夕日は、シャーレの正門を赤く染めていた。
その光の中を、一人の先生が歩いている。
片手には小さな鞄。
背中は真っ直ぐだった。
だが、その足取りは決して軽くない。
まるで一歩進むたびに、自分が置いていくものの重さを確かめているようだった。
リンは、少し離れた場所でその背中を見つめていた。
駆け寄りたい。
呼び止めたい。
今すぐにでも、先生と叫びたかった。
けれど、できなかった。
隣に立つ白石修司が、静かにそれを止めていたからだ。
「走らないでください。」
その言葉が、まだ耳に残っている。
先生へ謝らせない。
修司はそう言った。
リンには、その意味がまだ完全には分からなかった。
ただ一つだけ分かることがある。
自分が今、感情のままに走れば、きっと先生はまた笑う。
そして言うのだ。
ごめんなさい、と。
それだけは、させてはいけない。
修司はゆっくりと歩き出した。
早足ではない。
急いでいない。
だが、迷いもない。
先生との距離を、少しずつ縮めていく。
先生は正門の前で立ち止まった。
まるで、そこを越えればもう戻れないと分かっているかのように。
その背中へ、修司が声をかけた。
「失礼します。」
先生は振り返る。
知らない男が立っていた。
白い髪。
紺色のスーツ。
片手には黒いアタッシュケース。
キヴォトスでは明らかに浮いている装いだった。
「……どなたですか?」
先生の声は穏やかだった。
けれど、その奥に疲労が滲んでいた。
修司は軽く頭を下げる。
「白石修司です。」
「白石、さん。」
「先生専門の経営コンサルタントです。」
先生は瞬きをした。
「……先生専門の、何ですか?」
当然の反応だった。
リンも最初に聞いた時は同じ顔をした。
修司は表情を変えない。
「先生が辞めなくて済む組織を作る仕事をしています。」
先生は少しだけ困ったように笑った。
「すみません。今は冗談を聞ける余裕がなくて。」
「冗談ではありません。」
修司は淡々と答える。
「冗談で退職者の前に立つほど、私は暇ではありません。人類は時々そういう無意味なことをしますが、私は仕事中です。」
先生は言葉に詰まった。
妙に真面目な口調で、妙に失礼なことを言う男だった。
「リンさんが呼んだんですか?」
先生の視線が、後ろのリンへ向く。
リンは一歩踏み出しかける。
だが、修司がわずかに手を上げた。
それだけで、リンは止まった。
修司は先生の視線を遮るように立つ。
「七神リンさんには、まだ話させません。」
「どうしてですか。」
「あなたが謝るからです。」
先生の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「私は……」
「謝る必要はありません。」
修司は言った。
「あなたは職務放棄をしたのではない。」
「限界まで職務を果たした結果、自分を守る判断をしただけです。」
先生は黙った。
夕日が、その横顔を照らしている。
「辞表は確認しました。」
修司はアタッシュケースを足元に置く。
「退職理由は過労。精神的疲弊。継続勤務困難。」
「その通りですか。」
先生は少し迷ってから頷いた。
「はい。」
「三日前に作成されていますね。」
先生の目がわずかに開かれる。
「なぜ、それを。」
「こちらで確認しました。」
「……怖いですね。」
「退職対応では普通です。」
「普通なんですか?」
「普通です。少なくとも、泣きながら引き止めるよりは。」
先生は苦笑した。
その笑みは、さっきまでより少しだけ人間らしかった。
修司は続ける。
「今日は、あなたを説得しに来たわけではありません。」
先生は顔を上げる。
「では、何をしに?」
「確認です。」
「確認?」
「あなたが今、休める状態かどうか。」
風が吹いた。
先生の髪が小さく揺れる。
その言葉を聞いた瞬間、先生の表情が固まった。
「休む……?」
「はい。」
「私は、辞めるんです。」
「存じています。」
「辞める人間が休む必要はありません。」
「あります。」
修司は即答した。
「退職は判断です。休息は処置です。」
「判断と処置を混同すると、だいたい人は壊れます。実に面倒な仕様です。」
先生は何も言えなかった。
リンはその様子を遠くから見ている。
今まで誰も、先生へそんな言い方をしなかった。
辞めないで。
お願いします。
先生が必要です。
そう言うことしかできなかった。
けれど修司は違った。
戻れとは言わない。
必要だとも言わない。
ただ、休めるかと聞いた。
先生のためだけに。
「白石さん。」
先生は静かに口を開く。
「私は、もう先生を続ける資格がありません。」
「なぜですか。」
「生徒たちを置いていこうとしているからです。」
「違います。」
「違う?」
「生徒たちを置いていくのではありません。」
修司は先生の目を真っ直ぐに見た。
「生徒たちの前で倒れる前に、離脱しようとしているだけです。」
先生は息を呑んだ。
修司はさらに一歩近付く。
「倒れてからでは遅い。」
「壊れてからでは遅い。」
「あなたは、最悪の事態になる前に止まった。」
「それは責められる行動ではありません。」
先生の指が、鞄の持ち手を強く握る。
「でも……」
「でも、ではありません。」
修司の声は穏やかだった。
だが、そこには有無を言わせぬ硬さがあった。
「ここから先、あなたに必要なのは反省ではありません。」
「休息です。」
その言葉に、先生は初めて視線を逸らした。
沈黙が続いた。
正門の外では、生徒たちの声が遠く聞こえる。
普段なら何気ないその声が、今の先生には重かった。
守らなければならない声。
応えなければならない声。
助けなければならない声。
その全てが、胸の奥に積み重なっていた。
「休めと言われても。」
先生は小さく呟いた。
「私が休んだら、誰が生徒たちを見るんですか。」
修司はアタッシュケースを開けた。
中から薄い書類の束を取り出す。
「その質問を待っていました。」
「え?」
「良い退職者ほど、最後まで自分がいなくなった後の心配をします。」
修司は書類を一枚差し出す。
先生は反射的に受け取った。
そこには、見慣れない表が書かれている。
『暫定業務分担表』
先生は目を通す。
相談対応。
緊急度Aのみシャーレ直通。
緊急度B以下は各学園窓口へ返送。
部活動・行事案件は実行委員会へ移管。
予算関連は連邦生徒会へ一次集約。
生徒個人の悩み相談は、専門担当を設置するまで受付時間を制限。
戦闘支援は緊急案件のみ。
先生の直接対応は停止。
先生は目を見開いた。
「これを、いつ作ったんですか。」
「先ほどです。」
「先ほど?」
「はい。」
先生は思わずリンを見る。
リンも困惑した顔で首を横に振る。
自分も知らない。
つまり、この男はシャーレを軽く見て回っただけで、ここまで作ったのだ。
「まだ粗いです。」
修司は淡々と言う。
「ですが、二週間を持たせるには十分です。」
「二週間……?」
「最低休暇期間です。」
先生は書類を握る手に力を込めた。
「そんなに休めません。」
「休めます。」
「無理です。」
「無理ではありません。」
「生徒たちが困ります。」
「困らせてください。」
先生の表情が固まった。
リンも息を呑む。
修司は平然としていた。
「組織は、困らないと変わりません。」
「誰か一人が無理をして全てを吸収している限り、周囲は問題に気付けない。」
「あなたが困らせなかったから、シャーレはここまで鈍くなった。」
先生は何も言えない。
修司の言葉は優しくない。
だが、嘘ではなかった。
「先生。」
修司は初めて、その呼び方を使った。
「あなたは優秀です。」
「ですが、優秀すぎました。」
「本来なら現場へ戻すべき案件を受け取り。」
「断るべき相談を受け入れ。」
「休むべき夜に返信し。」
「自分でなくてもいい仕事まで、自分で処理してきた。」
先生の視線が下がる。
「それは優しさです。」
修司は続ける。
「同時に、組織にとっては毒です。」
「毒……。」
「はい。」
「あなたが何とかするたびに、周囲は学習します。」
「先生に渡せば何とかなる。」
「先生なら断らない。」
「先生なら最後まで見てくれる。」
「その結果、あなたは人ではなく処理装置になった。」
先生の肩が小さく震えた。
処理装置。
その言葉は、あまりにも冷たい。
けれど、先生自身が一番理解していた。
最近の自分は、生徒の顔を見る余裕すらなかった。
相談内容を読んでも、感情より先に処理手順が浮かんだ。
誰かが泣いていても、まず次の予定を確認していた。
そんな自分に、先生でいる資格があるのか。
ずっと考えていた。
「私は。」
先生は震える声で言った。
「生徒たちを、ちゃんと見られていなかった。」
「でしょうね。」
修司はあっさり頷いた。
リンが思わず目を見開く。
「白石さん!」
「事実です。」
修司は先生から視線を逸らさない。
「疲弊した人間に、生徒一人一人を丁寧に見る余裕はありません。」
「それでもあなたは見ようとした。」
「だから限界が来た。」
先生の目が揺れる。
「では、私はどうすればよかったんですか。」
「断るべきでした。」
「できません。」
「だから私が来ました。」
修司は静かに言った。
「あなたの代わりに断るために。」
その言葉に、先生は完全に黙った。
リンも、遠くで聞いていたミコリも、何も言わなかった。
修司は書類の二枚目を取り出す。
『先生休暇中の禁止事項』
先生はその文字を見て固まる。
「禁止事項?」
「はい。」
修司は読み上げる。
「生徒からの直接相談対応。」
「深夜の返信。」
「緊急案件以外の作戦支援。」
「書類決裁。」
「謝罪文の作成。」
「自己責任による業務復帰。」
先生は目を瞬かせる。
「最後の項目は何ですか。」
「あなたのような人は、勝手に戻るからです。」
「……戻りません。」
「三日前に辞表を書いて、今日まで持ち歩いていた人の自己申告は信用しません。」
先生は返す言葉を失った。
リンは思わず少しだけ笑いそうになった。
こんな状況で笑うべきではない。
それでも、修司の言い方は妙に的確だった。
「白石さん。」
先生は書類を見つめたまま言う。
「あなたは、私に戻ってほしいわけではないんですか。」
「いいえ。」
「違うんですか。」
「戻るかどうかは、休んだ後にあなたが決めることです。」
修司は言った。
「疲弊した状態での重大決定は、判断の質が落ちます。」
「まず睡眠。」
「次に食事。」
「その後に判断。」
「人間は高尚な理念より先に、血糖値と睡眠時間に支配されています。残念ですが、だいたいそうです。」
先生は小さく息を吐いた。
それは笑いに近かった。
久しぶりに出た、ほんのわずかな笑いだった。
「変な人ですね。」
「よく言われます。」
「先生ではないんですよね。」
「違います。」
「では、何と呼べば?」
修司は少し考える。
「コンサルで構いません。」
先生はぽかんとした。
「コンサル……。」
「はい。」
「では、コンサルさん。」
「はい。」
先生は書類を胸元で握る。
「私は、本当に休んでいいんですか。」
その問いは、あまりにも弱かった。
先生としての言葉ではない。
一人の人間としての言葉だった。
修司は即答した。
「はい。」
「あなたは休んでください。」
「シャーレは、その間に困らせます。」
先生は少しだけ目を伏せる。
「酷い言い方ですね。」
「優しい嘘よりは役に立ちます。」
先生は今度こそ、少しだけ笑った。
正門前の空気が、少しだけ変わった。
先生はまだ戻るとは言っていない。
辞表も撤回していない。
けれど、先ほどまでのような張り詰めた決意は薄れていた。
リンはそれを見て、胸の奥にほんの少しだけ息が戻るのを感じた。
修司は振り返り、リンへ手招きする。
「七神リンさん。」
「は、はい。」
リンは慌てて近付いた。
先生は少し気まずそうに視線を落とす。
今にも謝りそうだった。
修司が先に口を開く。
「謝罪は禁止です。」
先生は固まった。
「まだ何も言っていません。」
「言いそうでした。」
「……はい。」
リンは先生を見つめる。
言いたいことは山ほどあった。
引き止めたい。
謝りたい。
どうして気付けなかったのかと、自分を責めたい。
だが、修司の言葉を思い出す。
謝らせない。
責任を乗せない。
リンは深く息を吸った。
「先生。」
先生が顔を上げる。
「休んでください。」
その一言を言うだけで、喉が震えた。
「シャーレのことは、私たちが何とかします。」
先生の瞳が揺れる。
「リンさん……。」
「戻ってくださいとは言いません。」
リンは言葉を選びながら続ける。
「今は、休んでください。」
「私たちが困ることも、必要なことなんだと思います。」
その言葉に、先生は唇を噛んだ。
何かを堪えるような顔だった。
「困らせてしまいます。」
「はい。」
リンは頷いた。
「困ります。」
先生が目を見開く。
リンは続ける。
「でも、それは先生が悪いからではありません。」
「私たちの仕組みが悪かったからです。」
「だから、困ります。」
「そして、直します。」
先生は何も言えなかった。
修司は二人のやり取りを黙って見ていた。
余計な感動演出を挟まない。
拍手もしない。
涙も誘わない。
人類はすぐ美談にしたがるが、過労は美談にした瞬間だいたい再発する。
少なくとも、修司はそう考えていた。
ミコリが正門近くまで歩いてくる。
淡い桃色の髪が夕日に揺れる。
表情は相変わらず動かない。
「休暇申請書を作成しました。」
空中に小さな画面が浮かぶ。
『先生特別休暇申請』
期間。
十四日間。
理由。
健康回復及び業務環境再構築のため。
承認者。
七神リン。
監督者。
白石修司。
先生はその画面を見て、困ったように笑った。
「用意が早いですね。」
「案件処理中です。」
ミコリは無表情で答えた。
「休暇取得は現時点の最適解。」
「対象者の同意を求めます。」
先生はしばらく画面を見つめていた。
十四日間。
たった二週間。
だが、先生にとっては途方もなく長く感じられた。
その間、生徒からの相談に答えない。
書類を処理しない。
夜中の連絡にも反応しない。
そんなことが、本当に許されるのか。
修司が言う。
「不安ですか。」
「はい。」
先生は正直に頷いた。
「とても。」
「では正常です。」
「正常?」
「真面目な人間ほど、休む時に不安になります。」
「逆に何の不安もなく全てを放り出せるなら、ここまで追い込まれていません。」
先生は苦笑する。
「褒められている気がしません。」
「褒めてはいません。」
「そうですか。」
「評価しています。」
先生は目を瞬かせた。
修司は続ける。
「あなたは最後まで責任を持とうとした。」
「ですが、その責任の持ち方が間違っていた。」
「だから修正します。」
先生は静かに目を閉じる。
長い沈黙。
誰も急かさない。
リンも、修司も、ミコリも。
ただ待った。
やがて先生は、ゆっくりと息を吐いた。
「分かりました。」
リンの表情が明るくなる。
先生は画面へ手を伸ばす。
「休みます。」
その指が、承認欄へ触れた。
画面が淡く光る。
『休暇申請、受理』
ミコリが淡々と告げる。
「先生の休暇取得を確認。」
「十四日間、通常業務から除外します。」
「緊急連絡権限を一時停止。」
「深夜連絡遮断設定を開始。」
先生は驚く。
「そこまで?」
修司は頷いた。
「当然です。」
「でも、緊急時は。」
「本当の緊急時だけ通します。」
「本当の緊急時?」
「世界が滅びる。生徒の生命に即時危険がある。先生本人が判断しないと確実に被害が拡大する。」
「それ以外は緊急ではありません。」
リンは小さく呻いた。
今までなら、ほとんど全てを緊急扱いにしていた。
修司はリンへ視線を向ける。
「この二週間で仕組みを作ります。」
「はい。」
「まず案件を三分類します。」
修司はノートパソコンを開く。
「先生が必ず見る案件。」
「先生が見てもいい案件。」
「先生が見るべきではない案件。」
リンは真剣に頷く。
「相談窓口は各学園へ一次返送。」
「決裁は金額と影響範囲で分ける。」
「生徒の個人相談は受付時間を設定。」
「深夜対応は原則禁止。」
「例外はミコリが判定します。」
ミコリが小さく頷く。
「判定可能。」
先生はその様子を見ていた。
自分がいなくても、話が進んでいく。
本来なら不安になるはずだった。
けれど、今は少し違った。
シャーレが初めて、自分以外の力で動こうとしている。
そのことに、胸の奥がわずかに軽くなった。
「先生。」
リンが静かに言う。
「ちゃんと休んでください。」
先生は困ったように微笑む。
「努力します。」
修司がすぐに口を挟む。
「努力は禁止です。」
先生とリンが同時に振り向く。
「休暇中に努力しないでください。」
「休むのは業務命令です。」
先生は呆気に取られた後、小さく笑った。
「厳しいですね、コンサルさん。」
「十八件分の経験です。」
「十九件目では?」
修司は一瞬だけ目を細める。
「失礼。」
「十九件目です。」
その訂正に、先生は少しだけ笑った。
夕日はさらに沈み、空の色が紫へ変わり始めていた。
先生は正門の外へ向き直る。
今度は逃げるためではない。
休むために。
その背中は、先ほどより少しだけ軽く見えた。
リンは深く頭を下げる。
「いってらっしゃい、先生。」
先生は振り返り、今度は謝らなかった。
「行ってきます。」
そう言って、先生はゆっくりと歩き出した。
その姿が見えなくなるまで、リンはずっと見送っていた。
やがて完全に見えなくなった頃、修司が口を開く。
「さて。」
リンが振り返る。
「ここからが本題です。」
「本題……?」
修司はシャーレ本部を見上げた。
「先生がいない二週間。」
「この組織がどれだけ自力で立てるか。」
「徹底的に洗い出します。」
ミコリが静かに告げる。
「シャーレ業務改善計画、開始。」
リンは息を吸い、背筋を伸ばした。
先生がいないシャーレ。
それは今までなら絶望そのものだった。
だが今は違う。
直すべきものが見えている。
そして、それを直すための男がいる。
白石修司はノートパソコンを開き、最初の指示を出した。
「七神リンさん。」
「はい。」
「全ての未処理案件を集めてください。」
「期限は一時間。」
「まずは、この組織がどれだけ散らかっているのか可視化します。」
リンは頷き、すぐに端末を操作し始める。
その横で、ミコリは生命の書へ手をかざした。
淡い光が、静かにシャーレ全体へ広がっていく。
先生を休ませるための二週間。
そして、シャーレを作り変えるための二週間。
十九件目の案件は、ようやく本当の意味で始まった。
俺にもコンサルしておくれ!(休日仕事なう)