翌朝。
アビドス高等学校。
乾いた風が、古びた校舎の窓を静かに揺らしていた。
対策委員会の部室には、昨日のホワイトボードがそのまま残されている。
銀行。
設備。
地域対応。
会計。
対外交渉。
いくつもの業務から伸びる矢印。
その全てが、最後には一つの丸へ集まっていた。
先生
先生は部室へ入るなり、その前で足を止めた。
何も言わない。
ただ、静かに見つめている。
昨日までは、それは仕事だった。
今日からは、違うものに見えた。
矢印の一本一本が、まるで自分へ向けられた細い糸のようだった。
切ることもできず。
解くこともできず。
ただ、知らないうちに増えていた糸。
先生は小さく息を吐く。
「……残していたんだな。」
修司は部室の隅で立っていた。
黒いアタッシュケースを手に、いつも通り落ち着いた表情をしている。
「はい。」
「まだ、何も終わっていませんので。」
先生は返事をしなかった。
その沈黙を、最初に破ったのはセリカだった。
「修司さん」
腕を組み、眉をひそめている。
昨日とは違う。
ただ怒っているわけではない。
考えた上で、納得していない顔だった。
「昨日の話。」
「言いたいことは分かった。」
修司は静かに視線を向ける。
セリカはホワイトボードを指差した。
「先生に責任が集まってる。」
「それは分かった。」
「でも。」
一拍置く。
「改善案は信用してない。」
部室の空気が張り詰めた。
アヤネが小さく息を呑む。
ノノミは困ったように眉を下げる。
シロコは窓際から、黙って修司を見ていた。
修司は表情を変えない。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか。」
「あるわよ。」
セリカは迷わず答えた。
「先生は責任者でしょ。」
「最後に責任を持つのは変わらない。」
「だったら。」
「途中を変えたくらいで、何が変わるの?」
修司は黙って聞いている。
セリカは続けた。
「確認する人を増やす。」
「役割を分ける。」
「そんなことして。」
「本当に先生は楽になるの?」
「逆に確認が増えて。」
「先生の負担が増えるかもしれないじゃない。」
その声には怒りがあった。
しかし、それ以上に不安があった。
先生を守りたい。
それなのに、守り方が分からない。
だから苛立つ。
だから噛みつく。
セリカらしい、まっすぐな反発だった。
修司は一つ頷いた。
「正しい懸念です。」
セリカは少しだけ目を丸くする。
「……否定しないの?」
「はい。」
「改善案によって先生の負担が増える可能性はあります。」
部室に沈黙が落ちる。
「は?」
セリカの声が低くなった。
「じゃあダメじゃない!」
「だから、試します。」
「試す?」
「はい。」
修司はホワイトボードへ視線を向ける。
「改善案は、最初から正解ではありません。」
「現場で試し。」
「違っていれば直す。」
「負担が増えるなら、やめる。」
「その繰り返しです。」
セリカは納得できない顔のままだった。
「それって。」
「先生で実験するってこと?」
その言葉に、空気が一段冷えた。
シロコの視線が鋭くなる。
アヤネが慌てて口を開く。
「セリカちゃん……。」
「だってそうでしょ!」
セリカは振り返る。
「先生を楽にするためって言ってるけど。」
「本当にそうなる保証なんてないじゃない!」
「もし先生がもっと苦しくなったら?」
「もし、また先生が無理したら?」
「誰が止めるのよ!」
部室に、セリカの声が響く。
その言葉は修司へ向けられているようで。
本当は、昨日までの自分たちへ向けられていた。
先生が無理をしていたことに、気付けなかった。
ホシノが代理申請するまで、止められなかった。
その後悔が、セリカの中でまだ形にならないまま燃えている。
修司は静かに答えた。
「止めるのは、皆さんです。」
セリカが言葉を詰まらせる。
「私だけではありません。」
「先生の様子を見て。」
「苦しそうなら止める。」
「改善案が合わないなら変える。」
「その判断を、現場に委ねます。」
シロコが一歩前へ出た。
「修司。」
「はい。」
「先生が苦しむ改善なら。」
「私は反対。」
短い言葉だった。
だが、重かった。
シロコは淡々としている。
けれどその瞳には、はっきりとした警戒があった。
先生へ不利益があるなら、迷わず止める。
そういう目だった。
修司はシロコへ向き直る。
「承知しました。」
「その時は止めてください。」
「止める。」
「お願いします。」
シロコは小さく頷いた。
信用したわけではない。
ただ、監視を続けることにした。
それだけだった。
ホシノは机に肘をつき、そんなやり取りを静かに見ていた。
眠そうな顔をしている。
けれど、その目は誰よりも鋭く全員を見ていた。
「みんな。」
「先生を守りたいんだねぇ。」
ぽつりと、そう言った。
誰も否定しない。
セリカも。
シロコも。
アヤネも。
ノノミも。
先生もまた、何も言えなかった。
守る。
それは今まで、自分がすることだと思っていた。
生徒たちを守る。
アビドスを守る。
それが、自分の役目だと。
けれど今。
生徒たちは、自分を守ろうとしている。
その事実に、先生はまだ慣れなかった。
修司は先生へ視線を向ける。
「先生。」
「皆さんは、改善そのものに反対しているわけではありません。」
先生は静かに顔を上げる。
「先生が苦しむ未来に反対しています。」
その言葉に、セリカは何も言えなくなった。
図星だった。
シロコも静かに目を伏せる。
ホシノだけが、小さく頷いた。
修司は一歩、先生へ近付く。
「先生。」
「一つだけ、お聞きします。」
「ああ。」
「先生は。」
「今も、自分で全て確認したいと思っていますか。」
先生は黙った。
ホワイトボードを見る。
机の上の書類を見る。
そして、生徒たちを見る。
すぐには答えられなかった。
答えたくなかったのかもしれない。
しばらくして。
先生は小さく頷いた。
「……思っている。」
部室が静かになる。
先生は続ける。
「任せた方がいい。」
「それは分かる。」
「でも。」
「最後には自分で見たい。」
「そうしないと。」
「落ち着かない。」
セリカは何も言わない。
さっきまで修司へ向いていた怒りが、今は先生の言葉へ向かっている。
でも、怒れない。
先生の声は、あまりにも正直だった。
修司は静かに尋ねる。
「なぜでしょうか。」
先生は書類へ視線を落とした。
「責任だからだ。」
「それだけでしょうか。」
その問いに、先生は答えなかった。
部室に、風の音だけが残った。
長い沈黙。
誰も急かさない。
セリカも、今度は何も言わなかった。
先生は、ゆっくりと口を開く。
「……それだけじゃない。」
声は低かった。
「たぶん。」
「責任って言葉で。」
「誤魔化していた。」
アヤネが顔を上げる。
シロコも先生を見る。
先生は小さく笑った。
自嘲するような、寂しい笑みだった。
「本当は。」
「怖かった。」
その一言で、部室の空気が止まった。
先生は続ける。
「任せるのが。」
「怖かった。」
セリカの表情が揺れる。
先生は拳を握る。
「誰かが間違えたら。」
「その誰かが責められるかもしれない。」
「誰かが失敗したら。」
「その子が、自分を責めるかもしれない。」
「だったら。」
「俺が全部見ればいい。」
「俺が最後に決めればいい。」
「失敗したら、俺が謝ればいい。」
「そう思っていた。」
アヤネの目が揺れる。
シロコの手がわずかに動く。
ノノミは口元に手を添え、目を伏せた。
先生はさらに続けた。
「自分でやった方が早い。」
「そう言えば、もっともらしかった。」
「でも。」
「本当は違う。」
小さく息を吸う。
「失うのが怖かった。」
誰も言葉を返せなかった。
「誰かに任せて。」
「その誰かが傷付くのが怖かった。」
「だから。」
「俺が全部抱えればいいと思った。」
先生は目を伏せる。
「それが。」
「正しいと思っていた。」
部室は静まり返っていた。
昨日、修司が見える化したのは、責任の流れだった。
けれど今、初めて見えたものがある。
先生が責任を抱えていた理由。
それは義務感だけではなかった。
守りたいからだった。
失いたくないからだった。
そして。
誰かを傷付けるくらいなら、自分が傷付けばいい。
そんな不器用で、危うい優しさだった。
ホシノが静かに目を閉じた。
「……やっと言ったね。」
先生がホシノを見る。
ホシノはいつものように笑っていた。
けれど、その笑顔は少しだけ寂しい。
「先生。」
「おじさん。」
「ずっと気付いてたよ。」
「先生が。」
「誰にも頼れなくなってたこと。」
先生は何も言えない。
セリカは俯いたまま、拳を握っていた。
シロコは先生を見つめたまま動かない。
修司は静かに目を伏せた。
「……失礼しました。」
先生が修司を見る。
修司は深く頭を下げた。
「私は。」
「先生が責任を抱えていることは理解していました。」
「ですが。」
「先生が、皆さんを守るためにそこまで抱えていたことまでは。」
「見えていませんでした。」
「私の認識不足です。」
セリカは驚いたように修司を見る。
この男は、また自分の間違いを認めた。
いちいち腹立たしいほど、まっすぐに。
修司は顔を上げる。
「ですが。」
「それでも。」
「その守り方は、長く続きません。」
先生は静かに頷いた。
否定はしなかった。
できなかった。
修司は続ける。
「今日は、改善案を実行しません。」
セリカが顔を上げる。
「え?」
「今の状態で仕組みだけを変えても。」
「先生はきっと、また一人で抱えます。」
先生は少し困ったように笑う。
「否定できないな。」
「ですので。」
修司はホワイトボードを見る。
「今日は。」
「先生が本音を言えた。」
「それを、最初の改善とします。」
部室に、乾いた風が吹き込む。
何も変わっていない。
ホワイトボードの矢印は、まだ先生へ集まったままだ。
書類も山積みのままだ。
銀行の問題も、設備の問題も、カイザーの問題も残っている。
けれど。
先生は初めて言った。
任せるのが怖かった。
失うのが怖かった。
それは、アビドスが変わるために必要な、最初の本音だった。
部室には重い沈黙が流れていた。
誰も、すぐには言葉を見つけられない。
先生が初めて口にした本音。
「任せるのが怖かった。」
その一言は、誰の予想も超えていた。
静寂を破ったのは、ホシノだった。
「先生。」
穏やかな声だった。
「その”怖い”って。」
「いつから?」
先生は少し考える。
視線はホワイトボードへ向いたまま。
「……最初からじゃない。」
静かに答える。
「最初は。」
「みんなにも任せていた。」
「書類も。」
「依頼も。」
「現場も。」
「でも。」
先生は苦く笑った。
「失敗すると。」
「みんな、自分を責めた。」
アヤネがゆっくり俯く。
シロコも静かに目を伏せる。
セリカは何も言えない。
先生は続けた。
「誰かが失敗すると。」
「みんな。」
「『私のせいです』って言う。」
「『もっとちゃんとやれたはずです』って。」
「そうやって、自分を責める。」
先生は目を閉じる。
「あの顔を。」
「もう見たくなかった。」
短い言葉だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
「だから。」
「俺が全部確認すれば。」
「失敗は減る。」
「みんなも苦しまなくて済む。」
「そう思った。」
部室が静まり返る。
その沈黙を破ったのは、セリカだった。
「先生。」
ゆっくり立ち上がる。
先生の前まで歩く。
その表情は怒っているようで。
どこか悲しそうだった。
「私たち。」
「先生に頼ってた。」
「それは認める。」
先生は黙って聞いている。
「先生なら何とかしてくれるって。」
「そう思ってた。」
「でも。」
声が震える。
「先生が。」
「そこまで一人で抱えるなんて。」
「そんなことまで。」
「考えてなかった。」
拳を握る。
「苦しかったなら。」
「苦しいって言ってよ。」
「私たち。」
「何も知らなかったじゃない。」
その言葉に。
先生は何も返せなかった。
シロコが静かに口を開く。
「先生。」
「私は。」
「先生は大丈夫なんだと思ってた。」
「先生だから。」
「疲れないんだって。」
小さく首を横へ振る。
「違った。」
「先生も。」
「苦しかった。」
「先生も。」
「怖かった。」
先生は苦笑する。
「ああ。」
「怖かった。」
「みんなが傷付くのが。」
「怖かった。」
その時だった。
ノノミがそっと立ち上がる。
慌てるでもなく。
誰かを責めるでもなく。
先生の方へ一歩だけ歩いた。
「先生。」
優しい声だった。
「私は。」
「先生が全部決めてくださるから。」
「安心していました。」
先生が顔を上げる。
ノノミは微笑む。
「先生がいるから。」
「大丈夫。」
「先生なら。」
「何とかしてくださる。」
「私は。」
「そう思っていました。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「でも。」
「先生も。」
「安心したかったんですね。」
部室が静まり返る。
ノノミは続けた。
「私たちは。」
「先生を信頼していました。」
「でも。」
「先生が安心できる場所は。」
「作れていませんでした。」
先生は目を伏せる。
その言葉は。
責めるためではなく。
受け止めるための言葉だった。
ホシノが小さく笑う。
「ノノミちゃんらしいねぇ。」
「結局。」
「みんな。」
「先生に安心させてもらってばっかりだった。」
誰も否定しない。
アヤネも静かに頷く。
「先生が。」
「『大丈夫』って言ってくださるから。」
「私たちも。」
「大丈夫だと思っていました。」
少し俯く。
「でも。」
「先生自身は。」
「誰にも『大丈夫』って言ってもらえていなかったんですね。」
先生は思わず苦笑した。
「……そうかもしれない。」
修司はそのやり取りを静かに見守っていた。
そして一歩前へ出る。
「先生。」
先生が視線を向ける。
「私は昨日。」
「先生は責任を抱え込んでいる、と考えました。」
「ですが。」
「認識が違いました。」
部室が静かになる。
「先生が抱えていたのは。」
「責任だけではありません。」
「皆さんの後悔。」
「皆さんの失敗。」
「皆さんの悲しみ。」
「それら全てを。」
「先生は、ご自身一人で受け止めようとしていました。」
先生は小さく笑う。
「全部は。」
「受け止めきれなかった。」
「当然です。」
修司は穏やかに答える。
「一人で抱えられるものではありません。」
「だから。」
「先生は疲弊しました。」
修司はホワイトボードを見る。
先生へ集まる無数の矢印。
昨日は。
仕事が集まっている図だと思っていた。
違った。
あれは。
先生へ集まり続ける”想い”でもあった。
修司は静かに呟く。
「私は。」
「仕事の流れは見えていました。」
「ですが。」
「先生の気持ちまでは。」
「見えていませんでした。」
深く頭を下げる。
「申し訳ありません。」
セリカは思わず修司を見る。
まただ。
この人は。
自分が間違っていたと思えば。
躊躇なく認める。
不思議な人だった。
ホシノは苦笑する。
「修司さん」
「そこ謝るんだ。」
「はい。」
修司は顔を上げる。
「組織を見る者が。」
「人を見落とした。」
「それは私の失敗です。」
部室は静まり返る。
そして。
先生はゆっくりと笑った。
「……ありがとう。」
その言葉は。
修司へ向けたものなのか。
皆へ向けたものなのか。
先生自身にも分からなかった。
ただ。
長い間、胸の奥へ押し込めていた言葉を。
ようやく誰かが受け止めてくれた。
そんな気がしていた。
しかし。
部室の中には、まだ一人だけ。
納得しきれていない人物がいた。
セリカだった。
彼女の視線は、今も修司から離れようとはしなかった。
部室には、再び静かな時間が流れていた。
先生の本音。
アヤネたちの想い。
修司の謝罪。
それぞれの言葉が胸に残り、誰もすぐには次の言葉を見つけられない。
そんな空気を破ったのは、セリカだった。
「……まだ。」
小さく呟く。
「私は納得してない。」
部室の視線が集まる。
セリカは修司を真っ直ぐ見た。
「先生の気持ちは分かった。」
「苦しかったことも。」
「怖かったことも。」
「それは分かった。」
一歩前へ出る。
「でも。」
「だからって。」
「あんたを信用したわけじゃない。」
修司は静かに頷く。
「はい。」
「信用していただく必要はありません。」
「……は?」
セリカが眉をひそめる。
「私は。」
「皆さんに信用していただくために来たのではありません。」
「先生を立て直すために来ました。」
「そのために。」
「必要であれば疑われます。」
「反対されることも受け入れます。」
「それも私の仕事です。」
その返事に、セリカは少しだけ言葉を失った。
普通なら。
「信じてください。」
そう言うと思っていた。
だが、この男は違う。
「でも。」
セリカは視線を逸らさない。
「あんたの改善で。」
「先生がもっと苦しくなったら?」
「その時はどうするの?」
修司は一切迷わなかった。
「改善を中止します。」
「……。」
「改善は目的ではありません。」
「先生が元気に働き続けられることが目的です。」
「その目的を達成できない改善案に価値はありません。」
ホシノが小さく笑う。
「そこは最初から変わらないねぇ。」
「はい。」
修司は頷いた。
「改善案は手段です。」
「目的ではありません。」
「だから。」
「必要なら何度でも変えます。」
セリカは腕を組んだまま、小さく息を吐く。
まだ納得はしていない。
けれど。
少なくとも、この男は自分の考えに固執する人間ではない。
そこだけは理解できた。
その時だった。
アヤネがおずおずと手を挙げる。
「あの……。」
全員がアヤネを見る。
「修司さん。」
「一つ、お聞きしてもいいでしょうか。」
「もちろんです。」
「どうして。」
「そこまで先生を助けようと思われたんですか?」
修司は少しだけ考えた。
すぐには答えない。
言葉を選ぶように、静かに口を開く。
「私は。」
「これまで多くの組織を見てきました。」
「そして。」
「壊れていく組織にも共通点がありました。」
部室が静かになる。
「優秀な人が。」
「一人で頑張り続ける組織です。」
先生は思わず目を伏せた。
「周囲は、その人を信頼します。」
「だから任せます。」
「本人も責任感があります。」
「だから断りません。」
「結果。」
「誰も悪くないまま。」
「一人だけが疲弊します。」
静かな声だった。
だからこそ。
その言葉は重かった。
修司は先生を見る。
「私は。」
「その姿を何度も見てきました。」
「だから。」
「ホシノさんからご相談を受けた時。」
「先生も、その状態だと思いました。」
先生は苦笑する。
「間違ってはいなかったな。」
「はい。」
修司は否定しない。
「だから私は来ました。」
ホシノが肩をすくめる。
「先生。」
「修司くん。」
「最初から先生を責めに来たわけじゃない。」
「助けに来たんだよ。」
先生はゆっくり頷く。
「ああ。」
「今なら分かる。」
その時。
ノノミがふんわりと微笑んだ。
「私も。」
先生がノノミを見る。
「最初は。」
「修司さんが先生を変えようとしているのかと思っていました。」
「でも。」
「違いました。」
「先生を変えたいんじゃなくて。」
「先生が安心して先生でいられるようにしたいんですね。」
修司は静かに頷く。
「その通りです。」
「先生は変える必要がありません。」
「変えるべきなのは。」
「先生を支える仕組みです。」
先生は少しだけ笑う。
「昨日も言っていたな。」
「先生ではなく。」
「組織を変えると。」
「はい。」
修司もわずかに笑みを浮かべた。
「ですが。」
「今日、一つだけ考えが変わりました。」
先生が首を傾げる。
「何だ。」
修司はホワイトボードへ視線を向ける。
先生へ集まる無数の矢印。
「昨日の私は。」
「この矢印を仕事だと考えていました。」
「ですが。」
「違いました。」
「これは。」
「皆さんの信頼でもあります。」
部室が静まり返る。
「だから。」
「仕事だけ動かしても。」
「組織は変わりません。」
「先生が。」
「皆さんの信頼を受け止める方法も。」
「一緒に変えていく必要があります。」
先生はホワイトボードを見つめる。
昨日まで。
あの矢印は重荷にしか見えなかった。
しかし今は違う。
それは。
生徒たちが自分へ向けた信頼の証でもあった。
修司は静かに先生へ向き直る。
「先生。」
「お願いがあります。」
「ああ。」
「明日。」
「一つだけ。」
「皆さんへ任せてください。」
「全部ではありません。」
「たった一つで構いません。」
「もし。」
「その一つで先生の負担が増えるなら。」
「改善案は、私が責任を持って見直します。」
先生は答えなかった。
ホワイトボードを見つめる。
そこへ集まる矢印。
そして。
自分を見つめる生徒たち。
長い沈黙のあと。
先生は静かに息を吐いた。
「……考えさせてくれ。」
修司は小さく頷く。
「はい。」
急がない。
無理に変えない。
その選択をするのは。
先生自身でなければ意味がない。
それを修司は誰よりも理解していた。
窓の外では、乾いた風が砂を巻き上げている。
景色は何も変わらない。
けれど。
部室の中では確かに、小さな変化が生まれ始めていた。
先生の返事を聞いて。
修司はそれ以上、言葉を重ねなかった。
部室には静かな時間が流れる。
焦って答えを求めても意味はない。
人の考え方は。
命令では変わらない。
自分で考え。
自分で選ぶ。
その積み重ねだけが、本当の変化になる。
修司はそれを知っていた。
その時だった。
ホシノが小さく伸びをした。
「何かさぁ。」
いつもの気の抜けた声。
しかし、その目だけは真剣だった。
「先生。」
「一つ聞いてもいい?」
「ああ。」
先生が視線を向ける。
ホシノは少し笑う。
「もし。」
「今日、おじさんたちが何も言わなかったら。」
「先生。」
「これからも一人で抱えてた?」
部室が静まり返る。
先生は苦笑する。
「……たぶんな。」
迷いはなかった。
その答えが。
何より重かった。
セリカは思わず俯く。
「先生。」
「そこは迷ってよ……。」
思わず漏れた本音だった。
先生は少し困ったように笑う。
「迷えなかった。」
「責任者だから。」
その言葉に。
今度は修司が静かに首を横へ振った。
「先生。」
「それは違います。」
先生が修司を見る。
「責任者だから。」
「抱え込んだのではありません。」
「皆さんを守りたかったから。」
「抱え込んだのです。」
部室は静まり返る。
修司は続ける。
「責任者という肩書だけでは。」
「ここまで無理はできません。」
「先生は。」
「皆さんを大切に思っている。」
「だから。」
「誰にも苦しい思いをさせたくなかった。」
先生は静かに笑う。
「見透かされているな。」
「はい。」
修司も穏やかに頷いた。
「昨日までは。」
「仕事しか見えていませんでした。」
「ですが。」
「今日。」
「先生のお話を伺って分かりました。」
ホワイトボードを見る。
先生へ集まる矢印。
「これは。」
「仕事だけではありません。」
「皆さんから先生への信頼。」
「そして。」
「先生から皆さんへの想い。」
「その両方が集まっています。」
アヤネがホワイトボードを見る。
昨日は。
重たい図だと思っていた。
でも今日は違う。
信頼があるから。
仕事が集まる。
先生が大切だから。
頼ってしまう。
全部。
悪意ではなかった。
だからこそ。
難しい問題だった。
ノノミが小さく微笑む。
「だから修司さん。」
「昨日。」
「誰も悪くありませんって仰ったんですね。」
「はい。」
修司は頷く。
「誰か一人が悪ければ。」
「注意すれば終わります。」
「ですが。」
「今回は違います。」
「皆さんが。」
「先生を信頼した。」
「先生が。」
「皆さんを守ろうとした。」
「その結果です。」
ホシノは苦笑する。
「善意だけで。」
「ここまで大変になるんだ。」
「はい。」
「組織では。」
「よくあることです。」
セリカは腕を組んだまま、小さくため息をつく。
「……何か。」
「悔しい。」
先生を見る。
「私。」
「先生を助けてるつもりだった。」
「でも。」
「先生を苦しめてた。」
先生はすぐに首を横へ振る。
「違う。」
「苦しかったことはない。」
セリカが睨む。
「先生。」
「そういうところ。」
先生は苦笑する。
「……悪い。」
「また謝る。」
「違う。」
セリカは一歩近付く。
「謝ってほしいんじゃない。」
「もっと。」
「頼ってほしい。」
その言葉に。
先生は何も返せなかった。
アヤネも静かに頷く。
「私もです。」
シロコも短く言う。
「私も。」
ノノミは柔らかく笑う。
「先生。」
「頼られるのも嬉しいですけど。」
「頼っていただけたら。」
「もっと嬉しいです。」
先生は部室を見渡す。
四人とも。
真っ直ぐ自分を見ていた。
そこには。
心配はある。
不安もある。
でも。
責める気持ちは一つもなかった。
先生は静かに息を吐く。
「……難しいな。」
ホシノが笑う。
「知ってる。」
「だから。」
「少しずつでいい。」
修司も頷いた。
「その通りです。」
「組織改善も。」
「人の考え方も。」
「一日では変わりません。」
「だから。」
「明日も。」
「一歩だけ進みます。」
先生はホワイトボードを見る。
無数の矢印。
昨日は。
自分を縛る鎖に見えた。
今日は。
少しだけ違って見える。
全部が重荷ではない。
中には。
仲間からの信頼もある。
守りたいという想いもある。
それなら。
全部断ち切る必要はない。
形を変えればいい。
先生は静かに頷いた。
「……明日。」
修司が顔を上げる。
「一つだけ。」
「任せてみる。」
短い言葉だった。
けれど。
修司は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「それで十分です。」
セリカはまだ少し不安そうだった。
シロコも警戒は解いていない。
それでも。
二人とも反対はしなかった。
先生自身が選んだ一歩なら。
見守ろう。
そう決めたからだ。
窓の外では。
夕日が砂漠を赤く染め始めていた。
今日。
変わったのは仕事ではない。
役割でもない。
先生が初めて。
「一人で抱えなくてもいいかもしれない。」
そう思えたこと。
それこそが。
明日から始まる組織改善の、本当の第一歩だった。