翌朝。
先生が顔を出した時には、修司はすでに端末へ向かっていた。
画面に表示されているのは、共同案件共有シート。
ただし、普段使っている進行中案件の一覧ではない。
完了済みの案件が並んでいた。
「おはよう。朝から何見てるの?」
「おはようございます」
修司は画面から顔を上げた。
「昨日の続きです」
その一言で、先生にも何をしているのか分かった。
昨日、長時間『調整中』のまま止まったG-014。
万魔殿が中央広場周辺の道路を催事で使用したい一方、風紀委員会は通常巡回への影響から、そのままでは認められなかった案件だ。
情報は共有されていた。
互いの事情も把握できていた。
それでも双方の担当者だけでは最終的に決められず、先生を経由してヒナとマコトへ確認することになった。
そこで見えたのが、次の問題だった。
誰が、どこまで決めていいのか。
「似た案件、探してるんだ?」
「はい。昨日の一件だけで仕組みを変えるのは早いので」
修司が画面をスクロールする。
共同案件共有シートには、試験運用を始めてから処理した案件の履歴が残されている。
その中から修司が拾っていたのは、完了までに時間がかかった案件と、逆にほとんど滞りなく処理された案件だった。
先生は隣の椅子を引き寄せる。
「どれくらいある?」
「今のところ、比較できそうなのは五件です。ただ、全部が同じ理由で止まったわけではありません」
「例えば?」
修司が一つ目を開いた。
学園共用施設の利用時間変更。
風紀委員会側の訓練と、万魔殿側の行事準備が同じ時間帯に重なった案件だった。
最終的には、万魔殿側が準備開始を三十分遅らせることで解決している。
「これは先生まで来ていません」
「じゃあ、なんで見てるの?」
「止まらなかった案件と比べた方が、違いが分かると思ったので」
修司は更新履歴を表示した。
万魔殿側が準備開始時刻を三十分変更。
風紀委員会側が確認。
そのまま完了。
上位者への確認もない。
先生が履歴を追う。
「三十分くらいなら、万魔殿側で判断できたってこと?」
「少なくとも、この案件ではそうです」
修司は別の案件を開いた。
今度は校内道路の一時使用。
万魔殿側の物資搬入のため、一部道路を予定より長く使用する必要が生じた案件だった。
当初予定から十五分延長。
風紀委員会側は巡回開始を十五分遅らせて対応している。
これも先生への連絡はない。
「こっちも普通に終わってるな」
「はい」
「じゃあ、昨日のG-014と何が違うんだろう」
先生がそう言ったところで、ミコリが姿を見せた。
「おはようございます」
「おはよう」
ミコリは二人が並んで画面を見ていることに気づくと、そのまま近づいてきた。
「昨日の件ですか?」
「うん。修司が似た案件を探してる」
ミコリも画面を覗き込む。
修司は二つの案件を並べて表示した。
一つは三十分の時間変更。
もう一つは十五分の巡回開始変更。
どちらも担当者の判断だけで完了している。
「これだけ見ると、時間の調整なら現場でできるように見えますね」
ミコリが言う。
修司は頷きながらも、すぐには断定しなかった。
「もう少し見ます」
三つ目。
共用施設の使用区画変更。
万魔殿側が当初予定していた区画の一部を追加で使用したいと申請し、風紀委員会側が確認。
追加部分が通常警備区域にかからないことを確認した上で、そのまま承認されている。
これも先生への連絡はない。
四つ目。
同じく施設利用に関する案件。
ただしこちらは、使用区画を広げることで風紀委員会の待機場所を移す必要が生じていた。
更新履歴は途中で止まり、その後、先生へ確認が入っている。
先生が画面を指した。
「これ、昨日と似てる」
「はい」
修司は二つを並べた。
一方は担当者だけで完了。
もう一方は先生まで上がった。
違いは、相手側の通常業務を変更する必要があったかどうか。
ミコリも気づいたらしい。
「追加で場所を使うこと自体が問題だったわけじゃないんですね」
「そうみたいだね」
先生が答える。
「空いてる場所なら、そのまま決められる。でも風紀委員会が普段使ってる場所まで動かすとなると、そこで止まる」
修司はさらに五つ目を開いた。
万魔殿主催の小規模行事に伴う警備人員追加。
当初は風紀委員会から二名を配置する予定だった。
しかし万魔殿側から、来場者増加の見込みを理由に追加配置の要望が出ている。
一名追加までは現場で調整された。
ところが、さらに二名を求めたところで案件が止まり、最終的に先生を経由して上位確認が行われていた。
先生はしばらく五件を眺めた。
止まらなかった案件。
途中で止まった案件。
並べてみると、その違いは思ったより分かりやすかった。
「なんとなく見えてきたな」
「はい」
修司も同じところを見ていた。
担当者が何も決められないわけではない。
むしろ日常的な調整の多くは、それぞれの現場ですでに行われている。
時間を少しずらす。
空いている区画を使う。
人員を一人追加する。
その程度なら、先生が知らないまま終わっている案件も珍しくなかった。
だが一定の線を越えると、突然止まる。
通常業務の予定そのものを変える。
警備区域を変更する。
複数の人員を別業務から動かす。
催事全体の計画へ影響する変更を行う。
そこまで来ると、担当者だけでは判断できなくなる。
先生は五つの案件を順番に見返した。
「決められないんじゃないんだ」
修司が先生を見る。
「何がですか?」
「アコもイロハも、普段から自分で決めてることは結構ある」
先生は完了済み案件を指した。
「でも、どこまで自分で決めていいのか、その境目が案件によって分かりにくいんじゃないかな」
修司は少し考え、頷いた。
「その可能性は高そうです」
ミコリが昨日のG-014を開く。
「昨日もそうでしたね。アコさんは巡回経路を変更すれば対応できると分かっていました。でも、自分の判断で通常警備を変えていいのかは別だった」
「イロハも時間変更まではできたけど、それ以上は確認が必要だった」
先生が続ける。
「つまり、権限がないっていうより……」
先生は言葉を探した。
「どこまでが自分の権限なのか、見えにくい?」
「それが近いと思います」
修司は答えた。
権限そのものが存在しないのであれば、すべての案件が上へ上がるはずだ。
しかし実際にはそうなっていない。
現場だけで完了している共同案件はいくつもある。
違うのは、その判断がどこまで影響するか。
そして、その影響が一定以上になった時、誰へ確認するのか。
そこが案件ごとに曖昧だった。
先生は椅子へ深く座り直した。
「じゃあ、そこを分かるようにすればいい?」
「おそらく」
修司は一度答えてから、少し言葉を足した。
「ただし、細かく決めすぎない方がいいと思います」
「なんで?」
「すべての案件について、『これは担当者』『これは上位者』と個別に決め始めたら、それを確認するだけで仕事が増えます」
先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「分厚い規則集ができそう」
「そして誰も読まなくなると思います」
「やめよう」
「はい」
即決だった。
ミコリが小さく笑う。
「じゃあ、もっと大きく分けるんですか?」
「その方がいいと思います」
修司は新しいメモを開いた。
画面の一番上へ書く。
**共同案件 判断区分**
その下で手が止まる。
「まず、担当者だけで決められるもの」
先生が先ほどの案件を見る。
「時間の微調整とか、普段の仕事にほとんど影響しない範囲?」
「そうですね」
修司が入力する。
**A 担当者判断**
**既存業務への影響が軽微で、担当者の通常業務範囲内で処理可能なもの。**
例として、時間の微調整。
空き区画の利用。
軽微な人員変更。
先生は文章を読んでから尋ねた。
「時間は何分まで、とか決めないの?」
「今は決めません」
「なんで?」
「同じ三十分でも、案件によって影響が違うからです」
小規模な準備なら三十分ずれても大きな問題にはならない。
一方で、複数の予定が連続している日なら、三十分の変更だけで後の仕事まで動くことがある。
単純に数字だけで区切れば、現場がかえって判断しづらくなる。
「なるほど」
先生は納得した。
「じゃあ次は?」
修司は二つ目を書く。
**B 組織内上位判断**
**通常業務、配置計画、警備体制など、所属組織の運営へ影響する変更を伴うもの。**
先生は昨日のG-014を思い出す。
「巡回経路を変えるとか」
「はい」
「万魔殿なら、催事全体の計画変更とか?」
「それも該当すると思います」
ここまでは分かりやすかった。
自分の通常業務の範囲なら、自分で決める。
組織全体へ影響するなら、自分の組織内で上へ確認する。
問題は、その次だった。
修司が三つ目を書く。
**C 組織間調整**
先生が、その文字を見た。
「これが俺?」
修司の手が止まる。
「まだ決めていません」
「昨日は俺に来たけど」
「昨日そうだったからといって、今後もすべて先生へ送る必要はないでしょう」
先生は少し意外そうな顔をした。
ミコリも修司を見る。
「でも、両方の条件がぶつかったら、誰かが間に入らないと決まらなくないですか?」
「必ずしもそうとは限りません」
修司は昨日のG-014をもう一度開いた。
最初。
万魔殿は区域を変えたくない。
風紀委員会は区域を縮小してほしい。
この状態では、確かに条件が衝突していた。
だが、その後。
アコは風紀委員会側で変更可能な範囲を調べた。
イロハも万魔殿側で変更可能な範囲を調べた。
結果として、万魔殿は開始時間を一時間遅らせることができた。
風紀委員会も、開始時間が一時間遅れれば警備人員の再配置で対応できた。
双方が受け入れられる条件が見つかった。
「昨日、先生が間に入って相手を説得したわけではありません」
修司が言う。
先生は昨日の流れを思い返す。
「確かに」
「アコさんとイロハさんが、それぞれ自分たちの組織でどこまで変更できるのか確認した結果、条件が重なりました」
「じゃあ、最初からそれをやればいい?」
ミコリが尋ねる。
「そう考えています」
修司はCの下に文章を追加した。
**双方の条件が一致しない場合、まず各組織で変更可能範囲を確認する。**
先生はその一文を読む。
「変更可能範囲……」
「はい」
修司は続ける。
「できるか、できないかだけではなく、どこまでなら変えられるのかを共有します」
風紀委員会なら、
時間変更は可能。
区域変更は上位判断。
人員追加は一定範囲まで可能。
万魔殿なら、
開催時間は変更可能。
出店配置変更は困難。
搬入時間は調整可能。
そうした情報を最初から出しておけば、互いの条件が重なる場所を探しやすくなる。
先生は少し考え込んだ。
「でも、それってアコとイロハが相談して決めるのと同じじゃない?」
「結果だけ見れば近い部分はあります」
修司は答えた。
「ただし、二人が直接相談する必要はありません」
共有シートに、それぞれが自分の組織で変更できる範囲を書く。
相手はそれを見る。
自分側の条件と重なるか確認する。
必要なら自分の組織内で上位判断を取る。
直接交渉を前提にしなくても、同じ情報の上で条件を擦り合わせることはできる。
先生は画面を眺めた。
「人間関係を直さなくても、仕事は繋げられるってことか」
「少なくとも、そこを前提にしない仕組みにはできます」
修司はそう答えた。
風紀委員会と万魔殿の関係を改善する。
ヒナとマコトを和解させる。
アコとイロハに頻繁に話し合ってもらう。
それができれば、確かに連携は楽になるかもしれない。
だが、それを組織運営の前提にしてしまえば、関係が悪化した瞬間に仕事まで止まる。
必要なのは、仲が良くなくても動ける仕組みだった。
先生はもう一度、Cの項目を見る。
「じゃあ、お互いに変更できる範囲を書いて、それでも重ならなかったら?」
修司はそこで手を止めた。
「その時です」
「その時?」
「先生へ調整を依頼するのは」
先生は少し目を丸くした。
「最後の最後?」
「はい」
修司は平然と答えた。
「双方が自分たちで調整可能な範囲を確認して、それぞれ必要な組織内判断も取った。それでも条件が一致しない」
修司は先生を見る。
「そこまで来て初めて、組織を跨いで調整できる人が必要になります」
先生は椅子へ背中を預けた。
「……俺の出番、だいぶ後ろになったな」
「その方がいいと思います」
「迷わないんだ」
「何をですか?」
「もうちょっと先生を頼ってもいいんですよ、とか」
修司は一瞬考えた。
「必要なら頼ります」
「必要じゃなければ?」
「自分たちで進めてもらいます」
先生は少し笑った。
「はっきりしてるなぁ」
「先生へ仕事を集中させないための改善ですから」
その横で、ミコリは三つの区分を見比べていた。
A。
担当者判断。
B。
組織内上位判断。
C。
組織間調整。
複雑な規則ではない。
誰が何分まで変更できる。
何人まで動かしていい。
どの区域なら許可できる。
そうした細かな条件を全部決めたわけでもない。
まず、自分たちで決められるのか。
自分の組織内で上へ確認する必要があるのか。
それとも、双方の条件が最後まで合わず、組織間の調整が必要なのか。
迷った時に進む方向だけを見えるようにした。
「これ、共有シートに入れるんですか?」
ミコリが尋ねる。
「はい。ただし、増やす項目は必要最低限にします」
修司が現在の共有シートを開く。
案件名。
現在地。
次担当。
更新日時。
そこへ、
**判断区分**
を追加する。
A。
B。
C。
選択肢は三つ。
さらに詳細欄へ、
**変更可能範囲**
の記入場所を追加した。
先生が画面を見る。
「思ったより増えなかったね」
「増やしすぎると使われなくなります」
「それは前にも言ってたな」
「必要な情報だけでいいんです」
修司は試作用のシートを保存した。
まだ正式運用ではない。
アコとイロハにも、それぞれの立場から確認してもらう必要がある。
実際の案件で使ってみなければ、三つの区分だけで足りるのかも分からない。
それでも、昨日までとは一つ違うものができた。
案件が止まってから、
『誰が決める?』
と考えるのではない。
最初から、
**どこまでなら自分たちで決められるのか。**
それを見えるようにする。
先生は新しく追加された『変更可能範囲』の欄を見つめた。
昨日、G-014を進めるためにアコとイロハへ個別に頼んだこと。
それが今、一つの仕組みになろうとしている。
「これで、俺に来る案件は減るかな」
先生が呟く。
修司はすぐには答えなかった。
「減るかどうかは、使ってみないと分かりません」
「やっぱりそう言うと思った」
「ただ」
修司は新しい共有シートを見ながら続けた。
「先生に聞く前に、自分たちで確認できることは増えると思います」
先生は小さく頷いた。
先生を呼ばないことが目的ではない。
先生が必要になる前に、現場でできることを終わらせる。
組織内で決められることを決める。
それでも解決できない時だけ、先生が間に入る。
今まで先生へ一つに集まっていた仕事が、少しずつ本来あるべき場所へ戻ろうとしていた。
先生は時計を見る。
まだ午前中だった。
「じゃあ、これをアコとイロハに見てもらおうか」
修司が頷く。
「はい。先生から、それぞれ個別にお願いします」
「了解」
先生は端末を手に取った。
風紀委員会と万魔殿。
確認する相手は二人いる。
だが、以前のように一方の話をもう一方へ伝えるためではない。
同じ仕組みを、それぞれの場所で使えるか確認するためだ。
画面には、新しく二つの項目が追加された共同案件共有シートが残っている。
**判断区分。**
**変更可能範囲。**
情報を見えるようにした次は。
判断できる範囲を、見えるようにする。
ゲヘナでの改善は、また一つ具体的な形を取り始めていた。
昼前。
先生はまず、風紀委員会側へ連絡を入れた。
相手はアコだった。
『判断区分、ですか?』
「うん。共有シートに追加しようと思ってる」
先生は修司が作った試作版を開きながら説明する。
これまでの共有シートでは、案件の進捗と双方の条件は確認できるようになった。
だが、条件が食い違った時、担当者がどこまで自分で決めてよいのかまでは分からない。
そこで、
A――担当者判断。
B――組織内上位判断。
C――組織間調整。
三つの区分を追加する。
さらに、自分たちがどこまで条件を変更できるのかを書く『変更可能範囲』も設ける。
一通り説明を聞いたアコは、すぐには返事をしなかった。
『考え方は分かりました。ただ、少し気になる点があります』
「どこ?」
『判断区分を誰が設定するんですか?』
先生の視線が、試作版の画面へ戻った。
「案件を担当した人……じゃ駄目?」
『それでは、結局その人が自分の権限範囲を判断することになります』
言われて、先生は黙った。
担当者が自分で、
これはA。
これはB。
これはC。
と決める。
それだけなら簡単だ。
だが今回整理しようとしているのは、そもそも担当者自身が「これは自分で決めていいのか」と迷う場面だった。
迷っている本人へ、判断区分まで丸ごと任せてしまえば、かえって負担を増やす可能性がある。
「……確かに」
『それに、案件全体を一つの区分に固定するのも難しいと思います』
「案件全体?」
『昨日のG-014でも、途中までは私の判断で処理できました。問題になったのは、通常巡回の変更が必要になってからです』
先生は共有シートを開いた。
最初からG-014全体が上位判断を必要としていたわけではない。
万魔殿から使用区域の希望が入る。
風紀委員会が確認する。
警備上の問題を見つける。
代替案を出す。
そこまでは通常の実務として進んでいる。
通常巡回そのものを変更する必要が出て、初めてアコの判断範囲を越えた。
「じゃあ、案件じゃなくて……変更する内容ごとに付ける?」
『その方が使いやすいと思います』
アコの返答は早かった。
『例えば、時間の微調整ならA。通常警備の配置変更まで必要になればB。それぞれの組織で対応できる範囲を出しても条件が一致しなければC。そういう使い方なら分かります』
先生はそのままメモへ残した。
**判断区分は案件全体ではなく、変更・判断事項ごとに設定する。**
「なるほどね」
『それと、もう一つ』
「まだある?」
『試すのであれば、最初から完璧なものを作ろうとしないでください』
先生は少し笑った。
「修司と同じこと言うなぁ」
『当然です。運用するのはこちらですから』
そこは実にアコらしかった。
仕組みを作る側が満足していても、実際に使う側の仕事が増えれば意味がない。
『入力項目が増えすぎるようなら、こちらから削除を求めます』
「はい。お願いします」
『……ずいぶん素直ですね』
「ここ何日かで学んだんだよ」
『それなら結構です』
先生は通話を終えた。
メモには二つの要点が残っている。
判断区分は変更事項ごとに設定する。
入力項目は必要以上に増やさない。
先生はそれを修司へ送った。
すぐに既読が付く。
返信は短かった。
『修正します』
「仕事早いな……」
先生は小さく呟いた。
次は万魔殿側だった。
◇
イロハへ連絡すると、こちらは説明の途中で反応があった。
『ああ、それは助かりますね』
先生は少し意外に思った。
「まだ最後まで説明してないけど」
『だいたい分かりました。自分で決めていいのか、上に投げた方がいいのかを先に分けるんですよね?』
「そうそう」
『それなら、無駄に抱えなくて済みそうなので』
いかにもイロハらしい理由だった。
できる仕事まで放り出すわけではない。
だが、自分で抱える必要のない仕事まで背負うつもりもない。
先生はアコから出た修正案も伝えた。
案件全体をA・B・Cに分類するのではなく、変更事項ごとに区分する。
『その方がいいですね』
イロハもすぐに同意した。
『一つの案件でも、途中で話が大きくなることはありますから』
「やっぱりある?」
『ありますよ。最初は机を三つ増やしたいだけだったのに、気づいたら会場配置全部を変える話になってたり』
先生は想像して少し嫌そうな顔をした。
「それは途中から別の仕事だな」
『ですよね。でも案件番号は同じだったりするんです』
だから、案件全体に固定の区分を付ける方法では対応しにくい。
変更内容が大きくなった時点で、AからBへ。
それぞれが自組織内で対応できる範囲を整理しても条件が噛み合わなければCへ。
その方が実際の仕事の流れに近かった。
「変更可能範囲の方は?」
『それもあった方が楽ですね』
イロハは少し考えてから続けた。
『ただ、「できること」を全部書くのは面倒なので、その案件に関係ある部分だけにしてください』
「例えば?」
『開始時間の話なら、開始時間をどこまで動かせるか。それだけです。関係ない搬入条件や人員まで毎回書く必要はないですよね』
「確かに」
先生はまたメモする。
項目を作ると、人は埋めたくなる。
埋める欄が増えれば、それだけ入力作業も増える。
共有シートを便利にするための改善で、報告作業ばかり増えては本末転倒だった。
『あと先生』
「うん?」
『Cになったら、すぐ先生に飛ぶんですか?』
「いや。そこは最後」
『最後?』
「まず両方が、自分たちで変えられる範囲を出す。それで重なる条件がないか確認する」
先生は整理した流れを説明した。
双方の希望が一致しない。
その時点ですぐ先生を呼ぶのではない。
風紀委員会は風紀委員会で、変更できる条件を確認する。
万魔殿も万魔殿で、変更できる条件を確認する。
共有シート上に両方を書く。
そこに重なる条件があれば、それぞれ必要な内部判断だけ取って進める。
それでも重ならなければ、初めて先生へ調整依頼を出す。
説明を聞き終えたイロハは、少し間を置いてから言った。
『先生、仕事減りますね』
「やっぱりそこ?」
『だって、そういう仕組みでしょう?』
「まあ、そうなんだけど」
『いいじゃないですか。先生が走り回らなくても終わるなら、その方が』
先生は少し笑った。
「イロハに言われると、単に仕事したくないだけに聞こえるなぁ」
『失礼ですね。効率化と言ってください』
「はいはい」
『でも、実際その方がいいと思いますよ』
イロハの声が、少しだけ真面目になる。
『毎回先生を通すより、こっちで決められることはこっちで決めた方が早いですし。先生に聞いたところで、結局こちらの事情を確認することになるでしょう?』
「昨日みたいにね」
『はい』
先生は通話を終えると、イロハから出た意見も修司へ送った。
ほどなくして、試作版が更新される。
最初の案より、むしろ少し簡単になっていた。
判断事項。
判断区分。
変更可能範囲。
備考。
それだけ。
先生は更新された画面を見ながら、修司へ連絡した。
「これだけ?」
『はい』
「最初より減ってない?」
『減りました』
「いいの?」
『使われない項目を増やすよりは』
先生は納得して端末を閉じた。
仕組みを作るというと、何かを増やすことばかり考えてしまう。
だが、必要なのは複雑な規則ではない。
迷った時に、次に何をすればいいか分かること。
それだけなのかもしれなかった。
◇
午後。
試作版を使う機会は、思ったより早く訪れた。
G-016。
『旧校舎前広場・合同訓練に伴う施設利用調整』
登録したのは風紀委員会側だった。
先生が気づいた時には、すでに最初の情報が入力されている。
訓練予定時刻。
午後二時三十分から午後四時。
使用場所。
旧校舎前広場。
必要区域。
広場中央及び南側通路。
先生は画面を確認した。
「新しいの来た」
隣で別の資料を見ていたミコリが顔を上げる。
「試せそうですか?」
「たぶん」
修司も画面を見る。
G-016自体は、それほど大きな案件ではない。
問題は、同じ日の午後二時から三時まで、万魔殿側が旧校舎前広場の一部を物資集積場所として使用する予定になっていたことだった。
時間が三十分重なっている。
風紀委員会側の更新欄に、新しい項目が表示される。
**判断事項:訓練開始時刻の変更**
**判断区分:A**
**変更可能範囲:開始時刻を最大三十分後ろ倒し可能**
先生が少し身を乗り出した。
「入った」
ミコリも画面を見る。
「三十分なら動かせるんですね」
「みたいだね」
その時点では、まだ万魔殿側の更新はない。
先生は端末を置いた。
「待つ?」
「待ちましょう」
修司が答える。
「先生が確認する理由はありません」
「分かってるよ」
先生はそう答えたものの、数分後にはまた画面を見ていた。
変化なし。
さらに五分。
また確認する。
変化なし。
ミコリが先生を見る。
「気になります?」
「そりゃ気になるよ」
「連絡しますか?」
先生は少し考えた。
そして首を振る。
「しない」
その答えに、修司は何も言わなかった。
先生自身がそう判断したなら、それでよかった。
さらに少しして、万魔殿側から更新が入った。
**判断事項:物資集積時間の変更**
**判断区分:A**
**変更可能範囲:終了時刻を午後二時四十五分まで前倒し可能**
先生は二つの条件を見比べた。
風紀委員会側は、午後二時三十分の訓練開始を最大三十分後ろへ動かせる。
つまり午後三時開始まで可能。
万魔殿側は、午後三時終了予定の物資集積を午後二時四十五分まで前倒しできる。
「これなら重ならないね」
先生が言う。
ミコリも確認する。
「はい。万魔殿が十四時四十五分に終わって、風紀委員会が十五時から始めれば大丈夫です」
先生は画面を見たまま待った。
ここで自分が入れば早い。
万魔殿側に十四時四十五分で確定できるか確認し、風紀委員会側へ十五時開始を伝える。
数分もあれば済むだろう。
だが、それをやれば結局同じだった。
先生が双方の条件を見て。
先生が確認して。
先生が重なる場所を探す。
共有シートの上に条件を出した意味が薄れる。
「……待つしかないか」
先生が呟く。
「はい」
修司が答えた。
やがて、万魔殿側から新しい更新が入った。
『風紀委員会側変更可能範囲を確認。物資集積終了を14時45分へ変更』
続いて風紀委員会側。
『万魔殿側変更を確認。訓練開始を15時へ変更』
先生は画面を見つめた。
誰からも電話は来ていない。
先生も誰にも連絡していない。
それでも、二つの予定が噛み合った。
G-016の状態が更新される。
『調整完了』
先生はしばらく何も言わなかった。
ミコリが横から顔を覗き込む。
「先生?」
「……終わった」
「はい」
「俺、何もしてない」
修司が画面を確認する。
「そうですね」
「本当に何もしてない」
「見ていました」
「それは仕事に入る?」
「今回は入りません」
「そこは少しくらい入れてくれてもいいんじゃない?」
ミコリが小さく笑った。
先生も苦笑する。
だが、視線はすぐにG-016へ戻った。
風紀委員会と万魔殿が直接話したわけではない。
アコとイロハが相談したわけでもない。
どちらかが相手へ譲歩を求めたわけでもない。
それぞれが、自分たちの場所で、自分たちが変えられる範囲を書いた。
相手はそれを確認し、自分たちの条件と重なる場所を選んだ。
それだけだった。
先生は更新履歴を上から下まで読み返した。
「これがやりたかったこと?」
修司は少し考えてから答えた。
「少なくとも、一つの形ではあります」
「俺がいなくても?」
「先生が必要ない案件なら」
その言葉に、先生は少しだけ黙った。
先生を外すことが目的ではない。
先生に仕事をさせないことが目的でもない。
必要のないところで、先生を使わない。
それだけだった。
先生はG-016の『調整完了』を見つめる。
G-014では、最後に先生を経由して上位判断が必要になった。
今回のG-016では、そこまで行かなかった。
双方が変更できる範囲を示した時点で、受け入れられる条件が見つかったからだ。
先生は椅子へ背中を預ける。
「……なんか変な感じだな」
「何がですか?」
ミコリが尋ねる。
「今までなら、こういうのが終わったら『よし、解決した』って感じだったんだけど」
先生は画面を指した。
「今回は、気づいたら終わってた」
修司はG-016の履歴を閉じた。
「それでいいんだと思います」
「地味だね」
「組織の通常業務ですから」
先生は少し笑った。
「修司、そういうところ夢がないよね」
「業務処理に夢は必要ですか?」
「たまには」
「不要だと思います」
即答だった。
ミコリがまた小さく笑う。
その横で、共有シートには次の案件が一件追加された。
先生はそれに気づいたが、すぐには開かなかった。
急ぎの表示はない。
担当者も設定されている。
次に何をするのかも書かれている。
なら、自分が今すぐ確認する必要はない。
先生は端末を伏せた。
共同案件が動くたび、先生が間に入る。
そんな状態から、少しずつ仕事の流れが変わっている。
情報だけなら、先生を通さなくても動くようになった。
そして今。
条件が少し食い違う程度なら、判断まで先生を通さず進められる案件が出始めていた。
まだ一件。
これだけで成功とは言えない。
それでもG-016は、確かに先生の手を借りず『調整完了』まで進んだ。
先生は伏せた端末へ一度だけ目を向けた。
だが、手には取らなかった。
次に本当に必要とされるまで。
今は、それでよかった。
夕方。
G-016が『調整完了』になってからも、共有シートにはいくつかの案件が追加されていた。
先生は、それらを以前ほど頻繁には確認していなかった。
気にならないわけではない。
ただ、急ぎの表示がなく、担当者も設定され、次に誰が動くのかも分かっている。
なら、自分が途中から入り込む理由はない。
先生は別の書類を処理しながら、時折端末へ視線を向ける程度に留めていた。
「先生」
ミコリの声に顔を上げる。
「どうしたの?」
「G-018、もうBに上がっています」
先生は共有シートを開いた。
今回の案件は、万魔殿側が予定していた物資搬入のため、一時的に風紀委員会の待機場所を変更する必要が生じたものだった。
最初の判断事項は、搬入時刻の調整。
A。
担当者判断。
そこでは条件が合わなかった。
次に、待機場所の一時変更。
B。
組織内上位判断。
風紀委員会側の欄には、アコが必要な条件を整理している。
『待機場所を第二詰所へ変更する場合、通常警備への影響なし。変更には風紀委員長確認必要』
万魔殿側にも、自分たちが変更可能な範囲が書かれていた。
『搬入経路変更は困難。搬入開始を二十分遅らせることは可能』
先生は履歴を追う。
「これなら、俺に来ない?」
「今のところは」
修司が答えた。
G-018はCには上がっていない。
風紀委員会側は、自分たちの組織内で確認すれば対応できる。
万魔殿側も、必要な範囲をすでに提示している。
先生が相手側の事情を聞きに行く必要も、どちらかを説得する必要もなかった。
「Bって、ちゃんと使われてるんだな」
先生が言う。
「はい」
「何でもAにして現場へ押し付けるわけでもなく、何でもCにして俺へ流すわけでもない」
修司は共有シートを見ながら頷いた。
「今のところは、そのようです」
先生は少しだけ笑った。
「まだ評価しないんだ」
「一日目ですから」
「分かってたよ」
それから十分ほどして、G-018に新しい更新が入った。
風紀委員会側。
『待機場所変更承認。第二詰所へ一時移動』
続いて万魔殿側。
『変更確認。搬入時刻は予定通りで進行』
状態は、
『調整完了』
へ変わった。
先生は画面を見たまま、しばらく何も言わなかった。
G-016。
G-018。
同じ日に二件。
どちらも先生が途中で調整に入っていない。
しかも、一つは担当者判断だけで。
もう一つは組織内上位判断まで使って。
それぞれ別の形で完了していた。
ミコリもそれに気づいていた。
「Aだけじゃなくて、Bも機能しましたね」
「うん」
先生は小さく頷いた。
「Cにならなくても進められるんだな」
修司はそこで初めて、少し長く画面を見た。
「その方が自然だと思います」
「自然?」
「本来、組織内で決められることまで先生へ持っていく必要はありません」
先生は苦笑する。
「言われると当たり前なんだけどな」
「当たり前のことほど、仕組みがないと崩れます」
先生はその言葉に少し考え込んだ。
誰も、先生へ仕事を押し付けたいわけではなかった。
風紀委員会も、万魔殿も、それぞれ自分たちの仕事を進めようとしていただけだ。
ただ、
誰に聞けば早いか。
誰なら事情を知っているか。
誰なら間を繋げられるか。
その答えが、ずっと先生だった。
だから少しずつ、先生へ集まった。
今回作った判断区分も、誰かを責めるためのものではない。
本来それぞれの場所で決められることを、そこへ戻すための仕組みだった。
先生は椅子へ背中を預ける。
「なんか、やっと見えてきた気がする」
「何がですか?」
ミコリが尋ねる。
「俺の仕事」
先生は共有シートを指した。
「今までは、何でも俺が間に入ってたから、自分でもどこからどこまでが俺の仕事なのか分かってなかった」
情報を聞く。
相手へ伝える。
条件を確認する。
進捗を追う。
誰に判断を求めるか考える。
必要なら妥協案を作る。
先生が全部やっていた。
そのせいで、どれが本当に先生でなければならない仕事なのかが見えなくなっていた。
「共有シートで情報の仕事が減って」
先生は続ける。
「今度は判断区分で、現場や組織の中で決められることが分かれてきた」
「はい」
修司が答える。
「じゃあ最後に残るのが、本当に俺じゃないと難しい案件?」
「その可能性はあります」
修司は慎重に答えた。
「ただ、それも決めつけない方がいいと思います」
「まだ減る?」
「減らすことが目的ではありません」
修司は先生を見る。
「先生だからこそできる仕事が残るなら、それは残すべきです」
先生は少し意外そうに目を瞬いた。
「全部外したいわけじゃないんだ」
「当然です」
修司の答えは早かった。
「組織改革は先生を不要にすることではありません」
その言葉に、先生の表情が少しだけ変わった。
「必要な仕事に集中できるようにすることです」
先生は返事をせず、共有シートへ目を戻した。
G-016。
調整完了。
G-018。
調整完了。
その二つの案件に、自分の名前はない。
だが、不思議と取り残されたような感覚はなかった。
むしろ少しだけ、肩の力が抜けていた。
「……そっちの方がいいな」
先生が呟く。
「何がですか?」
「俺を外すんじゃなくて、俺じゃなくてもいい仕事を外すって方」
修司は小さく頷いた。
「そのつもりです」
◇
その日の運用が一段落したあと。
先生はアコとイロハへ、それぞれ個別に連絡を入れた。
まずアコ。
「今日の判断区分、どうだった?」
『今のところは使えています』
「分かりにくいところは?」
『Bへ上げる判断は、思ったより迷いませんでした』
アコは少し間を置いて続ける。
『通常業務へ影響するなら上へ。影響しないなら自分たちで。少なくとも、その考え方なら整理しやすいです』
「Cは?」
『今日は使っていません』
「使わない方がいい?」
『必要なら使います』
アコの返答は明快だった。
『ただ、最初から先生へ回すための区分にはしないでください』
先生は少し笑った。
「そこは修司にも言われてる」
『なら結構です』
通話を終え、次にイロハへ。
こちらも反応は似ていた。
『楽ですね』
「何が?」
『上に投げる理由を説明しやすいんです』
先生は少し意外に思った。
「そこ?」
『はい。「なんとなく不安だから確認お願いします」だと、こっちも説明が面倒なんですよ』
イロハは気怠そうな声のまま続ける。
『でもBなら、「通常計画に影響するから上位判断です」で済みます』
「なるほど」
『逆にAなのに毎回上へ持っていったら、仕事が増えるだけですし』
「それはそうだね」
『Cも、最後の最後だけならいいんじゃないですか』
「先生に?」
『はい。何でも先生は面倒ですけど、本当に詰まった時まで先生を使わない理由もないでしょう』
先生は思わず笑った。
「使うって言い方やめない?」
『では、頼る』
「そっちの方がいい」
『意味は同じですけどね』
先生は通話を切りながら、小さく息を吐いた。
アコもイロハも、今日のところは大きな問題を感じていない。
それだけでも十分だった。
最初から完成した制度を押し付けたわけではない。
使ってもらい。
意見を聞き。
必要なら直す。
その繰り返しでいい。
先生が戻ると、修司とミコリは今日の運用結果を確認していた。
「二人とも、今のところは大丈夫そう」
先生が言う。
「そうですか」
「アコは、通常業務に影響するならBっていう基準が分かりやすいって。イロハは、上に確認する理由を説明しやすいって言ってた」
修司はその二点を記録した。
先生が画面を覗き込む。
「明日もこのまま?」
「はい」
「変えないの?」
「今のところ、急いで直す理由はありません」
先生は少し笑う。
「前なら、何か一個意見が出たらすぐ直しそうだったのに」
「それをやると、現場が毎日違う仕組みを使うことになります」
「学んでるね」
「最初から分かっています」
「またそれ言う」
ミコリが小さく笑った。
穏やかな空気の中、先生は共有シートを閉じた。
今日はもう十分だった。
二件の共同案件が、判断区分を使って処理された。
先生が途中に入らず。
アコとイロハが直接会話することもなく。
それでも仕事は止まらなかった。
先生は時計を見る。
「今日はもう終わりにしようか」
「はい」
修司も端末を閉じる。
その時だった。
机の端に置かれていた生命の書が、淡い光を帯びた。
三人の視線が集まる。
誰も触れていない。
それでも表紙が静かに開き、ページがひとりでにめくられていく。
止まったのは、案件No.21。
**『ゲヘナ学園 情報共有の標準化』**
第一段階。
**『情報共有の仕組み構築』**
これまで表示されていた記録の下へ、新しい文字が浮かび上がった。
**判断経路整理――試験運用開始。**
続いて、
**担当者判断・組織内上位判断による共同案件処理――確認。**
先生はその文字をじっと見つめる。
「ちゃんと見てるんだな」
修司は何も答えなかった。
生命の書が何を基準に判断しているのか。
それを完全に理解している者はいない。
やがて、ページ下部の数字が静かに揺らいだ。
**32%**
数字が薄れ、新しい値へ変わる。
**46%**
ミコリが数字を読む。
「四十六パーセント」
先生も覗き込む。
「結構上がったな」
「まだ半分以下です」
修司が答える。
「そういうところだけ現実的だね」
先生は苦笑した。
だが、生命の書に表示された内容を見る限り、今日の試みは少なくとも無意味ではなかった。
情報を共有する。
判断できる範囲を示す。
組織内で決められるものは、組織内で決める。
それでも条件が合わない時だけ、次の段階へ上げる。
やっていることは地味だった。
ヒナとマコトが和解したわけでもない。
風紀委員会と万魔殿が友好的になったわけでもない。
アコとイロハが直接連絡を取り合うようになったわけでもない。
それでも、共同案件は前より少ない手数で進むようになっている。
先生は生命の書から共有シートへ視線を移した。
「俺が全部知ってる必要も、全部決める必要もないんだな」
修司は頷いた。
「はい」
「でも、本当に必要な時は?」
「その時はお願いします」
先生は少し笑った。
「必要な時だけ呼ばれる?」
「それが普通だと思います」
先生はしばらく黙っていたが、やがて椅子へ深く身体を預けた。
「普通になるのって、結構大変なんだね」
誰もすぐには答えなかった。
共有シートには、その日完了した案件が静かに並んでいる。
派手な変化ではない。
誰かの性格が変わったわけでもない。
関係が劇的に改善したわけでもない。
ただ、仕事の流れだけが少しずつ変わっていた。
人間関係に頼らず。
誰か一人の善意にも頼らず。
必要な情報と判断を、必要な場所へ置く。
ゲヘナでの改革は、ようやく「先生がいれば回る組織」から、「先生が必要な時だけ頼れる組織」へ近づき始めていた。