翌日。
昼を少し過ぎた頃、先生の端末に共同案件共有シートの更新通知が届いた。
先生は開いていた書類から目を離し、通知だけを確認する。
新規案件。
G-021。
万魔殿主催の催事に伴う、市街中央通りの警備調整だった。
以前なら、その時点で詳細を開いていただろう。
だが、先生は通知を消して書類へ戻った。
「見ないんですか?」
向かいに座っていたミコリが尋ねる。
「急ぎじゃないみたいだからね」
「気になってはいます?」
「すごく」
先生は即答した。
ミコリが少しだけ口元を緩める。
「でも、担当者がいるんでしょ?」
「はい。風紀委員会側、万魔殿側ともに設定されています」
「なら、まず任せる」
そう言いながらも、先生の視線は一度だけ端末へ戻った。
手は伸ばさなかった。
修司は二人の会話を聞きながら、手元の資料へ目を落としたままだった。
昨日から運用を始めた判断区分が、すべての案件を解決できるとは考えていない。
使えば、想定していなかった問題も出る。
だからこそ、実際の運用を見る必要がある。
三十分ほど経った頃だった。
再び通知音が鳴る。
今度は一度では終わらなかった。
先生が顔を上げる。
「増えたね」
ミコリが共有シートを開いた。
「G-021です」
その言葉を聞いて、先生も端末へ手を伸ばした。
案件の概要には、万魔殿が週末に予定している催事の情報が記載されていた。
開催場所はゲヘナ市街中央部。
開始予定は午後一時。
会場周辺では正午から搬入と設営が始まり、終了は夕方を予定している。
規模そのものは、ゲヘナでは珍しくない。
問題になっているのは警備だった。
万魔殿側の要請欄には、必要な警備人員が記載されている。
**風紀委員会より十二名の派遣を希望。**
先生の視線が、その数字で止まった。
「十二人?」
「多いですね」
ミコリが言う。
催事の規模を考えれば理由のない数字ではない。
中央通りには複数の出入口があり、設営中も一般生徒の往来がある。万魔殿側は会場内の運営へ人員を割くため、周辺警備について風紀委員会の協力を求めていた。
だが、その下に風紀委員会側からの回答が追加されている。
**派遣可能人員:最大六名。**
先生の眉がわずかに寄った。
半分だった。
「何か重なってる?」
修司が尋ねる。
ミコリは風紀委員会側の記録を確認した。
「同じ時間帯に、市街西区で定期警備があります。それ以外にも通常巡回があるので、十二名を出すと一部区域の警備人員が不足します」
先生は予定表を確認した。
万魔殿の催事だけを見れば、十二名を出した方が安全だろう。
だが、風紀委員会が守っているのは催事会場だけではない。
一か所へ人を集めれば、その分だけ別の場所が薄くなる。
先生は画面をスクロールした。
すでにアコから更新が入っている。
**判断事項:催事警備への派遣人数**
**判断区分:B**
**変更可能範囲:六名まで派遣可能。七名以上は通常警備計画へ影響。**
必要な確認も終わっていた。
風紀委員会内部で検討した結果、通常警備を維持したまま出せる上限が六名だった。
「じゃあ、風紀委員会側は六人が限界か」
先生が呟く。
「現状では、そうなっています」
ミコリが答えた。
万魔殿側も動いていた。
少し遅れて更新が入る。
**判断事項:必要警備人数の削減**
**判断区分:B**
**変更可能範囲:最低十名。**
十二名から二名減っている。
イロハが万魔殿側で運営配置を見直したらしい。
一部の案内業務を万魔殿側で担当し、風紀委員会へ求める人数を減らしている。
先生は二つの数字を見比べた。
六名。
十名。
まだ四名足りない。
「時間をずらすのは?」
先生が尋ねる。
「すでに確認されています」
ミコリが記録を開いた。
万魔殿側。
**催事開始時刻:変更困難。**
理由も簡潔に書かれていた。
事前告知済み。
出店者の搬入予定確定済み。
外部参加団体との調整済み。
一時間単位で開始を遅らせれば、会場側だけでなく複数の予定を組み直す必要がある。
風紀委員会側も、西区の定期警備について確認していた。
こちらも時間変更は難しい。
「今回は、簡単に動かせないな」
先生の声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
誰かが入力を忘れているわけではない。
相手の事情を知らないわけでもない。
双方とも、自分たちが変えられる範囲を調べている。
それでも数字が合わなかった。
修司が先生の横から画面を見る。
「他の条件は?」
「確認します」
ミコリが履歴を追った。
風紀委員会側から、警備区域を限定できないかという確認が入っている。
万魔殿側が会場図を更新。
警備対象を一部縮小。
その結果、必要人数は十名から九名まで減った。
先生が少し身を乗り出す。
続いて万魔殿側から、風紀委員会の派遣可能人数を増やせないかという確認。
風紀委員会側では配置を再検討。
一部巡回の順番を変更することで、一名だけ追加可能との回答が出た。
六名から七名。
画面に残った数字は、
七名。
九名。
差は二名まで縮まった。
「もう少しだな」
先生が言った。
だが、それから更新が止まった。
五分。
十分。
先生は何度か端末へ視線を向けた。
新しい通知は来ない。
「先生」
修司に呼ばれ、先生が顔を上げる。
「うん?」
「連絡しようとしていました?」
先生の手には端末があった。
「……まだしてない」
「まだ、ですか」
「だって二人だよ。あと二人なら、どっちかでもう少し何とかできないか聞けば――」
そこまで言って、先生は口を閉じた。
自分が何をしようとしていたのか気づいたからだ。
アコへ連絡して、あと二人出せないか聞く。
駄目ならイロハへ連絡して、あと二人減らせないか聞く。
それでも駄目なら一人ずつ。
そうやって条件を往復させる。
今まで何度もやってきた方法だった。
先生は端末を机へ戻した。
「……危なかった」
修司は何も言わない。
責める必要はなかった。
先生自身が止まった。
ミコリは共有シートを見ながら言う。
「双方とも、変更可能範囲は更新されています」
「うん」
先生も確認する。
風紀委員会側。
**派遣可能人員:最大七名。これ以上は通常警備区域の縮小が必要。**
万魔殿側。
**必要警備人員:最低九名。これ以上の削減には催事運営計画の変更が必要。**
どちらも、その先へ進めるなら自分たちの組織だけでは決められない。
先生は椅子に座り直した。
「情報は足りてる」
「はい」
「どこまで変えられるかも分かってる」
「はい」
「それでも合わない」
今度は修司が頷いた。
先生は画面に並ぶ二つの数字を見た。
七。
九。
たった二人。
だが、その二人をどちらが負担するかを決めるには、それぞれが守ろうとしているものへ手を入れなければならない。
風紀委員会が二名を追加すれば、別区域の警備体制を変える必要がある。
万魔殿が二名を削れば、催事の運営計画そのものを変えなければならない。
どちらかが少し我慢すればいい。
数字だけなら、そう見える。
けれど、その「少し」を誰が決めるのか。
先生には決められない。
「これ、俺が勝手に七と九の間を取って八にしていい話じゃないよな」
「当然です」
修司が答えた。
「ですよね」
先生は苦笑した。
以前なら、八名という妥協案を持って双方へ走ったかもしれない。
だが、八名で成立する保証はどこにもない。
風紀委員会にとって八人目が出せるかどうか。
万魔殿にとって九人目を削れるかどうか。
それぞれの責任者が判断することだった。
ミコリが画面を指した。
「更新されました」
三人の視線が集まる。
G-021。
新しい判断事項が追加されている。
**判断事項:現行の変更可能範囲では条件一致せず。**
その下。
**判断区分:C**
先生の表情が変わった。
昨日まで、そこにはAかBしか入っていなかった。
作った時には必要になると分かっていた。
それでも、実際の案件で表示されるのは初めてだった。
「……来たか」
先生は小さく呟いた。
ミコリはその下に追加された記録を読む。
**双方、組織内での調整可能範囲を確認済み。**
**組織間調整が必要。**
画面はそこで止まっている。
誰かが入力を忘れているわけではない。
誰かの返事が遅いわけでもない。
必要な情報は揃っている。
双方とも、自分たちだけでできるところまでは進めた。
それでも決まらなかった。
先生はしばらく画面を見たあと、端末を手に取った。
今度は、修司も止めなかった。
先生がそれに気づく。
「止めないんだ?」
「何をですか?」
「俺が連絡するの」
修司は先生を見る。
「Cなんでしょう?」
「ああ」
「なら、先生が必要になる可能性はあります」
先生の指が止まった。
可能性。
必要だから、何でもやる。
そういう意味ではなかった。
先生は端末を持ったまま、少し考える。
「……俺、何をすればいい?」
その問いに、修司はすぐ答えなかった。
代わりに、共有シートへ視線を戻す。
そこには、アコとイロハがそれぞれ確認した条件がすべて残っていた。
先生が聞き直す必要のある情報は、一つもない。
「それを決めるところからじゃないですか」
修司が言う。
先生も画面を見る。
今までなら、Cになった瞬間から自分が全部引き取っていた。
けれど今回は違う。
情報はもう運ばなくていい。
進捗も聞かなくていい。
双方がどこまで譲れるのかを、一から調べ直す必要もない。
なら。
この先、本当に自分にしかできないことは何なのか。
先生はアコへの連絡画面を開きかけて、そこで一度手を止めた。
「……先に整理しよう」
端末を机へ戻す。
「俺がやること」
修司が頷いた。
G-021は、まだ止まったままだった。
だが今度は、その止まり方そのものがはっきり見えていた。
「俺がやること、か」
先生は共有シートを見たまま呟いた。
G-021。
風紀委員会側の上限は七名。
万魔殿側の下限は九名。
双方とも、自分たちの組織内で動かせる範囲までは確認済み。
ここから先へ進めるには、どちらかが今まで守っていた条件をもう一段動かさなければならない。
先生は椅子へ座り直した。
「今までなら、まずアコに電話してたな」
「何を確認しますか?」
修司が尋ねる。
「あと一人か二人出せないか。それが無理なら、どこを変えれば出せるか」
「それは?」
先生は画面へ目を落とす。
風紀委員会側の欄には、すでに答えがある。
七名を超える場合、通常警備区域の縮小が必要。
「……書いてある」
「はい」
「じゃあイロハに、あと一人減らせないか聞く」
「それも?」
万魔殿側。
九名未満へ削減する場合、催事運営計画の変更が必要。
先生は少しだけ顔をしかめた。
「書いてあるね」
修司は頷く。
「では、先生が今から二人へ同じことを聞いても、新しい情報は増えません」
先生は端末を指先で軽く叩いた。
分かっている。
だからこそ困っていた。
今までなら、止まった案件を見れば自分が動いた。
足りない情報を探す。
条件を聞く。
相手へ伝える。
妥協できそうな場所を探す。
その一連の流れが、いつの間にか一つの仕事になっていた。
今は、その大半が必要なくなっている。
「じゃあ、残ってるのは?」
ミコリが共有シートの記録を確認しながら答えた。
「風紀委員会側が通常警備へ影響する変更を受け入れるか。万魔殿側が催事運営へ影響する変更を受け入れるか。その判断です」
先生は少し考えた。
「それ、俺には決められない」
「はい」
修司の返答は早かった。
「先生には風紀委員会の警備体制を変更する権限はありません。万魔殿の催事運営を変更する権限もありません」
「じゃあ、俺が決める仕事じゃない」
「そうなります」
先生は数秒黙った。
それなら自分の出番はないようにも聞こえる。
だが、共有シートにはCと表示されている。
組織間調整。
双方が自分たちの通常範囲で処理できなくなった案件。
「でも、このまま放っておいても止まったままだよね」
「はい」
「ヒナさんとマコトに、それぞれ判断してもらう?」
修司はすぐには答えなかった。
代わりにミコリが記録を確認する。
「風紀委員会側では、七名を超える派遣について上位判断が必要です。万魔殿側も、九名未満への変更には催事計画の再検討が必要とされています」
先生は頷いた。
「なら、そこまで上げる」
そう言って端末を持つ。
今度は迷わなかった。
ただし、開いたのはアコの通話画面ではない。
共有シートのG-021だった。
先生は新しい欄へ短く入力する。
**C区分移行確認。**
**双方、現行範囲内では条件一致せず。各組織内で上位判断を依頼。**
保存。
修司がその画面を見る。
「先生から条件を指定しないんですね」
「指定できないでしょ」
先生は端末を置いた。
「七人出してくださいとも、九人で我慢してくださいとも、俺が勝手に言える話じゃない」
修司は何も付け加えなかった。
必要な判断を、判断できる場所へ戻す。
それだけだった。
◇
風紀委員会側の更新は早かった。
先生の記録が追加されてから十分ほどで、アコから新しい書き込みが入る。
**上位判断依頼済み。**
それ以上の説明はない。
すでに必要な資料は共有シート上に揃っている。
先生は通知だけを確認し、画面を閉じようとした。
その直前。
別の更新が入る。
万魔殿側。
**催事計画変更可否について上申。**
こちらも短い。
「両方、上がったな」
先生が言う。
ミコリは時刻を記録する。
「はい」
先生は反射的に次の通知を待った。
一分。
二分。
当然ながら返答は来ない。
「……そりゃ、すぐには決まらないか」
「内容が内容ですから」
修司が答えた。
七人目までは、現場の調整で決められた。
そこから先は、別の警備区域をどう扱うかという話になる。
万魔殿側も同じだった。
九名までは運営方法の工夫で減らせた。
そこから先は催事の構成自体へ手を入れることになる。
数分で答えを出す方が不自然だった。
先生は端末を伏せた。
「待つしかないね」
誰に言うでもなく呟いた。
以前なら、待たなかったかもしれない。
返答が遅ければ自分から様子を見に行く。
何に迷っているのか聞く。
その場で別案を考える。
けれど、それを繰り返せば、結局判断の途中まで先生が引き取ることになる。
今は待つ。
判断する側が、自分たちの責任で考える時間を残す。
先生は別の書類へ手を伸ばした。
十分ほどは集中できた。
その後、一度だけ端末を見る。
変化なし。
「まだですね」
ミコリが言った。
「見ただけだよ」
「何も言っていません」
「最近それ多くない?」
「先生が先に弁明するからでは?」
先生が少し困ったように笑った。
修司は二人のやり取りを聞きながらも、G-021の画面を開かなかった。
今確認しても、状況は変わらない。
◇
最初に返答が入ったのは風紀委員会側だった。
午後三時を少し過ぎた頃。
共有シートにヒナの判断が反映された。
**通常警備区域の全面縮小は不可。**
その下に続きがある。
**ただし、西区警備の一部を時間帯限定で再配置する場合、追加一名まで派遣可能。**
先生は文章を二度読んだ。
「一人増えた」
七名から八名。
ただし、風紀委員会が無条件に譲ったわけではない。
通常警備そのものを削ることは認めない。
安全を維持できる範囲で、一部の配置を調整する。
ヒナらしい判断だった。
修司は記録を見ながら言う。
「風紀委員会側は八名までですね」
「あと一人」
先生は万魔殿側の欄を見る。
まだ返答はない。
一人。
数字だけを見れば小さい。
だが、ここまで残った一人には、それまでとは違う重みがあった。
先生はイロハへ連絡しそうになり、やめた。
万魔殿側は今、上位判断中だ。
風紀委員会が八名まで出せるようになったことは、共有シートを見れば分かる。
自分が伝える必要はない。
「待つんですね」
ミコリが言う。
「待つ」
今度は即答だった。
◇
万魔殿側の更新が入ったのは、それから二十分ほど後だった。
先生は通知を見るなり、共有シートを開く。
最初に表示されたのは、イロハによる記録だった。
**風紀委員会側変更条件を確認。**
続いて、
**万魔殿側必要人数:九名を維持。**
先生の表情が止まる。
「変わらなかった」
ミコリも記録を確認する。
「はい」
その下には理由が追記されていた。
催事会場の三か所に外部から参加する団体が入るため、警備区域をこれ以上減らすと導線管理が成立しない。
人員配置を組み直しても、最低九名。
万魔殿側としては、それ以下では予定通りの催事運営を保証できない。
「じゃあ、八と九」
先生が呟いた。
差は一人。
だがまだ重ならない。
修司が画面を見つめる。
「万魔殿側の判断は、これで最終ですか?」
「記録上は、上位判断後の値です」
ミコリが答える。
その時、新しい追記が入った。
イロハからだった。
**代替案:会場南側入口の閉鎖を行う場合、警備人員八名で運営可能。**
先生が顔を上げる。
「八でいける?」
続きが表示される。
**ただし、入口閉鎖には催事計画変更と来場者導線の再設定が必要。実施可否は万魔殿上位判断。**
先生は小さく息を吐いた。
「まだ決まってないのか」
万魔殿側は九名を維持したい。
しかし、八名で成立させる方法そのものは見つけた。
その方法を採るかどうかが、まだ決まっていない。
「少し近づきましたね」
ミコリが言う。
先生は頷く。
最初は七対九。
今は八対八まで条件を合わせる方法が見えている。
だが、条件が一致したからといって、自動的に採用されるわけではない。
万魔殿が南側入口を閉鎖するという変更を受け入れる必要がある。
先生は共有シートを見ながら言った。
「これなら、マコトが決めれば終わる?」
「万魔殿側の変更ですから、最終的にはそうなります」
修司が答える。
先生は端末を置いた。
そのまま数分が過ぎた。
しかし、返答は来ない。
先生が時計を見る。
「時間かかってるな」
「催事の運営計画を変える判断ですから」
「それだけかな」
先生の言葉に、修司が視線を向けた。
先生は少し迷ったあと続ける。
「ヒナさん側が八人まで出した。それで八人なら成立する案が出た。普通に考えれば、それで終わりそうなんだけど」
修司は答えなかった。
万魔殿内部で何が話されているかは、共有シートからは分からない。
推測で決めつけるべきではない。
その時。
イロハから先生へ直接着信が入った。
先生と修司が同時に端末を見る。
「……来た」
先生が通話を取る。
「はい」
『先生、お疲れ様です』
いつもの気怠そうな声だった。
「お疲れ様。G-021?」
『はい。見てますよね』
「見てる」
『なら話は早いです』
一拍置いて、イロハが続ける。
『南側入口を閉じれば、八人でも一応回せます』
「うん」
『風紀委員会側も八人までなら出せる』
「それも見た」
『ですよね』
イロハはそこで少しだけ間を置いた。
『ただ、議長があまり乗り気じゃありません』
先生は黙った。
予想できなくはなかった。
だが、理由を勝手に決めつけるわけにはいかない。
「理由は?」
『入口を閉じると、当初の計画を変えることになるから……というのが表向きですね』
「表向き?」
『先生』
イロハの声に、わずかな疲れが混じった。
『ヒナ委員長側が条件を出した直後に、こちらだけ計画を変える形になるのが気に入らないみたいです』
部屋の空気が少し変わった。
先生は視線を共有シートへ戻す。
そこには感情は書かれていない。
風紀委員会八名。
万魔殿八名で運営可能。
数字だけなら、すでに重なっている。
「イロハはどう思う?」
先生が尋ねた。
『変えた方が楽ですね』
迷いはなかった。
『入口一つ閉めるだけで成立するなら、その方が早いです。来場者導線の修正は必要ですけど、できない仕事ではありません』
「じゃあ、マコトを説得してほしい?」
『それ、先生から言われると余計ややこしくなると思いますよ』
先生が少し目を見開いた。
「そうなの?」
『ヒナ委員長のために先生まで口を出してきた、みたいに取られたら面倒なので』
実にありそうだった。
先生は額を押さえかけて、やめた。
「じゃあどうする?」
『一応、私からもう一回説明します。八人で成立するなら、わざわざ止める意味もありませんし』
「俺は?」
『今は何もしないでください』
返事が早かった。
先生は思わず笑う。
「そこまではっきり言う?」
『先生が出てきて話が大きくなったら困るので』
「はいはい」
『必要になったら呼びます』
イロハとの通話が切れた。
先生はしばらく端末を見つめていた。
修司が尋ねる。
「どうしますか?」
「何もしない」
今度は迷わなかった。
「イロハが自分の組織の中でやるって言ったから」
「はい」
先生は共有シートへ目を戻した。
条件はすでに重なっている。
残っているのは制度ではない。
数字でもない。
人間の判断だった。
しかも今回は、単純な実務判断だけではない。
マコトとヒナの間にある感情が、その判断へ入り込んでいる。
それを共有シート一枚で消すことはできない。
先生は少し考えてから口を開いた。
「仕組み作っても、こういうのは残るんだな」
修司は頷いた。
「人間関係まで消す仕組みではありませんから」
「でも、今どこで止まってるかは分かる」
「はい」
以前なら。
万魔殿側から「まだ決まりません」とだけ聞き、先生が原因を探しに行っていたかもしれない。
今は違う。
実務条件は成立している。
風紀委員会側の判断も終わっている。
残っているのは、万魔殿内部の最終判断だけ。
先生はそこまで分かっている。
だから、今やることも分かる。
待つ。
少なくとも、今は。
◇
午後四時半。
まだG-021は完了していなかった。
先生は何度か共有シートを確認したが、万魔殿側の最終判断は入らない。
「今日は無理かな」
ミコリが尋ねる。
先生は時計を見る。
「かもしれないね」
「先生から再確認しますか?」
少し意地悪な聞き方だった。
先生は苦笑する。
「しないよ」
「はい」
「……試した?」
「何をでしょう」
「絶対分かってるだろ」
ミコリは答えなかった。
修司が資料を閉じる。
「今日中に決めなければならない案件ですか?」
ミコリが期限を確認する。
「催事まではまだ日があります。警備計画の確定期限も明日です」
「なら、今日は待てます」
修司はそれだけ言った。
先生は画面を見る。
G-021。
状態は、
**C――組織間調整中。**
未完了。
先生の中に、少しだけ落ち着かない感覚が残る。
仕事が残ったまま一日を終える。
自分が動けば、もう少し進むかもしれないのに。
それでも動かない。
今までなら、それを怠慢のように感じたかもしれない。
先生は端末を閉じた。
「明日まで待とう」
修司が頷く。
「はい」
解決していない。
けれど、誰も迷子にはなっていなかった。
誰が何を判断しているのか。
どこまで進んだのか。
何が残っているのか。
すべて見えている。
G-021は止まっていた。
だが、それは以前のような「分からないから止まっている」状態ではなかった。
答えを出すべき場所で、答えが出るのを待っている。
先生は伏せた端末から手を離した。
今日できることは、そこまでだった。
翌朝。
G-021は、まだ『C――組織間調整中』のままだった。
先生が共有シートを開いた時点で、新しい更新はない。
期限は今日。
警備計画を確定できなければ、万魔殿側は催事準備へ影響が出る。
先生は画面を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
「まだか」
ミコリが横から確認する。
「はい。最終更新は昨日の夕方です」
修司も共有シートを見る。
条件そのものは、昨日の時点で揃っている。
風紀委員会は八名まで派遣可能。
万魔殿も、南側入口を閉鎖するなら八名で運営可能。
実務上は成立している。
止まっている理由も分かっている。
万魔殿側の最終判断。
それだけだった。
先生はしばらく画面を眺めた後、端末を置いた。
「今日が期限なんだよね」
「はい」
ミコリが答える。
「警備計画確定は本日中です」
昨日とは違う。
待てる時間が短くなっている。
先生は少し考えた。
「昨日は待った」
「はい」
「でも今日は、何もしないで終わるわけにはいかない」
修司が先生を見る。
「そうですね」
「じゃあ、どこまでやる?」
先生はそれを誰かへ答えてほしくて聞いたわけではなかった。
自分自身への確認に近かった。
昨日、イロハからは「今は何もしないでください」と言われた。
理由も分かる。
先生が出れば、ヒナ寄りの介入だと受け取られる可能性がある。
だから待った。
だが、期限まで待ち続ければ、今度は案件そのものが止まる。
待つことと、放置することは違う。
先生は共有シートをもう一度開いた。
「マコトに直接話す前に、イロハへ確認する」
修司は止めなかった。
「何を確認しますか?」
「万魔殿側で、もう判断が出てるのか。それともまだ検討中なのか」
先生は少し間を置いて続けた。
「ただし、内容を聞きに行くわけじゃない。止まっている理由は分かってるから」
それなら、昨日までの伝言役とは違う。
先生はイロハへ連絡を入れた。
ほどなくして繋がる。
『先生、おはようございます』
「おはよう。G-021、今いい?」
『はい』
「昨日の続きなんだけど、まだ判断待ち?」
電話の向こうで、短い間があった。
『……そうですね』
「まだ検討してる?」
『検討、というより』
イロハの声に、少しだけ疲れが混じる。
『議長が納得していません』
先生は黙った。
「入口を閉じることに?」
『それもありますけど、それだけじゃないですね』
イロハは少し言葉を選んだ。
『風紀委員会側が八人まで出した。それに合わせてこちらが計画を変える。そういう形に見えるのが嫌みたいです』
先生は昨日聞いた内容を思い出す。
「やっぱりそこか」
『はい』
「イロハからは話した?」
『しましたよ。入口を一つ閉じるだけなら、運営上は対応できますって』
「反応は?」
『ヒナ委員長側の都合に合わせる必要はない、だそうです』
先生は目を閉じかけ、やめた。
「……マコトらしいな」
『否定はしません』
イロハの声は淡々としていた。
その言い方に、妙な諦めはない。
ただ、長く一緒に仕事をしてきた者の疲労だけが少し滲んでいた。
先生は共有シートを見る。
数字は揃っている。
実務上の案もある。
それでも、人間の感情が最後に引っ掛かっている。
「今日が期限だよね」
『はい』
「このまま決まらないと?」
『警備計画が確定しないので、催事準備を一部止める必要があります』
「万魔殿側も困る?」
『当然です』
「じゃあ俺からマコトに話す」
電話の向こうで、イロハが一瞬黙った。
『先生』
「うん」
『話すなら、ヒナ委員長がどうこうって話はしないでください』
「分かってる」
先生はすぐに答えた。
「催事を成立させるために、今日中に判断が必要だって話だけする」
『それなら』
イロハの声が少しだけ軽くなる。
『お願いします』
通話が切れる。
先生は端末を置いた。
修司が尋ねる。
「何を伝えますか?」
「万魔殿が悪いとも、ヒナさんが譲ったとも言わない」
先生は共有シートの内容を指で追う。
「八人なら成立する案がある。期限は今日。それだけ」
修司は頷いた。
それ以上は必要なかった。
◇
万魔殿。
先生が訪れた時、マコトは机の上に広げられた資料を前にしていた。
イロハも少し離れたところにいる。
先生が入ってくると、マコトが顔を上げた。
「先生か。何の用だ?」
「G-021の件で」
その言葉に、マコトの表情が少し険しくなる。
「風紀委員会の使いか?」
先生は即座に首を横に振った。
「違うよ」
「なら何だ」
先生は共有シートを開いた。
「今日が警備計画の確定期限だから、判断だけ確認しに来た」
マコトは画面へ目を向ける。
そこには、すでに見慣れた数字が並んでいる。
風紀委員会。
八名まで派遣可能。
万魔殿。
南側入口を閉鎖する場合、八名で運営可能。
先生はそれ以上説明しなかった。
マコトが眉を寄せる。
「それなら見れば分かる」
「うん」
「なら、わざわざ来る必要もなかろう」
先生は少し間を置いた。
「でも、まだ決まってない」
マコトの視線が鋭くなる。
「それがどうした」
「今日中に決めないと、催事準備が止まる」
先生は淡々と続ける。
「万魔殿側も困るはずだよ」
「我々が困るかどうかは我々が決める」
「そうだね」
先生は否定しなかった。
「だから決めてほしいんだ」
その一言で、マコトの表情が少し変わった。
先生が何か案を押し付けに来たわけではない。
風紀委員会側へ譲れとも言っていない。
ただ、判断を求めている。
マコトは共有シートへ視線を落とした。
「八名で回せるというのは、本当なのか?」
イロハが答える。
「南側入口を閉じれば、可能です」
「来場者への影響は?」
「導線の変更は必要ですが、対応できます」
「出店者は?」
「南側入口を使う予定の二組だけ変更になります。連絡すれば間に合います」
マコトは舌打ちしそうな顔をしたが、しなかった。
「つまり、こちらが変更すれば済む話ということか」
イロハは少し間を置く。
「実務だけ見れば、そうですね」
マコトが先生を見る。
「随分と風紀委員会に都合のいい話だな」
先生は答えなかった。
その代わり、共有シートをもう一度見せる。
「風紀委員会も七人から八人に増やしてる」
マコトの目が止まる。
「……それが?」
「ただの事実だよ」
先生はそれ以上言わない。
ヒナが譲った。
だからマコトも譲るべきだ。
そういう話にすれば、かえってこじれる。
必要なのは、感情の勝敗を決めることではない。
今日中に催事を成立させるかどうか。
そこだけだった。
マコトはしばらく黙っていた。
イロハも口を挟まない。
先生も待った。
数十秒。
マコトが椅子の背へ身体を預ける。
「……南側入口を閉じろ」
イロハが顔を上げる。
「よろしいんですか?」
「構わん」
マコトは不機嫌そうに言った。
「催事そのものを止める方が万魔殿の面子に関わる」
その言葉には、マコトなりの理屈があった。
ヒナに譲ったから変更するのではない。
万魔殿の催事を成立させるために、自分が決める。
そういう形なら受け入れられる。
先生は小さく頷いた。
「分かった」
マコトは先生を睨むように見る。
「勘違いするなよ、先生」
「何を?」
「風紀委員会の都合に合わせたわけではない」
「うん」
先生はあっさり答えた。
「万魔殿の催事を成立させるため、だね」
マコトは少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだ」
先生はそれ以上何も言わなかった。
正しさを争う必要はない。
決まった。
それで十分だった。
◇
先生が戻るより早く、共有シートにはイロハから更新が入った。
**万魔殿側判断:南側入口閉鎖を承認。**
続いて、
**必要警備人員:八名。**
少し遅れて風紀委員会側。
**派遣人数:八名で確定。**
最後に、状態が変わる。
**調整完了。**
先生は戻ってきてから、その表示を確認した。
「終わった」
ミコリが頷く。
「はい」
修司も共有シートを見る。
G-021。
昨日から止まっていた案件。
Aでは決まらなかった。
Bでも一致しなかった。
Cへ上がり。
最後に先生が動いた。
だが、先生がやったことは以前とは違う。
アコの代わりに万魔殿へ事情を説明したわけではない。
イロハの代わりに風紀委員会へ返事を持っていったわけでもない。
自分で八名という答えを作ったわけでもない。
必要な情報はすでにあった。
実務上の案も、現場が作っていた。
先生が行ったのは、判断期限を示し、その判断を本来の責任者へ求めることだけだった。
先生はG-021の履歴を上から見返す。
「俺、結局マコトには会ったけど」
「はい」
「条件の交渉はしてない」
「していません」
「ヒナさんにも連絡してない」
「はい」
「それでも終わった」
修司が先生を見る。
「先生が必要な部分だけ使われた、ということだと思います」
先生は少しだけ笑った。
「使われた、か」
「必要なら頼られる、でもいいですが」
「そっちでお願いします」
ミコリが静かに記録を整理している。
先生は共有シートを閉じようとして、少しだけ手を止めた。
「でもさ」
「はい?」
「今回、仕組みだけじゃ終わらなかった」
修司は頷いた。
「そうですね」
「最後はマコトの感情だった」
「はい」
「じゃあ、仕組み作っても限界はあるってことか」
修司は少し考えた。
「限界というより、役割が違うんだと思います」
先生が修司を見る。
「仕組みは、人間の感情を消すためのものではありません」
修司は共有シートを指した。
「感情があっても、どこまで仕事が進んでいて、どこから人の判断が必要なのかを分かるようにするものです」
先生はG-021を見る。
確かに、今回の案件では途中まで仕組みだけで進んだ。
条件整理。
変更可能範囲。
組織内判断。
そこまでは人間関係に左右されず処理できた。
最後に残った部分だけが、人間の感情と責任だった。
以前なら、その全部が混ざったまま先生へ来ていた。
今は違う。
「じゃあ、Cって」
先生が言う。
「先生に全部投げる区分じゃなくて」
少し考える。
「仕組みだけじゃ決まらないところを、誰かが繋ぐための区分?」
修司は頷いた。
「そう考えるのが近いと思います」
先生は小さく息を吐いた。
「やっと分かった気がする」
ミコリが視線を上げる。
「何がですか?」
先生は少しだけ考えてから答えた。
「俺が必要なくなるんじゃなくて、必要な場所が狭くなるんだ」
その言葉に、修司は何も付け加えなかった。
十分だった。
◇
夕方。
今日の共同案件はすべて処理を終えていた。
G-021も、警備計画確定。
万魔殿側は南側入口の閉鎖と導線変更へ。
風紀委員会側は八名派遣の準備へ移っている。
先生は共有シートを開き、C区分の履歴を見返した。
一件目。
それだけ。
まだ成功と呼ぶには早い。
次に同じ形の案件が来ても、同じように進む保証はない。
マコトの私情がもっと強く出る案件もあるかもしれない。
ヒナ側が譲れない条件もある。
先生が間に入っても決まらないことだってある。
それでも、今回一つだけ分かった。
Cになった瞬間に、先生が全部引き取る必要はない。
現場が整理できるところまで整理する。
組織内で決められるところまで決める。
それでも残った部分だけを、必要な人間が繋ぐ。
「白石さん」
ミコリの声に、修司が顔を上げる。
机の端に置かれていた生命の書が、淡い光を帯びていた。
先生も視線を向ける。
誰も触れていない。
表紙が静かに開く。
案件No.021のページ。
そこへ、新しい表示が浮かび上がる。
**判断経路整理――C区分運用確認。**
それだけだった。
達成率は変わらない。
先生がページを見る。
「数字、上がらないんだ」
ミコリは生命の書を確認する。
「はい」
「失敗?」
「その判断はできません」
ミコリは即答した。
「生命の書は、C区分の運用を確認した事実だけを記録しています」
修司もページを見る。
一件成功した。
だから大きく進んだ。
そんな単純な話ではない。
今回できたのは、C区分が実際の案件で動くことを確認しただけだ。
定着したわけでもない。
先生がいなくてもCを処理できる方法が確立したわけでもない。
むしろ、先生が必要になる場面がまだ存在することも確認した。
先生は生命の書から共有シートへ視線を戻した。
「まだ途中ってことだな」
誰も答えなかった。
だが、そのままでよかった。
窓の外では、ゲヘナの街が夕方の色へ変わり始めている。
風紀委員会と万魔殿。
二つの組織の関係は、今日も良くなってはいない。
ヒナとマコトの間にあるものも、そのままだ。
それでも。
仕事は、昨日より少ない場所で止まるようになった。
止まった時にも、理由が見える。
そして、本当に人の判断が必要な時だけ、人が動く。
先生は端末を閉じた。
「今日は、これでいいか」
修司が頷く。
「はい」
先生は椅子へ背中を預けた。
自分が全部を抱えなくても。
全部を知らなくても。
全部を決めなくても。
必要なところだけで、役に立てる。
その感覚は、まだ少しだけ落ち着かなかった。
けれど、以前ほど怖くはなかった。