夜明け前。
アビドスの空は、まだ暗かった。
普段なら静かな時間帯。
だが、この日だけは違った。
校舎の窓を叩く風が、一晩中止まらなかった。
乾いた砂が外壁へ打ち付けられる音は、まるで細かな雨のように途切れることなく続いている。
その音で、先生は目を覚ました。
時計を見る。
午前五時十二分。
いつもより一時間近く早い。
もう一度眠ろうと目を閉じる。
しかし。
風の音は、逆に強くなった。
ガタッ。
窓枠が小さく揺れる。
先生はゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。
外はまだ薄暗い。
それでも砂が風へ流されているのは分かる。
視界は悪くない。
だが、地面を這う砂の量は、昨日より明らかに多かった。
「……。」
先生は窓の外を見つめたまま、小さく息を吐く。
昨夜、修司が言っていた言葉を思い出す。
> 「組織の真価が問われるのは、予定どおりに進まなくなった時です。」
その意味を、まだ深く考えてはいなかった。
だが。
胸の奥に、小さな引っ掛かりだけが残っていた。
その時。
机の上へ置かれていた通信端末が鳴る。
短い電子音。
画面を見る。
発信者。
アヤネ。
先生はすぐに通話へ出た。
「おはようございます、先生。」
普段と変わらない声だった。
だが、その奥にわずかな緊張が混じっている。
「おはよう。」
「何かあったか?」
「はい。」
アヤネは短く答えた。
「地域防災局から砂嵐注意情報が更新されました。」
先生は表情を引き締める。
「昨日より強いのか?」
「はい。」
「現時点では注意情報ですが。」
「今日の午後にかけてさらに風速が上がる予測です。」
先生は窓の外を見る。
予報どおりだった。
「他には?」
「現在、地域相談が四件届いています。」
「朝の時点で?」
「はい。」
「道路への砂の流入。」
「店舗入口への吹き溜まり。」
「倉庫シャッターの動作不良。」
「地域集会所から設備確認。」
先生は少し考える。
昨日までなら。
この四件を聞いた瞬間、
「私が見てくる。」
そう答えていただろう。
しかし。
「対策委員会のみんなは?」
「もう連絡済みです。」
「全員、予定より早く登校します。」
「分かった。」
先生は短く答えた。
「私も向かう。」
「はい。」
通話が切れる。
先生は制服へ着替え始めた。
急ぐ。
だが、慌てない。
その違いを、自分でも少し意識していた。
---
午前六時十分。
対策委員会の部室。
まだ始業前にもかかわらず、全員が揃っていた。
「おはようございます。」
アヤネはすでに大型ホワイトボードを広げている。
昨日まで予定表だった場所には、新しい表が貼られていた。
---
**発生状況**
**担当**
**対応状況**
**次回確認**
---
簡潔だった。
だが、一目で状況が分かる。
先生はそれを見る。
「切り替えたのか。」
「はい。」
アヤネは頷く。
「通常業務用では見づらいと思いましたので。」
「朝来てから変更しました。」
先生は何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
「ありがとう。」
その一言だけだった。
修司は部屋の隅から、その様子を静かに見ている。
何も言わない。
ホワイトボードを変えたことも。
相談件数が増えたことも。
誰一人、修司へ確認を求めなかった。
自然に。
必要だと思ったことを。
自分たちで判断していた。
その時。
部室の通信端末が鳴る。
アヤネが応答する。
「はい、アビドス高等学校対策委員会です。」
相手の話を聞くにつれ、アヤネの表情が少しずつ険しくなる。
「はい。」
「……分かりました。」
「すぐ確認いたします。」
通話を終える。
先生が尋ねる。
「新しい相談か?」
「はい。」
アヤネは受付票を書きながら答えた。
「第五倉庫前。」
「砂が急激に堆積しています。」
「搬入車両が通れない可能性があるそうです。」
部室が静かになる。
昨日までなら。
「午後に確認しましょう。」
そう判断していただろう。
しかし今日は違う。
物資搬入にも影響する。
先生はホワイトボードを見る。
地域相談。
銀行。
搬入。
昨日立てた予定が、そのまま並んでいた。
その横へ。
アヤネは新しく赤いマーカーで書き加える。
---
**第五倉庫前 通行確認**
**優先:高**
---
誰も指示を待たない。
シロコは地図を開く。
「私が確認する。」
セリカも立ち上がる。
「一人じゃ危ないわ。」
「私も行く。」
ノノミは保管表を取り出す。
「搬入時間を後ろへずらせるか確認しますね〜。」
先生はその光景を見つめていた。
誰も。
「先生、どうしますか。」
とは聞かなかった。
必要な役割を、それぞれが考え始めている。
部室の空気は慌ただしい。
それでも。
不思議と混乱はなかった。
その様子を見ながら。
修司は静かに生命の書へ手を置く。
まだ開かない。
その時ではない。
彼は一人、小さく呟いた。
「始まりました。」
「シロコさん、セリカちゃん。」
アヤネは受付票を二人へ手渡した。
「第五倉庫前の状況確認をお願いします。」
「分かった。」
シロコは地図を折り畳み、通信端末を確認する。
「十五分で戻る。」
「私も行くわ。」
セリカも防塵ゴーグルを手に取った。
先生は二人を見る。
「危険を感じたら近付かなくていい。」
「まず状況を知らせてくれ。」
「うん。」
「了解。」
二人は部室を後にした。
ドアが閉まる。
部室は再び静けさを取り戻した。
しかし、その静けさは平時のものではない。
全員が次に起こることを予測しながら動いている。
---
「ノノミ先輩。」
アヤネが声を掛ける。
「搬入業者へのご連絡をお願いします。」
「はい〜。」
ノノミは端末を手に取った。
「道路状況が確認できるまでは、出発をお待ちいただくようお願いしてみます。」
「お願いします。」
先生は短く頷く。
以前なら、自分で電話を掛けていただろう。
今は違う。
担当者が判断し、担当者が説明する。
先生は必要になった時だけ判断を下す。
ホシノが、その様子を眺めながら小さく笑った。
「先生。」
「何だ?」
「もう電話、取らないんだねぇ。」
先生は少しだけ苦笑する。
「担当がいるからな。」
「私が代わる理由はない。」
ホシノは満足そうに頷いた。
「うん。」
「その方が自然。」
---
その時。
通信端末が短く鳴った。
アヤネが応答する。
「はい。アビドス高等学校対策委員会です。」
数秒後。
アヤネの表情が少しだけ引き締まる。
「……はい。」
「状況は分かりました。」
「ありがとうございます。」
通話が終わる。
すぐにホワイトボードへ新しい案件を書き加えた。
---
【新規受付】
商店街西通り
店舗看板 一部破損
負傷者なし
現地確認待ち
---
「西通りです。」
「強風で看板が傾いたそうです。」
先生が尋ねる。
「落下の危険は?」
「現時点ではありません。」
「ただ、固定具が緩んでいる可能性があるとのことです。」
部屋が静かになる。
シロコとセリカは、すでに第五倉庫へ向かっている。
先生はホワイトボードを見つめた。
案件は二件。
現場確認班は一組。
「先生。」
アヤネが静かに口を開く。
「西通りの現地確認は、どうしましょう。」
先生はすぐには答えなかった。
昨日まで積み重ねてきた運用を思い返す。
現場へ行くことが目的ではない。
必要な情報を集め、適切な判断をすることが目的だ。
「写真は届いているか。」
「まだです。」
「では。」
先生は迷いなく答えた。
「先に写真を送っていただこう。」
「その内容を見て、現地確認が必要か判断する。」
「承知しました。」
アヤネはすぐに連絡を入れる。
ホシノが小さく笑った。
「先生。」
「ちゃんと順番を守ったねぇ。」
先生も少し笑う。
「ああ。」
「急ぐことと、慌てることは違う。」
その言葉を聞き、修司は静かに視線を伏せた。
誰かに教えられたわけではない。
先生自身が、現場で学び取った判断だった。
---
その頃。
第五倉庫前。
シロコとセリカは現場へ到着していた。
吹き付ける風は朝より明らかに強い。
砂が足元を流れ、視界の下半分を薄く覆っている。
「思ったより積もってる。」
セリカが目を細めた。
搬入口の前には、風で運ばれた砂が帯のように積み重なっている。
大型車なら通行できる。
しかし、物資搬入に使う小型トラックではタイヤを取られる恐れがあった。
シロコは端末を取り出す。
写真を数枚。
角度を変えて撮影する。
続けて短い動画も記録した。
「送る。」
データはすぐに部室へ送信された。
その直後だった。
ゴォォッ――。
突風が倉庫前を吹き抜ける。
砂煙が一気に舞い上がり、二人の視界を覆った。
「シロコさん!」
セリカが思わず声を上げる。
「大丈夫。」
短い返事が返る。
数秒後、砂煙が少し晴れる。
二人は同時に前方を見た。
さっきまで道路の端に寄っていた砂が、風に押されて車道の中央まで広がっていた。
シロコは静かに呟く。
「……進行が速い。」
セリカも表情を曇らせる。
「このままだと。」
「午後まで持たないかもしれない。」
二人はもう一度現場を撮影し、追加の報告を部室へ送信した。
画面に映る砂の量は、到着した時よりも明らかに増えていた。
部室。
アヤネの端末が短く震えた。
「シロコさんからです。」
受信した写真を大型モニターへ映し出す。
部屋の空気が少しだけ変わった。
「……。」
誰もすぐには口を開かなかった。
第五倉庫前の道路は、朝とは別の場所のようだった。
風で運ばれた砂が道路を覆い始め、搬入口の手前には車輪ほどの高さまで吹き溜まりができている。
続けて動画が再生された。
映像の中で砂は止まることなく流れ続け、わずか数十秒の間にも吹き溜まりが広がっていく様子が分かる。
「進行が早いですね……。」
アヤネが静かに呟いた。
ノノミも画面を見つめる。
「午後の搬入は難しいかもしれませんね〜。」
先生は動画を最後まで見届けた。
「アヤネ。」
「はい。」
「搬入業者へ。」
「本日の搬入は一旦見合わせてもらおう。」
「安全が確認できるまで待機をお願いしてくれ。」
「承知しました。」
アヤネはすぐに電話を掛け始める。
先生は一切口を挟かない。
必要な判断だけを伝え、実際の連絡は担当者へ任せる。
それが今の対策委員会だった。
---
その時。
再び通信端末が鳴った。
今度はシロコから直接だった。
「先生。」
「聞こえる。」
通信の向こうでは風の音が大きく響いている。
「状況を報告する。」
「頼む。」
「搬入口前。」
「小型車両は通行困難。」
「大型車両も、このままだと危ない。」
先生はホワイトボードを見る。
アヤネが報告を書き加えていく。
---
第五倉庫
搬入延期
道路確認継続
---
「周囲に人はいるか。」
「数人。」
「避難は終わってる。」
「けが人なし。」
「分かった。」
先生は少し考えた。
「無理に砂を除けようとするな。」
「風が収まるまで近付かなくていい。」
「了解。」
通信はそこで終わった。
セリカの声が最後に聞こえる。
「先生。」
「うん。」
「これ。」
「今日だけじゃ済まないかも。」
通信が切れた。
部室は静まり返る。
先生も同じことを感じていた。
---
ノノミが電話を終える。
「先生。」
「搬入業者さんです。」
「今日は延期で問題ないそうです〜。」
「道路状況が改善したら、改めて連絡してくださいとのことでした。」
「ありがとう。」
先生は頷いた。
一つ問題が片付いた。
しかし。
それは解決したのではない。
先送りになっただけだった。
「物資は。」
先生が尋ねる。
ノノミは保管表を確認する。
「食料は三日分。」
「飲料水も大丈夫です〜。」
「医療用品は。」
「応急セットなら十分あります。」
「分かった。」
先生はホワイトボードへ目を向ける。
まだ余裕はある。
だが。
この風が数日続けば話は変わる。
その時だった。
「先生。」
アヤネが新しい受付票を持って立ち上がる。
「また相談です。」
「内容は?」
「地域集会所から。」
「避難所として開設する可能性について、事前相談がありました。」
部屋の空気が一変する。
セリカたちが出発してから三十分。
初めて。
"避難"
という言葉が出た。
先生は受付票を受け取る。
『本格的な避難ではない。』
『念のため準備を始めたい。』
そう書かれていた。
「まだ決定ではありません。」
アヤネが補足する。
「ただ。」
「風が強くなった場合に備えて。」
「受入体制を確認したいそうです。」
先生は静かに考える。
避難所。
つまり。
学校そのものの運営も考えなければならない。
「ノノミ。」
「はい〜。」
「受入可能人数は。」
ノノミはすぐに資料を開いた。
「体育館なら五十人程度。」
「教室も使えば八十人までは対応できます。」
「毛布。」
「六十枚。」
「非常食。」
「現在の備蓄なら二日程度です。」
アヤネは次々と数字を書き込んでいく。
先生はその様子を見ながら思った。
以前なら。
この確認は自分一人でやっていた。
備蓄を数え。
施設を確認し。
避難計画を考え。
地域へ連絡する。
全部。
自分一人で。
今は違う。
必要な数字は。
担当者がすぐ答えられる。
---
その時。
修司が静かに窓の外を見る。
砂は。
さらに勢いを増していた。
生命の書は、まだ閉じたまま。
だが。
修司は小さく呟く。
「もうすぐですね。」
ミコリが尋ねる。
「第三段階ですか。」
「ええ。」
修司は窓の外から目を離さない。
「平時は終わります。」
その言葉と同時に。
校舎全体が。
ゴォォォン――
今までで一番強い突風に揺れた。
部室の窓ガラスが激しく震える。
全員が反射的に窓を見る。
その瞬間。
アヤネの通信端末へ、緊急通知が表示された。
**『砂嵐警報発令』**
画面の赤い文字が、部室の空気を一変させる。
誰も言葉を発しない。
先生は通知を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
そして。
静かに口を開く。
「通常業務は中止。」
「対策委員会は、これより緊急対応へ移行する。」
その一言で。
部室は完全に"日常"から切り替わった。
部室へ、短い電子音が響く。
緊急対応用の通信端末が、一斉に起動した。
赤い表示が画面いっぱいに広がる。
---
**砂嵐警報 発令**
対象区域
アビドス自治区全域
不要不急の外出を控えてください
---
誰も慌てなかった。
それは冷静だからではない。
今、自分が何をすべきかを理解していたからだ。
先生はホワイトボードの前へ立つ。
「アヤネ。」
「はい。」
「通常業務を停止。」
「現在対応中の案件だけ残して、それ以外は保留へ。」
「承知しました。」
アヤネは迷わずホワイトボードを書き換える。
予定表は消えた。
代わりに大きく書かれる。
---
**緊急対応中**
---
その下へ、現在動いている案件だけが残された。
・第五倉庫
・商店街西通り
・地域集会所
それ以外の案件には青い線が引かれる。
**保留**
たった二文字。
しかし、その判断だけで部屋の情報量は一気に整理された。
「ノノミ先輩。」
「はい〜。」
「避難受入の準備をお願いします。」
「毛布と飲料水、それから簡易食料を体育館へ移動してください。」
「分かりました〜。」
ノノミはすぐに倉庫へ向かう。
「ホシノ先輩。」
「はーい。」
「校舎内の安全確認をお願いします。」
「窓、出入口、停電時に危険な場所を優先してください。」
「了解〜。」
ホシノも立ち上がる。
「先生。」
アヤネが確認する。
「先生は。」
一瞬だけ沈黙が流れる。
先生は自然に答えようとした。
「私も現場へ――」
その言葉は最後まで続かなかった。
自分で止めた。
昨日。
ホシノが言っていた。
"先生は最後にいてくれるから安心。"
修司が言っていた。
"判断する人が必要です。"
先生は静かに息を吐く。
「私はここに残る。」
「情報を集約する。」
「はい。」
アヤネはそれ以上何も言わなかった。
---
一方。
第五倉庫前。
風はさらに勢いを増していた。
砂が地面を滑るのではなく、空中を舞っている。
シロコは通信端末を押さえながら周囲を見回した。
「先生。」
通信が繋がる。
「聞こえる。」
「視界。」
「三十メートル以下。」
先生はホワイトボードへ書き込む。
アヤネも同時に記録する。
「道路。」
「完全閉塞ではない。」
「でも。」
「搬入不可。」
「了解。」
その時だった。
セリカが倉庫の奥を指差す。
「シロコ!」
風に煽られた大型の防砂ネットが、一部外れかけている。
金具が激しく揺れ。
このままでは道路側へ倒れる恐れがあった。
「危ない。」
シロコはすぐ距離を取る。
「近付かない。」
「先生。」
通信を開く。
「防砂ネット。」
「倒れる可能性あり。」
部室。
先生は地図を見る。
もし倒れれば。
第五倉庫前の道路は完全に塞がれる。
「シロコ。」
「応急処置は可能か。」
短い沈黙。
風の音だけが聞こえる。
やがて。
「危険。」
「近付けない。」
その一言で十分だった。
先生は迷わない。
「分かった。」
「撤退してくれ。」
通信の向こうで。
セリカが驚いた声を出す。
「えっ?」
「でも。」
「放っておいたら。」
先生は静かに言う。
「君たちが怪我をする方が問題だ。」
「状況だけ確認できればいい。」
「撤退。」
数秒。
沈黙が流れる。
やがて。
「……了解。」
シロコが答えた。
通信が切れる。
---
部室。
アヤネは記録を書き終える。
その横で。
修司は静かに先生を見ていた。
撤退。
十日前なら。
先生自身が現場へ向かっただろう。
あるいは。
「もう少し頑張れば。」
そう言っていたかもしれない。
しかし今。
先生は。
現場より。
人を優先した。
修司は何も言わない。
ただ。
生命の書へ、そっと手を添える。
まだ。
開かない。
---
その時。
ノノミが倉庫から戻ってきた。
「先生〜。」
「体育館の準備は終わりました。」
「毛布五十枚。」
「飲料水。」
「非常食。」
「全部配置済みです。」
「ありがとう。」
先生は頷く。
「避難者は。」
「まだ来ていません。」
「はい〜。」
しかし。
その返事を待っていたかのように。
ガララッ。
部室の扉が勢いよく開いた。
地域集会所の職員が、息を切らしながら飛び込んでくる。
「先生!」
「お願いします!」
「避難を始めたいんです!」
部室の空気が張り詰める。
事前相談ではない。
正式な避難要請だった。
先生は椅子から立ち上がる。
「人数は。」
「現在二十七名!」
「高齢者が多いです!」
「徒歩でこちらへ向かっています!」
先生は即座にホワイトボードを見る。
体育館。
受入可能。
毛布。
十分。
飲料水。
問題なし。
先生は迷わなかった。
「受け入れます。」
「ノノミ。」
「はい!」
「体育館を開放。」
「アヤネ。」
「避難者名簿。」
「ホシノ。」
「安全確認。」
「シロコとセリカには。」
「撤退後、そのまま体育館へ向かうよう連絡。」
全員が同時に動き出す。
誰一人。
「どうしましょう。」
とは言わなかった。
それぞれが。
自分の役割へ走り出していた。
部室の隅で。
修司は静かに目を閉じる。
そして。
生命の書を開いた。
ページが。
淡く光を放ち始める。
生命の書が静かに開かれる。
誰にも気付かれることなく。
淡い光がページを照らしていた。
修司は何も語らない。
ただ、その変化を見つめている。
ミコリも隣で静かにページを覗き込んだ。
まだ新しい文字は現れない。
しかし、ページの下部では、これまで表示されていた項目がゆっくりと更新され始めていた。
一方。
部室では、避難者の受け入れが始まっていた。
「こちらへどうぞ。」
ノノミが体育館の入口で高齢者を案内する。
「足元、お気を付けください〜。」
毛布を渡し、椅子へ誘導する。
飲料水も一本ずつ配っていく。
その動きに迷いはない。
隣ではアヤネが受付名簿を広げていた。
「お名前をお願いいたします。」
「付き添いの方はいらっしゃいますか。」
「持病や服薬されているお薬はありますか。」
一つ一つ丁寧に確認しながら記録していく。
受付を終えた住民は、そのまま体育館へ案内される。
流れは途切れない。
「先生。」
アヤネが振り返った。
「現在、二十七名の受け入れを完了しました。」
「体調不良者は?」
「今のところ一名です。」
「軽いめまいとのことですが、意識ははっきりされています。」
「分かった。」
先生は頷く。
「ノノミ。」
「はい〜。」
「休憩スペースを少し広げよう。」
「高齢者を優先で。」
「分かりました〜。」
指示は短い。
その一言だけで十分だった。
ノノミはすぐに体育館へ戻っていく。
---
その頃。
シロコとセリカも学校へ戻ってきていた。
二人とも制服には細かな砂が付着している。
「お帰り。」
先生が迎える。
「現場は。」
シロコが短く答えた。
「第五倉庫前。」
「防砂ネット。」
「まだ倒れていない。」
「でも。」
「時間の問題。」
先生は地図へ印を付ける。
「ありがとう。」
「無事で良かった。」
その言葉に。
セリカは少しだけ目を丸くした。
以前なら。
「応急処置は?」
「もう少し確認できないか?」
そんな言葉が返ってきていた。
今日は違う。
最初に聞かれたのは。
現場のことではなく。
自分たちの無事だった。
「……うん。」
セリカは照れくさそうに答える。
「ちゃんと帰ってきたわ。」
「それでいい。」
先生は自然に笑った。
そのやり取りを見ていたホシノも、小さく口元を緩める。
---
その時だった。
通信端末へ、新しい連絡が入る。
「先生。」
アヤネが画面を見る。
「商店街西通りです。」
「状況は。」
「看板が落下しました。」
部屋の空気が引き締まる。
「けが人は?」
「ありません。」
アヤネはすぐに続けた。
「通行止めを実施済みとのことです。」
先生は静かに息を吐いた。
「なら。」
「今日は現場へ向かわない。」
「はい。」
「明日、安全が確認できてから対応します。」
セリカが思わず尋ねる。
「行かなくていいの?」
先生は頷いた。
「もう通行止めになっている。」
「危険は広がらない。」
「今、私たちが行く意味はない。」
シロコも短く頷く。
「同意。」
状況は整理されていた。
"困っているから行く"
ではない。
"今、自分たちが動く必要があるか"
それを基準に判断している。
---
午後。
砂嵐はようやく弱まり始めていた。
窓を叩く音も、少しずつ小さくなっていく。
体育館では避難してきた住民たちが落ち着きを取り戻していた。
「ありがとうございました。」
一人の高齢男性が先生へ頭を下げる。
「学校が開いていて、本当に助かりました。」
先生も頭を下げ返す。
「皆さんが無事で良かったです。」
「何か困ったことがあれば、遠慮なく声を掛けてください。」
老人は安心したように微笑み、家族の待つ場所へ戻っていった。
その背中を見送りながら、先生は静かに呟く。
「良かった。」
その言葉に、ホシノが隣へ並ぶ。
「先生。」
「何だ?」
「今日は、一回も飛び出さなかったねぇ。」
先生は苦笑した。
「何度も行きたくなった。」
「でも。」
体育館を見渡す。
受付を続けるアヤネ。
住民へ毛布を配るノノミ。
巡回から戻り、外の状況を整理しているシロコとセリカ。
校舎を点検して戻ってきたホシノ。
「私がここにいたから。」
「みんなが安心して動けた。」
ホシノは静かに頷く。
「うん。」
「それが先生の仕事。」
先生はゆっくりと息を吐いた。
「ようやく。」
「少し分かった気がする。」
---
夕方。
避難していた住民たちも順番に帰宅を始めていた。
大きな事故はなかった。
負傷者も出ていない。
部室へ戻った対策委員会の面々は、それぞれ席へ腰を下ろした。
疲労はある。
しかし、誰か一人だけが限界という様子ではなかった。
先生は全員を見回す。
「今日は、本当にありがとう。」
シロコは短く答える。
「当然。」
セリカも肩をすくめる。
「まあ、悪くなかったわ。」
ノノミは優しく笑う。
「皆さんがいたからですよ〜。」
アヤネは受付票を閉じながら言った。
「予定どおりではありませんでした。」
「でも。」
「予定がなくても、皆さんが何をすればいいか分かっていました。」
先生はその言葉を静かに聞いていた。
修司もまた、部室の隅で生命の書を開く。
ページが静かに光る。
---
**案件No.20**
**『アビドス高等学校 対策委員会』**
### 第一段階
**組織改革**
**達成率 100%**
---
### 第二段階
**改善定着確認**
**達成率 100%**
---
光がさらに強くなる。
新たな文字が、ゆっくりと刻まれていく。
---
### 第三段階
**『緊急時運用確認』**
**達成率 31%**
---
さらに、その下へ観測結果が追加された。
---
**緊急対応 成功**
**人的被害 なし**
**指揮系統 維持**
**組織運用 正常**
---
ミコリが静かに微笑む。
「乗り越えましたね。」
修司は生命の書を閉じた。
「いいえ。」
その声は穏やかだった。
「乗り越えたのは、私ではありません。」
修司は部室で談笑する先生と対策委員会へ視線を向ける。
「彼らです。」
窓の外では、夕日に照らされた砂漠が静かに赤く染まっていた。
アビドスは、また一つ試練を越えた。
しかし生命の書は、まだ静かに次のページを待っていた。