シャーレの朝は静かだった。
窓から差し込む光が、机の上へ積み上げられた資料を照らしている。
修司は昨夜まとめた報告書を閉じた。
「……ここまでで見えたことは一つ。」
向かいに座るミコリが顔を上げる。
「黒瀬先生は、風紀委員会と万魔殿の間を行き来していました。」
「はい。」
「ですが、それは結果です。」
修司は一枚の紙を机へ置く。
そこには、昨日一日だけで黒瀬先生がやり取りした案件が時系列で並べられていた。
風紀委員会。
万魔殿。
再び風紀委員会。
そしてまた万魔殿。
矢印が幾重にも交差し、一人の名前だけがすべての中心へ書かれている。
――黒瀬先生。
「問題は、この矢印ではありません。」
修司は中央を指差した。
「なぜ、ここに先生がいるのかです。」
ミコリも資料へ目を落とす。
「先生が間に入らないと仕事が進まないから……ではありませんか?」
「本当にそうでしょうか。」
修司は首を横へ振った。
「風紀委員会にはアコさんがいます。」
「万魔殿にはイロハさんがいます。」
「連絡を取る能力がない組織ではありません。」
「確かに……。」
「それでも先生を経由する。」
修司は静かに言う。
「そこに理由があります。」
部屋へ沈黙が落ちた。
昨日見た黒瀬先生の姿が、ミコリの脳裏によみがえる。
書類を受け取る。
内容を確認する。
言葉を補足する。
相手へ説明する。
返答を持ち帰る。
再び説明する。
その姿は秘書でもなく、連絡係でもなく。
まるで二つの組織を縫い合わせる糸だった。
「修司さん。」
「はい。」
「今日は先生へ同行しないんですか?」
「しません。」
即答だった。
「昨日で十分見ました。」
「今日は原因を見ます。」
修司は立ち上がる。
「まずは風紀委員会です。」
◇
ゲヘナ自治区。
風紀委員会本部。
施設へ足を踏み入れると、昨日と同じように慌ただしい空気が流れていた。
制服姿の委員が書類を抱え、通信端末を片手に廊下を行き交う。
誰も立ち止まらない。
誰も無駄話をしない。
規律そのものが建物を歩いているようだった。
「昨日と同じですね。」
ミコリが小さく呟く。
「違います。」
「え?」
「昨日は先生を見ていました。」
「今日は組織を見ます。」
受付で用件を伝えると、ほどなくしてアコが姿を現した。
「昨日に続いてですね。」
「お時間ありがとうございます。」
「構いません。」
アコは二人を会議室へ案内する。
扉が閉まり、外の喧騒が遠ざかった。
「今日は何を?」
修司は単刀直入に切り出した。
「先生を経由する理由を教えてください。」
一瞬だけ、アコの表情が止まる。
「……昨日の視察で何か問題でも?」
「問題があるかどうかを調べています。」
「まだ結論はありません。」
修司は穏やかに答えた。
アコも視線を逸らさない。
数秒の沈黙。
やがて彼女は静かに息を吐いた。
「理由はいくつかあります。」
「一つずつお願いします。」
「まず。」
アコは机へ一枚の書類を置く。
「これは昨日、先生へ預けた依頼書です。」
修司は目を通す。
内容は簡潔だった。
警備配置変更について。
万魔殿への確認依頼。
期限。
担当者名。
それだけ。
「この書類だけでは分かりません。」
「はい。」
「だから先生へ説明しました。」
「その説明は、書面へ残せない内容ですか?」
「残せます。」
即答だった。
修司は少しだけ目を細める。
「では、なぜ書かなかったのでしょう。」
アコは迷わない。
「長くなるからです。」
ミコリが首を傾げた。
「それだけですか?」
「ええ。」
「先生なら説明しなくても理解してくださいます。」
「必要なら補足してくださいます。」
「こちらの意図も汲んでくださいます。」
修司は静かにメモを取る。
『先生の理解力へ依存』
一行だけ書き加える。
「もう一つあります。」
アコは続けた。
「万魔殿から返ってくる回答は、そのままでは現場へ回せないことがあります。」
「理由は?」
「表現です。」
「表現。」
「言い方が強い。」
「前提が省略されている。」
「決定事項なのか提案なのか分からない。」
「担当者によって言葉が違う。」
「そういうことが少なくありません。」
修司は顔を上げた。
「先生なら。」
「整理してくださいます。」
「必要な部分だけを抽出し、誤解のない形で伝えてくださいます。」
「だから先生を通す。」
「はい。」
ミコリは思わず口を開く。
「でも、それって先生のお仕事なんでしょうか……。」
アコは少しだけ困ったように笑う。
「本来は違います。」
「ですが。」
その表情から笑みが消える。
「先生を通した方が、現場が混乱しないんです。」
会議室に静寂が落ちた。
修司はペンを止めない。
『情報整理を先生へ委任』
その文字を書き終えると、静かに次の問いを投げた。
「つまり風紀委員会は、先生がいなければ困りますか。」
アコは少し考えた後、小さく首を振った。
「……違います。」
「困るのは。」
彼女は窓の外で慌ただしく働く委員たちへ視線を向ける。
「現場です。」
「現場……ですか。」
ミコリが静かに繰り返した。
「はい。」
アコは頷く。
「先生がいらっしゃらなければ、仕事そのものはできます。」
「ですが、今より時間がかかります。」
「確認も増えます。」
「そして、現場同士の衝突も増えるでしょう。」
修司はメモを取りながら尋ねる。
「それは万魔殿との衝突ですか。」
「その通りです。」
アコは即答した。
「風紀委員会と万魔殿は、目的が一致していても、優先順位が違います。」
「風紀委員会は治安維持を最優先にします。」
「一方、万魔殿は学園全体の運営や政治的判断を優先します。」
「その違いが、現場では頻繁にぶつかります。」
「ですが先生なら。」
「双方の意図を理解した上で、衝突しない形へ整理してくださいます。」
修司はペンを置いた。
「つまり。」
「先生は調整役ですね。」
「……はい。」
その返答には、どこか申し訳なさが混じっていた。
「ですが、それは先生へ押し付けているという意味ではありません。」
アコは少しだけ表情を曇らせる。
「先生ご自身が、自ら引き受けてくださっています。」
「誰も命令したわけではありません。」
「先生が、『私が行きます』と。」
修司は静かに頷いた。
「なるほど。」
責任を押し付けられているわけではない。
しかし。
誰も止めてもいない。
その違いを、修司は頭の中で整理していた。
「一つ確認します。」
「はい。」
「風紀委員会から万魔殿へ直接問い合わせることは可能ですか。」
「可能です。」
「では、なぜ毎回そうしないのでしょう。」
アコは少しだけ考え込む。
「毎回、というわけではありません。」
「ですが、先生へお願いすることは多いです。」
「理由は?」
「……安心だからです。」
「安心。」
「先生を経由すれば、少なくとも意図は正しく伝わります。」
「言葉尻だけで話が進むこともありません。」
「もし誤解が生まれても、先生が確認してくださいます。」
「だから現場としては安心できるんです。」
ミコリは思わず呟く。
「それって……先生への信頼ですよね。」
「はい。」
アコは頷いた。
「だからこそ頼ってしまいます。」
その一言に嘘は感じられなかった。
先生を便利だから使っている。
そんな冷たい話ではない。
信頼しているから任せる。
その結果として、先生へ仕事が集まっている。
修司はそこへ一本の線を引く。
『信頼による依存』
昨日書いた『理解力への依存』『情報整理の委任』。
そこへ三本目の原因を書き加えた。
部屋へ短い沈黙が流れる。
その時だった。
コンコン。
扉が静かに叩かれた。
「失礼します。」
風紀委員が一人、部屋へ入ってきた。
「アコ委員長。」
「どうしました。」
「万魔殿から返信が届きました。」
そう言って端末を差し出す。
アコは画面を見るなり、小さく眉を寄せた。
「……またですか。」
「何かありましたか。」
修司が尋ねる。
アコは端末を二人へ向けた。
そこには短い文章だけが表示されている。
『前回と同様に対応されたし。』
以上。
「これだけ……?」
ミコリが目を丸くする。
「はい。」
アコは苦笑する。
「これでは何を指しているのか分かりません。」
「担当者へ確認しますか?」
風紀委員が尋ねる。
アコは少しだけ考えた。
そして。
「……先生へお願いしてください。」
その瞬間。
修司のペンが止まった。
「失礼ですが。」
「はい。」
「なぜ担当者へ直接確認しないのでしょう。」
アコは不思議そうな顔をした。
「先生の方が早いからです。」
あまりにも自然な返答だった。
「先生なら誰へ聞けばいいかご存じです。」
「万魔殿側も先生なら説明してくださいます。」
「その方が早い。」
修司は何も言わない。
代わりにミコリが息を呑む。
昨日も見た。
今日も見た。
黒瀬先生がいなくても連絡はできる。
それなのに。
先生がいることを前提に仕事が組み立てられている。
「……修司さん。」
会議室を出た後、ミコリが小さな声で尋ねた。
「どう思いますか。」
修司は資料を閉じる。
「風紀委員会の事情は分かりました。」
「悪意ではありません。」
「現場を円滑に動かすための判断です。」
「ですが。」
一拍置く。
「その判断を積み重ねた結果。」
「先生が組織の一部になっています。」
ミコリは黙って頷いた。
黒瀬先生は教師だ。
本来、組織と組織をつなぐ連絡網そのものではない。
しかし今は。
誰もそれを疑問に思っていなかった。
修司は風紀委員会本部を振り返る。
「次は万魔殿です。」
「風紀委員会だけでは、この構造は完成しません。」
二人は並んで歩き出した。
原因の、もう半分を確かめるために。
万魔殿。
ゲヘナ自治区の中心に建つその庁舎は、風紀委員会本部とはまるで空気が違っていた。
風紀委員会では、誰もが決められた手順に沿って動いていた。
一方、万魔殿の廊下では、職員たちが書類や端末を手に行き交いながら、その場その場で話し合い、判断を変え、また別の場所へ散っていく。
静かではない。
だが、混乱しているわけでもない。
いくつもの思惑が、同じ建物の中で同時に動いている。
そんな空気だった。
「風紀委員会とは、随分違いますね。」
隣を歩くミコリが小さく呟いた。
「はい。」
修司は前を向いたまま答える。
「風紀委員会は、決められた役割を確実に果たす組織です。」
「万魔殿は?」
「その役割自体を決める組織です。」
ミコリはもう一度、周囲へ視線を向けた。
廊下の端では、二人の職員が一枚の書類を挟んで話し込んでいる。
少し離れた場所では、別の職員が端末越しに誰かと交渉していた。
風紀委員会の忙しさが、発生した問題へ対処するためのものなら。
万魔殿の忙しさは、何を問題として扱うかを決めるためのものだった。
受付で名前と用件を伝えると、二人は庁舎の奥にある応接室へ案内された。
室内には、先に一人の少女が待っていた。
棗イロハ。
万魔殿の議員であり、実務の多くを担っている人物だった。
ソファへ座った彼女は、テーブルの上に置かれた書類から顔を上げる。
「どうも。」
「お時間をいただき、ありがとうございます。」
修司が頭を下げると、イロハは軽く手を振った。
「いえ。」
「まぁ、仕事なので。」
どこか気怠そうな声音だった。
だが、机の上の書類はすでに整理されている。
二人が何を聞きに来たのか、おおよその見当はついているのだろう。
「調査の続きですよね。」
「はい。」
修司とミコリが向かい側へ座る。
「今日は、万魔殿が黒瀬先生を経由して風紀委員会へ連絡する理由を確認させてください。」
イロハは少しだけ目を細めた。
「理由ですか。」
「はい。」
「全部の案件が先生経由というわけではありません。」
「承知しています。」
「ただ、少なくない。」
修司が続けると、イロハは否定しなかった。
「……そうですね。」
「多い方だとは思います。」
「なぜでしょう。」
イロハはすぐには答えなかった。
視線をテーブルへ落とし、少しだけ考える。
「一番は、早いからですね。」
「先生を通した方が?」
「はい。」
短い返答だった。
修司は先を促すように黙って待つ。
イロハは小さく息を吐いた。
「先生なら事情を知っていますし。」
「足りないところがあれば、自分で確認してくれます。」
「こちらが一から説明しなくても、大体は察してくれるので。」
ミコリが首を傾げる。
「万魔殿から直接説明することはできないんですか?」
「できますよ。」
「では、なぜ先生へ?」
「その方が楽なので。」
あまりにも自然な答えだった。
ミコリがわずかに言葉へ詰まる。
イロハはその反応を見て、少しだけ付け加えた。
「誤解しないでください。」
「仕事を押し付けたい、というだけではありません。」
「だけ、ではないんですね。」
「……否定はしませんけど。」
イロハは視線を逸らした。
「万魔殿の案件って、途中で担当が変わることが多いんです。」
修司が問い返す。
「人事異動ですか。」
「それもあります。」
「会議へ出る人が変わったり、決裁する人が変わったり。」
「急に議長の指示が入ったり。」
最後の言葉だけ、少し声が低くなった。
修司はそれを聞き流さず、静かに確認する。
「同じ案件でも、説明する人物が固定されていない。」
「そうですね。」
「だから、最初から事情を知っている先生へ頼む。」
「その方が早いので。」
修司は手元の用紙へ書き込む。
『担当変更を先生が吸収』
ミコリがその文字を覗き込んだ。
「吸収……。」
「担当者が変わる度に、本来なら引き継ぎが必要です。」
修司はペンを動かしながら答える。
「ですが、その引き継ぎが不十分でも、黒瀬先生が事情を知っていれば案件は継続できます。」
「つまり先生が、万魔殿の記録代わりになっている?」
「記録そのものではありません。」
修司は首を横へ振った。
「記録が足りない部分を、先生の記憶と判断で補っています。」
イロハは小さく肩をすくめた。
「まぁ、そんなところです。」
修司は顔を上げる。
「問題だとは思いませんか。」
イロハの目が、わずかに修司へ向いた。
責めるような問いではなかった。
ただ事実を確認するための、平坦な声だった。
「思いますよ。」
イロハはあっさりと答えた。
「でも、今すぐ全部直せるかと言われると、面倒ですね。」
「面倒。」
「担当を固定して、記録の形式を統一して、関係者全員へ共有して。」
「その上で、風紀委員会側の窓口も決める。」
「それを毎回守らせる。」
淡々と並べた後、イロハはソファの背へ体を預けた。
「先生に頼む方が早いでしょう?」
その言葉に、ミコリはすぐ反論できなかった。
実際、早いのだろう。
黒瀬先生なら、事情を知っている。
相手の性格も知っている。
どの言葉をどう直せば伝わるのかも分かっている。
仕組みを整えるより、一人の有能な人物へ頼った方が早い。
少なくとも、その場では。
「それが続いた結果。」
修司が口を開く。
「正式な引き継ぎがなくても、仕事が進むようになった。」
「はい。」
「先生がいれば。」
「そうですね。」
「先生がいなければ?」
イロハは少し黙った。
その答えを、考えたことがなかったわけではない。
ただ、今まで口にする必要がなかった。
そんな間だった。
「……止まる案件はあるでしょうね。」
「一時的に?」
「それで済めばいいですけど。」
イロハは机の上の書類を一枚取り上げた。
「例えば、これ。」
修司へ差し出されたのは、昨日も黒瀬先生が扱っていた警備配置変更の資料だった。
「万魔殿の中では、配置変更の方向性だけ決まっています。」
「詳細は?」
「風紀委員会と調整中です。」
「担当者は。」
「最初に作った人は別の会議へ。」
「引き継いだ人は、今朝から視察です。」
「現在の担当は?」
「私です。」
ミコリが資料を見る。
「イロハさんは、この案件を最初から知っているんですか?」
「概要だけです。」
「では、風紀委員会から質問が来たら。」
「先生に聞きます。」
迷いのない返答だった。
ミコリの視線が止まる。
「資料を確認するんじゃなくて?」
「もちろん資料も見ます。」
「でも、書いてないことも多いので。」
「先生なら、その時の話を覚えていますから。」
修司は資料を受け取り、内容へ目を落とした。
警備区域。
人員数。
予定日。
必要な項目は一通り並んでいる。
だが、なぜ変更するのか。
どの条件なら風紀委員会が受け入れるのか。
誰がどこまで了承しているのか。
その部分が抜けていた。
「黒瀬先生へ渡す時は、どのように説明しますか。」
「説明というほどではありません。」
イロハは別の紙を差し出した。
短いメモだった。
『前回の警備配置の件。風紀委員会へ確認をお願いします。』
それだけ。
ミコリが紙と資料を見比べる。
「これで伝わるんですか?」
「先生には。」
「他の人には?」
「多分、無理ですね。」
イロハは平然と答えた。
修司はそのメモを机へ置いた。
「黒瀬先生だけが読める文書になっています。」
「そう言われると、変ですね。」
「イロハさんは変だと思っていなかった?」
「便利だとは思っていました。」
「便利。」
「はい。」
イロハは頬杖をつく。
「先生は、こちらが省いた部分を勝手に埋めてくれます。」
「分からなければ聞いてくれますし。」
「風紀委員会向けに言葉も直してくれます。」
「正直、助かっていますよ。」
声に悪意はなかった。
利用している自覚がないわけでもない。
それでも、頼らずにはいられない。
有能だから。
気が利くから。
断らないから。
イロハにとって、それは罪悪感よりも先に、実務上の選択肢として存在していた。
修司は新たに一行を書き加える。
『説明責任を先生へ委任』
先ほどの『担当変更を先生が吸収』。
二つの言葉が並ぶ。
ミコリはそれを見つめた後、イロハへ問いかけた。
「先生が風紀委員会へ伝えた内容が、万魔殿の意図と違っていたことはありませんか?」
「ありますよ。」
「あるんですか?」
「もちろん。」
イロハは少しだけ面倒そうに答えた。
「先生だって、全部を正確に理解できるわけじゃありません。」
「それで問題には?」
「その時は、また先生に説明します。」
「そして先生が、もう一度風紀委員会へ?」
「はい。」
ミコリは言葉を失った。
修司だけが、静かに確認を続ける。
「万魔殿から直接、訂正はしない?」
「必要ならします。」
「ただ。」
「ただ?」
「先生を通して始めた話なので。」
「途中だけ直接連絡すると、余計にややこしくなるんですよ。」
修司のペンが止まった。
先生を通した方が早い。
だから先生を通す。
一度先生を通したから、途中から直接連絡できない。
その結果、最後まで先生を通す。
便利だから始まった運用が。
いつの間にか、他の手段を使いにくくしていた。
「ミコリさん。」
「はい。」
「記録してください。」
修司は机の上のメモを見つめたまま言う。
「先生を経由することが、先生を経由し続ける理由になっています。」
ミコリはすぐ端末へ打ち込んだ。
イロハはその言葉を聞き、少しだけ目を伏せる。
「……面倒なことになってますね。」
「はい。」
修司は否定しなかった。
「ですが、まだ一つ足りません。」
「何がですか?」
イロハが尋ねる。
修司は応接室の扉へ視線を向けた。
「万魔殿が先生を使う理由は、実務上の都合だけではないはずです。」
その直後。
廊下の向こうから、大きな声が響いた。
「イロハ!」
足音が近づいてくる。
イロハは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……ほら。」
「面倒なのが来ましたよ。」
次の瞬間。
応接室の扉が、勢いよく開かれた。
「例の件はどうなっている!」
勢いよく扉が開く。
応接室へ入ってきたマコトは、修司たちへ気付くと一瞬だけ足を止めた。
「……む?」
イロハは諦めたように肩を落とす。
「議長。」
「来客中です。」
「そんなことは見れば分かる!」
そう言いながらも、マコトは遠慮なく部屋へ入ってくる。
「おお、お前たちか。」
「昨日の者たちだな。」
修司は立ち上がり、一礼した。
「白石修司です。」
「少し調査をさせていただいています。」
「調査?」
マコトは腕を組む。
「何を調べる。」
「先生についてです。」
その一言で、マコトは鼻を鳴らした。
「なら話は早い。」
「先生はどこだ。」
「本日は同行していません。」
「何?」
マコトが眉をひそめる。
「では、誰がヒナへ伝える。」
修司は静かに問い返した。
「何を、でしょうか。」
「決まっている!」
「例の警備配置変更案だ!」
「風紀委員会へ伝えねば話が進まん!」
修司は落ち着いたまま確認する。
「その件は、風紀委員会へ正式な文書として送付済みではありませんか。」
「送った。」
「では。」
「それとは別だ。」
マコトは当然のように言い切る。
「文書だけでは伝わらん。」
「先生なら意図を説明できる。」
「だから先生へ頼むのだ。」
修司は手帳を開く。
「確認します。」
「はい。」
「今回、先生へお願いする内容は。」
「ヒナの反応を見てきてもらうことだ。」
「反応。」
「そうだ。」
「配置変更案を受け入れるのか。」
「どこへ文句を言うのか。」
「譲歩できる条件は何か。」
「それを聞いてくる。」
修司は少しだけ首を傾げた。
「それは正式な照会ですか。」
マコトは一瞬だけ考える。
「……いや。」
「まだだ。」
「正式決定ではない。」
「では。」
「正式決定前の確認ですね。」
「そうだ!」
マコトは胸を張る。
「だからこそ先生が必要なのだ!」
横で聞いていたイロハが、小さくため息をつく。
修司はさらに確認を重ねる。
「先生がヒナ委員長の考えを聞き。」
「その内容を万魔殿へ持ち帰る。」
「はい。」
「その結果を見て。」
「正式な決定にするか判断する。」
「その通り!」
マコトは満足そうに頷いた。
「ヒナの反応も分からぬまま決定などできん!」
「無駄な衝突は避けるべきだからな!」
その言葉に嘘はない。
政治として考えれば、相手の出方を見てから判断すること自体は珍しい話ではなかった。
修司は淡々と記録する。
『正式決定前の調整を先生へ委任』
ミコリも端末へ入力する。
しばらくして、修司が顔を上げた。
「もう一点。」
「何だ。」
「先生は、この調整を行う権限を持っていますか。」
部屋が静かになる。
マコトは数秒考えた。
「権限?」
「はい。」
「万魔殿を代表し。」
「条件を提示し。」
「交渉を進める権限です。」
マコトは即座に首を振る。
「そんなものはない。」
「先生は使者だ。」
「では。」
「先生が現場で判断を求められた場合は。」
「持ち帰ればよい。」
「実際には。」
修司は机へ置かれた資料を一枚開く。
「昨日のやり取りでは。」
「黒瀬先生ご自身が、その場で説明を補足しています。」
「風紀委員会側も、その説明を前提に話を進めています。」
マコトは少し黙った。
代わりに口を開いたのはイロハだった。
「ありますね。」
「そういうこと。」
「先生が判断してるつもりはなくても。」
「現場は先生の言葉を、そのまま万魔殿の説明として受け取ります。」
マコトは腕を組んだまま考え込む。
「……ふむ。」
「別に構わんだろう。」
「先生なのだから。」
その一言で。
修司は静かにペンを止めた。
「議長。」
「何だ。」
「もし先生の説明が。」
「万魔殿の意図と違っていた場合は。」
「誰が責任を負いますか。」
マコトは答えない。
初めてだった。
今まで勢いよく返答していた議長が、言葉を止めたのは。
イロハも視線を落とす。
部屋へ沈黙が流れる。
やがてマコトは腕を組み直し、少しだけ不満そうな声で答えた。
「……その時は。」
「万魔殿で説明し直す。」
「では、その間に。」
修司は続ける。
「風紀委員会が誤った認識で動いた場合は。」
再び沈黙。
マコトは口を開きかけ、閉じる。
代わりにイロハが静かに言った。
「だから先生が、途中で何度も確認してるんです。」
「違うと思ったら聞き返して。」
「説明し直して。」
「また向こうへ行って。」
「……あの人、一人で。」
その言葉は。
昨日、黒瀬先生が何度も往復していた光景と重なった。
修司は手帳を閉じる。
「ありがとうございます。」
「十分です。」
マコトが眉をひそめる。
「何が分かった。」
修司は静かに一礼した。
「万魔殿が先生を信頼していることです。」
「そして。」
「その信頼が、先生へ本来ない責任まで預けていることも。」
その言葉に。
イロハは小さく目を閉じた。
否定はしなかった。
できなかった。
その事実を。
誰よりも実務を担う彼女自身が、一番理解していたからだった。
シャーレへ戻った頃には、窓の外が夕暮れに染まり始めていた。
西日を受けた執務室の床には、机や椅子の影が長く伸びている。昼間は絶えず鳴っていた端末の通知音も今は落ち着き、広い室内には紙をめくる音だけが静かに残っていた。
黒瀬先生は修司とミコリの姿に気付くと、手元の書類から顔を上げた。
「お帰り。二人とも、お疲れ様」
「ただいま戻りました」
修司が答える隣で、ミコリも軽く頭を下げた。
調査へ出た時と比べれば、彼女の表情には明らかな疲労が浮かんでいた。ただ一日中歩き回ったからではない。
風紀委員会と万魔殿。
それぞれの話を聞き、先生を取り巻く状況が、予想していたよりも複雑だと分かったからだった。
「どうだった?」
黒瀬先生は立ち上がると、二人分のカップを用意し始めた。
「何か分かった?」
「はい。想定していたよりも多くのことが分かりました」
修司は鞄を机の横へ置き、中から今日使った資料を取り出した。
「ただ、結論から申し上げると、単純な業務量の問題ではありません」
「単純じゃない?」
「先生が多くの仕事を抱えていること自体は、昨日の視察でも確認できました。ですが、今日調べたのは、なぜその仕事が先生へ集まり続けるのかです」
黒瀬先生はコーヒーを置きながら、少し困ったように笑った。
「みんな忙しいからじゃないかな」
「それも理由の一つです」
修司は否定せず、机の上へ一枚目の資料を置いた。
そこには大きく、『担当変更を先生が吸収』と書かれている。
続けて二枚目。
『説明責任を先生へ委任』
三枚目。
『正式決定前の調整を先生へ委任』
四枚目には、『先生を経由することが、先生を経由し続ける理由になっている』という文章が記されていた。
黒瀬先生は並べられた資料へ目を通し、最後の一枚で視線を止める。
「……ずいぶん大事になってるね」
「はい」
修司とミコリも席へ着いた。
ミコリは端末を開き、今日の聞き取り内容をすぐ確認できる状態にする。
修司は資料を一枚ずつ見渡した後、報告を始めた。
「まず、風紀委員会についてです」
黒瀬先生も姿勢を正し、修司へ向き直った。
「風紀委員会が先生へ依頼する理由は、かなり明確でした。先生なら案件の背景を知っていて、相手側の事情も理解している。細かな説明を省いても意図を汲み取り、不足があれば自分から確認してくれる。その安心感が、先生へ頼ることにつながっています」
「安心感か……」
黒瀬先生は少し照れたように頭をかいた。
「信頼されているということです。ただし、個人として信頼されているだけではありません」
「どういうこと?」
「先生が、業務の流れそのものに組み込まれているということです」
黒瀬先生の表情から、わずかに笑みが消えた。
修司は二枚目の資料を指す。
「本来であれば、依頼を行う側が内容を整理し、必要な情報を揃え、相手へ正確に伝えなければなりません。ところが風紀委員会では、その一部を先生が補うことを前提にしていました」
「でも、それは私が勝手にやっていたことだよ」
「そうかもしれません」
「分かりにくい依頼だったら、聞き直した方が早いし、相手に伝わりにくそうなら、言い方を変えた方がいい。困っている人がいるのに、書類が足りないからできませんとは言えないから」
黒瀬先生の言葉は自然だった。
誰かに強制されて続けていたわけではない。
目の前の仕事を止めないために、自分にできることをやってきた。その結果として、説明不足を補い、判断材料を集め、双方が理解できる言葉へ置き換えていた。
「そこが重要です」
修司は静かに続けた。
「先生が自発的に補うからこそ、周囲はそれを通常の流れとして認識するようになりました。誰かが悪意を持って押し付けたわけではありません。その場で最も早く、最も確実な方法を選び続けただけです」
ミコリが端末へ目を落としたまま口を開く。
「風紀委員会の人たちは、先生に頼れば話が通じると思っていました。先生なら分かってくれるし、分からないところがあれば、自分から確認してくれるからって」
黒瀬先生は小さく頷いた。
「間違ってはいないね」
「はい。間違ってはいません」
修司は肯定した。
「先生へ任せれば、ほとんどの場合は解決します。現場にとっては合理的な判断です。ただ、その合理性によって、依頼を出す側が、最初から十分に説明する必要性を感じにくくなっています」
「私が後から補ってしまうから?」
「先生が最後に整えてくれると分かっているからです」
修司は資料を黒瀬先生の方へ向けた。
「これが、『説明責任を先生へ委任している』という意味です」
「委任……」
黒瀬先生はその言葉を繰り返した。
「少し強い表現に聞こえるけど」
「正式に命じたわけではないので、制度上の委任ではありません。ただ、実際の業務では、先生が説明を完成させています」
依頼書に足りない背景を補う。
誰が何を望んでいるのかを確認する。
相手の立場に合わせて言葉を選び直す。
それらは単なる伝達ではない。
本来ならば、依頼する側が最初に整理しておくべき内容だった。
「先生は伝言役として呼ばれていますが、実際には伝言以上のことをしています」
修司が告げると、黒瀬先生は机へ並ぶ資料を見つめた。
「……確かに、書いてあることだけ伝えることは少ないかな」
「何かしら聞かれるからね。どうして必要なのか、どこまで決まっているのか、誰が承認しているのか。答えられなかったら、また戻って聞いて、それからもう一度説明しに行く」
ミコリは、昨日目にした黒瀬先生の動きを思い返していた。
風紀委員会から万魔殿へ。
万魔殿から再び風紀委員会へ。
その途中でシャーレの業務にも対応し、別の学園から届いた相談へ返事をしていた。
一つ一つの行動だけを見れば、特別に不自然ではない。
誰かの質問へ答え、足りない情報を確認し、もう一度伝えに行く。
しかし、それらが一人へ集中した時、先生は組織間の連絡を維持するために、絶えず動き続けなければならなくなる。
修司は次の資料へ手を移した。
「万魔殿では、さらに別の事情がありました」
黒瀬先生が顔を上げる。
「担当者の変更が多く、案件の経緯が後任へ十分に引き継がれないことがあります。そのため、最初から事情を知っている先生が、事実上の引き継ぎ役になっていました」
「私が、引き継ぎ役に?」
「はい。担当者が変わっても、先生ならそれまでの経緯を覚えている。資料に書かれていない情報も、先生へ確認すれば分かる。そのため万魔殿では、新しい担当者が記録を一から確認するより、先生へ聞いた方が早いという判断が定着しています」
黒瀬先生は、すぐには何も言わなかった。
これまで、万魔殿から何度も似たような連絡を受けてきた。
途中から担当することになった案件。
前任者が残した不十分な記録。
会議の途中で急に変わった方針。
誰かから経緯を尋ねられるたび、覚えている範囲で説明してきた。
だが、それを万魔殿の引き継ぎの一部だと考えたことはなかった。
「イロハさんは、それを問題だと?」
「問題だとは認識していました」
修司は答えた。
「ただし、今すぐ仕組みを直すには、担当者の固定、記録形式の統一、関係者への共有、風紀委員会側の窓口設定など、多くの作業が必要になります」
「だから、私に聞いた方が早い」
「はい」
黒瀬先生は視線を落とした。
責めるような表情はなかった。
イロハが実務の多くを抱えていることを、先生も知っている。あの状況で、最も早く仕事を進める方法を選べば、先生へ尋ねることになるのも理解できた。
だからこそ、簡単に相手を責めることはできなかった。
「困っているなら、教えるしかないと思ってたよ」
「先生にとっては、そうでしょう」
修司は一枚目の資料へ指先を置く。
「ですが、先生が毎回説明している限り、万魔殿は引き継ぎが不十分なままでも業務を継続できます」
「継続できるなら、悪いことではないんじゃないかな」
「短期的には、その通りです」
修司の返答には迷いがなかった。
「仕事が止まらず、関係者も困らない。先生に確認すれば必要な情報が揃うため、改めて記録を整理するよりも早い。現場にとっては非常に効率的です」
そこで言葉を区切り、修司は黒瀬先生をまっすぐに見た。
「ただし、その効率は、先生が過去の経緯を覚えていることを前提にしています」
黒瀬先生は何も言わなかった。
「先生が不在の場合、誰が過去の経緯を説明しますか」
「資料を確認すれば……」
言いかけた声が弱くなる。
机に置かれた警備配置変更の資料には、必要な項目こそ書かれていたが、なぜその変更が必要なのかは記載されていなかった。
誰が提案し、どの条件なら風紀委員会が受け入れるのか。
どの部分まで合意され、何が未決定なのか。
それを知っているのは、話し合いの場に立ち会った人間だけだった。
そして担当者が変わった後、その内容を最も詳しく覚えていたのが黒瀬先生だった。
「……私がいないと、止まる案件がある」
「はい」
修司は簡潔に認めた。
「万魔殿側も同じ認識でした。先生が不在なら、動かなくなる案件がある。しかも、それが一時的な停止だけで済むとは限らないと」
ミコリが端末を確認しながら補足する。
「資料に書かれていない理由や、前の話し合いで誰が何を言ったのか。それを知っている人が見つからなければ、どこから再開すればいいのかも分からなくなるそうです」
黒瀬先生は背もたれへ体を預け、小さく息を吐いた。
「そこまでか……」
「万魔殿にとって、先生は記録そのものではありません」
修司は言葉を選びながら説明した。
「ただ、記録から抜け落ちた部分を、先生の記憶と判断で補っています。担当者が変わるたび、本来必要だった引き継ぎを、先生が吸収している状態です」
「吸収……」
「引き継ぎの不足によって生じる混乱を、先生が受け止めています」
修司は一度資料をまとめ、机の中央へ揃えた。
風紀委員会では、説明不足を補う人。
万魔殿では、引き継ぎ不足を補う人。
両者で理由は異なるものの、共通している部分があった。
組織の中で欠けたものを、黒瀬先生が埋めていた。
「さらに万魔殿では、先生へ正式決定前の調整まで任せています」
修司は三枚目の資料を示した。
「今日、マコト議長から警備配置変更案について話を伺いました。議長は先生に、風紀委員会の反応を確認してもらうつもりでした」
黒瀬先生は少し眉を寄せる。
「正式に決めてからぶつかるより、先にヒナさんの考えを聞いた方がいいからね」
「考え方自体は合理的です」
修司もそこは否定しなかった。
相手の意向を事前に確認し、無用な衝突を避ける。
政治的な調整としては自然な判断であり、何も確認せず決定を押し付けるよりは穏当だった。
「問題は、先生がその調整を行う権限を持っていないことです」
「私はただ、話を聞いてくるだけだよ」
「本当に、それだけでしょうか」
黒瀬先生が口を閉じた。
「ヒナ委員長から条件を出された場合、先生はその内容を確認します。言葉が強ければ意図を汲み、万魔殿へ伝わるように言い換える。逆に、万魔殿側の説明が不足していれば、先生が補足する」
「それは、話を進めるために必要だから」
「はい。その行動によって、実際に話は進んでいます」
修司は静かな口調のまま続けた。
「しかし、先生の言葉を聞いた風紀委員会は、それを万魔殿側の説明として受け取ります。万魔殿も、先生が持ち帰った内容を風紀委員会の意向として扱う」
「つまり先生は、ただ伝えているつもりでも、両組織の判断へ影響を与えています」
ミコリが修司の説明を引き取るように言った。
「なのに、正式に交渉を任されているわけではないんですよね」
「そうです」
修司が頷く。
「マコト議長も、先生には万魔殿を代表して条件を提示する権限はないと話していました」
「でも、現場では先生の説明を前提に話が進んでいる」
ミコリは自分の言葉で整理しながら、戸惑ったように黒瀬先生を見る。
「それって、すごく危なくないですか?」
黒瀬先生はすぐには答えなかった。
これまで何度も行ってきたやり取りだった。
相手の話を聞き、必要な部分を補い、もう一方へ伝える。
互いの主張が食い違えば、また戻って確認する。
誰かが困っているから動き、話が進むまで続ける。
それを危険だと考えたことは、ほとんどなかったのかもしれない。
「もし、私が伝え方を間違えたら」
黒瀬先生がゆっくりと口を開く。
「その時は、もう一度説明するよ」
「実際、これまでもそうしてきましたよね」
「うん」
「ですが、先生が誤りに気付くまでの間、相手はその説明を正しいものとして判断します」
修司の指摘に、黒瀬先生は視線を落とした。
「先生が確認し、訂正し、再び伝えに行くことで、これまでは問題が収まっていました。ただ、それは仕組みが安全だからではありません」
「先生が修正し続けているから、大きな問題になっていないだけです」
執務室に沈黙が広がる。
黒瀬先生の手元にあるコーヒーからは、もうほとんど湯気が立っていなかった。
ミコリは端末へ残した記録を見つめ、今日見聞きした内容を改めて思い返していた。
誰も先生を困らせようとはしていない。
風紀委員会は、先生なら理解してくれると思っている。
万魔殿は、先生なら不足を補ってくれると思っている。
マコトは、先生ならヒナとの間を取り持てると信じている。
イロハは、先生へ頼る方が早く、実際に仕事が進むと分かっている。
そして黒瀬先生自身も、困っている人がいるなら、自分が動いた方がいいと考えている。
全員の判断には、それぞれ理由があった。
だからこそ、誰も止めなかった。
修司は四枚目の資料を手に取り、黒瀬先生の前へ置いた。
「今日の調査で確認できた中で、最も厄介なのはこれです」
黒瀬先生が、書かれた文章を読む。
『先生を経由することが、先生を経由し続ける理由になっている』
「最初は、先生を通した方が早いという判断でした」
修司は言う。
「ところが、一度先生を通して始めた案件は、その後も先生を通さなければ動かしづらくなります。先生が最初の説明を行い、相手からの質問を受け、その回答を持ち帰っているからです」
「途中から別の人が入ろうとしても、経緯が分からない」
「はい。新しく関わる人は、まず先生へ確認しなければなりません」
「だから、また私を通す」
「その繰り返しです」
便利だから先生へ頼む。
先生へ頼んだから、先生しか経緯を把握していない。
先生しか把握していないから、次も先生へ頼む。
効率を求めて始めた運用が、いつの間にか先生を外せない運用へ変わっていた。
黒瀬先生はしばらく資料を見つめた後、自嘲するように笑った。
「私も、それでいいと思ってたな」
「先生も、この仕組みに適応しています」
修司の言葉に責める響きはなかった。
ただ、事実を確認するための声だった。
「最初は詳しい説明が必要だった仕事も、今では相手の名前や案件名を聞くだけで、ある程度は内容を予測できる。誰へ確認し、どの順番で話せばいいのかも分かるようになった」
「慣れた、とは思っていたよ」
「その経験が、さらに先生へ依頼を集中させています」
修司は資料の端を揃えながら続ける。
「周囲から見れば、先生へ頼めば早く解決する。先生自身も、慣れている自分が対応した方が早いと考える。双方の判断が一致しているため、今の仕組みは非常に強固です」
ミコリが小さく息を吐いた。
「誰かが無理やり先生に押し付けているわけじゃないから、問題に気付きにくいんですね」
「そうです」
修司はミコリへ頷く。
「悪意のある誰かを止めれば解決する問題ではありません」
黒瀬先生も、ようやく状況を受け入れるようにゆっくりと頷いた。
「風紀委員会にも理由がある。万魔殿にも理由がある。私にも、引き受ける理由がある」
「その三つが噛み合っています」
「だから、今まで仕事が回ってきた」
「はい」
修司は一度、言葉を切った。
「同時に、だから先生へ仕事が集まり続けています」
窓の外では、日がさらに傾いていた。
夕暮れの色が執務室の奥まで差し込み、机に並べられた資料の文字を赤く照らしている。
ミコリは端末の記録へ新しい見出しを作り、今日分かったことを書き込んでいった。
説明不足。
引き継ぎ不足。
事前調整。
伝達経路の固定。
先生の経験への依存。
それらを並べていくうちに、彼女の手が止まる。
「修司さん」
「はい」
「原因って、今の五つだけですか?」
修司は机に並んだ資料と、手帳に残した記録を見比べた。
風紀委員会で確認したこと。
万魔殿で確認したこと。
そして昨日、黒瀬先生の動きを追いながら気付いたこと。
そこには、まだ整理しきれていない問題が残っていた。
「いいえ」
修司は新しい紙を取り出し、机の中央へ置いた。
「現時点で確認できている原因は、七つあります」
黒瀬先生とミコリの視線が、その白紙へ集まる。
修司はペンを握ったまま、すぐには書き始めなかった。
今日分かったことを並べるだけなら簡単だった。
しかし、同じ現象に見えるものでも、原因が異なれば改善方法も変わる。
一つを直した結果、別の問題が悪化する可能性もある。
どこから手を付けるべきか。
何を残し、何を変えるべきか。
そこまで考えなければ、先生の仕事をただ別の誰かへ移すだけになってしまう。
「残りの二つは、先生自身に関係する原因です」
修司は白紙の上へ、最初の数字を書き込んだ。
『一』
「ここから先は、先生が何をしているかではなく、先生が何を決められないのかを整理します」
その言葉を聞き、黒瀬先生は机に並ぶ資料へ改めて視線を落とした。
説明を補い、引き継ぎを支え、両組織の間を調整する。
それだけ多くの仕事を担いながら、自分が何を決められないのか。
これまで、そのことを深く考えたことはなかった。
ミコリは初めて、今回の改善が単なる仕事の分担では終わらないことを実感していた。
修司が白紙の上へ書いた『一』の文字を、黒瀬先生とミコリは黙って見つめていた。
机の上には、すでに五つの原因が並んでいる。
説明不足。
引き継ぎ不足。
正式決定前の調整。
伝達経路の固定。
先生の経験への依存。
それだけでも、黒瀬先生へ仕事が集まり続ける理由としては十分に思えた。
だが修司は、残りの二つが先生自身に関係する原因だと告げた。
「先生が何を決められないのか……ですか」
ミコリが確かめるように言う。
「はい」
修司は手帳を開き、今日の聞き取り内容を確認した。
「風紀委員会と万魔殿のどちらでも、先生は話を進めるために多くの判断を行っています。ですが、その判断のほとんどは、正式な決定ではありません」
「判断しているのに、決定ではない?」
「先生は、相手へ何を確認すべきかを考えています。どの説明が不足しているのかを見つけ、どう言い換えれば伝わるのかを判断し、両者が受け入れられそうな条件を探している」
修司は三枚目の資料へ指を置いた。
『正式決定前の調整を先生へ委任』
「ここまでの行動は、先生の判断で行われています。しかし、最終的に条件を決める権限は、風紀委員会と万魔殿にあります」
黒瀬先生は静かに頷いた。
「それは当然だよ。私は風紀委員会の委員でもないし、万魔殿の一員でもないから」
「はい。当然です」
修司はすぐに肯定した。
「先生が勝手に両組織の方針を決めることはできません。それ自体は正しい状態です」
「なら、そこに問題があるの?」
「決定権がないことではありません」
修司は新しい紙に、六つ目の原因を書いた。
『責任の範囲が定められていない』
その文字を見て、黒瀬先生がわずかに眉を寄せる。
「責任の範囲?」
「先生は正式な決定を行えません。しかし、話が進まなかった場合、先生がもう一度説明へ行きます。相手が誤解した場合も、先生が訂正します。調整が失敗した場合も、次の案を考えるのは先生です」
「それは、私が間に入っているからね」
「はい。だからこそです」
修司は淡々と続けた。
「先生の権限は、最初から限定されています。ところが責任だけは、話が終わるまで拡大し続けています」
黒瀬先生は反論しかけたが、言葉にはならなかった。
修司の説明は、これまでの仕事とあまりにも一致していた。
万魔殿から依頼を受け、風紀委員会へ伝える。
風紀委員会が難色を示せば、その理由を聞く。
万魔殿へ戻り、条件を伝える。
別の案が出れば、再び風紀委員会へ向かう。
その途中で誤解が生まれれば、どこで食い違ったのかを確認する。
双方の主張が強くなれば、どの言葉なら受け入れられるのかを考える。
自分には、どちらかへ命令する権限はない。
それでも話が終わらなければ、自分が動き続ける。
「先生は、誰かから正式に責任者へ任命されたわけではありません」
修司の声が、静かな執務室へ落ちる。
「それでも実際には、案件がまとまるまで対応を続けています。どこまでが先生の役割なのか、誰も決めていないからです」
ミコリが端末へ視線を落とした。
「断ろうと思えば、断れるんですよね」
「制度上は、可能です」
「でも先生が断ったら、仕事が止まる」
黒瀬先生は苦笑することもなく、机の上を見つめたまま答えた。
「止まると分かっているのに、途中で降りるのは難しいかな」
「それが、責任の範囲が定められていないということです」
修司は先生を責めなかった。
断れない性格だから悪いとも、引き受けるべきではなかったとも言わなかった。
ただ、先生が途中で手を離せない状態に置かれていることを確認していた。
「先生が最初に依頼を受けた時点では、伝言だけだったかもしれません。ですが、質問へ答え、追加の確認を行い、条件を持ち帰った時点で、役割は変わっています」
「なのに、どこから変わったのかは誰も確認していない」
ミコリが言うと、修司は頷いた。
「はい。伝言役が調整役になり、調整役が事実上の進行役になっても、正式な役割は何も変わっていません」
黒瀬先生は椅子へ深く座り直した。
「言われてみれば、いつ終わりなのか分からない仕事は多いね」
「相手へ伝えたら終わりではない?」
「大抵は質問が返ってくるからね。それに答えたら、今度は別の確認が必要になる。話がまとまるまでは、そのまま続けてる」
「誰かへ引き継ぐことは?」
「引き継ごうにも、その人へ最初から説明し直さないといけない。そこまでやるなら、自分で続けた方が早いと思ってしまうかな」
その答えを聞き、ミコリは顔を曇らせた。
先ほど整理した五つの原因が、ここでもつながっている。
説明不足があるから、先生が補う。
先生が補うから、先生しか経緯を把握できなくなる。
先生しか把握できないから、途中で他の人へ渡せない。
他の人へ渡せないから、先生が最後まで責任を負う。
一つずつは別の問題に見えていた。
だが実際には、互いを支え合うように結びついている。
「先生が有能だから成立している仕組みですね」
ミコリが呟く。
「正確には、先生が対応し続けることで成立している仕組みです」
修司は言い直した。
「先生の能力だけではありません。先生が途中で投げ出さず、必要な確認を続け、相手が納得するまで動くことを前提にしています」
黒瀬先生は返事をしなかった。
褒められているわけではないことは分かっていた。
修司が指摘しているのは、先生の善意や責任感を組み込んだ運用だった。
先生が途中で離れないこと。
誰かが困っていれば動くこと。
自分が補えば仕事が進むなら、補うこと。
その行動が繰り返された結果、周囲は先生が最後まで対応するものだと認識している。
誰も明文化していない。
それでも、先生だけは案件から降りられない。
修司は六つ目の紙を、ほかの資料と並べた。
そして最後の一枚を取り出す。
「七つ目は、今日の調査で最も重要だと考えています」
黒瀬先生が顔を上げた。
修司はすぐには紙へ書かなかった。
一度、机の上に並ぶ六つの原因を見渡す。
それから、ゆっくりと最後の言葉を書き込んだ。
『先生だけが決定権を持っていない』
ミコリは、その文章を声に出さずに読んだ。
黒瀬先生も、しばらく黙って紙を見つめている。
やがて、先生が口を開いた。
「だけ、というのは少し違わないかな」
「はい。正確には、案件に関わる主要な人物の中で、先生だけが最終決定権を持っていないという意味です」
「風紀委員会には、風紀委員会の判断権限がある。万魔殿にも、万魔殿の判断権限がある」
「その通りです」
「私は、どちらの決定もできない」
「はい」
修司は七枚目の紙を、机の中央へ置いた。
「ですが、先生は両方の決定に深く関わっています」
風紀委員会の事情を聞く。
万魔殿の意向を確認する。
不足した説明を補う。
相手の反応を予測する。
条件の衝突を見つける。
誤解が起きれば訂正する。
決定が下された後は、その内容を相手へ伝える。
先生は、話し合いのほぼすべてに関わっている。
だが、最後に決めることだけはできない。
「先生は、両組織の決定材料を集めています」
修司は説明を続ける。
「先生の報告を聞いて、風紀委員会も万魔殿も判断します。つまり、先生の説明は決定へ影響しています」
「でも、決定そのものは私のものじゃない」
「はい」
「決まった内容に問題があっても、私が変えることはできない」
「はい」
「それでも、説明するのは私になる」
修司は静かに頷いた。
黒瀬先生は、七枚目の紙から目を離さなかった。
決めることはできない。
だが、決まるまで動く。
決まった後も伝える。
反発が起きれば、再び説明する。
条件に無理があれば、双方へ持ち帰って調整する。
その結果、誰かに不満が生まれた時、最初に向けられるのは先生になる。
「風紀委員会から見れば、先生が万魔殿の案を持ってきます」
修司は続けた。
「万魔殿から見れば、先生が風紀委員会の条件を持ち帰ります。先生はどちらの決定者でもありませんが、どちらからも相手側の窓口として扱われています」
ミコリが小さく声を漏らす。
「決めていないのに、決めた側みたいに見える」
「その可能性があります」
「でも先生は、どちらの組織にも命令できない」
「はい」
「それなら、先生にできるのは何度も説明することだけですか?」
修司は少し考えた後、答えた。
「現在の運用では、そうなります」
その言葉が落ちた後、執務室は再び静まり返った。
窓の外は、すでに夕暮れから夜へ変わり始めている。
机の上には七枚の紙が並んでいた。
説明不足。
引き継ぎ不足。
正式決定前の調整。
伝達経路の固定。
先生の経験への依存。
責任の範囲が定められていない。
先生だけが決定権を持っていない。
ミコリは一枚ずつ読み返した。
「最初は、先生の仕事を減らせばいいと思っていました」
誰へ向けるでもなく、彼女は言った。
「先生がやっている仕事を、風紀委員会と万魔殿へ返せばいいんだって」
「それだけでは解決しません」
修司が答える。
「先生の仕事を減らしても、説明不足と引き継ぎ不足が残っていれば、別の誰かが同じ役割を担うことになります」
「今度はその人が、先生と同じように動き続ける」
「はい」
「じゃあ、先生を通さないようにするだけでも駄目なんですね」
「急に通さなくなれば、今まで先生が補っていた部分が一度に表面化します。話が通じなくなり、確認の回数が増え、かえって両組織の負担が大きくなる可能性があります」
黒瀬先生が、少し心配そうに二人を見る。
「無理に変えなくてもいいんじゃないかな」
ミコリが顔を上げた。
「先生」
「今まで大きな問題は起きていないし、私も慣れている。風紀委員会も万魔殿も、それぞれ忙しいからね。仕組みを変えることで余計に混乱するなら、今のままでも」
「今まで問題が起きていないのは、先生が修正してきたからです」
修司は穏やかだが、はっきりと遮った。
黒瀬先生は言葉を止める。
「先生が確認し、補足し、説明し直してきたから、表面上は問題にならなかった。ですが、それを今後も続けられる保証はありません」
「続けるつもりだよ」
「先生の意思の問題ではありません」
修司は机に並ぶ資料を見た。
「先生が体調を崩すこともあります。別の案件で動けない場合もあります。複数の問題が同時に起きれば、すべてへ対応することはできません」
「それは……」
「先生がどれだけ続けるつもりでも、先生一人を前提にした仕組みには限界があります」
責める声ではなかった。
だからこそ、黒瀬先生も簡単には否定できなかった。
先生が頑張るかどうかではない。
仕組みが、一人の努力を必要としていること自体が問題だった。
ミコリは七枚目の紙へ視線を落とした。
「先生に決定権を渡せば、解決しますか?」
修司はすぐには答えなかった。
黒瀬先生も驚いたようにミコリを見る。
「いや、それは駄目だよ。私は風紀委員会でも万魔殿でもないんだから」
「私も、単純に権限を渡せば解決するとは考えていません」
修司が言った。
「先生へ権限を集中させれば、今度は両組織の判断まで先生へ依存することになります」
「じゃあ、何を変えればいいんですか?」
ミコリの問いに、修司は机の上の紙を一枚ずつ見渡した。
七つの原因は分かった。
しかし、どれも単独では存在していない。
引き継ぎを改善しようとすれば、記録を誰が作るのかを決めなければならない。
説明責任を戻そうとすれば、依頼の形式や窓口を変える必要がある。
事前調整を減らせば、風紀委員会と万魔殿が直接衝突する可能性がある。
先生の責任を限定すれば、途中で案件を引き継ぐ仕組みが必要になる。
一つを動かせば、ほかの原因にも影響する。
「まだ分かりません」
修司は正直に答えた。
「原因が分かったのに?」
「原因が七つあるからです」
修司は七枚の紙を、見やすいように並べ直す。
「すべてを同時に変えることはできません。ですが、一つだけを変えれば、別の部分へ負担が移る可能性があります」
「だから、どこから直すかを決める必要がある」
黒瀬先生が言う。
「はい」
修司は頷いた。
「優先順位を決めます。先生の負担を最も大きくしているものは何か。今すぐ危険なものは何か。変えた時、ほかの仕事へどのような影響が出るのか」
ミコリは端末へ新しい項目を作った。
『改善の優先順位』
だが、その下へ何を書けばいいのかは、まだ分からなかった。
「先生の仕事を減らすだけでは駄目」
ミコリは確認するように言う。
「はい」
「風紀委員会か万魔殿のどちらかを悪いと決めても駄目」
「はい」
「先生に全部決めてもらうのも駄目」
「その通りです」
ミコリは画面を見つめたまま、しばらく黙った。
簡単な答えが一つずつ消えていく。
それでも、不思議と調査前ほど途方に暮れてはいなかった。
何が起きているのかは分かった。
誰か一人の怠慢でも、誰か一人の悪意でもない。
それぞれが自分の仕事を進めようとした結果、先生へ説明と記憶と調整と責任が集まった。
そして先生だけが、その仕事を終わらせる決定権を持っていない。
「修司さん」
「はい」
「改善できますか?」
修司は七枚の紙を見た。
すぐに「できます」と答えることはできなかった。
問題の構造が分かっただけで、解決方法はまだ何も決まっていない。
むしろ原因を知ったことで、安易に変えられないことがはっきりした。
それでも、調査前とは違う。
少なくとも、先生が忙しいという一言だけで片付ける段階は終わった。
「まだ分かりません」
修司は答えた。
「原因が七つあります」
窓の外では、シャーレの建物に夜の灯りが一つずつ点き始めていた。
修司は七枚の紙をまとめず、そのまま机の上へ残した。
問題を忘れないためではない。
次に考えるべきことを、三人で同じ形のまま見るためだった。
「だから次は」
修司は机の中央に置かれた七枚目の紙へ視線を落とす。
『先生だけが決定権を持っていない』
「どこから直すかを考えます」
黒瀬先生とミコリは、それぞれ異なる表情でその言葉を聞いていた。
先生は、自分が続けてきた仕事を初めて仕組みとして見つめていた。
ミコリは、先生を休ませるだけでは終わらない問題だと理解し始めていた。
修司は、七つの原因のどれから手を付けるべきかを考えていた。
誰かを責めるための調査は終わった。
次に必要なのは、誰かへ負担を押し付けることなく、この仕組みを変える方法だった。