカ。
シロコ。
そして、ホシノ。
誰一人として視線を逸らさなかった。
「……はい。」
その答えを聞いた修司は、小さく頷く。
「ならば。」
「先生も、生徒たちを頼るべきです。」
その一言が、静かに部室へ落ちた。
先生は何も言えなかった。
頼る。
その発想自体が、自分にはなかった。
するとホシノが、ゆっくり一歩前へ出る。
「先生。」
「私たち。」
「頼りないかもしれない。」
「失敗もする。」
「でも。」
「先生一人よりは、きっとマシだよ。」
思わず部室に小さな笑いが生まれる。
セリカは頬を赤くしながら言う。
「ホシノ先輩、それ褒めてるんですか!」
「褒めてるよ、おじさん的には。」
「どっちよ!」
そのやり取りを見て、先生は思わず笑ってしまった。
ほんの少しだけ。
肩から力が抜ける。
修司はその表情を見届けると、静かにアタッシュケースを閉じた。
「今日は、それで十分です。」
先生が不思議そうに尋ねる。
「……十分?」
「はい。」
「組織改善は、一日では終わりません。」
「まずは現状を知ること。」
「そして、変わる覚悟を持つこと。」
「今日は、その二つができました。」
先生はゆっくりと頷いた。
「……お願いします。」
その一言には、今までにはなかった重みがあった。
修司は深く一礼する。
「承知しました。」
「本日より。」
「アビドス高等学校、組織改善案件を正式に開始します。」
部室へ、乾いた砂漠の風が吹き込む。
ホシノは静かに目を閉じた。
あの日。
代理申請ボタンを押した自分の判断は、間違っていなかった。
先生はもう、一人ではない。
その小さな変化が。
砂漠に取り残された学園を、少しずつ変えていこうとしていた。
実は息抜きで別のブルアカ作品を本日21時から連載開始します。
タイトルは【先生はロリコンでした】です。
名前はふざけていますが本編は元犯罪者の更生と社会復帰を描いた作品です。
【先生はモームリ】のような一癖ある作品が好きな方はぜひ読んでください