先生はモームリ   作:風神ぷー

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ゲヘナ編始まります


第三章 ゲヘナ先生はモームリ
第二十七話 届かない伝言


 

 

白い世界へ、最初に戻ってきたのは音だった。

 

遠くで何かが破裂する。

 

乾いた轟音が静寂を押し退け、少し遅れて足元へ振動が届いた。

 

次に現れたのは、赤く染まった空だった。

 

無数の建物。

 

複雑に交差する高架橋。

 

壁面を覆う派手な看板。

 

通りを行き交う生徒たち。

 

修司が目を開いた時には、世界と世界の狭間を満たしていた白い光は、すでに消えかけていた。

 

代わりに広がっていたのは、騒音と煙に包まれた街だった。

 

道路の向こう側では、一台の車両が黒煙を上げている。

 

そのすぐ横を、買い物袋を持った生徒が平然と通り過ぎていった。

 

少し離れた路地からは怒鳴り声が聞こえる。

 

別の方向では楽器の演奏が始まり、その音を遮るように二度目の爆発が響いた。

 

誰も逃げない。

 

誰も驚かない。

 

立ち止まった者でさえ、音のした方向へ一度顔を向けるだけだった。

 

「世界線000021への接続が完了しました」

 

隣に立つミコリが告げる。

 

修司は、煙を上げる車両へ目を向けた。

 

「負傷者は」

 

「現在、生命反応に異常は確認されていません」

 

「事故でしょうか」

 

「原因は不明です。ただし、周辺の反応から判断すると、緊急事態とは認識されていない可能性が高いです」

 

修司は小さく頷く。

 

断定しない。

 

見えている反応から、可能性だけを示す。

 

それがミコリの報告だった。

 

修司は胸元から生命の書を取り出した。

 

表紙へ刻まれた紋様が淡く光り、ページが静かに開いていく。

 

白紙だったそこへ、黒い文字が浮かび始める。

 

案件No.21。

 

対象世界線。

 

世界線000021。

 

対象地域。

 

ゲヘナ学園。

 

関係組織。

 

風紀委員会。

 

万魔殿。

 

観測された異常。

 

先生への非公式調整業務の集中。

 

組織間連絡の往復増加。

 

責任境界の不明確化。

 

それ以上の情報は表示されなかった。

 

修司はページを見つめたまま尋ねる。

 

「先生の状態は」

 

「現在、緊急措置を必要とする数値ではありません」

 

「勤務時間は」

 

「直近七日間、推奨値を上回っています。ただし、長時間の連続勤務だけが原因ではありません」

 

「他には」

 

「短時間の連絡対応と移動が、断続的に発生しています」

 

ミコリの前へ半透明の画面が開いた。

 

そこへ、昨日一日の移動記録が表示される。

 

シャーレ。

 

風紀委員会本部。

 

万魔殿議事堂。

 

再びシャーレ。

 

再び風紀委員会本部。

 

再び万魔殿議事堂。

 

同じ場所が何度も繰り返されていた。

 

「別々の案件ですか」

 

「一部は別案件です。ただし、同一案件に関する移動も複数確認されています」

 

「一件で何往復しています」

 

「昨日処理された学内行事の調整では、風紀委員会と万魔殿の間を三度移動しています」

 

修司は画面へ視線を落とした。

 

今の情報だけなら、先生が多忙であることしか分からない。

 

重要な案件だった可能性がある。

 

直接説明しなければならない事情があったのかもしれない。

 

双方が通信を使えない状況だった可能性もある。

 

移動の多さを見ただけで、運用が間違っているとは判断できない。

 

「先生の現在位置は分かりますか」

 

「確認します」

 

地図が表示される。

 

一つの反応が、風紀委員会本部から離れていくところだった。

 

「現在、風紀委員会本部を出たところです」

 

「目的地は」

 

「移動方向から、万魔殿議事堂である可能性が高いです。ただし、目的地そのものは確認できていません」

 

「分かりました」

 

修司は生命の書を閉じた。

 

「まず先生に会いましょう」

 

「はい」

 

二人は通りへ歩き出した。

 

     ◇

 

先生を見つけるまで、それほど時間は掛からなかった。

 

大通りへ続く交差点。

 

多くの生徒が行き交う歩道を、一人の男性が早足で進んでいる。

 

片手には薄い書類鞄。

 

もう一方の手には端末。

 

歩きながら画面を確認し、一件の返信を終える。

 

その直後、新しい通知が表示された。

 

男性は足を止めずに内容へ目を通す。

 

交差点を渡り切ったところで着信が入り、すぐに通信へ応じた。

 

「どうしました?」

 

相手の声までは聞こえない。

 

男性は何度か頷きながら歩いていた。

 

「分かりました。今、向かっています」

 

少し間が空く。

 

「そこも確認しておきます」

 

通信が終わる。

 

男性は端末を下ろし、小さく息を吐いた。

 

修司が声を掛ける。

 

「先生」

 

男性は足を止める。

 

振り返った表情へ、はっきりと警戒が浮かんだ。

 

当然だった。

 

見知らぬ成人男性が、自分の役職を知っている。

 

その隣には、少女の姿をした見慣れない人物もいる。

 

男性は書類鞄を身体へ引き寄せた。

 

「どちら様ですか」

 

修司は距離を詰めず、その場で一礼する。

 

「突然申し訳ありません。白石修司と申します」

 

ミコリも続く。

 

「ミコリです」

 

男性の警戒は解けなかった。

 

修司は内ポケットから、派遣認証を表示した端末を取り出す。

 

「シャーレの業務状況を確認するため、連邦生徒会側から派遣されました。俺は組織運営の調査と改善支援を担当します。ミコリは、情報整理と記録を担当しています」

 

男性は認証画面へ目を落とした。

 

派遣元。

 

活動権限。

 

閲覧可能範囲。

 

調査期間。

 

現地向けに必要な情報だけが記載されている。

 

男性も端末を取り出し、認証番号を照合する。

 

しばらくして、正式な認証結果が表示された。

 

「……本物ですね」

 

「はい」

 

「事前の連絡は受けていません」

 

「現地への接続時刻が確定していなかったため、通知が遅れている可能性があります」

 

ミコリが説明する。

 

男性は改めて二人を見る。

 

「黒瀬ユウです。シャーレで先生をしています」

 

「黒瀬先生ですね」

 

「はい」

 

黒瀬はもう一度、修司の認証画面へ視線を落とした。

 

「シャーレの業務状況を確認する、と言いましたね」

 

「はい」

 

「監査ですか」

 

「監査ではありません」

 

修司はすぐに答えた。

 

「誰かの責任や能力を評価するためではなく、実際にどのような業務が行われ、どこへ負担が集中しているかを確認するための調査です」

 

黒瀬は少し考え込んだ。

 

その時、端末が再び鳴った。

 

画面を確認した黒瀬の表情へ、わずかな焦りが浮かぶ。

 

「申し訳ありません。詳しい説明を聞きたいのですが、今は少し急いでいます」

 

「どちらへ向かわれているんですか」

 

「万魔殿です」

 

黒瀬は書類鞄へ視線を落とした。

 

「風紀委員会から返答を預かっています」

 

修司は短く考える。

 

「同行してもよろしいでしょうか」

 

黒瀬は少し驚いたように顔を上げた。

 

「同行ですか」

 

「業務の状態は、資料だけでは分かりません。実際の対応を確認させてください。ただし、機密に関わる場面では席を外します」

 

黒瀬はすぐには答えなかった。

 

初対面の相手を、そのまま業務へ同行させる。

 

認証が本物でも、慎重になるのは当然だった。

 

しかし、立ち止まって説明を続ける時間もないらしい。

 

黒瀬は数秒考えたあと、頷いた。

 

「分かりました。ただし、私から離れないでください」

 

「承知しました」

 

三人は、来た道を反対方向へ歩き始めた。

 

「万魔殿はこちらですか」

 

修司が尋ねる。

 

「はい」

 

「先ほどは風紀委員会本部から来られたのでしょうか」

 

「そうです」

 

「万魔殿から届いた依頼への返答ですか」

 

黒瀬は書類鞄から封筒を取り出した。

 

「明後日、万魔殿主催の記念行事があります。その警備について、今朝になって変更依頼が届きました」

 

「どのような変更ですか」

 

「使用区域を広げたいそうです」

 

「警備範囲も広がる」

 

「そうなります」

 

「風紀委員会は対応できないと」

 

黒瀬は少しだけ首を傾げた。

 

「正確には、現在の人員では対応困難、という返答です」

 

「その書面を万魔殿へ届けているんですね」

 

「はい」

 

修司は封筒を見た。

 

正式な回答書類であることは分かる。

 

それなら通常は、組織間で送付すれば済む。

 

だが、その疑問をすぐ口にはしなかった。

 

通信設備があっても、原本を直接渡す決まりなのかもしれない。

 

説明が必要な内容なのかもしれない。

 

「書類だけでは不足がありますか」

 

修司が尋ねる。

 

黒瀬は苦笑する。

 

「このまま渡すと、たぶん話がこじれます」

 

「どうしてですか」

 

「書き方が少し固いので」

 

黒瀬は歩きながら封筒を開いた。

 

中から回答書を取り出す。

 

上部には、行事警備計画の変更について、と記載されている。

 

その下へ、簡潔な文章が続いていた。

 

現行人員での警備範囲拡大は困難。

 

安全確保の観点から、計画の再検討を求める。

 

「内容自体は明確に見えます」

 

修司が言う。

 

「そうですね。ただ、万魔殿はこれを『風紀委員会が協力を拒否した』と受け取ると思います」

 

「実際には違うのですか」

 

「ヒナは、行事を中止しろとは言っていません」

 

黒瀬は答えた。

 

「人員が足りないなら、何かを変えなければならないと言っています」

 

「何を変えるかは書かれていません」

 

「そこは聞いてきました」

 

黒瀬は書類の余白へ視線を落とした。

 

そこには、手書きのメモが書き加えられている。

 

既存警備区域の縮小。

 

別日程への変更。

 

一般開放区域の制限。

 

追加人員の確保。

 

いくつかの選択肢が並んでいた。

 

「黒瀬先生が書かれたのですか」

 

「はい」

 

「風紀委員会から回答書を受け取ったあとに?」

 

「その場で、ヒナへ確認しました」

 

黒瀬は何でもないことのように答えた。

 

「『対応困難』というのが、絶対に無理という意味なのか。条件が変われば可能なのか。それから、何を一番心配しているのか」

 

「何と答えましたか」

 

「一番の問題は、既存区域の警備を削らなければならないことだそうです」

 

黒瀬は一度、書面へ目を落とす。

 

「万魔殿は、警備範囲を増やすだけだと思っている。でも実際には、今いる人数を別の区域へ動かさなければならない。つまり、新しい場所を守る代わりに、今守っている場所の安全が薄くなる」

 

修司は黙って聞いていた。

 

書面には、そこまで書かれていない。

 

現行人員では困難。

 

安全確保の観点から再検討を求める。

 

文章として間違ってはいない。

 

しかし、風紀委員会が最も伝えたい懸念は、その二行だけでは見えにくい。

 

黒瀬はそれを聞き出し、自分の言葉で整理している。

 

「他にも確認されましたか」

 

「一般開放を取りやめてほしいのか、それとも範囲を狭めれば対応できるのか。追加人員があれば可能なのか。返答期限はいつまでか」

 

「ヒナさんは、最初から説明しなかったのでしょうか」

 

黒瀬はすぐには答えなかった。

 

「説明していない、というより」

 

少し言葉を選ぶ。

 

「ヒナの中では、書面だけで十分伝わる内容なんだと思います」

 

非難する言い方ではなかった。

 

ヒナが怠慢なのでも、説明する能力がないのでもない。

 

彼女は必要な判断を簡潔に記載した。

 

その意味が、相手にも同じように伝わると考えている。

 

「万魔殿側には伝わらない」

 

「おそらく」

 

黒瀬は苦笑した。

 

「以前、似た書面をそのまま渡した時は、マコトが『風紀委員会は行事を妨害するつもりか』と怒ってしまって」

 

「その時はどうされたんですか」

 

「もう一度ヒナへ確認して、マコトへ説明しました」

 

「それで解決した」

 

「はい」

 

黒瀬は書類を封筒へ戻す。

 

その動作は慣れていた。

 

回答を預かる。

 

曖昧な表現を確認する。

 

意図を掘り下げる。

 

相手に誤解されそうな部分を見つける。

 

補足を加える。

 

そこまで終えて、ようやく届ける。

 

黒瀬は、紙を運んでいるだけではない。

 

書類を作った人物の頭の中にある前提を聞き取り、相手が理解できる言葉へ置き換えている。

 

「今回、風紀委員会での確認には、どのくらい掛かりましたか」

 

修司が尋ねる。

 

黒瀬は少し考える。

 

「二十分くらいです」

 

「書面を受け取るだけなら」

 

「数分ですね」

 

残りの時間は、書類に書かれていない意味を聞き取るために使われている。

 

「毎回、同じように確認されるんですか」

 

「必要があれば」

 

「必要になることは多いですか」

 

黒瀬はまた少し考えた。

 

「ゲヘナでは、それなりに」

 

返答は曖昧だった。

 

隠しているわけではない。

 

黒瀬自身が回数を数えていないのだろう。

 

特別な仕事だとも思っていない。

 

ミコリが静かに尋ねる。

 

「黒瀬先生。確認した内容は、書面の正式な追記として保存されていますか」

 

「正式な追記?」

 

「はい。風紀委員会側の記録にも、黒瀬先生が確認された内容は残っていますか」

 

黒瀬は書面の手書き部分を見る。

 

「私のメモには残っています」

 

「風紀委員会の記録には」

 

黒瀬は答えなかった。

 

少し考えたあと、首を横へ振る。

 

「たぶん、残っていません」

 

「では、この補足内容を把握しているのは」

 

ミコリが続ける。

 

「私と、ヒナですね」

 

「現時点では、その二名だけですか」

 

「そうなります」

 

ミコリはそれ以上言わなかった。

 

画面へ何かを記録する。

 

黒瀬は少し気になった様子で尋ねる。

 

「何を記録しているんですか」

 

「確認済みの事実です」

 

ミコリは答える。

 

「正式文書の内容と、黒瀬先生が口頭で確認した補足内容が分かれていること。補足は黒瀬先生の個人メモにのみ記録されていること。万魔殿へは黒瀬先生が対面で説明する予定であることです」

 

「問題があると?」

 

「現時点では判断できません」

 

ミコリは即答した。

 

「同様の対応がどの程度行われているか、他に記録方法があるか確認できていないためです」

 

黒瀬は少しだけ意外そうな顔をした。

 

責められると思っていたのかもしれない。

 

修司はその表情を見ながら、何も加えなかった。

 

一件を見ただけで結論を出すつもりはない。

 

だが、確認すべきことは増えた。

 

黒瀬が聞き取った意図は、正式な記録へ残らない。

 

その意味を理解しているのは、黒瀬と発言した本人だけ。

 

相手へ届く時には、黒瀬の説明として伝えられる。

 

「黒瀬先生」

 

修司が尋ねる。

 

「万魔殿へ着いた後は、どのように説明される予定ですか」

 

黒瀬は少し考え、答えた。

 

「まず、風紀委員会は行事そのものへ反対しているわけではないと伝えます」

 

「書面には書かれていません」

 

「はい。だから私から説明します」

 

「次は」

 

「今の計画のままでは、警備範囲を広げる代わりに別の区域を手薄にしなければならないこと。それを避けるなら、一般開放の範囲を狭めるか、追加人員を用意する必要があること」

 

「追加人員は、風紀委員会が用意するのでしょうか」

 

「そこは、万魔殿にも確認します」

 

「一般開放の目的は確認されていますか」

 

黒瀬は少しだけ目を見開いた。

 

「目的?」

 

「なぜ範囲を広げたいのかです。来場者数を増やしたいのか、混雑を避けたいのか、外部へ開かれた行事にしたいのか。それによって、代替案も変わるのではないでしょうか」

 

黒瀬はしばらく考え込んだ。

 

「……そこまでは聞いていません」

 

「万魔殿で確認されますか」

 

「はい。そのつもりです」

 

自然な返事だった。

 

黒瀬は万魔殿へ書類を渡す。

 

マコトの意図を聞く。

 

要求の背景を整理する。

 

それを再び風紀委員会へ持ち帰る。

 

まだ一往復も終わっていない。

 

それでも、次に発生する確認作業はすでに決まっていた。

 

三人の前方に、万魔殿議事堂が見えてくる。

 

大きな建物の周囲では、記念行事の準備が進められていた。

 

装飾品を運ぶ生徒。

 

案内板を設置する生徒。

 

会場予定地へ線を引く生徒。

 

その一角では、二人の生徒が地図を広げ、何かを言い争っている。

 

黒瀬の端末が鳴った。

 

画面には、風紀委員会からの着信が表示されていた。

 

「どうしました?」

 

黒瀬は通信へ応じる。

 

数秒後。

 

足を止めた。

 

「一般開放区域が、さらに増える可能性があるんですか?」

 

黒瀬は取り出したばかりの封筒を見下ろす。

 

「分かりました。それは、まだ決定ではないんですね」

 

相手の説明を聞く。

 

「はい。向こうでも確認してみます」

 

通信を終えたあと、黒瀬は書面の余白へ新しいメモを加えた。

 

修司はその手元を見る。

 

正式文書が完成したあとも、情報は増え続けている。

 

黒瀬が拾わなければ、相手へ届かない情報が。

 

「追加ですか」

 

修司が尋ねる。

 

「はい」

 

黒瀬は小さく笑った。

 

「少し確認することが増えました」

 

困っているようには見えない。

 

苛立ってもいない。

 

それがいつものことだから、ただ予定を組み替えただけ。

 

黒瀬は書面を鞄へ戻し、再び歩き始めた。

 

修司とミコリも、その後を追う。

 

万魔殿議事堂の入口は、すぐ目の前だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

万魔殿議事堂へ足を踏み入れると、外の喧騒とは別の慌ただしさが広がっていた。

 

資料を抱えて走る生徒。

 

会場図を広げて議論する生徒。

 

壁際には式典で使用する装飾品が積み上げられ、廊下の奥からは誰かを呼ぶ声が飛び交っている。

 

「先生!」

 

一人の生徒が黒瀬へ駆け寄った。

 

「議長がお待ちです!」

 

「ありがとう。」

 

黒瀬は軽く頷き、そのまま応接室へ向かう。

 

修司とミコリも後ろへ続いた。

 

部屋へ入ると、中央の机を挟んでマコトが資料を広げていた。

 

「ようやく来たか、黒瀬先生。」

 

「お待たせしました。」

 

「風紀委員会の返答は。」

 

黒瀬は封筒から書類を取り出す。

 

しかし、すぐには渡さなかった。

 

「その前に、一点だけ確認させてください。」

 

マコトが眉をひそめる。

 

「何だ。」

 

「今回、一般開放区域を広げたい理由は何でしょう。」

 

「理由?」

 

「はい。」

 

「風紀委員会へ説明する時に必要になります。」

 

マコトは少しだけ考えた。

 

「来賓が増えた。」

 

「それだけですか。」

 

「それだけではない。」

 

マコトは椅子へ深く腰掛ける。

 

「今回は他校からも視察が来る。」

 

「閉鎖的な学園だと思われたくない。」

 

「だから会場を広く使いたい。」

 

黒瀬は頷きながら手帳へ短く書き込む。

 

「つまり。」

 

「安全より集客を優先したい、ということではありません。」

 

「ゲヘナの印象を良くしたい。」

 

「そういう理解でよろしいですか。」

 

「……そうだ。」

 

マコトは少しだけ表情を緩めた。

 

「その方が伝わるな。」

 

修司は黙って見ていた。

 

書類はまだ渡されていない。

 

黒瀬はまず、背景を聞いている。

 

「ありがとうございます。」

 

そう言って初めて回答書を机へ置いた。

 

マコトは目を通す。

 

数秒後、眉が動いた。

 

「対応困難……。」

 

「またこの書き方か。」

 

黒瀬は静かに続ける。

 

「風紀委員会は反対している訳ではありません。」

 

「現在の人数では。」

 

「一般開放区域を広げると。」

 

「既存区域の警備を縮小しなければならない。」

 

「そこを懸念しています。」

 

マコトは書類から顔を上げる。

 

「そういう意味なのか。」

 

「はい。」

 

「書面だけでは分かりませんでした。」

 

「だから先生が来たのか。」

 

「そうなります。」

 

修司の視線がわずかに動く。

 

今度は万魔殿側が理解した。

 

しかし。

 

理解したのは書類ではない。

 

黒瀬の説明だった。

 

マコトは腕を組みながら考え込む。

 

「追加人員を出せば解決するのか。」

 

黒瀬はすぐ答えない。

 

「そこは確認していません。」

 

「風紀委員会は。」

 

「追加人員で足りるのか。」

 

「警備計画自体を作り直す必要があるのか。」

 

「その判断までは示していませんでした。」

 

「だから確認する必要があります。」

 

「なるほど。」

 

マコトは納得したように頷く。

 

そして近くの生徒へ声を掛けた。

 

「風紀委員会へ返答を書く。」

 

「承知しました。」

 

生徒が資料を用意し始める。

 

すると黒瀬が口を開いた。

 

「一つお願いがあります。」

 

「何だ。」

 

「『予定どおり実施する』だけではなく。」

 

「どうして実施したいのかも書いていただけませんか。」

 

「理由まで?」

 

「はい。」

 

「風紀委員会は。」

 

「理由が分かれば。」

 

「代替案を考えやすくなります。」

 

マコトは少し考える。

 

「ふむ……。」

 

「来賓対応。」

 

「学園の印象。」

 

「地域交流。」

 

「その辺りを書けばいいか。」

 

「はい。」

 

黒瀬は微笑んだ。

 

「ありがとうございます。」

 

修司はそのやり取りを最後まで見届けた。

 

マコトもまた。

 

最初から説明を拒んでいた訳ではない。

 

何を書けば相手へ伝わるのか。

 

そこまで考えていなかっただけだった。

 

     ◇

 

議事堂を出る。

 

夕方の風が街を吹き抜ける。

 

黒瀬は端末を確認した。

 

「これで一段落ですね。」

 

そう呟いた瞬間だった。

 

端末が震える。

 

黒瀬は苦笑した。

 

「……早かったですね。」

 

通信へ出る。

 

「はい。」

 

しばらく話を聞く。

 

「そうですか。」

 

「分かりました。」

 

通信が終わる。

 

「追加ですか。」

 

修司が尋ねる。

 

「はい。」

 

黒瀬は困ったように笑う。

 

「今度は風紀委員会です。」

 

「一般開放区域について。」

 

「別案があるそうです。」

 

「また戻られるんですね。」

 

「そうなります。」

 

黒瀬は自然に踵を返した。

 

迷いはない。

 

予定変更にも慣れている。

 

「失礼します。」

 

「少し行ってきます。」

 

修司は呼び止めなかった。

 

黒瀬の背中が少しずつ遠ざかっていく。

 

その姿を見送りながら、修司が口を開いた。

 

「ミコリ。」

 

「はい。」

 

「今見たことだけ整理してください。」

 

ミコリは端末を操作する。

 

「本日確認した事実です。」

 

「風紀委員会。」

 

「黒瀬先生は回答書受領後。」

 

「約二十分、内容確認を実施。」

 

「書面にない意図を聞き取り。」

 

「手書きメモとして保持。」

 

「万魔殿。」

 

「黒瀬先生は回答書提出前。」

 

「要求理由を聞き取り。」

 

「相手へ伝える内容を整理。」

 

「双方とも。」

 

「黒瀬先生による補足説明を前提として会話が成立。」

 

修司は静かに頷く。

 

「先生が決定した事項は。」

 

「ありません。」

 

「先生が変更した事項は。」

 

「ありません。」

 

「先生が実施した業務は。」

 

ミコリは少し間を置いた。

 

「相互理解の補助。」

 

「説明内容の整理。」

 

「表現の調整。」

 

「意図の確認。」

 

「追加質問。」

 

「補足説明です。」

 

修司は夕暮れの街を見つめた。

 

「書類は完成しています。」

 

「はい。」

 

「通信手段もあります。」

 

「はい。」

 

「それでも。」

 

修司は黒瀬の背中へ視線を向ける。

 

「先生がいなければ。」

 

「意味が届いていません。」

 

ミコリは静かに頷いた。

 

「現時点では、そのように観測されます。」

 

「原因は。」

 

「まだ判断できません。」

 

「はい。」

 

修司は歩き始める。

 

「今日だけでは足りません。」

 

「明日も見ましょう。」

 

「この状態が偶然なのか。」

 

「それとも。」

 

「組織として定着してしまっているのか。」

 

その答えは、まだ誰にも分からない。

 

遠くでは黒瀬が再び風紀委員会へ向かって歩いていた。

 

書類を抱え。

 

誰かの言葉を。

 

もう一度、別の誰かへ届けるために。

 

その背中を見つめながら、修司は静かに呟いた。

 

「先生は、伝言を運んでいるんじゃない。」

 

少しだけ間が空く。

 

「人の考えを運んでいる。」

 

ゲヘナの夕空へ、小さな爆発音が響いた。

 

誰も空を見上げない。

 

誰も足を止めない。

 

黒瀬もまた、振り返ることなく歩き続けていた。

 

 

 




ゲヘナ編のテーマは組織同士の対立による意思決定の齟齬がメインテーマです。


リアルでもあるあるですね。
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