共同案件共有シートの試験運用が始まってから、数日が経った。
最初の日こそ、黒瀬先生は何度も端末を確認していた。
風紀委員会が更新すれば画面を開き、万魔殿側の記録が追加されればまた開く。自分が間に入らず仕事が進んでいることが気になって仕方がなかったのだ。
だが三日も経つ頃には、その回数も目に見えて減っていた。
朝、執務室へ入って最初に共有シートを確認する。
昼に一度。
夕方、未完了案件を確認する。
必要があれば途中でも見るが、それ以外は自分の仕事を進める。
それで困ることはなかった。
「先生、最近あまり見なくなりましたね」
昼前。
ミコリに言われ、先生は書類から顔を上げた。
「共有シート?」
「はい。初日は五分おきくらいに見ていた気がします」
「そこまで見てないよ」
「十分おき?」
「……そのくらいだったかもしれない」
先生が苦笑すると、向かいの机で資料を整理していた修司も顔を上げた。
「確認する必要がなくなったからでしょう。共同案件について問い合わせが来れば見る。そうでなければ、担当者が必要な情報を更新していますから」
「慣れって怖いね」
先生は自分の端末を見る。
現在、共有シートに表示されている進行中案件は四件。
そのうち二件は今日中に完了予定。
残りも、次にどちらが対応するのか明記されている。
先生が内容を暗記しておく必要はない。
必要になれば開けばいい。
それだけのことが、数日前まではできなかった。
「便利になったと思いますか?」
修司に聞かれ、先生は少し考えた。
「便利というより……静かになったかな」
「静か?」
「前は共同案件が動くたびに誰かから連絡が来てたからね。今は普通の仕事をしてる時間が増えた」
机の上に置かれた端末は、今日も静かだった。
先生は再び書類へ目を落とす。
「まあ、いいことなんじゃない?」
「今のところは」
修司はそう答え、手元の運用記録へ視線を戻した。
先生が眉を上げる。
「含みがあるなぁ」
「ありません。まだ数日しか経っていないので、評価を確定していないだけです」
「そういうところ、相変わらずだね」
ミコリが小さく笑った。
三人の間に、以前より穏やかな時間が流れていた。
少なくとも午前中までは。
◇
昼過ぎ。
共有シートに新しい案件が登録された。
案件番号G-014。
『中央広場・夏季催事に伴う周辺道路使用及び警備計画』
登録したのは万魔殿側。
先生がその案件に気づいたのは、登録されてから一時間ほど経ってからだった。
昼食から戻り、何気なく共有シートを開いた時だ。
「増えてるな」
先生の声にミコリも画面を見る。
「G-014ですね」
内容自体は珍しいものではなかった。
万魔殿が中央広場で催事を開催する。
開催に伴い、広場周辺の道路の一部を一時的に使用したい。
そのため、周辺警備を担当する風紀委員会との調整が必要になる。
万魔殿側の記入欄には、開催時刻と使用希望区域、必要な時間が整理されていた。
先生は一通り確認してから画面を閉じた。
「まあ、いつもの共同案件だね」
修司も特に反応しなかった。
万魔殿側が必要事項を入力した以上、次は風紀委員会が確認する。
先生が連絡する必要はない。
実際、それから二十分ほどしてG-014は更新された。
風紀委員会側の記録だった。
『使用希望区域を確認。指定区域全体を封鎖した場合、南側巡回経路と干渉するため現条件では対応困難』
続けて、代替案も記載されている。
『使用区域を中央広場北側まで縮小する場合、警備計画変更により対応可能』
先生は更新通知だけ確認し、端末を閉じた。
これも数日前なら、アコから事情を聞いて万魔殿へ伝えに行っていたところだ。
だが今は、その必要がない。
風紀委員会が対応できない理由も、対応可能になる条件も、すべて共有シートに書かれている。
万魔殿側が確認すればいい。
「先生、行かないんですか?」
ミコリが尋ねた。
「万魔殿に?」
「はい」
「行かなくても見えるでしょ」
先生は当然のように答えた。
その言葉を聞いた修司が、ほんの一瞬だけ先生を見る。
先生自身は気づいていなかった。
数日前なら、同じ問いにそう答えることはなかった。
「じゃあ、続きをやろうか」
先生は途中だった書類へ戻った。
G-014も、これまでの共同案件と同じように進む。
その時は三人とも、そう思っていた。
◇
午後二時過ぎ。
万魔殿側からG-014が更新された。
『使用区域縮小の場合、出店配置及び搬入経路の全面変更が必要となるため、現行区域での実施を希望』
風紀委員会側の提案に対する回答だった。
ミコリが画面を確認する。
「万魔殿側は区域を変えたくないみたいですね」
「まあ、準備もあるだろうからね」
先生も内容を読む。
万魔殿側にも理由がある。
すでに催事の配置計画が進んでいる以上、道路使用区域を変更すれば、出店位置だけではなく搬入経路や人員配置まで変更しなければならない。
だから現行案を維持したい。
一方、風紀委員会にも理由がある。
現在の案では既存の巡回経路と干渉する。
警備上、そのまま承認することは難しい。
どちらかが怠けているわけでも、相手を困らせようとしているわけでもなかった。
それぞれが自分の仕事をしようとしている。
先生はしばらく画面を眺めていたが、やがて閉じた。
「まあ、向こうで考えるでしょ」
修司も何も言わなかった。
共有シートには双方の事情が残っている。
情報不足はない。
これまでなら、ここで先生が説明役になっていた。
だが、その必要はすでに消えている。
午後二時半。
変化なし。
三時。
変化なし。
三時半。
先生が別件の処理を終え、共有シートを開いた。
G-014の状態は変わっていなかった。
『調整中』
最新の記録も、午後二時過ぎの万魔殿側の書き込みで止まっている。
先生は少しだけ眉を寄せた。
「まだ動いてないのか」
ミコリも端末を覗き込む。
「他の案件は?」
「動いてます」
G-012は完了。
G-013も次工程へ移っている。
新しく追加されたG-015にも、すでに双方から記録が入っていた。
止まっているのはG-014だけだった。
先生は履歴を最初から読み返した。
万魔殿が希望条件を記載。
風紀委員会が対応困難と回答し、代替案を提示。
万魔殿が代替案では運営上困難と回答。
必要な情報は揃っている。
どこにも記入漏れはない。
「……おかしいな」
先生の声に、修司が顔を上げた。
「何がですか?」
「いや、全部書いてあるんだよ」
先生は端末を修司へ向ける。
「万魔殿が何をしたいのかも分かる。風紀委員会がなんで難しいと言ってるのかも分かる。代わりにどうすればできるのかも書いてある」
「はい」
「なのに止まってる」
修司は画面を受け取り、G-014の履歴を確認した。
最初から最後まで、一度だけゆっくり読む。
そして端末を先生へ返した。
「そうですね」
「……それだけ?」
「はい。止まっています」
先生は少し呆れたような顔をした。
「いや、それは見れば分かるけど」
修司は椅子へ座り直した。
「なら、今はそれで十分です」
「十分?」
「誰かが情報を持っていないわけではありません。更新を忘れているわけでもありません。共有シートも正常に使われています」
修司はG-014の最後の二つの記録を指した。
風紀委員会。
『現条件では対応困難。区域縮小なら対応可能』
万魔殿。
『区域縮小は運営上困難。現行区域を希望』
「双方とも、相手の事情は見えています」
ミコリも画面を見る。
「……本当ですね」
情報は届いている。
返答もされている。
それでも仕事は止まった。
先生は腕を組んだ。
「じゃあ、何が足りないんだ?」
修司はすぐには答えなかった。
共有シートに並んだ二つの記録を見つめる。
やがて、静かに口を開いた。
「おそらく、何も足りていません」
先生が眉を寄せる。
「どういうこと?」
「必要な情報は、もう全部あります」
修司は言った。
「だからこれは、情報共有の問題ではありません」
その言葉に、部屋が静かになった。
数日前まで、共同案件が止まる理由の多くは情報だった。
誰が持っているのか分からない。
どこまで進んでいるのか分からない。
相手側が何をしているのか分からない。
だから先生へ聞く。
先生が確認する。
先生が伝える。
共有シートは、その流れを変えた。
そして情報が見えるようになったからこそ、今までその陰に隠れていたものが、初めてはっきり見えていた。
先生はもう一度G-014を見る。
「書いてあるのに……進まない」
「はい」
修司は頷いた。
「情報を共有するところまでは、できるようになりました」
画面には、風紀委員会と万魔殿の主張が並んでいる。
どちらの事情も分かる。
どちらの条件も分かる。
それでも、『調整中』の文字は変わらない。
修司はその表示を見つめたまま続けた。
「次は――誰が決めるのか、ですね」
先生は答えなかった。
共有シートを導入したことで、一つの問題は確かに小さくなった。
そしてその向こうから、別の壁が姿を現していた。
今度の壁は、情報を見えるようにするだけでは越えられない。
午後三時四十二分。
G-014。
状態――『調整中』。
その表示だけが、画面の中に残り続けていた。
午後四時を回っても、G-014の表示は『調整中』のままだった。
黒瀬先生は何度か共有シートを開いたが、新しい更新はない。
それでも、以前のような苛立ちはなかった。
案件が止まっている理由が分からないわけではないからだ。
万魔殿は、中央広場周辺の道路を当初の計画通り使用したい。
風紀委員会は、その条件では既存の巡回経路と干渉するため認められない。
区域を縮小すれば対応できるものの、そうすれば万魔殿側は出店配置や搬入計画を変更しなければならない。
双方の事情は、すべて画面に残っている。
どちらで止まっているのかを確認するために、先生が走り回る必要もない。
「ここまでは、共有シートがちゃんと仕事してるってことなんだよな」
先生の言葉に、修司は頷いた。
「はい。むしろ正常です。共有シートは、相手が何を考えているのか分からない状態をなくすための仕組みですから」
「でも、相手が何を考えてるか分かってても、意見が合わないことはある」
「当然あります」
修司はG-014の履歴へ目を向ける。
「情報が共有されたからといって、利害まで一致するわけではありません」
言われてみれば当然だった。
風紀委員会と万魔殿が同じ画面を見られるようになったからといって、両者の立場が変わるわけではない。
風紀委員会には警備を維持する責任があり、万魔殿には催事を成立させる責任がある。
どちらか一方が自分の都合だけで決めれば、もう一方に影響が出る。
先生は共有シートを眺めながら腕を組んだ。
「だったら、あとはどっちかが決めればいいんじゃない?」
修司が先生を見る。
「誰がですか?」
「……そこなんだよな」
先生自身、口にした瞬間に分かってしまった。
アコが万魔殿の催事計画を変更することはできない。
イロハが風紀委員会の巡回経路を勝手に変更することもできない。
それぞれ自分の組織内では実務を動かせても、相手側へ影響する決定となれば話は別だった。
その時、机の上に置かれていた先生の端末が鳴った。
表示された名前を見て、先生がわずかに目を細める。
アコだった。
「……来たか」
ミコリも端末へ視線を向ける。
修司は何も言わなかった。
先生が通話を取った。
「はい、先生です」
『お疲れ様です、先生。少々よろしいでしょうか』
いつも通りのアコの声だった。
「大丈夫だよ」
『共有シートのG-014についてです』
先生は画面を開く。
「うん。見てる」
『でしたら話は早いです。万魔殿側から現行区域を維持したいとの回答が入っていますが、こちらとしては記載した通り、その条件では通常の警備体制と干渉します』
「そこまでは分かってるよ」
『はい。問題は、その先です』
アコの声がわずかに硬くなった。
『巡回経路そのものを変更すれば、対応できなくはありません。ただ、その場合は南側区域の警備人員まで再配置する必要があります』
先生は共有シートに添付された区域図を見る。
中央広場の南側には、風紀委員会の通常巡回路が通っている。
そこを催事区域として使用するなら、巡回経路を別の場所へ移さなければならない。
「つまり、できないわけじゃない?」
『できるかできないかだけで言えば、できます』
アコはすぐに答えた。
『ですが、私の判断だけで通常警備を変更してまで万魔殿の催事を優先していいのかは、別の話です』
先生は黙った。
そこだった。
アコは必要な情報を持っている。
何を変えれば対応できるのかも分かっている。
実行する方法も考えられる。
それでも、決めることはできない。
『先生』
「うん」
『万魔殿側が現行案を維持するのであれば、一度そちらの意向を確認していただけますか? こちらも、それを踏まえて委員長へ報告します』
先生は反射的に「分かった」と答えそうになった。
これまでも何度もやってきたことだった。
風紀委員会から事情を聞き、万魔殿へ向かう。
万魔殿の意向を確認し、それを持って風紀委員会へ戻る。
だが、席を立とうとしたところで、共有シートの表示が目に入った。
万魔殿の意向は、すでにそこにある。
先生は腰を浮かせかけたまま止まった。
「アコ」
『はい?』
「万魔殿が現行案を維持したい理由は、シートに書いてあるよね」
一瞬、間があった。
『……はい』
「出店配置と搬入経路の変更が必要になるから、現行区域を希望してる」
『確認しています』
「じゃあ俺が今から万魔殿へ行っても、聞いてくることは同じじゃないかな」
今度は少し長い沈黙があった。
先生自身、口にしてから気づいていた。
自分が今、やろうとしたこと。
それはすでに必要なくなっている。
相手が何を考えているのか確認しに行く必要はない。
必要な情報は共有されている。
『……そうですね』
アコも同じところへたどり着いたらしい。
『少なくとも、事情を確認していただく必要はありません』
「うん」
『ですが、こちらだけでは決められません』
「それも分かってる」
アコは一度言葉を切った。
『でしたら、こちらでどこまで変更可能なのか整理しておきます。先生には、その後で確認していただけますか?』
先生は少し考えた。
「そうしてもらえると助かる。巡回経路を変える場合に、何が必要になるのかまで書いておいて」
『承知しました』
通話が終わる。
先生は端末を置いた。
立ち上がりかけていた身体を、もう一度椅子へ戻す。
「……危なかった」
ミコリが首を傾げる。
「何がですか?」
「普通に万魔殿へ行くところだった」
先生は苦笑した。
「行って、イロハにシートに書いてあることを聞いて、それをアコに伝えるところだったよ」
修司は手元の記録へ短く書き込んだ。
先生がそれに気づく。
「何て書いたの?」
「情報確認のための移動、未実施」
「未実施も記録するんだ」
「今回の改善で減らしたかった行動ですから」
先生は納得したように頷いた。
その時、端末が再び鳴った。
今度の表示を見て、先生は思わず笑った。
「噂をすれば」
相手はイロハだった。
先生が通話を取る。
「はい」
『先生、お疲れ様です。まだお仕事中ですか?』
「残念ながらね」
『それは大変ですね。では、もう一つ増やしてしまって申し訳ないのですが』
いつもの気怠そうな調子のまま、イロハは続けた。
『G-014、見てます?』
「見てるよ」
『なら説明は省きますね』
その一言に、先生は少しだけ目を見開いた。
説明を省く。
それだけで、会話の始まる位置が以前とは違っていた。
『風紀委員会側の条件も確認しました。区域を縮めれば対応可能、という話ですよね』
「うん」
『こっちとしても、できれば合わせたいところなんですけど……もう出店位置と搬入計画がかなり進んでまして。今から区域を変えると、関係するところを全部直す必要があるんですよ』
「それも見たよ」
『便利ですね、これ。先生に最初から説明しなくて済むので』
イロハは淡々と言った。
先生は小さく笑う。
「俺もさっき、同じこと思った」
『でしょう? なので本題なんですが』
少しだけ声の調子が変わる。
『こちらで勝手に区域を縮めるとは決められません。かといって、風紀委員会側の巡回計画を変えてくださいとも、こちらから決められる話じゃありません』
「うん」
『先生の方で、どうするか決めてもらえません?』
先生の表情から笑みが消えた。
「俺が?」
『今までも、こういう時は先生が間に入ってくれてたじゃないですか』
確かにそうだった。
どちらか一方では決められない。
両方に影響する。
そういう案件が出れば、先生が事情を聞いて回り、双方が受け入れられるところを探してきた。
先生自身も、それを自分の仕事だと思っていた。
「……分かった」
答えかけて、先生は止まった。
今度は先ほどより早かった。
「いや、待って」
『はい?』
「イロハは、万魔殿側でどこまでなら変更できる?」
『どこまで、ですか』
「全部やり直すか、今の案をそのまま通すか、その二択じゃないでしょ。出店位置は動かせなくても、開催時間なら変えられるとか。搬入時間だけなら調整できるとか」
電話の向こうで、イロハが考え込む気配がした。
『……その辺りは、確認しないと分かりませんね』
「じゃあ、それを確認してシートに入れてもらえる?」
『それで決まります?』
「分からない」
先生は正直に答えた。
「でも、何が変えられて何が変えられないのか分からないままじゃ、俺だって判断できないから」
『それはそうですね』
イロハはあっさり納得した。
『では、こちらで確認しておきます』
「お願い」
通話が切れた。
先生は端末を机へ置くと、しばらく何も言わなかった。
二本の電話。
どちらも共同案件についてだった。
しかし、先生へ求められたものは、もう以前と同じではなかった。
相手側の状況を尋ねられたわけではない。
進捗を教えてほしいと言われたわけでもない。
アコもイロハも、相手が何を求めているのかは最初から知っていた。
だから会話は、その先から始まった。
「修司」
先生が呼ぶ。
「はい」
「これ、共有シートじゃ解決できないの?」
修司は少し考えてから答えた。
「判断材料を共有するところまではできます。ただ、シートが代わりに決めることはできません」
先生は天井を見上げる。
「そりゃそうか」
共有シートは道具だ。
どれほど情報を集めても、最後に決定するのは人間になる。
問題は、その決定を誰が行えるのかだった。
ミコリが二本の電話を思い返しながら口を開く。
「アコさんもイロハさんも、自分の組織では普通に判断してるんですよね」
「はい」
修司が答える。
「ですが今回のように、自分の判断が相手側の仕事にも影響する案件では、普段の権限を越える可能性があります」
「だから止まる」
「そういうことです」
先生は共有シートをもう一度開いた。
そこへ、ちょうどアコから新しい追記が入る。
『巡回経路変更自体は可能。ただし南側区域の警備人員再配置が必要。変更判断は風紀委員長への報告対象』
少し遅れて、イロハ側からも追記された。
『開催時間の変更は調整可能。出店配置変更は困難。搬入時間は担当部署と調整中』
先生は二つの記録を見比べた。
先ほどよりも、選べる条件がはっきりしている。
情報は増えた。
それでもステータスは変わらない。
『調整中』
「前だったら、この辺も全部俺が聞いて回ってたんだよな」
先生が呟く。
修司は頷いた。
「今は聞かなくても、必要な情報が出てきます」
「それでも、最後は俺のところに来る」
「すべてが戻ってきたわけではありません」
修司はそこで、少しだけ言葉を強めた。
「情報を集める仕事は戻ってきていません。進捗確認も、相手側への説明も、かなり減っています」
修司は共有シートに並ぶ更新履歴を示す。
「それらを取り除いたあとに残ったものが、先生のところへ来ています」
先生は画面から修司へ視線を移した。
「残ったもの?」
「双方の担当者だけでは決められない判断です」
先生は黙った。
共有シートを導入したことで、新しい仕事が生まれたわけではなかった。
最初からそこにあった。
ただ以前は、情報確認も伝達も進捗管理も調整も、すべて先生のところへ一緒に集まっていた。
だから、それぞれを区別する必要すらなかった。
情報を仕組みへ移したことで、その下にあった仕事だけが残った。
ミコリはしばらく画面を見つめた後、静かに言った。
「先生に集中していた仕事が、少しずつ分かれてきたんですね」
修司は頷いた。
「そう考えるのが近いです」
先生は椅子へ深く腰掛ける。
「じゃあ、次はこれをどうするか……か」
修司はすぐには同意しなかった。
「まずは、この案件を終わらせましょう」
「改革より?」
「現場は改革のために仕事をしているわけではありません」
先生は一瞬きょとんとしてから、少し笑った。
「……それもそうだね」
G-014は改善のための教材ではない。
実際に開催を控えた催事であり、警備計画も決めなければならない。
組織改革の都合で止めていい案件ではなかった。
「じゃあ、アコとイロハから条件が出揃うのを待とうか」
「はい。少なくとも、その間に先生が両方へ確認に走る必要はありません」
先生は共有シートを閉じた。
以前なら、とっくに風紀委員会と万魔殿の間を往復していた時間だった。
今は双方が自分たちの条件を整理し、それを同じ場所へ書き込むのを待てばいい。
問題はまだ解決していない。
先生の仕事もなくなってはいない。
だが、何のために先生が必要とされているのかは、以前よりはっきりしていた。
情報を運ぶためではない。
相手の事情を覚えておくためでもない。
双方の担当者だけでは決められないところまで来た時、案件を次へ進めるため。
そして、それが本当に先生でなければならないのか。
どこまでなら、それぞれの組織の中で決められるようにできるのか。
その問いには、まだ誰も答えを出していなかった。
共有シートのG-014には、アコとイロハがそれぞれ追加した条件が並んでいる。
情報は揃いつつある。
残っているのは、それをどう選ぶかだった。
午後五時前。
G-014の共有シートに、新しい更新が入った。
最初に動いたのは万魔殿側だった。
『開催時間については一時間後ろ倒し可能。搬入時間は変更可能。出店配置は変更困難』
先生はその内容を確認すると、少しだけ身を乗り出した。
「時間なら動かせるんだ」
ミコリも画面を見る。
「区域を変えなくても、警備側が対応できる可能性がありますね」
修司は何も言わず、風紀委員会側の更新を待った。
数分後。
アコから追記が入る。
『催事開始を一時間後ろ倒しする場合、南側巡回の主要時間帯と重複しないため、警備人員の再配置のみで対応可能』
先生は二つの記録を見比べた。
万魔殿側は、開催時間なら変更できる。
風紀委員会側は、一時間遅らせるなら対応できる。
さっきまで平行線だった二つの条件に、初めて重なる部分が生まれていた。
「これならいける?」
先生が尋ねる。
修司は画面を確認した。
「少なくとも、実務上は成立しそうです」
「じゃあ決まり?」
「まだです」
先生が怪訝そうに修司を見る。
修司は風紀委員会側の最後の一文を指した。
『警備人員再配置については風紀委員長への報告対象』
そして万魔殿側にも、
『催事時間変更について最終確認必要』
と残されている。
先生は二つを見比べ、背もたれに身体を預けた。
「……結局、最後は上なんだな」
「今回は、そうなります」
修司は淡々と答えた。
「ただ、さっきとは状況が違います」
「何が?」
「選択肢が絞られています」
最初は、互いに自分たちの希望を提示していただけだった。
万魔殿は現行区域を維持したい。
風紀委員会は区域を縮小してほしい。
その二つは両立していなかった。
だが今は違う。
開催時間を一時間遅らせる。
その代わり、風紀委員会は必要な警備人員を再配置する。
どちらも実務上は対応できる。
残っているのは、その案を正式に認めるかどうかだけだった。
先生は端末を手に取った。
「じゃあ、ヒナさんとマコトに確認すればいい?」
「そうですね。ただ、先生が最初から事情を説明する必要はありません」
先生は共有シートへ視線を戻した。
そこには、案件が登録されてから今までの流れがすべて残っている。
万魔殿の当初案。
風紀委員会が対応できない理由。
風紀委員会から提示された代替案。
それが難しい万魔殿側の事情。
双方が変更可能な範囲。
そして、ようやく見つかった妥協点。
先生が頭の中にすべてを詰め込んで説明しなくても、必要な材料はもう揃っていた。
「……確かに」
先生は少し笑った。
「今回は説明役じゃなくて、確認役だな」
「そうなります」
先生はまず風紀委員会へ連絡を入れた。
ヒナはすでにアコから概要を聞いていたらしく、話は長くならなかった。
通常巡回への影響。
必要になる人員再配置。
そして、催事開始を一時間遅らせること。
ヒナは必要な部分だけを確認すると、その条件なら警備上の問題は許容できると判断した。
続いて万魔殿。
こちらも、イロハが事前に情報を整理していたため、先生が最初から説明し直す必要はなかった。
開始時刻を一時間遅らせる。
出店配置はそのまま。
搬入時間だけを調整する。
大幅な計画変更は必要ない。
最終的に、その条件で進めることになった。
先生が通話を終えた頃には、時計は五時を少し回っていた。
共有シートのG-014。
状態はまだ『調整中』になっている。
先生は一瞬、状態欄へ指を伸ばした。
そこで止めた。
「……これ、俺が変えるんじゃないよな」
修司が先生を見る。
「はい。先生は担当者ではありませんから」
「危ない危ない」
先生は苦笑して端末から手を離した。
しばらくすると、風紀委員会側から更新が入った。
『警備計画変更承認。催事開始時刻変更を前提として配置調整開始』
続いて万魔殿側。
『開始時刻変更承認。関連担当へ変更内容共有』
最後に、万魔殿側の担当によって状態が更新された。
『実施準備へ移行』
先生はその表示を見届けると、ようやく背もたれへ身体を預けた。
「今度こそ、終わった……」
「調整が、ですね」
修司が答える。
先生は半眼になる。
「そこは素直に終わったでいいでしょ」
「催事はまだ開催されていません」
「相変わらずだなぁ」
ミコリが小さく笑った。
先生もつられて笑ったが、やがて視線は共有シートへ戻った。
そこには、朝から積み重なった更新履歴が残っている。
万魔殿。
風紀委員会。
万魔殿。
風紀委員会。
それぞれが、自分たちの事情と条件を書き加えている。
先生はその流れを指で追った。
「でも、変な感じだな」
「何がですか?」
「今日、結局ヒナさんとマコトには確認したけど……アコとイロハの間を何往復もしたわけじゃない」
修司は頷いた。
「そうですね」
「前だったら、もっと早い段階から俺が間に入ってたよね」
「おそらく」
「今回は、二人がそれぞれ自分たちで調べて、できるところまでは進めた」
「はい」
先生は更新履歴の最後まで指を滑らせた。
「最後だけ俺に来た」
修司は少し考えたあと、訂正する。
「正確には、最後に先生を経由して、判断できる相手へ確認が上がりました」
「ああ、そっか。俺が決めたわけじゃないもんな」
先生自身には、風紀委員会の警備計画を変更する権限も、万魔殿の催事計画を変更する権限もない。
先生が行ったのは、双方が実務上成立する案を出したあと、それを決められる者へ確認したことだけだった。
先生はしばらく画面を見つめてから口を開く。
「じゃあ、共有シートが失敗したわけじゃないんだ」
「もちろんです」
修司は答えた。
「先生が今日やったのは、情報を運ぶことではありません。相手側の事情を確認することでもありません」
「必要な判断を上に持っていっただけ」
「はい」
先生は小さく頷いた。
「役割が減ったんだな」
「整理された、と考えた方が近いでしょう」
それまで先生へ集まっていた仕事は、一つの大きな塊になっていた。
説明。
確認。
伝達。
進捗管理。
調整。
判断。
上位者への確認。
全部を先生が繋いでいたからこそ、それぞれが別の仕事だと意識することもなかった。
共有シートを導入したことで、その塊が少しずつ分かれ始めている。
情報共有は仕組みに移った。
実務上の条件整理も、それぞれの担当者が行える。
そして今回、最後まで残ったのは、権限を伴う判断だった。
ミコリが共有シートを眺めながら口を開く。
「でも、このままだと同じような案件が来るたびに、最後は先生に連絡が来ますよね」
先生は苦笑した。
「そうなるね。今度は判断専用の窓口になりそうだ」
その言葉に、修司の視線が止まった。
「それは避けるべきです」
先生が修司を見る。
「やっぱり?」
「先生へ仕事を集中させる形を変えるために、共有シートを導入しました。情報確認が減った結果、今度は判断が必要な案件だけ先生へ集中するのであれば、問題が一段移動しただけです」
「でも今回は、俺がヒナさんとマコトに確認しただけだよ」
「今回だけなら問題ありません」
修司は否定しなかった。
「ですが、この形式が習慣になれば、共同案件で条件が衝突するたびに先生へ連絡するようになります」
先生はその状況を想像した。
通常の案件は共有シートで進む。
条件が食い違えば先生。
例外が発生すれば先生。
担当者が判断に迷えば先生。
情報を確認する仕事が減っても、結局『困ったら先生』という構造だけが残る。
先生は腕を組んだ。
「それだと、確かに根本は変わらないか」
「少なくとも、最終形ではありません」
修司は答えた。
ミコリが少し考える。
「じゃあ、アコさんやイロハさんが全部決められるようにするんですか?」
「それも違います」
修司はすぐに否定した。
「権限を広げれば解決する、という話ではありません」
アコにはアコの立場がある。
イロハにもイロハの立場がある。
実務担当者だからといって、組織全体に影響する判断まで無制限に任せればいいわけではない。
今回のG-014でも、通常警備の人員配置を大きく変更するならヒナの判断が必要になる。
万魔殿側も、催事そのものへ大きな影響が出る変更なら上位判断が必要になる。
問題は、上へ確認すること自体ではない。
どこまでなら自分で決めてよくて、どこから上へ確認するのか。
その境界が曖昧なことだった。
「必要なのは、判断できる範囲を整理することだと思います」
修司が言う。
先生がその言葉を繰り返す。
「判断できる範囲……」
「はい。どこまでなら現場で決めていいのか。どこから自分の組織の上位判断が必要なのか。そして、どういう場合に先生へ調整を依頼するのか」
ミコリも理解したように頷く。
「先に線を引いておくんですね」
「そうです」
修司はG-014を例に、簡単に整理した。
巡回経路そのものを変えない範囲なら、風紀委員会側の実務担当で判断できる。
通常警備の配置変更まで必要なら、ヒナへ上げる。
催事の細かな時間調整なら、万魔殿側の実務で対応できる。
催事全体の計画へ影響する変更なら、上位判断へ回す。
そして双方の条件が衝突し、どちらの組織だけでも調整できない場合に限って、先生へ相談する。
先生はその整理を聞きながら、少しだけ顔をしかめた。
「俺に相談する条件まで決めるの?」
「必要なら」
修司は平然と答える。
「『迷ったから先生』ではなく、『この条件だから先生』に変えた方がいいでしょう」
先生は思わず笑った。
「なんか、俺の使用条件みたいだな」
「曖昧に使われるよりは安全です」
「物扱いされてない?」
「先生が言い出しただけです」
ミコリが吹き出す。
「ふふっ……確かに」
ほんの少しだけ、執務室の空気が緩んだ。
先生も笑いながら椅子へ座り直す。
だが、机の上に残ったG-014の記録は、次の課題をはっきり示していた。
情報が足りなかったわけではない。
誰かが仕事を怠ったわけでもない。
共有シートが機能しなかったわけでもない。
むしろ、きちんと機能したからこそ分かった。
情報が揃った後にも、仕事には判断が必要になる。
そして、その判断を誰がどこまでしていいのかが曖昧なままでは、結局『困った時の先生』へ仕事が流れ込む。
修司は今日の運用記録を開いた。
G-014について、事実だけを書き残す。
『情報共有――正常』
『双方による実務条件整理――実施』
『最終判断――各組織上位者による承認』
『先生――承認確認の仲介』
その下で、修司の手が止まる。
先生が横から覗き込んだ。
「何か気になる?」
「一件だけでは、まだ判断できません」
「何が?」
「これが例外なのか、それとも同じ形の案件が他にもあるのかです」
修司はペンを置いた。
「今日の一件だけを見て、新しい仕組みを作るつもりはありません」
先生は少し安心したように息を吐いた。
「よかった。明日からまた新制度とか言われるのかと思った」
「そんなことをすれば、現場が疲れます」
「分かってきたね」
「前から分かっています」
「はいはい」
ミコリが二人のやり取りを聞きながら、G-014の履歴をもう一度見返した。
「じゃあ、まず似た案件があるか確認するんですか?」
「はい」
修司は頷いた。
「条件が衝突した案件。その中でも、情報は揃っていたのに先生まで判断が上がったものを見ます」
「共通点があったら?」
先生が尋ねる。
「その時に初めて、共通する基準を作れるか考えます」
先生は納得したように頷いた。
「順番は大事、か」
「はい」
窓の外は、すでに暗くなり始めていた。
一つの案件に、午後のかなりの時間を使った。
だが先生は、不思議と以前のような疲れを感じていなかった。
風紀委員会へ行き、事情を聞く。
万魔殿へ向かい、それを説明する。
また風紀委員会へ戻る。
条件が変われば、もう一度万魔殿へ行く。
今日は、その往復をしていない。
先生が実際に行ったのは、最後の確認だけだった。
「今日は、案件一つにずいぶん時間がかかりましたね」
ミコリが言った。
「でも、前とは違ったよ」
先生は共有シートを見る。
「止まってる場所が分かったし、何を確認すればいいのかも見えた。少なくとも、理由も分からず走り回るよりはずっといい」
修司も否定しなかった。
G-014は実施準備へ進んでいる。
共有シートも正常に機能した。
そして、次に確認すべきことも見えている。
その時だった。
机の端に置かれていた生命の書が、淡い光を帯びた。
先生が言葉を止める。
ミコリも振り返った。
「……生命の書」
誰も触れていない。
それでも表紙が静かに開き、ページがひとりでにめくられていく。
やがて止まったのは、案件No.21のページだった。
**案件No.21**
**『ゲヘナ学園 情報共有の標準化』**
第一段階。
**『情報共有の仕組み構築』**
三人が見守る中、その下に新しい文字が浮かび上がる。
**共同案件共有シート――継続運用中。**
続いて、もう一行。
**情報共有を原因とする停滞――確認されず。**
先生が目を細める。
「……ちゃんと機能してるってことかな」
修司はすぐには答えなかった。
生命の書が何を基準に判断しているのか。
そのすべてを、修司たちが理解しているわけではない。
やがて、ページの下部に表示されていた数字が揺らいだ。
**20%**
数字が薄れ、新しい値へ変わる。
**32%**
ミコリが少し驚いたように数字を見る。
「上がりましたね」
先生も生命の書を覗き込む。
「でも今日は、途中で案件が止まったんだよ?」
修司はG-014の共有シートへ視線を移した。
「止まった原因が、情報共有ではなかったから……でしょうか」
断定はしなかった。
生命の書が何を評価し、なぜ十二パーセント進めたのか。
正確な理由は分からない。
ただ、今日確認できた事実はある。
風紀委員会と万魔殿の双方が、必要な情報を共有できていた。
相手の事情も把握できていた。
先生が情報を運ばなくても、実務上の条件整理までは進んだ。
それでも止まった。
だからこそ、情報共有とは別の問題がはっきりした。
先生は生命の書から共有シートへ視線を戻した。
G-014。
状態――『実施準備へ移行』。
案件は進んでいる。
そして同時に、次に確認するべき場所も見え始めていた。
「情報は見えるようになった」
先生が静かに言う。
「次は、誰がどこまで決めるか……か」
修司は頷いた。
「まずは、同じ形の案件が他にもあるか確認しましょう」
風紀委員会と万魔殿。
二つの組織が直接手を取り合ったわけではない。
ヒナとマコトの関係も変わっていない。
アコとイロハが互いに連絡を取り合うようになったわけでもない。
それでも、同じ情報を見ながら、それぞれの場所で仕事を進めるところまでは来た。
次に必要なのは、その先だった。
誰が判断するのか。
どこまでなら現場で決めていいのか。
どこから上へ判断を求めるのか。
そして、どんな時に先生の力が本当に必要なのか。
共有シートの導入によって、見えなかった境界が少しずつ輪郭を持ち始めていた。
生命の書に刻まれた三十二パーセント。
それは完成を示す数字ではない。
まだ、三分の一にも届いていない。
けれど。
先生が二つの組織の間を走り続けなければ仕事が進まなかった頃から比べれば、確かに一歩前へ進んでいた。
誰か一人が頑張り続けるのではなく。
仕組みで仕事を繋ぐ組織へ。
ゲヘナでの改革は、ようやく次の段階へ進もうとしていた。