「組織です。」
白石修司がそう告げた瞬間、部屋の空気が変わった。
リンは何も言えなかった。
先生が辞表を置いて去った。
シャーレは混乱している。
生徒たちは不安に震えている。
そんな状況で、目の前の男は先生を追いかけるでもなく、慰めの言葉をかけるでもなく、まず組織を見ろと言った。
あまりにも冷静すぎた。
あまりにも場違いだった。
だが、その冷静さが、逆に異様な説得力を持っていた。
「七神リンさん。」
修司はノートパソコンを開いたまま、リンへ視線を向ける。
「先生の現在位置は分かりますか。」
「え?」
「追わないとは言いましたが、所在確認は必要です。退職希望者を放置することと、無理に引き止めないことは違います。」
リンは一瞬遅れて頷いた。
「確認します。」
端末を操作する手が、まだ少し震えている。
数秒後、画面に先生の位置情報が表示された。
「シャーレ敷地内です。正門へ向かっています。」
「移動速度は。」
「徒歩です。」
「なら、まだ急がなくていい。」
修司は淡々と言った。
リンは思わず声を荒げる。
「急がなくていい、ですか?」
「はい。」
「先生は辞めようとしているんですよ!」
「分かっています。」
「なら!」
「今走って追いかければ、どうなりますか。」
その問いに、リンは言葉を詰まらせた。
修司はキーボードを叩きながら続ける。
「あなたは先生に何と言いますか。辞めないでください。皆が困ります。あなたが必要です。先生しかいないんです。そう言うつもりですか。」
リンは答えられなかった。
言おうとしていた。
まさに、その言葉を。
「それは引き止めではありません。」
修司は静かに言った。
「追加業務です。」
リンの瞳が揺れる。
「追加……業務。」
「限界まで働いた人間に、さらに責任を乗せる。最悪の対応です。」
部屋に沈黙が落ちた。
ミコリだけが表情を変えず、生命の書の横で二人を見ている。
「退職届を出した時点で、本人はかなりの時間をかけて決断しています。そこで感情論をぶつけても、戻る可能性は低い。仮に戻っても再発します。」
「再発……」
「はい。先生が辞める原因を消していないからです。」
修司は画面をリンに向けた。
そこには、まだ空白だらけの分析シートが表示されている。
項目だけが並んでいた。
業務量。
責任範囲。
意思決定権限。
相談件数。
緊急案件数。
休息時間。
代替人員。
再発リスク。
リンはその文字列を見つめる。
「これは……」
「初期診断表です。」
「診断?」
「組織の健康診断です。人間と同じです。熱があるのに原因を調べず、気合いで働かせれば倒れます。実に人類らしい愚行ですが、よくあります。」
修司は淡々と辛辣なことを言った。
リンは反論できなかった。
シャーレは、先生に頼りきりだった。
相談があれば先生。
問題が起きれば先生。
学園同士の衝突も先生。
生徒の悩みも先生。
戦闘も先生。
判断も先生。
先生なら何とかしてくれる。
誰もがそう思っていた。
リン自身も例外ではなかった。
「先生が万能だと思っていましたか。」
修司の言葉に、リンの肩が小さく震えた。
責める口調ではない。
ただ、事実を確認する声だった。
だから余計に痛かった。
「……思っていたのかもしれません。」
リンは小さく答える。
「先生なら、きっと大丈夫だと。」
「大丈夫な人間は辞表を出しません。」
修司は即答した。
無慈悲なほど正しい言葉だった。
リンは唇を噛む。
ミコリが静かに口を開いた。
「先生の直近七日間の活動記録を表示します。」
生命の書のページが淡く光る。
空中に複数の画面が展開された。
そこには、先生の一週間が記録されていた。
月曜日。
早朝から相談対応。
昼に学園間の調停。
夕方に戦闘支援。
夜に書類整理。
深夜に生徒からの緊急連絡。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
土曜日。
日曜日。
休息らしい時間は、ほとんど存在しなかった。
リンは画面を見上げたまま、声を失った。
「これは……」
「勤務記録ではありません。」
修司は言った。
「遭難記録です。」
リンが振り向く。
修司は画面を見上げたまま、表情を変えない。
「一人の人間が、終わらない業務の海で沈んでいく記録です。」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
リンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
先生は何も言わなかった。
助けてくれとも、休ませてくれとも言わなかった。
いつも笑っていた。
だから、大丈夫だと思っていた。
だが、それは違った。
笑っていただけだった。
壊れないのではなく、壊れていることを隠していただけだった。
「七神リンさん。」
修司はノートパソコンを閉じずに言った。
「現時点での暫定結論を伝えます。」
「……はい。」
「先生は職務放棄をしたのではありません。」
リンは顔を上げる。
「職務を果たし続けた結果、これ以上続ければ再起不能になると判断した。つまり、これは逃亡ではなく、自己防衛です。」
自己防衛。
その言葉に、リンは何も返せなかった。
修司は立ち上がる。
「ですから、こちらがやるべきことは一つです。」
リンは息を呑む。
「先生に戻ってくださいと頼むことではありません。」
修司はアタッシュケースを持ち上げた。
「戻っても壊れない環境を用意することです。」
ミコリが淡々と告げる。
「初期診断、継続中。」
修司は頷いた。
「まず、現場を見ます。」
「現場……?」
「はい。」
修司は扉へ向かう。
「先生が壊れるまで働いていた場所です。」
リンは慌てて後を追う。
「どこへ行くんですか。」
修司は振り返らない。
「シャーレです。」
そして一拍置いて、静かに付け加えた。
「この組織が、どれだけ先生に甘えていたのか確認します。」
修司が最初に向かったのは、先生の執務室だった。
広くはない部屋。
整頓されているように見える。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間、修司は小さく眉を動かした。
「……なるほど。」
リンが首を傾げる。
「何か分かったんですか?」
修司は答えない。
机へ近付き、積み上げられた書類を一枚ずつ確認していく。
決裁待ち。
依頼書。
各学園からの報告。
連邦生徒会からの照会。
予算申請。
戦闘報告。
生徒相談。
一つ確認しては元の位置へ戻す。
その手付きには一切の迷いがなかった。
「七神リンさん。」
「はい。」
「この部屋は、先生以外も使用しますか。」
「いいえ。」
「では、この机は先生専用ですね。」
「そうですが……。」
修司は引き出しを開ける。
中には整然と並んだ筆記具。
予備の端末。
そして、開封されていない栄養補助食品がいくつも入っていた。
修司は一つ手に取り、賞味期限を見る。
「三か月前。」
「え?」
「食べる時間すらなかったのでしょう。」
リンは息を呑む。
修司は机の横に置かれたゴミ箱を見る。
空になったエナジードリンク。
栄養ゼリー。
インスタントコーヒー。
まともな食事の痕跡は見当たらない。
「……食生活も崩れています。」
「そこまで分かるんですか?」
「十分です。」
修司は淡々と答える。
「仕事が忙しい人間ほど、最初に食事を削ります。」
リンは先生の姿を思い返す。
確かに最近、一緒に昼食を取った記憶がない。
「では次です。」
修司は部屋を出た。
向かった先は相談室だった。
そこには大量の相談申請が山積みになっている。
修司は一番上の書類を手に取った。
『友人関係について』
『進路相談』
『部活動予算』
『他校とのトラブル』
『先生に聞いてほしいことがあります』
修司は無言でページをめくる。
やがて、一枚の書類で手が止まった。
「これは。」
リンも横から覗き込む。
「昨日提出された相談です。」
提出日時は昨夜二十三時四十七分。
回答日時。
二十三時五十一分。
わずか四分後だった。
「……先生。」
リンは呟く。
修司はさらに数枚確認する。
深夜一時。
深夜二時。
早朝五時。
相談は時間を選ばない。
そして先生は、その全てに返信していた。
「睡眠時間。」
修司が呟く。
「一日平均、三時間未満。」
リンの表情が曇る。
「そんな……。」
「これでは遅かれ早かれ倒れます。」
修司は相談書類を戻した。
「先生は真面目すぎました。」
「はい……。」
「ですが、それ以上に。」
修司はリンを見る。
「シャーレが、それを当然だと思っていました。」
リンは何も言えなかった。
その通りだった。
相談は先生へ。
困ったら先生へ。
その積み重ねが、今の結果なのだ。
修司は腕時計を見る。
「次です。」
「まだあるんですか?」
「まだ始まったばかりです。」
修司はそのまま廊下へ出る。
歩きながら周囲を観察する。
壁。
掲示板。
依頼受付。
備品。
時計。
何気ないものまで見逃さない。
リンには、その行動の意味が分からなかった。
「何を見ているんですか?」
「人の流れです。」
「人の流れ?」
「はい。」
修司は立ち止まる。
ちょうどその時、一人の生徒が慌てた様子で廊下を走ってきた。
「リンさん!」
「どうしました?」
「先生を探してるんです!」
「相談したいことがあって!」
リンは言葉に詰まる。
生徒は修司へ気付く。
「その人が新しい先生ですか?」
修司は首を横へ振った。
「違います。」
「え?」
「私は先生ではありません。」
少女は困惑したままリンを見る。
「じゃあ、誰なんですか?」
リンも答えられない。
修司自身が口を開いた。
「先生が辞めなくて済む組織を作る仕事をしています。」
少女は意味が分からないという顔をした。
当然だった。
中学生や高校生に「経営コンサルタント」を説明しても伝わらない。
修司は続ける。
「先生に相談する前に、一つだけ教えてください。」
「は、はい。」
「その相談は、本当に先生しか解決できませんか?」
少女は考える。
数秒後、小さく首を傾げた。
「……分かりません。」
「では内容を教えてください。」
少女は遠慮がちに話し始める。
「今度のお祭りで使う教室が決まらなくて……。」
修司は静かに頷いた。
「七神リンさん。」
「はい。」
「これは誰が決めるべき案件ですか。」
リンは答える。
「本来なら各学園の実行委員会ですね。」
「では、なぜ先生へ?」
リンは言葉を失う。
少女が小さく答えた。
「先生なら、何とかしてくれると思って……。」
修司は深くため息をついた。
「それです。」
リンが顔を上げる。
「シャーレは便利屋ではありません。」
「先生は万能でもありません。」
「本来、現場で解決すべき問題まで先生へ集まり続けている。」
修司は少女へ優しく微笑む。
「先生は君を助けたいと思っています。」
「でも、その優しさに甘え続ければ、先生はまた壊れます。」
少女は俯いた。
「……ごめんなさい。」
「謝る必要はありません。」
修司は穏やかに答える。
「悪いのは仕組みです。」
その言葉に、リンはハッと息を呑んだ。
修司は少女から相談書を受け取る。
「この案件は先生ではなく実行委員会へ戻します。」
「責任者を紹介してください。」
「は、はい!」
少女は急いで走っていく。
その背中を見送りながら、修司は静かに言った。
「原因が見えてきました。」
「七神リンさん。」
「シャーレは先生を支える組織ではありません。」
「先生に支えられている組織です。」
その一言が、リンの胸に深く突き刺さった。
修司の言葉は静かだった。
怒鳴ったわけでもない。
責めたわけでもない。
だが、その一言はリンの胸へ深く突き刺さった。
シャーレは先生を支える組織。
そう思っていた。
しかし実際は違う。
誰もが先生へ頼り、先生一人が全てを支えていた。
その結果が、辞表だった。
リンは静かに俯く。
「……私の責任です。」
修司は首を横へ振った。
「違います。」
「え?」
「個人の責任にすると改善できません。」
リンは驚いたように修司を見る。
「責任者を決めるのは簡単です。」
「ですが、それでは同じことを繰り返します。」
修司はシャーレのロビーを見渡した。
依頼受付。
相談窓口。
作戦申請。
全ての書類が最終的に『先生』へ向かうようになっている。
「この組織には緩衝材がありません。」
「緩衝材……?」
「現場で止める人間。」
「振り分ける人間。」
「断る人間。」
「先生へ届く前に整理する人間。」
「その全てが存在しません。」
リンはハッとした。
確かにそうだった。
相談が来る。
先生へ渡す。
依頼が来る。
先生へ渡す。
問題が起きる。
先生へ相談する。
誰も疑問を抱かなかった。
「だから先生は壊れました。」
修司はノートパソコンを開き、新しい資料を作り始める。
タイトルは一行だけ。
『シャーレ業務改善案』
その文字を見たリンは思わず目を丸くした。
「もう作るんですか?」
「原因が分かったなら、次は改善です。」
修司は即答した。
「分析だけして満足するコンサルタントは三流です。」
「改善して初めて仕事になります。」
その手は止まらない。
次々と項目が入力されていく。
相談窓口の分散。
決裁権限の委譲。
緊急度による案件分類。
勤務時間の管理。
休日取得。
代行担当設置。
リンは画面を見つめた。
「こんなことが……。」
「できます。」
修司は言い切った。
「正確には、やらなければ同じことになります。」
そこへミコリが近付いてきた。
「追加情報。」
生命の書が淡く光る。
「先生の退職届は、三日前に作成されています。」
リンは息を呑んだ。
「三日前……。」
「はい。」
「提出まで七十二時間保管。」
修司は小さく目を閉じた。
「予想通りです。」
「予想?」
「衝動ではありません。」
「十分に考えた末の退職です。」
リンは辞表を思い出す。
先生は泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
静かだった。
それは感情ではなく、覚悟だったのだ。
修司は時計を見る。
「そろそろ行きます。」
「先生を追いかけるんですね?」
リンは少しだけ期待を込めて尋ねた。
修司は頷いた。
「はい。」
「ですが、引き止めには行きません。」
「では……。」
「確認です。」
「確認?」
「本人がまだ休める状態か。」
「それだけです。」
リンには理解できなかった。
辞めると言った先生を前にして、説得もしない。
励ましもしない。
それで本当に助けられるのか。
修司はその表情を見て、小さく笑った。
「七神リンさん。」
「はい。」
「あなたは風邪を引いた人間へ何と言いますか。」
「休んでください、と。」
「では先生には?」
リンは言葉を失う。
「頑張ってください。」
「お願いします。」
「皆が困ります。」
気付けば、そんな言葉しか浮かばなかった。
修司は静かに頷く。
「それが今までのシャーレです。」
「先生だけ、休むことを許されなかった。」
リンは唇を噛む。
何も言い返せない。
修司はアタッシュケースを閉じる。
「私は先生へ休暇を提案します。」
「え?」
「最低二週間。」
リンは目を見開いた。
「そんなに休んだら!」
「シャーレは困ります。」
修司はリンの言葉を引き継ぐ。
「ですが。」
「困るのは組織です。」
「先生ではありません。」
部屋に静寂が戻る。
修司はゆっくりと歩き出す。
ロビーを抜け、シャーレの正門へ向かう。
夕日が建物を赤く染めていた。
門の向こうには、一つの人影が見える。
小さな荷物を持ち、ゆっくりと歩いていく後ろ姿。
先生だった。
リンは思わず駆け出そうとする。
だが、その肩へ修司の手が置かれた。
「走らないでください。」
「でも!」
「今、先生が一番恐れていることは何だと思いますか。」
リンは考える。
答えが出ない。
修司は静かに先生の背中を見つめた。
「辞めることではありません。」
「皆に謝らせることです。」
リンはハッと息を呑んだ。
確かに先生は最後まで謝っていた。
誰も責めていないのに。
何度も。
何度も。
「だから私は。」
修司は静かにネクタイを整える。
「先生へ謝らせません。」
そう言って、一歩前へ踏み出した。
夕日に照らされたその背中を、リンはただ見送ることしかできなかった。
次の瞬間。
修司は先生との距離をゆっくり縮めていく。
十九件目。
先生専門コンサルタントとしての、本当の仕事が始まろうとしていた。