ゲヘナ学園、朝。
先生の執務室には、修司とミコリ、それから黒瀬先生が集まっていた。
机の上には、一枚の画面が表示されている。
昨日まで何度も調整を重ねて完成した、共同案件共有システム。
紙の管理表ではない。
キヴォトスの学内ネットワーク上で利用できる、共同案件専用の共有シートだった。
風紀委員会と万魔殿。
双方が同じ案件を確認できるよう設計されている。
ただし、登録されるのは共同案件のみ。
各組織内部の案件には一切触れない。
修司は最後に画面を確認すると、小さく息を吐いた。
「これで準備は整いました。」
ミコリも画面を覗き込む。
「入力欄も分かりやすいですね。」
「共同案件名、担当部署、現在の進捗、次の対応予定……。」
「余計な項目もありません。」
修司は頷いた。
「現場が迷わないことを優先しました。」
「必要なら、あとから増やせます。」
最初から完璧を目指さない。
まず使ってもらう。
改善点は、そのあと現場から集めればいい。
黒瀬先生も画面を見つめる。
「これを今日から運用するんだな。」
「はい。」
「今日から試験運用です。」
修司は静かに答えた。
「まずは共同案件だけ。」
「問題なく使えるか確認します。」
黒瀬先生は笑った。
「了解。」
「じゃあ、お願いしてくる。」
先生は端末を持ち上げ、執務室をあとにした。
修司はその背中を見送る。
これまでなら、先生が各組織の状況を把握し、それぞれへ説明していた。
だが今日からは違う。
情報は、人ではなく仕組みへ集まる。
その第一歩だった。
◇
風紀委員会。
朝の業務が始まったばかりの執務室。
机には報告書が積み上がり、隊員たちはそれぞれ担当業務へ取り掛かっている。
アコも朝の確認作業を終えたところだった。
「先生?」
執務室へ入ってきた黒瀬先生へ視線を向ける。
「少しいいですか。」
「ああ。」
先生は端末を開いた。
「昨日話していた共同案件共有システムです。」
「今日から試験運用をお願いします。」
画面を見たアコは少しだけ驚く。
「……紙ではないんですね。」
「はい。」
「共同案件だけ、このシステムへ入力してください。」
画面にはシンプルな一覧が並んでいた。
案件名。
担当部署。
進捗状況。
次回対応。
備考。
それだけだった。
「風紀委員会内部の案件は?」
「登録不要です。」
「共同案件だけお願いします。」
アコは画面を数秒眺める。
項目は少ない。
操作も複雑ではない。
「入力方法も簡単ですね。」
「はい。」
「現場の負担を増やさないことを優先しています。」
アコは一度頷いた。
「分かりました。」
「共同案件だけですね。」
「お願いします。」
先生はそれだけ伝えると、それ以上説明しなかった。
今までは違った。
案件の状況。
相手側の進捗。
次の予定。
すべて先生が説明していた。
今日は違う。
入力方法だけ伝え、先生は執務室をあとにした。
アコは画面を見つめながら、小さく呟く。
「……まずは使ってみましょう。」
そう言うと、共同案件の一覧を開き、最初の入力を始めた。
万魔殿。
黒瀬先生が到着した頃には、こちらも朝の業務が始まっていた。
廊下を行き交う生徒たちの間を抜け、先生はイロハのいる執務室へ向かう。
扉を開けると、イロハは机に向かって書類を確認していた。
先生に気づき、顔を上げる。
「先生ですか。朝からご苦労様です。」
「少しお願いがあって。」
「はいはい。今度は何でしょう。」
先生は端末を取り出し、共有シートを開いた。
「昨日話していた共同案件の件です。今日からこれを試したいと思ってます。」
イロハは画面へ目を向ける。
「これが例の?」
「うん。」
先生は簡単に操作方法を説明した。
登録するのは、風紀委員会と万魔殿の双方が関係する案件だけ。
内部案件は対象外。
案件を動かした側が、その時点での進捗を更新する。
入力された内容は、双方から同じように確認できる。
それだけだった。
イロハは画面を操作しながら、一通り項目を確認する。
「なるほど。ずいぶん簡単ですね。」
「複雑にすると続かないから。」
「それはそうですね。ただでさえ仕事は多いですし、これのために仕事が増えたら本末転倒です。」
イロハは一度画面を閉じ、先生を見る。
「それで、私が万魔殿側を?」
「お願いしたい。」
「分かりました。試すだけなら。」
いつもの気怠そうな調子だったが、拒む様子はない。
先生はそれ以上頼み事を増やさなかった。
「ありがとう。」
「いえ。先生が毎回こっちまで来るよりは楽でしょうし。」
その言葉に、先生は少しだけ間を置いた。
「……そうなるといいな。」
「そこを目指してるんじゃないんですか?」
「まあね。」
イロハは再び書類へ視線を戻した。
先生も執務室を出る。
これで準備は終わった。
風紀委員会にはアコ。
万魔殿にはイロハ。
二人を同じ部屋へ集めたわけではない。
顔を合わせて話し合うよう求めたわけでもない。
先生がそれぞれを訪ね、同じ仕組みの利用を個別に依頼しただけだった。
これまでと比べれば、ほんの小さな変更だった。
だが、その小ささが必要だった。
長く続いてきた両組織の関係まで、一日で変える必要はない。
変えるのは、まず情報の流れだけ。
◇
先生が執務室へ戻ると、修司は机に広げていた資料から顔を上げた。
「どうでしたか?」
「二人とも引き受けてくれたよ。」
「そうですか。」
修司はそれ以上聞かなかった。
アコがどういう反応をしたか。
イロハが何と言ったか。
そこは今回の目的ではない。
使われるかどうか。
見るべきなのは、その一点だった。
ミコリが共有シートを開く。
「もう一件入っています。」
「早いですね。」
画面には新しい行が追加されていた。
共同案件番号、G-001。
風紀委員会と万魔殿の双方が関係する、校内イベント開催区域の警備調整。
登録者はアコ。
担当欄には『風紀委員会』。
現在地には『警備計画作成中』。
次担当には『万魔殿』と入力されている。
先生が画面を見る。
「アコか。」
「はい。」
修司も内容を確認する。
記入漏れはない。
書き方にも問題はなかった。
「まず一件ですね。」
ミコリが言う。
修司は頷く。
「はい。」
それだけだった。
達成したわけではない。
仕組みが定着したわけでもない。
まだ一件入力されただけだ。
三人はそれぞれの仕事へ戻った。
十分ほど経った頃。
ミコリが再び画面へ目を向けた。
「あ。」
修司も確認する。
G-001の表示が変わっていた。
『警備計画作成中』
その下に、新しい更新履歴が追加されている。
更新者、イロハ。
『開催区域資料確認済。万魔殿側の使用予定を追記』
先生は何もしていなかった。
アコから連絡を受けてもいない。
イロハへ伝えてもいない。
それでも、情報は片方からもう片方へ届いていた。
ミコリは画面を見つめた。
「……更新されましたね。」
「はい。」
修司もそれだけ答えた。
今ここで成果を大きく語る必要はない。
一件目が動いただけだ。
ただ、その一件は昨日までとは明確に違っていた。
先生が覚えなくても。
先生が説明しなくても。
先生が二つの組織を往復しなくても。
風紀委員会が入力した情報を、万魔殿が確認できた。
そして万魔殿が加えた情報も、同じ場所に残っている。
黒瀬先生は自分の端末に表示された更新履歴を眺めた。
これまでなら、この程度の確認だけでも自分のところへ連絡が来ていた。
アコから状況を聞き。
万魔殿へ行き。
イロハへ説明する。
あるいは、その逆。
一件なら大した手間ではない。
だが、それが五件、十件と重なれば、一日のかなりの時間を奪われる。
今日は、その最初の一件を何もしなかった。
「……楽だな。」
先生がぽつりと言った。
ミコリが先生を見る。
「まだ一件ですよ。」
「分かってる。」
先生は苦笑した。
「でも、一件分は何もしなくて済んだ。」
修司は共有シートに表示された二つの更新履歴を見る。
風紀委員会。
万魔殿。
直接会話したわけではない。
関係が改善したわけでもない。
ただ、同じ情報を見る場所が一つできた。
今はそれでいい。
修司は時計を確認した。
午前九時を少し回ったところだった。
試験運用の一日は、まだ始まったばかりだった。
午前十時。
試験運用を始めてから一時間ほどが経過していた。
共同案件共有シートには、最初のG-001に続いて二件の案件が追加されていた。
G-002。
万魔殿主催行事に伴う、周辺道路の一時使用。
G-003。
学園共用施設で発見された破損設備への対応。
どちらも、一方の組織だけでは処理できない案件だった。
先生は自分の端末から一覧を眺める。
三件。
それぞれの担当と現在地が、一つの画面に収まっている。
以前なら、この情報は一か所には存在しなかった。
風紀委員会へ行けば、風紀委員会側の状況は分かる。
万魔殿へ行けば、万魔殿側の状況は分かる。
そして、その二つを繋いでいたのが先生だった。
今は違う。
「G-002、動きました。」
ミコリの声に、先生が画面を見る。
万魔殿側から登録された案件だった。
登録者、イロハ。
『行事開催予定 十三時~十七時』
『使用予定区域 中央通り東側』
『次担当 風紀委員会』
そこへ新しい更新履歴が追加されている。
更新者、アコ。
『該当時間帯の巡回経路を変更。警備人員確認中』
先生は画面を見ながら口を開く。
「イロハから連絡は?」
「来ていません。」
修司が答えた。
「アコからも?」
「ありません。」
先生は椅子へ背中を預けた。
「ちゃんと見てるんだな。」
「共同案件ですから。」
修司は淡々と答える。
「自分たちに関係する案件だけ確認すればいい形にしています。」
すべての情報を共有しているわけではない。
風紀委員会内部の警備案件。
万魔殿内部の行政案件。
それらは従来通り、それぞれの組織で管理する。
共有するのは、境界を越える案件だけ。
だから確認する側にも大きな負担はない。
先生はG-002の更新履歴を追った。
イロハが登録した。
アコが確認した。
アコが風紀委員会側の対応を書き込んだ。
そこに先生の名前は一度もない。
「今までだったら?」
ミコリが尋ねる。
先生は少し考えた。
「まず万魔殿から俺に話が来るかな。」
「それから?」
「風紀委員会へ行って、道路を使う時間と場所を説明する。」
「たぶんアコから警備の都合を聞かれて、それを確認して……必要ならまた万魔殿へ戻る。」
言葉にしてから、先生自身が苦笑した。
「結構やってるな、俺。」
修司は否定しなかった。
一つ一つは数分で終わる。
だが、共同案件が増えるほど往復も増える。
そして先生自身が案件の当事者でなくても、その間に立たなければ情報が流れない。
今回、その部分だけが消えていた。
「先生。」
ミコリが画面を指した。
「また更新されました。」
G-002。
イロハによる追記。
『巡回経路変更確認。行事担当へ共有済』
そこで更新は止まった。
先生が説明する必要はなかった。
アコがイロハへ連絡したわけでもない。
イロハがアコへ連絡したわけでもない。
それでも、双方が必要な情報を得て、それぞれ自分の組織内で仕事を進めている。
修司は時刻と更新内容だけを手元の記録へ残した。
評価はまだしない。
一件うまくいったからといって、仕組みが定着したことにはならない。
今はただ、運用を見る。
それが今日の仕事だった。
◇
同じ頃。
風紀委員会の執務室。
アコは通常業務の合間に共有シートを開いた。
G-003の状態が更新されている。
『共用施設 給水設備破損』
登録者は風紀委員会側。
現場確認を終え、設備の使用停止までは済ませてある。
その後の修繕手配は万魔殿側の管轄だった。
画面にはすでに追記があった。
『修繕業者への連絡済。到着予定十四時』
アコは時刻を見る。
「十四時……。」
現場の封鎖を続ける時間が分かった。
それだけ確認すると、担当隊員へ連絡を入れる。
「共用施設の封鎖は十四時まで継続してください。修繕担当が到着後、現場を引き継ぎます。」
『了解しました。』
通信を切る。
先生には連絡しなかった。
する理由がなかった。
必要な情報は、すでに画面に書かれている。
アコは次の書類へ手を伸ばした。
数秒後。
一度止まる。
共有シートへ戻り、G-003を更新した。
『十四時まで現場封鎖継続。修繕担当到着後に引継予定』
入力を終える。
保存。
それだけだった。
「……これでいいんですよね。」
誰に確認するでもなく呟き、通常業務へ戻った。
◇
万魔殿。
イロハの端末にも、同じ更新が表示されていた。
「十四時まで封鎖……。」
修繕業者の到着予定と一致している。
なら、追加の調整は必要ない。
イロハはG-003の状態を『引継待ち』へ変更した。
そのまま別の書類を開こうとして、手を止める。
画面の端には、更新された時刻が表示されていた。
「これ、いつ書かれたか分かる方が便利ですね。」
今のシートでも最新情報は分かる。
しかし、案件が増えれば「この情報が今朝のものなのか、十分前のものなのか」が重要になる。
イロハは備考欄へ短く入力した。
『更新日時が自動表示されると助かります』
保存。
それ以上は触らない。
システムを作り直すのは自分の仕事ではない。
使っていて不便だったことだけ残す。
再び通常業務へ戻った。
◇
先生の執務室。
ミコリが新しい書き込みに気づいた。
「修司さん。」
「はい。」
「要望が入っています。」
修司は画面を確認する。
『更新日時が自動表示されると助かります』
その一文を読み、手元の改善記録へ追加した。
黒瀬先生が覗き込む。
「もう改修する?」
「しません。」
修司は即答した。
「今日は運用する日です。」
「一つ要望が出るたびに変えていたら、何が使いやすくて何が使いにくいのか分からなくなります。」
「じゃあ今日は集めるだけ?」
「はい。」
修司は記録の横へ時刻を書き込んだ。
「一日使ってもらいます。」
「そのあと、必要なものだけ反映します。」
先生は納得して画面へ視線を戻した。
共有シートでは三件の共同案件が動いている。
完璧ではない。
すでに改善要望も一つ出た。
それでも仕事は止まっていなかった。
そして何より。
午前十時を過ぎても、先生の端末には共同案件についての問い合わせが一件も届いていない。
先生はそれを口にしなかった。
修司も指摘しなかった。
まだ午前中だ。
成果を語るには早すぎる。
ただ、昨日までなら何度も鳴っていたはずの端末が、今日は静かなままだった。
その事実だけが、試験運用の変化を淡々と示していた。
昼を過ぎる頃には、共有シートに登録された共同案件は五件になっていた。
G-001。
校内イベント開催区域の警備調整。
G-002。
万魔殿主催行事に伴う周辺道路の一時使用。
G-003。
学園共用施設の破損設備対応。
そして午前中に追加された二件。
どれも風紀委員会と万魔殿、双方の対応を必要とする案件だった。
黒瀬先生は昼食を取りながら、端末に表示された一覧を眺めていた。
案件が増えても、先生が把握しなければならない情報は増えていない。
正確には、把握しようと思えばできる。
共有シートを開けば、五件すべての状況が分かる。
だが、覚えておく必要がない。
「先生。」
向かいに座る修司が声を掛ける。
「はい?」
「さっきからずっと見ていますね。」
先生は画面から顔を上げた。
「……やっぱり気になるんだよ。」
「何がですか?」
ミコリが尋ねる。
「ちゃんと回ってるかなって。」
先生は共有シートを指した。
「今までは俺が間に入ってたから、どこで止まってるか分かったんだ。」
「でも今日は何もしてないだろ?」
「だから逆に落ち着かない。」
修司は少し考えてから尋ねた。
「止まっている案件はありますか?」
先生は画面を見る。
五件。
進行中。
確認待ち。
引継待ち。
完了。
それぞれ現在地が表示されている。
「……ないね。」
「なら、今はそれで十分です。」
修司はそれ以上何も言わなかった。
先生も端末を机へ置いた。
何もしないことに慣れる。
それも今回の試験運用の一部なのかもしれなかった。
◇
午後一時過ぎ。
共有シートに最初の『完了』が表示された。
G-001。
校内イベント開催区域の警備調整。
午前中にアコが警備計画を登録し、万魔殿側が使用予定を追記していた案件だ。
最後の更新者はアコ。
『警備配置確定。調整完了』
状態。
『完了』
先生はその案件に一度も関わっていない。
最初にシステムの利用を依頼しただけだった。
途中経過の確認も。
情報の伝達も。
双方への説明もしていない。
それでも一件の共同案件が終わった。
「完了しましたね。」
ミコリが言った。
先生も画面を見る。
「うん。」
修司は手元の記録へ時刻を書き込んだ。
十三時七分。
共同案件一件完了。
それだけを記録する。
「もっと喜ばないの?」
先生が尋ねる。
「まだ一件です。」
「ミコリと同じこと言うなぁ。」
「事実ですから。」
修司は淡々と答えた。
だが、記録する手は止めなかった。
一件でも、これまでとは違う形で仕事が完了した。
それは事実だった。
◇
午後二時。
G-003の修繕担当が共用施設へ到着した。
風紀委員会側が現場を引き渡し、万魔殿側の手配した業者が作業を開始する。
その情報も共有シートへ反映された。
『現場引継完了』
続いて、
『修繕作業開始』
先生への報告はない。
必要もなかった。
アコは自分の端末で引継完了を確認すると、担当隊員を別の巡回へ戻した。
イロハは同じ画面で作業開始を確認し、修繕完了予定時刻を追記する。
双方が見ているのは同じ案件だった。
しかし、会話はない。
アコは風紀委員会で自分の仕事をしている。
イロハは万魔殿で自分の仕事をしている。
相手と関係を深めたわけではない。
歩み寄ったわけでもない。
ただ、必要な情報だけが同じ場所に置かれていた。
それだけで、今まで先生が担っていた連絡の一部が必要なくなっていた。
◇
午後三時前。
二つ目の改善要望が追加された。
今度は風紀委員会側からだった。
『完了案件と進行中案件を分けて表示できませんか』
共有シートに案件が増えたことで、すでに終わったものまで一覧へ残り続けている。
五件程度なら問題ない。
だが、十件、二十件と増えれば探しにくくなる。
修司はその内容も改善記録へ追加した。
ミコリが一覧を見る。
「これは必要そうですね。」
「そうですね。」
「でも、まだ変えない?」
「はい。」
修司は頷いた。
「今日の運用が終わってから判断します。」
その直後。
もう一つ書き込みが追加された。
『次にどちらが動くのか、もう少し分かりやすくしてほしいです』
修司はそれも記録する。
先生が横から覗き込んだ。
「結構出てきたね。」
「使っているからです。」
修司は答えた。
「使わなければ、不便なところも分かりません。」
ミコリは共有シートと改善記録を見比べる。
「昨日、三人で考えていた時には出なかったものばかりですね。」
「はい。」
修司は画面を見る。
「作る側が想像する使いやすさと、使う側が感じる使いやすさは違います。」
だから試験運用が必要になる。
会議室だけで完成させようとすれば、現場に合わない仕組みになる。
実際に使ってもらい、不便な部分を直す。
その繰り返しで、初めて仕組みは現場のものになる。
◇
午後三時半。
先生は共有シートを閉じ、別の仕事へ戻っていた。
午前中は何度も確認していたが、今は必要な時だけ見るようになっている。
その時。
端末に着信が入った。
先生は反射的に画面を見る。
風紀委員会からだった。
一瞬だけ手が止まる。
試験運用を始めてから初めての、共同案件に関する連絡かもしれない。
通話を取る。
「はい、先生です。」
『先生、お疲れ様です。』
風紀委員会の隊員だった。
『明日の巡回予定について確認したいのですが。』
「明日の巡回?」
『はい。北側区域の担当変更についてです。』
先生は少しだけ肩の力を抜いた。
共同案件ではない。
風紀委員会内部の通常業務だった。
「それならアコに確認した方がいいよ。」
『分かりました。ありがとうございます。』
通話が切れる。
先生は端末を机へ戻した。
ミコリがその様子を見ていた。
「共同案件じゃなかったですね。」
「うん。」
先生は少し笑った。
「電話が来た瞬間、つい身構えた。」
修司は時計を見る。
試験運用開始から、すでに六時間近くが経過している。
その間。
共同案件について先生へ直接確認された回数。
ゼロ。
修司は記録用紙へ、その数字を書き加えた。
先生がそれに気づく。
「それも記録するの?」
「今回、一番確認したい数字ですから。」
「なるほど。」
先生は共有シートを開く。
五件の共同案件。
一件完了。
四件進行中。
情報の更新は続いている。
誰かが止まっているわけでもない。
「……本当に、来ないな。」
先生が呟いた。
昨日までは当たり前だった。
先生に聞く。
先生が確認する。
先生が伝える。
それが今日は、一度も起きていない。
風紀委員会と万魔殿の関係そのものは何も変わっていない。
ヒナとマコトの関係も変わっていない。
アコとイロハが直接話すようになったわけでもない。
変えたのは、ただ一つ。
情報の置き場所。
それだけだった。
それでも、仕事の流れは確かに変わっていた。
修司は共有シートの更新履歴を確認する。
今日一日で何度も積み重なった、風紀委員会と万魔殿の記録。
そこに先生の名前はなかった。
「先生。」
「ん?」
「今日は、もう少し任せてみましょう。」
先生は一瞬だけ共有シートを見る。
そして端末を伏せた。
「そうする。」
午後の試験運用は、そのまま続いていった。
誰かが劇的に変わったわけではない。
対立がなくなったわけでもない。
ただ、先生が動かなくても共同案件が進む時間が、少しずつ長くなっていた。
夕方。
試験運用を始めてから、ほぼ一日が経過していた。
共有シートに登録された共同案件は六件。
完了が二件。
進行中が三件。
翌日へ継続が一件。
そして、先生への共同案件に関する問い合わせは最後まで一件もなかった。
修司はその結果を確認してから、今日一日の改善記録を開いた。
「では、整理します。」
黒瀬先生とミコリも机へ集まる。
画面には、今日実際にシステムを使った現場から寄せられた意見が並んでいた。
更新された時刻が分かりにくい。
完了案件が一覧へ残り続ける。
次にどちらの組織が動くのか、一目では分かりにくい。
他にも細かな意見はいくつかあったが、似た内容はまとめられている。
先生が画面を見る。
「思ったより少ないね。」
「一日目ですから。」
修司は答えた。
「それに、要望が少ないこと自体を成功とは判断できません。」
「使い続けて初めて分かることもあります。」
ミコリが改善記録を確認する。
「今日直すのは、この三つですか?」
「そのつもりです。」
修司は最初の項目を開いた。
「まず更新日時。」
共有シートの各案件には、最新の更新日時が自動表示されるようにする。
誰かが内容を書き換えるたび、時刻も更新される。
これなら、表示されている情報がいつのものなのか確認できる。
次に完了案件。
現在は進行中の案件と同じ一覧に残っている。
これを完了へ変更した時点で、別の一覧へ自動的に移す。
削除はしない。
必要になれば、過去の案件として確認できるように残す。
最後は次担当。
現在も項目自体は存在しているが、一覧の中では目立たない。
「これは表示位置を変えます。」
修司は画面上で配置を入れ替えた。
案件名。
現在地。
次担当。
更新日時。
詳細を開かなくても、最低限必要な情報が並ぶ。
ミコリが確認する。
「これなら、次にどちらが動くかすぐ分かりますね。」
「はい。」
「ただし項目そのものは増やしません。」
先生が画面を眺める。
「昨日作った時より、もう変わったな。」
「当然です。」
修司は保存する前に、もう一度全体を確認した。
「昨日作ったものは、私たちが使いやすいと思った形です。」
「今日のこれは、実際に使った人の意見が入った形です。」
先生はその言葉に少し考え込む。
「なるほど。」
「俺たちだけで完成させちゃ駄目なんだ。」
「はい。」
修司は頷いた。
「最終的に使うのは、私たちではありませんから。」
修司が更新を確定する。
画面の隅に表示されていたバージョン表記が変わった。
**共同案件共有シート Ver.1.1**
大きな変更ではない。
機能を増やしたわけでもない。
今日一日で見つかった不便を、三つ直しただけだった。
だが、それで十分だった。
◇
修司たちは、変更した内容をそれぞれの組織へ伝えることにした。
先生がまず向かったのは風紀委員会だった。
朝と同じように、アコのいる執務室を訪れる。
アコは一日の報告をまとめているところだった。
「先生。」
「お疲れ様です。」
「試験運用、ありがとうございました。」
先生は共有シートを開く。
「今日出た意見を反映しました。」
アコも自分の端末で確認する。
「もうですか?」
「大きな変更じゃないよ。」
先生が説明するより先に、アコは画面を操作した。
完了案件。
進行中案件。
表示が分かれている。
次担当も以前より見やすい。
そして更新日時。
一通り確認すると、アコは小さく頷いた。
「これなら、午前中より確認しやすいですね。」
「明日もこのまま使ってもらえますか?」
「構いません。」
アコは答える。
「共同案件だけなら、今のところ通常業務への影響もほとんどありません。」
先生はその言葉を聞いて、少し安心した。
便利かどうかだけではない。
現場の負担になっていないか。
修司が最初から気にしていた部分だった。
「何かあったら、備考に書いておいてください。」
「分かりました。」
先生はそれ以上説明せず、風紀委員会をあとにした。
◇
次に向かったのは万魔殿だった。
こちらでもイロハは一日の仕事を片付けているところだった。
先生が来たことに気づくと、端末から顔を上げる。
「また先生ですか。」
「またです。」
「今日はよく来ますね。」
「これで最後。」
先生は共有シートの更新を伝えた。
イロハは自分の端末からVer.1.1を開く。
「……更新日時、付いたんですね。」
「要望があったから。」
「仕事が早いことで。」
画面を軽く操作する。
「完了したものが別になるのもいいですね。ずっと残っていると、そのうち面倒になりそうでしたし。」
「明日も使えそう?」
先生が尋ねる。
イロハは少し考えた。
「まあ、これくらいなら。」
「共同案件が来た時だけ見ればいいんですよね?」
「うん。」
「それなら問題ないです。」
イロハは再び書類へ視線を戻しかけて、ふと止まった。
「先生。」
「なに?」
「今日、あの件で私から先生に何か聞きましたっけ?」
先生は一瞬考えた。
「……いや。」
「ないね。」
「ですよね。」
イロハはそれだけ確認すると、今度こそ書類へ戻った。
「じゃあ、少しは楽になったんじゃないですか。」
先生は答えるまでに少し間を置いた。
「うん。」
「思ってたよりね。」
「それは何よりです。」
イロハの反応は、それだけだった。
仕組みが画期的だと褒めることもない。
両組織の関係が変わったと評価することもない。
ただ、仕事が少し楽になった。
現場にとっては、それで十分だった。
◇
先生が戻った頃には、窓の外が夕焼けに染まり始めていた。
修司は今日の運用記録を整理している。
ミコリも隣で数字を確認していた。
「お疲れ様でした。」
修司が言う。
「二人とも、明日も使ってくれるって。」
「そうですか。」
修司は記録へ書き加えた。
**試験運用継続。**
先生は椅子へ腰を下ろす。
「今日一日だけで、結構変わった気がするな。」
修司は首を横に振った。
「まだ変わってはいません。」
「厳しいなぁ。」
「一日使えただけです。」
修司は今日の記録を先生へ向けた。
共同案件登録数、六件。
完了、二件。
進行中、三件。
翌日継続、一件。
共同案件に関する先生への問い合わせ。
ゼロ件。
「ただ。」
修司は最後の数字を指した。
「結果は出ています。」
先生もそこを見る。
**0件。**
たった一日の数字だ。
明日には増えるかもしれない。
案件が複雑になれば、先生の助けが必要になることもあるだろう。
それでも今日一日。
先生が説明しなくても。
先生が情報を覚えていなくても。
六件の共同案件が動いた。
そのうち二件は、すでに完了している。
ミコリが共有シートを開く。
画面には、今日一日の更新履歴が残っていた。
風紀委員会。
万魔殿。
風紀委員会。
万魔殿。
二つの組織の名前が、時刻順に並んでいる。
けれど、両者が直接連絡を取り合ったわけではない。
関係が良くなったわけでもない。
ヒナとマコトの対立も、そのままだ。
アコとイロハも、それぞれ別の場所で自分の仕事をしただけだった。
変わったのは、人間関係ではない。
仕事の流れだった。
先生は画面を眺めながら言う。
「昨日までは、この間に俺がいたんだよな。」
「はい。」
修司は答えた。
「風紀委員会から情報を受け取って、万魔殿へ伝える。」
「万魔殿から返事を受け取って、風紀委員会へ伝える。」
「それを今日は、共有シートが担いました。」
「俺の代わりができたってこと?」
修司は少し考えた。
「先生の代わりではありません。」
先生が修司を見る。
「先生がやらなくてもいい仕事を、仕組みに移しただけです。」
先生はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「その言い方の方がいいな。」
修司は今日の記録を閉じた。
まだ一日。
改善も始まったばかり。
それでも、仕組みを作っただけだった昨日とは違う。
今日は実際に使われた。
仕事が動いた。
そして現場から、次の改善が生まれた。
修司は鞄から生命の書を取り出す。
ページを開く。
案件No.21。
**『ゲヘナ学園 情報共有の標準化』**
第一段階。
**『情報共有の仕組み構築』**
その下に、新しい記録を書き加える。
**共同案件共有シート 試験運用開始。**
**共同案件六件運用。**
**先生への情報確認 〇件。**
**現場要望を反映し、Ver.1.1へ更新。**
そして最後。
達成率。
昨日までの数字を消す。
**0%**
その横へ、新しい数字を書いた。
**20%**
ミコリがその数字を見る。
「二十パーセント。」
「はい。」
「まだ、それだけなんですね。」
「一日ですから。」
修司は生命の書を閉じた。
「便利だった、では改善完了になりません。」
「明日も使われる。」
「その次の日も使われる。」
「誰かに言われなくても、共同案件が発生したら自然にここへ登録される。」
修司は共有シートの画面を見る。
「そこまでいって、初めて仕組みになったと言えます。」
先生も画面を見る。
今日一日だけで積み重なった更新履歴。
その中に、先生の名前は一つもない。
「じゃあ、まだ始まっただけか。」
「はい。」
修司は頷いた。
「ようやく、始まりました。」
窓の外では、ゲヘナの一日が終わろうとしていた。
風紀委員会と万魔殿。
二つの組織の関係は、昨日と何も変わっていない。
それでも。
二つの組織の間を流れる情報だけは、昨日とは違う道を通り始めていた。