先生はモームリ   作:風神ぷー

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第二十二話 変わり始めた評価

 

 

――十日後。

 

朝日が砂漠の地平線をゆっくりと照らしていた。

 

崩れかけた校舎も、砂に埋もれた道路も、返済を終えていない莫大な借金も、そのまま残っている。アビドス高等学校を取り巻く現実は、この十日間で劇的に好転したわけではなかった。

 

それでも、対策委員会の部室には、以前とは異なる時間が流れていた。

 

「おはようございます、先生」

 

部室へ入った先生を、アヤネの落ち着いた声が迎える。

 

「おはよう」

 

先生が席へ着く頃には、すでに朝の確認が始まっていた。

 

「本日の受付案件は三件です。緊急案件はありません。地域相談が一件、銀行との定例確認が一件、それから午後一時に物資搬入を予定しています」

 

先生は壁の予定表へ目を向けた。

 

銀行対応にはアヤネとセリカ。地域巡回にはシロコ。物資搬入にはノノミの名前が記され、それぞれの報告予定時刻も添えられている。

 

十日前の先生なら、ここで予定へ手を加えていたはずだ。

 

銀行から戻る途中で地域の相談も確認しよう。搬入された物資は自分でも数を確かめよう。時間が余れば、翌日の仕事まで進められるかもしれない。

 

そうして、空いている時間を見つけるたびに仕事を詰め込み、やがて空いている時間そのものを失っていた。

 

だが今、先生は予定表を一通り確認しただけで頷いた。

 

「ありがとう。この予定で進めてくれ」

 

「はい」

 

それだけで朝の確認は終わった。

 

誰も驚かなかった。先生が予定を作り直さないことも、担当者へ細かな指示を重ねないことも、すでに対策委員会の日常になりつつあった。

 

「それでは、銀行には私とセリカさんで向かいます」

 

「分かったわ」

 

セリカが書類の入った鞄を持ち上げる。

 

「私は巡回に行く」

 

シロコも地図を確認しながら答えた。

 

「物資の受け入れは、私が担当しますね〜」

 

ノノミは保管表を手元へ引き寄せる。

 

役割分担は、もはや朝になってから一から決めるものではない。受付表と予定表を見れば、自分が何を担当し、どこまで判断してよいのかが分かる。迷った時だけ相談し、それ以外は各自が仕事を進める。

 

先生は誰にも追加の指示を出さなかった。

 

出す必要がなかった。

 

部室の隅では、修司が十日分の改善記録へ目を通していた。受付件数、対応日数、担当者の偏り、報告漏れの有無。必要な情報を確認した後、彼は何も言わずにファイルを閉じる。

 

修司が黙っていることにも、すでに誰も違和感を覚えなくなっていた。

 

かつては彼が問いを投げ、先生や生徒たちが答えを探していた。今は、現場の中で自然に答えが生まれている。

 

午前十時。

 

アヤネとセリカは銀行の窓口へ到着した。

 

担当職員は二人の姿を確認すると、席を立って頭を下げた。

 

「お待ちしておりました。アヤネさん、セリカさん。本日はよろしくお願いいたします」

 

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 

アヤネも丁寧に一礼する。

 

担当職員は一通の封筒を差し出した。

 

「こちらが今回の確認書です。内容をご確認いただき、署名をいただければ、本日の手続きは終了となります」

 

セリカが思わず聞き返した。

 

「これだけですか?」

 

「はい。事前に提出いただいた資料で、必要な事項はすべて確認できています」

 

担当職員は穏やかな口調で続けた。

 

「支出の用途と確認者が統一された形式で記録されていましたので、こちらから追加で伺う内容もありませんでした」

 

アヤネは封筒から確認書を取り出し、記載内容を確かめた。

 

支出額、用途、添付資料、次回確認日。いずれも提出した記録どおりで、不明点はない。

 

先生は同行していない。

 

それでも手続きは何の問題もなく進んでいた。

 

アヤネが署名を終えると、担当職員は書類を受け取り、次回の日程だけを確認した。

 

「ありがとうございました。来月もよろしくお願いいたします」

 

「はい。よろしくお願いいたします」

 

銀行を出たセリカは、建物を振り返って目を瞬かせた。

 

「……終わっちゃった」

 

「予定より随分早かったですね」

 

アヤネが時計を確認する。窓口へ着いてから、まだ十分ほどしか経っていない。

 

「前は一時間くらい掛かってたじゃない」

 

「資料を探したり、同じ内容を何度も説明したりしていましたから」

 

「それに、必ず先生を呼ばれてたわよね」

 

アヤネは少し考えてから頷いた。

 

「今日は、先生のお名前が一度も出ませんでしたね」

 

二人は顔を見合わせた。

 

先生がいなかったから手続きが滞ったのではない。最初から、アヤネとセリカが担当者として扱われた。

 

そのことを、銀行の職員は特別な変化として口にしなかった。

 

ただ、当然のように二人へ書類を渡し、当然のように手続きを終えただけだった。

 

その自然さが、かえって十日前との違いをはっきりと示していた。

 

その頃、対策委員会の部室では、先生が地域から届いた相談票へ目を通していた。

 

緊急性はない。現地確認の結果を受けてから判断すればよい内容だった。

 

先生は確認済みの印を付け、シロコの報告を待つ案件としてファイルへ戻す。

 

向かいの席では、ホシノが机へ頬杖をついていた。

 

「先生、最近は静かだねぇ」

 

「静か?」

 

「うん。先生が走り回らなくなった」

 

先生は相談票から視線を上げた。

 

「走る必要がなくなっただけだ」

 

「前は必要だったの?」

 

「必要だと思っていた」

 

ホシノは少しだけ目を細める。

 

「今は?」

 

先生は部室を見渡した。

 

シロコは地域巡回へ出ている。ノノミは搬入に備えて倉庫の空き状況を確認している。アヤネとセリカは銀行へ向かった。修司は改善記録を整理している。

 

全員が、それぞれの役割を果たしている。

 

誰も手を余らせてはいない。だからといって、誰か一人だけが追い詰められているわけでもなかった。

 

「私が全部やらなくても、ちゃんと進む」

 

先生が静かに言う。

 

ホシノは何も答えず、小さく笑った。

 

それは、教わった答えを口にした時の先生とは違っていた。

 

自分の目で確かめ、自分の中でようやく意味を持ち始めた言葉だった。

 

昼前。

 

銀行での手続きを終えたアヤネとセリカは、予定どおり商店街へ立ち寄った。

 

文房具店の前を通りかかると、店主が二人へ声を掛ける。

 

「ああ、ちょうどよかった」

 

「こんにちは。何かございましたか?」

 

アヤネが足を止める。

 

「この前相談した掲示板なんだけどね。昨日、シロコちゃんが見に来てくれたよ。金具を交換すれば大丈夫だって」

 

アヤネは端末の受付記録を確認した。

 

「はい。交換は来週を予定しています」

 

「それなら大丈夫。急がなくていいよ」

 

店主は安心したように頷いた。

 

「いつ見てもらえるか分かっただけで十分だから」

 

それだけを伝えると、店主は店内へ戻っていった。

 

セリカは閉じた扉を見て、しばらく黙っていた。

 

「……終わり?」

 

「終わりですね」

 

「先生の確認は?」

 

「現地確認は済んでいます。交換費用も基準内ですので、今回は先生の判断を仰ぐ必要はありません」

 

「追加の説明もなし?」

 

「必要ありません」

 

セリカは、どこか拍子抜けしたように息を吐いた。

 

以前なら、先生が改めて現地へ行き、状態を確かめ、店主へ説明し、最後に予定を決めていた。

 

今は、シロコが現場を確認し、アヤネが記録を更新し、必要な日程だけを地域へ伝えている。

 

先生が途中へ入らなくても、相談は忘れられず、担当者が引き継ぎ、次の対応へ進んでいた。

 

「……普通ね」

 

セリカがぽつりと言う。

 

アヤネも小さく頷いた。

 

「はい。普通です」

 

その普通が、ほんの十日前まで当たり前ではなかったことを、二人はよく知っていた。

 

翌朝。

 

先生が部室へ入ると、アヤネが銀行から届いた封筒を差し出した。

 

「昨日の確認書が正式に受理されました。次回の定例日は来月です」

 

先生は内容へ目を通す。

 

追加提出、追加説明、再確認の要求はない。

 

「早いな」

 

思わず漏れた言葉に、アヤネが少し笑った。

 

「以前なら、この後に電話が来ていましたね」

 

「ああ。資料が足りない、説明が分からない、数字の根拠を確認したいと」

 

「そのたびに、先生が資料を探していました」

 

必要な情報が最初から整理され、同じ形式で共有されていれば、相手も余計な確認をせずに済む。

 

対策委員会の負担が減っただけではない。銀行側の手間も減っている。

 

先生は受領書をファイルへ戻した。

 

「記録を頼む」

 

「はい」

 

アヤネはそれ以上の説明を求めず、次の仕事へ移った。

 

午前中、先生はホシノとともに商店街を巡回した。

 

大きな問題が起きたわけではない。以前受け付けた相談が、予定どおり進んでいるかを確認するための巡回だった。

 

小さなパン屋の前を通ると、店主が二人へ気付き、店先まで出てきた。

 

「あっ、先生」

 

「こんにちは」

 

先生が軽く頭を下げると、店主は思い出したように手を打った。

 

「そういえば、この前お願いしたベンチの件だけどね」

 

先生は記憶をたどる。

 

地域の休憩所に置かれている木製ベンチ。脚の一本が緩み、安全確認が必要になっていた。

 

「修理は来週だったかな」

 

「いや、危ないところはもう直してもらったよ」

 

店主は首を横へ振った。

 

「昨日、シロコちゃんが見に来てくれてね。応急処置をしてくれた。残りは業者が来るって聞いてるから、もう安心だよ」

 

先生は一瞬、言葉を失った。

 

報告書には目を通していた。応急処置を行ったことも、業者への依頼が済んだことも知っている。

 

それでも、当事者から「もう安心だ」と聞くと、紙の上で知るのとは違う実感があった。

 

「そうでしたか」

 

「ああ。ありがとう」

 

店主は短く礼を言い、仕事へ戻っていった。

 

先生はその背中を見送る。

 

ホシノが隣で笑った。

 

「知らなかった?」

 

「報告は読んでいたよ」

 

「でも、驚いた顔してた」

 

先生は苦笑した。

 

「自分が現場へ行かなくても、相手が安心している。そのことに、まだ慣れていないのかもしれない」

 

「先生が全部覚えてなくても、ちゃんと進んでるってことだよ」

 

「そうだな」

 

先生は商店街を見渡した。

 

誰も先生の姿を見つけて駆け寄ってこない。店主たちは、それぞれの仕事を続けている。

 

以前なら、相談の進捗を確認するため、先生を待っていた人もいた。先生へ直接伝えなければ、話が動かないと思われていた。

 

今は違う。

 

相談した相手が先生でなくても、記録は残る。担当者が変わっても、経過は共有される。すぐに対応できない場合も、次の予定が示される。

 

だから、地域の人々は先生を探し続ける必要がなくなった。

 

校門へ戻ると、食品保存用の容器を積んだ自転車が停まっていた。

 

荷物を運んできた老人が先生へ気付く。

 

「アビドス高校の方かい?」

 

「はい」

 

「寄付の容器を持ってきたんだけど、どこへ置けばいいかな」

 

先生が答える前に、校舎からノノミが台車を押して出てきた。

 

「あっ、ちょうど到着されたところですね〜」

 

老人はノノミの顔を見て、安心したように笑う。

 

「君が担当だったか」

 

「はい。こちらで受け取ります」

 

ノノミは伝票の内容と数量を確認し、保管表へ記録する。

 

先生は一歩下がった場所から、そのやり取りを見守った。

 

老人もノノミも、先生へ判断を求めない。保管場所も受取条件も事前に決まっており、確認は数分で終わった。

 

「ありがとうございました〜」

 

ノノミが頭を下げると、老人は満足そうに帰っていった。

 

先生は積まれた段ボールへ目を向ける。

 

以前なら、自分で一箱を持ち上げていたかもしれない。倉庫まで運び、置き場所を確かめ、数量をもう一度数えただろう。

 

だが、今日は手を出さなかった。

 

ノノミが台車を押しながら、先生へ振り返る。

 

「何か気になるところがありますか〜?」

 

先生は少しだけ考え、首を横へ振った。

 

「いや。大丈夫だ」

 

「では、このまま保管しておきますね」

 

「ああ。任せる」

 

「はい」

 

ノノミは嬉しそうに微笑み、荷物を倉庫へ運んでいった。

 

任せることは、何もしないことではない。

 

必要な基準と責任を明確にした上で、相手の判断を尊重することだ。

 

先生は、その意味を少しずつ実感していた。

 

夕方。

 

対策委員会の部室では、一日の振り返りが始まっていた。

 

アヤネが受付記録を確認する。

 

「本日の未対応案件はありません。継続案件が二件ありますが、どちらも予定どおり進んでいます」

 

「巡回も問題なし」

 

シロコが短く報告する。

 

「銀行も来月まで追加対応なし」

 

セリカが続けた。

 

ノノミも保管表を閉じる。

 

「搬入された物資も、所定の場所へ保管済みです〜」

 

先生は全員を見渡した。

 

それぞれが仕事をしている。

 

誰も仕事をしていないわけではない。

 

それでも、以前のように疲れ切った表情を浮かべる者はいなかった。誰か一人が、他の全員の不足を埋めるために無理をしている様子もない。

 

仕事は終わっていた。

 

先生が全てを確認しなくても。

 

先生が全ての現場へ行かなくても。

 

先生が一人で抱え込まなくても。

 

「今日は、これで終わりです」

 

アヤネが最後のファイルを棚へ戻した。

 

セリカが伸びをする。

 

「今日は早く帰れそうね」

 

「明日の予定も確認済み」

 

シロコが言う。

 

ノノミは使った湯飲みを片付け始める。

 

いつもどおりの光景だった。

 

だが先生は、しばらく席を立たなかった。

 

ホシノがその様子へ気付く。

 

「先生、帰らないの?」

 

「もう少しだけ」

 

「仕事?」

 

「いや」

 

先生は机の上を見る。

 

持ち帰る書類はない。

 

追加で確認すべき資料もない。

 

誰かへ連絡しなければならない案件も残っていなかった。

 

「考え事をしていた」

 

ホシノは先生の向かいへ座った。

 

「何を?」

 

先生はすぐに答えなかった。

 

部室では、アヤネたちが帰り支度を進めている。誰も先生へ声を掛けず、自分の仕事を終え、自分の判断で次の日へ備えていた。

 

それは、先生が望んだ光景のはずだった。

 

「今日」

 

先生はゆっくりと口を開いた。

 

「ほとんど誰にも呼ばれなかった」

 

ホシノは少しだけ目を細める。

 

「うん」

 

「銀行でも、商店街でも、物資の受け入れでも、私がいなくても問題なく進んだ」

 

「うん」

 

「嬉しいんだ」

 

先生は先にそう言った。

 

「皆が自分で判断し、互いに支え合えるようになった。それは、間違いなく良いことだと思っている」

 

一度言葉を切る。

 

「でも、少しだけ寂しい」

 

ホシノは笑わなかった。

 

先生の言葉を否定もせず、静かに聞いている。

 

「ずっと、頼られることが先生の役割だと思っていた。困った時に呼ばれ、最後には自分が何とかする。それが自分の価値だと、どこかで思っていたのかもしれない」

 

「先生がいなくても大丈夫になったから?」

 

「ああ」

 

先生は机へ視線を落とした。

 

「必要なくなったように感じた」

 

ホシノはしばらく黙っていた。

 

やがて、いつもの穏やかな声で言う。

 

「おじさんは、そうは思わないけどねぇ」

 

先生が顔を上げる。

 

「先生がいなくても、連絡を取ったり、荷物を受け取ったりできるようになっただけでしょ?」

 

「ああ」

 

「でも、誰に任せるかを決めたのも、最後に責任を持つのも先生だよ」

 

ホシノは部室の壁に掛けられた予定表を見る。

 

「みんなが迷った時に戻れる場所があるから、安心して動ける。先生は、何でもする人じゃなくなっただけ」

 

先生は何も言わなかった。

 

「前はさ」

 

ホシノは少し笑う。

 

「先生が全部やってくれたから、安心してた」

 

「今は?」

 

「先生が最後にいてくれるって分かってるから、安心して動ける」

 

同じ安心でも、その意味は違う。

 

以前は、先生が仕事を引き取ることを前提とした安心だった。

 

今は、それぞれが自分の仕事を担いながら、必要な時には先生が支えると信じられる安心だった。

 

「先生が必要なくなったんじゃないよ」

 

ホシノは静かに続けた。

 

「先生を、ちゃんと先生として頼れるようになったんだと思う」

 

先生はしばらく答えなかった。

 

やがて、小さく息を吐く。

 

「そうか」

 

「うん」

 

「私は、何でも屋になっていたんだな」

 

「便利だったよ〜」

 

ホシノは冗談めかして言った。

 

「でも、壊れそうな便利屋さんは困るからねぇ」

 

先生は苦笑した。

 

「手厳しいな」

 

「事実だよ〜」

 

二人の会話を、修司は部室の入口で聞いていた。

 

中へ入るべきか迷うように、一度足を止める。

 

その気配に先生が気付き、顔を上げた。

 

「修司」

 

「はい」

 

「君から見ても、私は必要なくなったように見えるか」

 

修司はすぐには答えなかった。

 

先生の机、壁の予定表、片付けを終えた生徒たちを見る。

 

「いいえ」

 

短く、明確に否定する。

 

「先生は、ようやく本来の役割へ戻り始めています」

 

「本来の役割?」

 

「全ての仕事を自分で行うことではありません。皆さんが自分の役割を果たせるようにし、判断が必要な時には責任を引き受けることです」

 

修司はそれ以上の説明を重ねなかった。

 

先生は自分の机を見る。

 

以前は書類に埋もれていた机。

 

今は、必要な案件だけが整然と置かれている。

 

「私は、仕事をしていることと、忙しくしていることを混同していたのかもしれない」

 

「その可能性はあります」

 

相変わらず、修司の返答には遠慮がない。

 

先生は少し笑った。

 

「本当に容赦がないな」

 

「事実ですので」

 

「でも、今はそれでいい」

 

先生は椅子から立ち上がった。

 

部室の中には、明日の予定が残っている。

 

先生が持ち帰らなくても、明日になれば決められた担当者が続きを始める。

 

問題がなくなるわけではない。

 

先生が迷わなくなったわけでもない。

 

それでも、すべてを自分の手へ戻さなくていいと思えるようになっていた。

 

その日の夜。

 

修司は一人、校舎の屋上に立っていた。

 

昼間よりも冷えた風が、砂漠の向こうから吹き付ける。夕日はすでに地平線へ沈み、空には薄い紫色が残っていた。

 

修司は生命の書を開く。

 

ページが淡く光り、白紙だった場所へ文字が刻まれていく。

 

---

 

**案件No.20**

 

**『アビドス高等学校 対策委員会』**

 

### 第一段階

 

**組織改革**

 

**達成率 100%**

 

---

 

しばらくの間、表示は動かなかった。

 

やがて、その下へ新たな項目が静かに追加される。

 

---

 

### 第二段階

 

**『改善定着確認』**

 

**達成率 25%**

 

---

 

修司の隣にミコリが姿を現した。

 

「第一段階は、完了したのですね」

 

「ええ」

 

修司は生命の書から目を離さずに答える。

 

「業務の整理、権限の分散、判断基準の共有。組織改革そのものは完了しました」

 

「第二段階は、改善が現場へ定着したかを確認する工程ですか」

 

「はい」

 

修司は静かに頷いた。

 

「仕組みを作ることと、その仕組みが誰かに言われなくても使われ続けることは別です」

 

今日、修司が口を挟く場面はほとんどなかった。

 

それでも対策委員会は動いた。

 

自分たちで情報を共有し、自分たちで判断し、必要な仕事を終えていた。

 

生命の書へ、さらに小さな文字が浮かび上がる。

 

---

 

**観測継続**

 

**平時運用 安定**

 

**緊急時運用 未確認**

 

---

 

ミコリが表示を見つめる。

 

「順調なのではありませんか」

 

「順調です」

 

修司は肯定した。

 

「ですが、平時に回る組織と、状況が崩れた時にも回る組織は同じではありません」

 

「緊急時の観測が必要なのですね」

 

「ええ」

 

修司は生命の書を閉じた。

 

風が強くなり、屋上へ薄い砂が流れ込む。

 

遠くの空では、砂塵が細い帯のように地平線を覆い始めていた。

 

修司はその方角へ目を向ける。

 

今はまだ、日常を脅かすほどではない。

 

だが、アビドスの砂漠では、風向き一つで状況が変わる。

 

「組織の真価が問われるのは」

 

修司は静かに呟いた。

 

「予定どおりに進まなくなった時です」

 

砂を含んだ風が、生命の書の表紙を撫でる。

 

第一段階は終わった。

 

しかし、案件No.20はまだ完了していない。

 

改革が本当にアビドスのものになったのか。

 

その答えが示されるのは、これからだった。

 

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