翌朝、部室の窓は乾いた風に何度も揺らされていた。
昨夜から風向きが安定しない。北から吹いたかと思えば、しばらくして西へ変わり、校庭の砂を細い渦にして巻き上げていく。アビドスでは珍しい光景ではなかったが、机へ置かれた紙がわずかに浮くたび、アヤネは窓の隙間を気にしていた。
「今日も風が強いですね」
窓枠へ新しい布を挟みながら、アヤネが言う。
「昨日より強い」
シロコは窓の外を見たまま答えた。
校庭の向こうでは、地面を這うように砂が流れている。空は晴れていたが、地平線の輪郭は薄く霞んでいた。
「巡回経路、変更した方がいい?」
セリカが予定表を確認する。
「南側は問題ない。西側は視界が悪い」
「じゃあ、午前中は南側だけにしましょう」
アヤネは予定表の巡回欄へ印を付けた。
先生はそのやり取りを聞きながら、机へ置かれた受付一覧へ目を通していた。
新規相談は六件。
十日前と比べれば、明らかに多い。
校舎周辺の砂溜まりについて二件。商店街の倉庫扉について一件。地域集会所から備品貸出の相談が一件。物資提供の申し出が一件。それから、近隣の小さな診療所から、非常用飲料水の保管について相談したいという連絡が入っている。
どれも今すぐ誰かの命に関わる内容ではない。
だが、すべてを引き受ければ、予定していた仕事へ影響が出る量だった。
「増えましたね〜」
ノノミが受付票を見ながら、少し困ったように微笑む。
「最近、地域の方からご連絡をいただくことが多くなりました」
「対応が早くなったからでしょ」
セリカは椅子へ腰掛けながら言った。
「相談したら、ちゃんと返事が来るって思われたんじゃない?」
「良いことではある」
先生は一覧を見たまま答えた。
「ただし、全部をそのまま受けるわけにはいかないな」
以前なら、その言葉を口にするまでに長く迷っていただろう。
今は違う。
信頼へ応えることと、相手の依頼をすべて引き受けることは同じではない。そのことを、先生だけでなく対策委員会の全員が理解し始めていた。
アヤネがホワイトボードの端へ、本日の対応可能時間を書き出す。
午前中は地域巡回と銀行資料の確認。午後は倉庫整理と設備記録の更新。自由に使える時間は、合わせて二時間ほどしかない。
「まず、アビドスが対応する必要のある相談か確認しましょう」
アヤネは受付票を一枚ずつ机へ並べた。
「砂溜まりは、通行への影響を聞く必要があります。倉庫扉は所有者側で修理できるかもしれません。備品貸出は数量次第です」
「診療所の飲料水は?」
シロコが尋ねる。
「保管方法の相談ですので、ノノミさんが以前作成した受入基準を共有すれば、現地へ行かなくても対応できる可能性があります」
ノノミが頷いた。
「一覧をお送りして、分からない部分だけ伺いましょう」
「物資提供は、今の倉庫に入る?」
セリカが尋ねる。
ノノミは保管表を確認した。
「種類と数量を聞かないと判断できませんね〜。空いている棚はありますが、何でも置けるわけではありません」
先生は全員のやり取りを聞きながら、口を挟まなかった。
相談を読み、必要な情報を整理し、対応の要否を考える。かつては先生一人の頭の中だけで行われていた判断が、今では部室の机の上へ広げられている。
誰か一人が正解を言うのではない。
アヤネが情報を整理し、ノノミが保管条件を確認し、シロコが現場の危険性を考え、セリカが「本当にこちらの仕事なのか」と疑問を出す。
ホシノは少し離れた席から、全員の表情を眺めていた。
「先生」
「何だ?」
「今日は、どれを受ける?」
問い掛けられた先生は、すぐに答えなかった。
受付票を順番に見直す。
「現地確認が必要なのは、通行に影響がある砂溜まりだけだ。ただし、まず写真を送ってもらおう」
アヤネが記録する。
「はい」
「倉庫扉は、修理業者の連絡先を共有する。アビドスが直接直す必要はない」
「それでいいと思う」
セリカが頷く。
「備品貸出は、こちらの在庫と使用予定を確認してから返答。診療所には保管基準を送る」
先生は最後に、物資提供の受付票を見た。
「これは数量を確認した上で、今週受け取れないなら来週以降へ調整しよう」
「お断りはしないんですね〜」
ノノミが尋ねる。
「置けるなら受け取りたい。ただ、置けない状態で受け取る方が無責任だ」
「はい」
ノノミは穏やかに笑った。
判断が終わるまで、十分も掛からなかった。
修司は部室の隅で、その一連の流れを見ていた。手元には改善記録があるが、書き込む様子はない。
セリカがそれに気付き、眉を上げる。
「今日は何も記録しないの?」
「後でまとめます」
修司は短く答えた。
「直すところ、ないの?」
「あります」
その返答に、アヤネが顔を上げる。
「どこでしょうか」
「今、お伝えする必要はありません」
セリカが不満そうな顔をした。
「何よ、それ」
「皆さんで気付ける内容ですので」
修司はそれ以上説明しなかった。
少し前なら、修司が問題点を示し、対策委員会が修正案を考えていた。今は、その順番を意図的に変えている。
修司の答えを待つのではなく、自分たちで運用し、違和感を見つける。
それも定着確認の一部だった。
午前中、アヤネは診療所へ保管基準を送り、セリカは倉庫扉の相談者へ修理業者の連絡先を伝えた。
診療所からは、内容を確認した後に短い返信が届いた。
『十分参考になりました。追加確認が必要な場合のみ、あらためて連絡します』
現地へ行く必要はなかった。
倉庫扉についても、所有者側で業者へ連絡することになり、対策委員会の対応はそこで終了した。
六件あった相談のうち、二件はアビドスが直接動かずに済んだ。
「前なら、両方見に行ってたわね」
通信端末を机へ置きながら、セリカが言う。
先生は否定しなかった。
「相手が困っているなら、まず現場へ行くべきだと思っていた」
「今は?」
「必要な人や情報へ繋ぐだけで解決できるなら、その方がいい」
ホシノが満足そうに笑う。
「先生、少しずつ便利屋さん卒業だねぇ」
「完全には卒業していない気がするが」
「自覚があるなら大丈夫だよ〜」
昼前、砂溜まりの相談者から写真が届いた。
商店街の裏手にある細い通路へ、風で運ばれた砂が溜まっている。膝まで埋まるほどではないが、台車や自転車が通るには邪魔になる量だった。
「今日中に片付ける必要はない」
シロコが写真を見て判断する。
「でも、風が続けば増える」
「明日の巡回に入れましょう」
アヤネが予定表へ書き込む。
セリカは窓の外を見た。
「明日もこの風だったら、片付けてもまた溜まらない?」
全員の手が止まった。
先生も写真から目を上げる。
今日片付けるか、明日片付けるか。
これまでなら、その二択だけで考えていた。
だが、問題の原因が続いているなら、砂を撤去するだけでは同じ相談が繰り返される。
「砂除けを置けないか確認した方がいい」
先生が言う。
「毎回片付けるより、流れ込む量を減らした方がいい」
シロコが写真を拡大した。
「板を置ける場所はある」
「ただ、店の搬入口に近い」
「設置するなら店主さんの確認が必要ですね」
アヤネが受付票へ追記する。
ここまで話したところで、セリカが修司を見る。
「さっき言ってた『直すところ』って、これ?」
修司は首を横へ振った。
「違います」
「じゃあ何なのよ」
「まだ皆さんが気付いていません」
セリカは頬を膨らませる。
「感じ悪いわね」
「答えを先にお伝えすれば、定着確認になりませんので」
「正論なのが余計に腹立つ」
ノノミが小さく笑った。
午後になると、風はさらに強くなった。
校舎の外壁へ砂が当たる音が、部室の中まで聞こえてくる。窓の外を横切る砂の量も、朝より増えていた。
シロコが端末で地域の観測情報を確認する。
「西側の風速、上がってる」
「警報は?」
先生が尋ねる。
「まだ出てない。注意情報だけ」
「明日の巡回は、朝の状態を見て判断しよう」
先生はすぐに予定表を確定させなかった。
天候が変わる可能性があるなら、今の情報だけで現場作業を約束しない。十日前の先生なら、多少の風なら大丈夫だと判断し、予定を入れていたかもしれない。
アヤネが巡回欄へ「当日判断」と書き込む。
その直後、通信端末が鳴った。
地域集会所からだった。
「はい、アビドス高等学校対策委員会です」
アヤネが応答する。
相手の話を聞きながら、表情が少しずつ曇っていく。
「非常用発電機ですか?」
先生たちの視線が集まった。
「はい……貸出希望日は、明日でしょうか」
アヤネはさらに内容を聞き取った。
「分かりました。確認後、折り返します」
通話を終え、受付表へ書き込む。
「地域集会所から、非常用発電機を借りられないかと相談がありました」
「何に使うの?」
セリカが尋ねる。
「明日、地域向けの催しを予定しているそうです。風が強く、停電が心配なので、予備として置いておきたいとのことでした」
ノノミが少し困ったように首を傾げる。
「アビドスの発電機は、校舎用の予備ですね〜」
「貸したら、こちらで停電した時に使えない」
シロコが言う。
先生はすぐに答えなかった。
地域集会所には普段から世話になっている。可能なら協力したい。
しかし、風が強まっている状況で、アビドス自身の非常用設備を外へ出すのは危険だった。
「貸せない」
セリカが先に言った。
アヤネがセリカを見る。
「即答ですか?」
「だって、これからもっと風が強くなったら、こっちで必要になるかもしれないでしょ」
「催しも大事かもしれないけど、学校の非常用を貸すのは違うと思う」
「私も反対」
シロコも短く言った。
「風が強い時に、予備を減らすべきじゃない」
ノノミは少し残念そうだったが、頷いた。
「別の発電機をお持ちの場所へ、相談できないか探した方が良いですね」
先生は三人の意見を聞き、最後にホシノを見る。
「ホシノはどう思う?」
「同じかなぁ」
ホシノは眠そうな顔のまま答えた。
「今使ってないから貸せる、じゃなくて、何かあった時のために使ってないんだからねぇ」
先生は頷いた。
「アヤネ。貸出は断ろう」
「はい」
「ただし、近隣で貸出可能な設備がないか、分かる範囲で案内してくれ」
アヤネが記録しながら答える。
「承知しました」
連絡を終えた後、セリカが修司へ顔を向けた。
「今度こそ、気付いた?」
修司は受付一覧を見た。
「はい」
「何だったの?」
「本日の依頼件数ではありません」
修司はホワイトボードの予定表を指した。
「依頼が増えたことによって、皆さんは一件ずつ対応方法を考えていました」
「それの何が問題なのよ」
「問題ではありません。ただし、判断回数が増えています」
アヤネが小さく息を呑んだ。
午前中から、何度判断しただろう。
現地へ行くか。
資料だけ送るか。
直接対応するか。
別の業者へ繋ぐか。
今日行うか。
明日へ回すか。
依頼を受けるか。
断るか。
一件一件は小さい。
だが、数が増えれば、判断するだけでも負担になる。
「対応が早くなった結果、相談が増えました」
修司は淡々と続ける。
「今後も増えれば、現在の方法では再び負荷が高くなる可能性があります」
セリカは腕を組んだ。
「じゃあ、また依頼を減らすの?」
「いいえ」
先生が先に答えた。
修司ではなく、全員が先生を見る。
「似た相談は、最初の判断を共通化すればいい」
先生は受付票を手に取る。
「現地へ行く必要がないもの。外部へ案内するもの。貸し出せない設備。最初から基準を作っておけば、毎回一から考えなくて済む」
アヤネが頷く。
「相談が増えた場合の受付基準ですね」
「ただし、今日作る必要はない」
先生は付け加えた。
「今は風の状態を確認する方が先だ。今週の振り返りで整理しよう」
アヤネは新しい仕事を予定表へ押し込まず、週末の振り返り欄へ一行だけ記録した。
『相談増加に伴う受付基準の見直し』
修司はそれを見て、わずかに目を細めた。
問題へ気付いた。
改善案も出た。
だが、すぐに実行しなかった。
現在の優先順位を確認し、適切な時期へ残した。
十日前なら、「気付いた仕事」はその場で始められていただろう。改善するための作業が、かえって目の前の負担を増やしていた可能性もある。
今は違う。
改善すら、予定の中で扱われている。
夕方。
風は弱まらなかった。
地域巡回は翌朝の判断へ回し、物資搬入の予定も一部延期された。対策委員会は明日の予定を仮のまま残し、天候情報を確認してから確定することにした。
先生が予定表の前に立つ。
「今日は、終わらなかった仕事が多いな」
「天候次第のものばかりです」
アヤネが答える。
「今決める方が危険」
シロコも言った。
セリカは窓から外を見ながら肩をすくめる。
「風に予定を聞くわけにもいかないしね」
「でも」
ノノミが穏やかに言う。
「何が決まっていないのかは分かっていますから、大丈夫です〜」
先生は予定表を見る。
未確定。
延期。
当日判断。
普段なら不安になる言葉が並んでいる。
それでも、以前のような焦りはなかった。
決まっていないものが見えている。
決める時期も分かっている。
だから、抱えて帰る必要はない。
「今日はここまでにしよう」
先生が言う。
誰も異論を挟まなかった。
その夜。
修司は部室に残り、生命の書を開いた。
ページには、前日から更新された記録が浮かんでいる。
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**案件No.20**
**『アビドス高等学校 対策委員会』**
### 第一段階
**組織改革**
**達成率 100%**
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### 第二段階
**『改善定着確認』**
**達成率 47%**
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その下へ、今日の観測結果が追加される。
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**外部相談増加**
**受入判断 安定**
**優先順位管理 安定**
**改善継続性 確認中**
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「一日で、大きく進みましたね」
ミコリが表示を見ながら言った。
「相談が増えたことで、運用の限界が見え始めました」
修司は生命の書へ視線を落としたまま答える。
「それでも崩れなかったのは、良い結果です」
「先生は、以前の状態へ戻りませんでした」
「ええ」
すべてを引き受けなかった。
すべてを今日へ入れなかった。
困っている相手へ直接手を差し伸べる代わりに、必要な情報や他の手段へ繋いだ。
自分たちの非常用設備を守るため、地域の依頼を断ることもできた。
平時の運用としては、確実に前へ進んでいる。
しかし、生命の書の最下部にある表示は変わっていなかった。
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**緊急時運用 未確認**
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その時、部室の通信端末が鳴った。
修司が顔を上げる。
夜間に使われることの少ない、地域連絡用の回線だった。
アヤネが戻ってきて、すぐに応答する。
「はい。アビドス高等学校対策委員会です」
相手の声を聞いた瞬間、アヤネの表情が引き締まった。
「砂嵐警報……ですか?」
修司は窓の外へ目を向けた。
暗闇の向こうで、校舎を包む風の音が一段強くなる。
生命の書のページが、淡く明滅した。
まだ新しい段階は表示されない。
だが、空白だった欄の下に、一本の細い線がゆっくりと浮かび始めていた。