先生はモームリ   作:風神ぷー

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この作品の一番の面白ポイントは作者が休日に家で仕事をする合間にブラック企業撲滅系作品を執筆していることです。(白目)


第二話 先生を追う前に

 

 

「組織です。」

 

白石修司がそう告げた瞬間、部屋の空気が変わった。

 

リンは何も言えなかった。

 

先生が辞表を置いて去った。

 

シャーレは混乱している。

 

生徒たちは不安に震えている。

 

そんな状況で、目の前の男は先生を追いかけるでもなく、慰めの言葉をかけるでもなく、まず組織を見ろと言った。

 

あまりにも冷静すぎた。

 

あまりにも場違いだった。

 

だが、その冷静さが、逆に異様な説得力を持っていた。

 

「七神リンさん。」

 

修司はノートパソコンを開いたまま、リンへ視線を向ける。

 

「先生の現在位置は分かりますか。」

 

「え?」

 

「追わないとは言いましたが、所在確認は必要です。退職希望者を放置することと、無理に引き止めないことは違います。」

 

リンは一瞬遅れて頷いた。

 

「確認します。」

 

端末を操作する手が、まだ少し震えている。

 

数秒後、画面に先生の位置情報が表示された。

 

「シャーレ敷地内です。正門へ向かっています。」

 

「移動速度は。」

 

「徒歩です。」

 

「なら、まだ急がなくていい。」

 

修司は淡々と言った。

 

リンは思わず声を荒げる。

 

「急がなくていい、ですか?」

 

「はい。」

 

「先生は辞めようとしているんですよ!」

 

「分かっています。」

 

「なら!」

 

「今走って追いかければ、どうなりますか。」

 

その問いに、リンは言葉を詰まらせた。

 

修司はキーボードを叩きながら続ける。

 

「あなたは先生に何と言いますか。辞めないでください。皆が困ります。あなたが必要です。先生しかいないんです。そう言うつもりですか。」

 

リンは答えられなかった。

 

言おうとしていた。

 

まさに、その言葉を。

 

「それは引き止めではありません。」

 

修司は静かに言った。

 

「追加業務です。」

 

リンの瞳が揺れる。

 

「追加……業務。」

 

「限界まで働いた人間に、さらに責任を乗せる。最悪の対応です。」

 

部屋に沈黙が落ちた。

 

ミコリだけが表情を変えず、生命の書の横で二人を見ている。

 

「退職届を出した時点で、本人はかなりの時間をかけて決断しています。そこで感情論をぶつけても、戻る可能性は低い。仮に戻っても再発します。」

 

「再発……」

 

「はい。先生が辞める原因を消していないからです。」

 

修司は画面をリンに向けた。

 

そこには、まだ空白だらけの分析シートが表示されている。

 

項目だけが並んでいた。

 

業務量。

 

責任範囲。

 

意思決定権限。

 

相談件数。

 

緊急案件数。

 

休息時間。

 

代替人員。

 

再発リスク。

 

リンはその文字列を見つめる。

 

「これは……」

 

「初期診断表です。」

 

「診断?」

 

「組織の健康診断です。人間と同じです。熱があるのに原因を調べず、気合いで働かせれば倒れます。実に人類らしい愚行ですが、よくあります。」

 

修司は淡々と辛辣なことを言った。

 

リンは反論できなかった。

 

シャーレは、先生に頼りきりだった。

 

相談があれば先生。

 

問題が起きれば先生。

 

学園同士の衝突も先生。

 

生徒の悩みも先生。

 

戦闘も先生。

 

判断も先生。

 

先生なら何とかしてくれる。

 

誰もがそう思っていた。

 

リン自身も例外ではなかった。

 

「先生が万能だと思っていましたか。」

 

修司の言葉に、リンの肩が小さく震えた。

 

責める口調ではない。

 

ただ、事実を確認する声だった。

 

だから余計に痛かった。

 

「……思っていたのかもしれません。」

 

リンは小さく答える。

 

「先生なら、きっと大丈夫だと。」

 

「大丈夫な人間は辞表を出しません。」

 

修司は即答した。

 

無慈悲なほど正しい言葉だった。

 

リンは唇を噛む。

 

ミコリが静かに口を開いた。

 

「先生の直近七日間の活動記録を表示します。」

 

生命の書のページが淡く光る。

 

空中に複数の画面が展開された。

 

そこには、先生の一週間が記録されていた。

 

月曜日。

 

早朝から相談対応。

 

昼に学園間の調停。

 

夕方に戦闘支援。

 

夜に書類整理。

 

深夜に生徒からの緊急連絡。

 

火曜日。

 

水曜日。

 

木曜日。

 

金曜日。

 

土曜日。

 

日曜日。

 

休息らしい時間は、ほとんど存在しなかった。

 

リンは画面を見上げたまま、声を失った。

 

「これは……」

 

「勤務記録ではありません。」

 

修司は言った。

 

「遭難記録です。」

 

リンが振り向く。

 

修司は画面を見上げたまま、表情を変えない。

 

「一人の人間が、終わらない業務の海で沈んでいく記録です。」

 

その言葉は、静かに部屋へ落ちた。

 

リンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 

先生は何も言わなかった。

 

助けてくれとも、休ませてくれとも言わなかった。

 

いつも笑っていた。

 

だから、大丈夫だと思っていた。

 

だが、それは違った。

 

笑っていただけだった。

 

壊れないのではなく、壊れていることを隠していただけだった。

 

「七神リンさん。」

 

修司はノートパソコンを閉じずに言った。

 

「現時点での暫定結論を伝えます。」

 

「……はい。」

 

「先生は職務放棄をしたのではありません。」

 

リンは顔を上げる。

 

「職務を果たし続けた結果、これ以上続ければ再起不能になると判断した。つまり、これは逃亡ではなく、自己防衛です。」

 

自己防衛。

 

その言葉に、リンは何も返せなかった。

 

修司は立ち上がる。

 

「ですから、こちらがやるべきことは一つです。」

 

リンは息を呑む。

 

「先生に戻ってくださいと頼むことではありません。」

 

修司はアタッシュケースを持ち上げた。

 

「戻っても壊れない環境を用意することです。」

 

ミコリが淡々と告げる。

 

「初期診断、継続中。」

 

修司は頷いた。

 

「まず、現場を見ます。」

 

「現場……?」

 

「はい。」

 

修司は扉へ向かう。

 

「先生が壊れるまで働いていた場所です。」

 

リンは慌てて後を追う。

 

「どこへ行くんですか。」

 

修司は振り返らない。

 

「シャーレです。」

 

そして一拍置いて、静かに付け加えた。

 

「この組織が、どれだけ先生に甘えていたのか確認します。」

 

 

 

 

 

 

 

修司が最初に向かったのは、先生の執務室だった。

 

広くはない部屋。

 

整頓されているように見える。

 

だが、一歩足を踏み入れた瞬間、修司は小さく眉を動かした。

 

「……なるほど。」

 

リンが首を傾げる。

 

「何か分かったんですか?」

 

修司は答えない。

 

机へ近付き、積み上げられた書類を一枚ずつ確認していく。

 

決裁待ち。

 

依頼書。

 

各学園からの報告。

 

連邦生徒会からの照会。

 

予算申請。

 

戦闘報告。

 

生徒相談。

 

一つ確認しては元の位置へ戻す。

 

その手付きには一切の迷いがなかった。

 

「七神リンさん。」

 

「はい。」

 

「この部屋は、先生以外も使用しますか。」

 

「いいえ。」

 

「では、この机は先生専用ですね。」

 

「そうですが……。」

 

修司は引き出しを開ける。

 

中には整然と並んだ筆記具。

 

予備の端末。

 

そして、開封されていない栄養補助食品がいくつも入っていた。

 

修司は一つ手に取り、賞味期限を見る。

 

「三か月前。」

 

「え?」

 

「食べる時間すらなかったのでしょう。」

 

リンは息を呑む。

 

修司は机の横に置かれたゴミ箱を見る。

 

空になったエナジードリンク。

 

栄養ゼリー。

 

インスタントコーヒー。

 

まともな食事の痕跡は見当たらない。

 

「……食生活も崩れています。」

 

「そこまで分かるんですか?」

 

「十分です。」

 

修司は淡々と答える。

 

「仕事が忙しい人間ほど、最初に食事を削ります。」

 

リンは先生の姿を思い返す。

 

確かに最近、一緒に昼食を取った記憶がない。

 

「では次です。」

 

修司は部屋を出た。

 

向かった先は相談室だった。

 

そこには大量の相談申請が山積みになっている。

 

修司は一番上の書類を手に取った。

 

『友人関係について』

 

『進路相談』

 

『部活動予算』

 

『他校とのトラブル』

 

『先生に聞いてほしいことがあります』

 

修司は無言でページをめくる。

 

やがて、一枚の書類で手が止まった。

 

「これは。」

 

リンも横から覗き込む。

 

「昨日提出された相談です。」

 

提出日時は昨夜二十三時四十七分。

 

回答日時。

 

二十三時五十一分。

 

わずか四分後だった。

 

「……先生。」

 

リンは呟く。

 

修司はさらに数枚確認する。

 

深夜一時。

 

深夜二時。

 

早朝五時。

 

相談は時間を選ばない。

 

そして先生は、その全てに返信していた。

 

「睡眠時間。」

 

修司が呟く。

 

「一日平均、三時間未満。」

 

リンの表情が曇る。

 

「そんな……。」

 

「これでは遅かれ早かれ倒れます。」

 

修司は相談書類を戻した。

 

「先生は真面目すぎました。」

 

「はい……。」

 

「ですが、それ以上に。」

 

修司はリンを見る。

 

「シャーレが、それを当然だと思っていました。」

 

リンは何も言えなかった。

 

その通りだった。

 

相談は先生へ。

 

困ったら先生へ。

 

その積み重ねが、今の結果なのだ。

 

修司は腕時計を見る。

 

「次です。」

 

「まだあるんですか?」

 

「まだ始まったばかりです。」

 

修司はそのまま廊下へ出る。

 

歩きながら周囲を観察する。

 

壁。

 

掲示板。

 

依頼受付。

 

備品。

 

時計。

 

何気ないものまで見逃さない。

 

リンには、その行動の意味が分からなかった。

 

「何を見ているんですか?」

 

「人の流れです。」

 

「人の流れ?」

 

「はい。」

 

修司は立ち止まる。

 

ちょうどその時、一人の生徒が慌てた様子で廊下を走ってきた。

 

「リンさん!」

 

「どうしました?」

 

「先生を探してるんです!」

 

「相談したいことがあって!」

 

リンは言葉に詰まる。

 

生徒は修司へ気付く。

 

「その人が新しい先生ですか?」

 

修司は首を横へ振った。

 

「違います。」

 

「え?」

 

「私は先生ではありません。」

 

少女は困惑したままリンを見る。

 

「じゃあ、誰なんですか?」

 

リンも答えられない。

 

修司自身が口を開いた。

 

「先生が辞めなくて済む組織を作る仕事をしています。」

 

少女は意味が分からないという顔をした。

 

当然だった。

 

中学生や高校生に「経営コンサルタント」を説明しても伝わらない。

 

修司は続ける。

 

「先生に相談する前に、一つだけ教えてください。」

 

「は、はい。」

 

「その相談は、本当に先生しか解決できませんか?」

 

少女は考える。

 

数秒後、小さく首を傾げた。

 

「……分かりません。」

 

「では内容を教えてください。」

 

少女は遠慮がちに話し始める。

 

「今度のお祭りで使う教室が決まらなくて……。」

 

修司は静かに頷いた。

 

「七神リンさん。」

 

「はい。」

 

「これは誰が決めるべき案件ですか。」

 

リンは答える。

 

「本来なら各学園の実行委員会ですね。」

 

「では、なぜ先生へ?」

 

リンは言葉を失う。

 

少女が小さく答えた。

 

「先生なら、何とかしてくれると思って……。」

 

修司は深くため息をついた。

 

「それです。」

 

リンが顔を上げる。

 

「シャーレは便利屋ではありません。」

 

「先生は万能でもありません。」

 

「本来、現場で解決すべき問題まで先生へ集まり続けている。」

 

修司は少女へ優しく微笑む。

 

「先生は君を助けたいと思っています。」

 

「でも、その優しさに甘え続ければ、先生はまた壊れます。」

 

少女は俯いた。

 

「……ごめんなさい。」

 

「謝る必要はありません。」

 

修司は穏やかに答える。

 

「悪いのは仕組みです。」

 

その言葉に、リンはハッと息を呑んだ。

 

修司は少女から相談書を受け取る。

 

「この案件は先生ではなく実行委員会へ戻します。」

 

「責任者を紹介してください。」

 

「は、はい!」

 

少女は急いで走っていく。

 

その背中を見送りながら、修司は静かに言った。

 

「原因が見えてきました。」

 

「七神リンさん。」

 

「シャーレは先生を支える組織ではありません。」

 

「先生に支えられている組織です。」

 

その一言が、リンの胸に深く突き刺さった。

 

修司の言葉は静かだった。

 

怒鳴ったわけでもない。

 

責めたわけでもない。

 

だが、その一言はリンの胸へ深く突き刺さった。

 

シャーレは先生を支える組織。

 

そう思っていた。

 

しかし実際は違う。

 

誰もが先生へ頼り、先生一人が全てを支えていた。

 

その結果が、辞表だった。

 

リンは静かに俯く。

 

「……私の責任です。」

 

修司は首を横へ振った。

 

「違います。」

 

「え?」

 

「個人の責任にすると改善できません。」

 

リンは驚いたように修司を見る。

 

「責任者を決めるのは簡単です。」

 

「ですが、それでは同じことを繰り返します。」

 

修司はシャーレのロビーを見渡した。

 

依頼受付。

 

相談窓口。

 

作戦申請。

 

全ての書類が最終的に『先生』へ向かうようになっている。

 

「この組織には緩衝材がありません。」

 

「緩衝材……?」

 

「現場で止める人間。」

 

「振り分ける人間。」

 

「断る人間。」

 

「先生へ届く前に整理する人間。」

 

「その全てが存在しません。」

 

リンはハッとした。

 

確かにそうだった。

 

相談が来る。

 

先生へ渡す。

 

依頼が来る。

 

先生へ渡す。

 

問題が起きる。

 

先生へ相談する。

 

誰も疑問を抱かなかった。

 

「だから先生は壊れました。」

 

修司はノートパソコンを開き、新しい資料を作り始める。

 

タイトルは一行だけ。

 

『シャーレ業務改善案』

 

その文字を見たリンは思わず目を丸くした。

 

「もう作るんですか?」

 

「原因が分かったなら、次は改善です。」

 

修司は即答した。

 

「分析だけして満足するコンサルタントは三流です。」

 

「改善して初めて仕事になります。」

 

その手は止まらない。

 

次々と項目が入力されていく。

 

相談窓口の分散。

 

決裁権限の委譲。

 

緊急度による案件分類。

 

勤務時間の管理。

 

休日取得。

 

代行担当設置。

 

リンは画面を見つめた。

 

「こんなことが……。」

 

「できます。」

 

修司は言い切った。

 

「正確には、やらなければ同じことになります。」

 

そこへミコリが近付いてきた。

 

「追加情報。」

 

生命の書が淡く光る。

 

「先生の退職届は、三日前に作成されています。」

 

リンは息を呑んだ。

 

「三日前……。」

 

「はい。」

 

「提出まで七十二時間保管。」

 

修司は小さく目を閉じた。

 

「予想通りです。」

 

「予想?」

 

「衝動ではありません。」

 

「十分に考えた末の退職です。」

 

リンは辞表を思い出す。

 

先生は泣いていなかった。

 

怒ってもいなかった。

 

静かだった。

 

それは感情ではなく、覚悟だったのだ。

 

修司は時計を見る。

 

「そろそろ行きます。」

 

「先生を追いかけるんですね?」

 

リンは少しだけ期待を込めて尋ねた。

 

修司は頷いた。

 

「はい。」

 

「ですが、引き止めには行きません。」

 

「では……。」

 

「確認です。」

 

「確認?」

 

「本人がまだ休める状態か。」

 

「それだけです。」

 

リンには理解できなかった。

 

辞めると言った先生を前にして、説得もしない。

 

励ましもしない。

 

それで本当に助けられるのか。

 

修司はその表情を見て、小さく笑った。

 

「七神リンさん。」

 

「はい。」

 

「あなたは風邪を引いた人間へ何と言いますか。」

 

「休んでください、と。」

 

「では先生には?」

 

リンは言葉を失う。

 

「頑張ってください。」

 

「お願いします。」

 

「皆が困ります。」

 

気付けば、そんな言葉しか浮かばなかった。

 

修司は静かに頷く。

 

「それが今までのシャーレです。」

 

「先生だけ、休むことを許されなかった。」

 

リンは唇を噛む。

 

何も言い返せない。

 

修司はアタッシュケースを閉じる。

 

「私は先生へ休暇を提案します。」

 

「え?」

 

「最低二週間。」

 

リンは目を見開いた。

 

「そんなに休んだら!」

 

「シャーレは困ります。」

 

修司はリンの言葉を引き継ぐ。

 

「ですが。」

 

「困るのは組織です。」

 

「先生ではありません。」

 

部屋に静寂が戻る。

 

修司はゆっくりと歩き出す。

 

ロビーを抜け、シャーレの正門へ向かう。

 

夕日が建物を赤く染めていた。

 

門の向こうには、一つの人影が見える。

 

小さな荷物を持ち、ゆっくりと歩いていく後ろ姿。

 

先生だった。

 

リンは思わず駆け出そうとする。

 

だが、その肩へ修司の手が置かれた。

 

「走らないでください。」

 

「でも!」

 

「今、先生が一番恐れていることは何だと思いますか。」

 

リンは考える。

 

答えが出ない。

 

修司は静かに先生の背中を見つめた。

 

「辞めることではありません。」

 

「皆に謝らせることです。」

 

リンはハッと息を呑んだ。

 

確かに先生は最後まで謝っていた。

 

誰も責めていないのに。

 

何度も。

 

何度も。

 

「だから私は。」

 

修司は静かにネクタイを整える。

 

「先生へ謝らせません。」

 

そう言って、一歩前へ踏み出した。

 

夕日に照らされたその背中を、リンはただ見送ることしかできなかった。

 

次の瞬間。

 

修司は先生との距離をゆっくり縮めていく。

 

十九件目。

 

先生専門コンサルタントとしての、本当の仕事が始まろうとしていた。

 

 

 

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