「これ、今日中ですよね?」
風紀委員会の執務室で、一人の委員が端末を見ながら声を上げた。
机の向こうで書類を整理していた先輩委員が顔を上げる。
「何が?」
「旧校舎北側の資材搬入です。万魔殿から来てるやつ」
「ああ。それなら今日中」
「担当、私になってるんですけど」
「なってるね」
あっさり返され、委員はもう一度画面を見た。
共同案件、G-026。
旧校舎北側区画への備品搬入に伴う、一時通行規制の申請。
依頼そのものは珍しくない。万魔殿が管理している備品を運び込むため、一定時間だけ北側通路を使用したいという内容だった。
ただ、彼女が共同案件を最初から担当するのは初めてだった。
「……何からやればいいんです?」
「確認」
「何を?」
先輩委員は手を止めた。
「書いてあるでしょ」
言われて、端末へ視線を戻す。
案件名の下には、万魔殿側が入力した内容が並んでいた。
搬入予定時刻。
使用する車両。
必要な通路。
予定所要時間。
搬入する備品の種類。
その下には、風紀委員会側の確認欄がある。
「北側通路の予定を見ればいいんですか?」
「そう」
「万魔殿に聞かなくていいんです?」
「書いてないことがあったらね」
先輩委員はそれだけ言うと、自分の仕事へ戻った。
新人委員は少し不安そうに画面を見つめた。
共同案件と聞くと、もっと面倒なものを想像していた。
相手は万魔殿。
風紀委員会内では、その名前だけで嫌そうな顔をする者も珍しくない。
何か予定を変えろと言われるのではないか。
後から条件を増やされるのではないか。
そんな警戒がまったくないと言えば嘘になる。
だが、今のところ画面にあるのは普通の搬入申請だった。
北側通路の予定表を開く。
午前中は空き。
午後一時から巡回経路として使用予定。
万魔殿側の希望時間は正午から午後一時。
委員は時計を確認してから、少し考えた。
ぴったり一時まで使われるのは困る。
搬入が遅れれば巡回開始と重なる。
そこで確認欄へ入力した。
**北側通路は13時より巡回経路として使用予定。搬入終了時刻の前倒しを希望。**
送信。
「これでいいですか?」
先輩委員が横から画面を見る。
「いいんじゃない」
「もっと何か書いた方が」
「何を?」
「その……理由とか」
「巡回で使うって書いてるじゃん」
「でも、万魔殿ですよ?」
先輩委員が怪訝そうな顔をした。
「だから?」
新人委員は口を閉じる。
少しして、先輩が呆れたように続けた。
「喧嘩するわけじゃないんだから、必要なことだけ書けばいいでしょ」
「……はい」
「余計なこと書くと、余計な返事が来るよ」
妙に説得力があった。
新人委員は素直に端末を机へ置いた。
返答を待っている間に、別の仕事へ移る。
十分ほどして通知が入った。
万魔殿側からだった。
**搬入開始を11時45分へ変更。12時45分までに完了予定。**
その下に、
**車両退出後、北側通路を開放。**
とある。
新人委員は予定表と見比べた。
十五分空く。
それなら巡回に支障はない。
「通りました」
「なら確定して」
先輩委員は画面すら見なかった。
「確認しなくていいんですか?」
「今、自分で確認したんでしょ?」
「しましたけど」
「じゃあいいじゃん」
新人委員は少し迷いながら、風紀委員会側の欄へ承認を入れた。
案件状態が『実施待ち』へ変わる。
それだけだった。
電話はしていない。
先生にも聞いていない。
アコへ判断を上げてもいない。
万魔殿側の担当者が誰なのかさえ、名前を見ただけで顔は知らなかった。
「……こんなものなんですね」
「何が?」
「共同案件」
先輩委員は少し考えた。
「面倒なのもあるよ」
「ですよね」
「でもこれは別に面倒じゃないでしょ」
確かにそうだった。
新人委員はG-026を閉じ、次の書類を開いた。
◇
同じ頃。
万魔殿側では、G-026とは別の案件が一つ動いていた。
G-027。
風紀委員会から申請された、訓練用施設の一時使用。
担当欄に自分の名前を見つけた生徒は、露骨に嫌そうな顔をした。
「風紀委員会かぁ……」
隣の席にいた生徒が笑う。
「何その顔」
「だって細かいじゃないですか、あそこ」
「仕事なんだから仕方ないでしょ」
「そうですけど」
担当の生徒は共有シートを開いた。
申請内容を確認する。
訓練予定は翌日の午後。
使用希望施設は万魔殿が管理している第二倉庫横の空き地。
必要時間は二時間。
使用目的も記載済み。
一見すると問題はない。
「空いてる?」
隣から聞かれる。
「たぶん」
予定表を開く。
午後は空欄だった。
担当生徒はそのまま承認を押しかけ、指を止めた。
「ん?」
空き地そのものは空いている。
だが、隣接する第二倉庫には同じ時間帯に物資搬入の予定が入っていた。
大型車両が二台。
搬入経路は、風紀委員会が訓練で使いたい場所のすぐ脇を通る。
「これ駄目じゃない?」
「何が?」
「明日、倉庫に搬入ありますよ」
隣の生徒が画面を覗き込む。
「あ、本当だ」
「どうします?」
「時間ずらせないか聞けば?」
担当生徒は風紀委員会側の申請を見る。
訓練開始は午後一時。
終了は午後三時。
物資搬入は午後一時半から二時半。
一時間重なっている。
担当生徒は共有シートへ入力した。
**同時間帯に第二倉庫への搬入予定あり。訓練時間変更の可否を確認希望。**
送信。
「これで待ちですね」
「そうだね」
担当生徒は椅子へ背中を預けた。
「直接連絡しなくていいの、楽ですね」
「電話したいならすれば?」
「嫌ですよ」
即答だった。
「風紀委員会の人って怖いし」
「聞かれたら怒られるよ、それ」
「本人には言いません」
二人はそれ以上話さず、それぞれの仕事へ戻った。
しばらくして、風紀委員会側から回答が入る。
**訓練開始を15時へ変更可能。**
「じゃあ終わりですね」
担当生徒が承認しようとして、再び手を止めた。
「……あれ?」
「今度は何?」
「これ、十五時からなら空き地は使えるんですけど」
予定表をもう一度見る。
第二倉庫への搬入終了は二時半。
車両退出まで含めても三時前には終わる。
時間の重複はない。
ただし、訓練が午後三時から五時へ変更されることで、施設管理担当の勤務予定に影響が出る。
通常の使用可能時間は午後四時半まで。
三十分だけ超過する。
「まあ、三十分くらいならいいんじゃないですか?」
担当生徒はそう言いながら、判断区分を選んだ。
**A――担当者判断。**
そのまま、
**15時から17時まで使用可。**
と入力する。
送信。
隣の生徒は特に気に留めなかった。
担当生徒自身も、それで終わったと思っていた。
◇
風紀委員会側。
先ほどとは別の委員が、G-027の更新通知を確認した。
万魔殿側から使用可能の回答が来ている。
訓練担当へ伝えようとして、画面の一か所で手が止まった。
**15時から17時まで使用可。**
その下。
**判断区分:A**
委員は予定表を確認した。
施設の通常使用時間。
午後四時半まで。
「……ん?」
もう一度見る。
終了予定は午後五時。
三十分超えている。
万魔殿側が許可しているなら問題ないようにも見える。
だが、通常時間を超えて施設を使用する場合、管理担当の勤務時間にも影響する。
それを、共同案件の担当者一人で決めていいのだろうか。
委員は少し迷った。
以前なら先生へ確認したかもしれない。
万魔殿側がいいと言っているが、本当に大丈夫なのか。
誰に聞けばいいのか分からない。
だが今は、少なくとも確認する場所は分かる。
共有シートの履歴を遡った。
過去の施設利用案件。
通常時間内の変更はA。
管理担当の勤務変更を伴うものは――
**B。**
委員はしばらく画面を見たあと、万魔殿側の確認欄へ入力した。
**17時終了の場合、通常使用時間を30分超過します。管理担当者の勤務変更を伴うため、B判断ではありませんか。**
送信。
それだけだった。
喧嘩を売るつもりはない。
万魔殿の担当者を責めるつもりもない。
ただ、このまま進めて当日になってから管理担当者がいない方が困る。
委員は端末を置いた。
隣の席から声が飛んでくる。
「何かあった?」
「万魔殿側の判断区分、たぶん違います」
「連絡する?」
「シートに書きました」
「じゃあ待ちだね」
会話はそこで終わった。
◇
「えっ」
万魔殿側で、G-027の担当生徒が声を上げた。
風紀委員会からの確認を読み、慌てて予定表を開く。
「……四時半まで?」
隣の生徒が振り向く。
「何?」
「通常使用時間。四時半までです」
「さっき見てなかったの?」
「空き時間しか見てませんでした」
「駄目じゃん」
「いや、でも三十分ですよ?」
「三十分でも管理の人は帰るでしょ」
言われて、担当生徒は黙った。
確かにそうだ。
施設が空いているかどうかしか見ていなかった。
使用時間が延びれば、管理する側の勤務まで変わる。
自分一人で決めていい話ではない。
「……Bですね」
「たぶん」
担当生徒は先ほど入力したAを訂正する。
**判断区分:B**
そのまま上位確認へ回そうとして、少しだけ顔をしかめた。
「これ、イロハ先輩のところですよね」
「そうじゃない?」
「怒られます?」
「知らない」
「怖いなぁ」
「風紀委員会より?」
担当生徒は少し考えた。
「種類が違います」
隣の生徒が吹き出した。
担当生徒は不満そうな顔をしながらも、確認依頼を送った。
◇
イロハのところへG-027が上がってきたのは、それから間もなくだった。
内容を確認する。
施設使用時間を三十分延長。
管理担当者の勤務変更が必要。
イロハは画面を下へ動かし、履歴を読む。
最初はA。
風紀委員会側から指摘。
Bへ訂正。
「……なるほど」
担当生徒から、おそるおそる声が飛んでくる。
「すみません」
「何がです?」
「最初、Aで出しちゃって」
イロハは端末から顔を上げた。
「次から気をつけてください」
「……それだけですか?」
「他に何か?」
「いえ」
イロハは再び画面へ目を戻した。
間違えた。
相手が気づいた。
戻した。
それで済むなら、それ以上責める理由もない。
問題は、三十分の延長を認められるかどうかだった。
管理担当者の勤務予定を確認する。
翌日は、後続の予定が入っていない。
三十分の延長も可能。
ただし、担当者本人への確認は必要だった。
イロハは必要な連絡を取り、返答を待つ。
数分後。
了承。
共有シートへ入力する。
**B判断承認。施設使用を17時まで延長。**
送信。
それから少し考えて、追記した。
**管理担当者確認済み。**
G-027が更新される。
風紀委員会側から、ほどなくして確認が入った。
**訓練時間を15時から17時へ変更。**
案件状態。
**調整完了。**
イロハはそれを見届けると、画面を閉じた。
担当生徒がまだ近くに立っている。
「終わったんですか?」
「終わりましたよ」
「先生に確認しなくて大丈夫です?」
イロハは怪訝そうに相手を見る。
「何をです?」
「いや、その……判断区分を間違えたので」
「直したんでしょう?」
「はい」
「ならいいじゃないですか」
担当生徒は少し拍子抜けしたような顔をした。
イロハは次の書類を開く。
「先生も、判断区分の訂正まで報告されても困ると思いますよ」
「……確かに」
「次から予定表は最後まで見てください」
「はい」
担当生徒は自分の席へ戻っていった。
G-027の履歴には、最初のA判断も残っている。
訂正されたBも。
風紀委員会側からの指摘も。
イロハの承認も。
失敗したことまで消えてはいない。
だが、案件は終わっている。
誰かが間違えたからといって、先生のところまで持っていく必要はなかった。
その日の共同案件一覧には、また一つ『調整完了』が増えた。
それを、この時点で先生も修司も知らなかった。
昼を過ぎても、共同案件はいくつか動き続けていた。
風紀委員会では、午前中にG-026を担当していた委員が、別件の処理を終えてから共有シートを開いた。
搬入開始までは、まだ少し時間がある。
状態は『実施待ち』。
特に問題はない。
その下に並んでいる案件へ目を移したところで、見覚えのある番号が目に入った。
G-027。
状態は『調整完了』になっている。
「これ、終わったんだ」
近くにいた先輩委員が振り向いた。
「何が?」
「訓練施設のやつです。時間ずらしてた」
「ああ」
「途中で判断区分、変わってますね」
履歴には、万魔殿側が最初にAとした記録が残っている。
その後、風紀委員会側から確認が入り、AからBへ訂正。万魔殿内部で必要な判断を取り直した後、最終的に訓練時間は午後三時から五時へ変更されていた。
新人委員は履歴を追いながら首を傾げる。
「間違えた記録も残るんですね」
「そりゃ残るでしょ」
「消さないんですか?」
「消したら、何でBになったのか分からなくならない?」
言われてみればその通りだった。
新人委員はもう一度履歴を見る。
通常使用時間を超える。
だから管理担当者の勤務時間へ影響する。
そのためAではなくB。
午前中に自分が担当したG-026とは違う。
あちらは、決められた範囲内で搬入時間を十五分動かしただけだった。
「次に似たの来たら、これ見れば分かりますね」
「そうだね」
先輩委員はそれだけ答えて、自分の仕事へ戻った。
新人委員もG-027を閉じる。
失敗した記録まで残っている。
だが、それは誰かを責めるための記録には見えなかった。
次に同じような案件が来た時、同じところで迷わないための履歴になっている。
少なくとも、彼女にはそう見えた。
◇
午後一時前。
G-026の搬入が始まった。
万魔殿側の車両が旧校舎北側へ入り、予定されていた備品を運び込んでいく。
風紀委員会側の担当者が現場へ出る必要はなかった。
ただし、午後一時から北側通路を巡回経路として使用するため、それまでに搬入車両が退出しているかは確認しなければならない。
十二時半。
共有シートへ万魔殿側から更新が入る。
**搬入作業進行中。予定通り12時45分終了見込み。**
十二時四十二分。
再び更新。
**搬入完了。車両退出開始。**
十二時四十七分。
**北側通路開放。**
新人委員は時刻を確認した。
巡回開始まで十三分。
問題ない。
**通路開放確認。予定通り13時より巡回開始。**
入力して確定する。
案件状態が『完了』へ変わった。
「終わりました」
先輩委員へ声をかける。
「お疲れ」
「……本当にこれだけなんですね」
「朝も同じこと言ってなかった?」
「言いましたけど」
新人委員は少し笑った。
「もっと途中で揉めるかと思ってました」
「何で?」
「万魔殿との共同案件だから」
先輩委員が何とも言えない顔をする。
新人委員は慌てて付け加えた。
「いや、別に向こうが絶対揉めるって意味じゃなくて」
「十分そう聞こえたけど」
「……すみません」
「まあ、気持ちは分かるけどね」
先輩委員は巡回へ持っていく書類をまとめながら、共有シートへ目を向けた。
「必要なことが最初から分かってれば、毎回揉める理由もないでしょ」
新人委員もG-026を見る。
申請。
条件確認。
時間変更。
承認。
実施。
完了。
相手側の担当者とは一言も話していない。
顔も知らない。
万魔殿に対する印象が、今日一日で急に良くなったわけでもない。
それでも、一緒に仕事はできた。
「万魔殿の担当、どんな人だったんでしょうね」
「担当欄に名前あるでしょ」
「名前じゃなくて、顔です」
「知ってどうするの?」
「……別に何もしません」
「ならいいじゃん」
確かにそうだった。
新人委員は端末を閉じる。
万魔殿の誰かと仲良くなる必要はなかった。
仕事が終われば、それでいい。
先輩の後を追い、執務室を出た。
◇
同じ頃。
万魔殿側では、別の担当生徒が共有シートを睨んでいた。
G-028。
市街東側で予定されている設備点検に伴い、一部道路の通行を制限する案件だった。
内容そのものは複雑ではない。
万魔殿側から通行制限開始時刻を提示。
風紀委員会側から巡回時間との重複を指摘。
万魔殿側が開始時刻を三十分遅らせる。
その条件で、風紀委員会側がB判断へ移行。
そこまでは履歴を読めば分かる。
問題は、その後だった。
最後の更新から一時間近く経っている。
「これ、今どっち待ちです?」
隣の席にいた生徒が振り向く。
「G-028?」
「はい」
「風紀委員会じゃない?」
「やっぱり?」
「たぶん」
担当生徒が顔をしかめた。
「その『たぶん』が嫌なんですけど」
「じゃあ履歴読めば?」
「読みましたよ。だからたぶん風紀委員会だと思ってます」
「じゃあいいじゃん」
「よくないです」
担当生徒は画面を指した。
「これが一件ならいいですけど、今三件持ってるんですよ。毎回開いて最後の履歴を確認するの、地味に面倒です」
一覧画面では、『判断待ち』と表示されている。
だが、それだけでは風紀委員会側の判断を待っているのか、万魔殿側で何かする必要があるのかまでは分からない。
隣の生徒も画面を覗き込む。
「確かに」
「『風紀委員会待ち』とか出ればいいのに」
「それは便利かも」
「ですよね」
担当生徒は何気なく画面を動かした。
共有シートには、運用中に気づいた不便や問題を記入する欄が設けられている。
少し迷ってから、そこへ書き込んだ。
**案件一覧で、現在どちらの対応待ちなのか確認できるようにしてほしい。**
送信。
「これでいいですかね」
「いいんじゃない?」
「誰が見るんです?」
「それは私に聞かれても」
「雑だなぁ……」
担当生徒は不満そうに言いながらも、G-028へ戻った。
今は風紀委員会側の判断を待つしかない。
なら、別の案件を進めればいい。
端末の表示を切り替えた。
◇
その要望をアコが見つけたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
共同案件を確認している途中、運用上の要望が一件追加されていることに気づいた。
**案件一覧で、現在どちらの対応待ちなのか確認できるようにしてほしい。**
アコは一度読み流しかけたが、手を止めた。
G-028を開く。
現在は風紀委員会側のB判断待ち。
続いてG-029。
こちらも『判断待ち』だが、止まっている場所は逆だった。
万魔殿側からの条件回答を待っている。
一覧へ戻れば、どちらも同じように見える。
案件が一つか二つなら、履歴を開けばいい。
だが、同時に複数の共同案件が動けば、その確認だけでも積み重なる。
「……なるほど」
アコは要望欄へ追記した。
**風紀委員会側でも同様の表示があると助かります。**
それだけ書いて、G-028へ戻る。
巡回予定を確認。
通行制限開始を三十分遅らせる条件なら、警備配置を変更せず対応できる。
アコはB判断を承認した。
G-028の状態が更新される。
今度は万魔殿側の対応待ち。
アコは次の案件へ移った。
◇
万魔殿側でG-028の担当生徒が通知に気づいた。
「来た」
風紀委員会側の承認。
これで通行制限開始時刻が確定する。
担当生徒は必要な処理を行い、状態を『実施待ち』へ変更した。
その直後、もう一件通知があることに気づく。
先ほど自分が書いた要望。
その下に、風紀委員会側から追記が入っていた。
**風紀委員会側でも同様の表示があると助かります。**
担当生徒は少し驚いた。
「向こうも欲しいって」
隣の生徒が画面を見る。
「じゃあ、そのうち付くんじゃない?」
「誰が付けるんです?」
「知らないけど、要望は届くでしょ」
「本当に?」
「気になるならイロハ先輩に聞けば?」
担当生徒は少し迷った。
自分が困っているだけなら、そのまま待っていたかもしれない。
だが、風紀委員会側でも同じ不便を感じている。
なら、単なる愚痴ではなさそうだった。
「聞いてきます」
「いってらっしゃい」
◇
イロハは持ち込まれた要望を一通り読んだ。
「対応待ちの表示ですか」
「はい。一覧にあれば楽かなって」
担当生徒が答える。
「風紀委員会側からも欲しいって追記されてます」
「見えてます」
イロハはG-028とG-029を順番に開いた。
確かに、今の表示だけではどちらが次に動くのか分かりにくい。
履歴を読めば分かる。
だが、毎回それをする必要があるのなら、一覧表示の意味が薄い。
「これ、他の案件でも同じですね」
「ですよね」
「分かりました」
イロハは要望欄へ追記する。
**万魔殿側でも追加を希望します。**
入力を終えると、担当生徒が尋ねた。
「これで変わるんですか?」
「要望を出しただけなので、今すぐは変わりませんよ」
「じゃあ誰が?」
「共有シートの調整をしている方へ確認してもらうことになりますね」
担当生徒は頷いた。
誰が実際に作業しているのかまでは知らない。
知る必要もなかった。
使っていて困ったことを上げる。
必要性を確認する。
実際の改修は、それを担当している側が行う。
それで十分だった。
「じゃあ、私は戻っていいですか?」
「G-028の処理は?」
「終わってます」
「ならどうぞ」
担当生徒は軽く頭を下げ、席へ戻っていった。
イロハはもう一度要望欄を見る。
万魔殿側。
風紀委員会側。
どちらからも同じ要望が出ている。
少なくとも、片方だけに都合のいい変更ではない。
イロハはそれ以上触らず、次の仕事へ移った。
◇
午後三時過ぎ。
修司の端末に、共有シートの改善要望が届いた。
先生は別件の書類を確認している。
ミコリも自分の作業中だった。
修司は通知を開く。
**案件一覧で、現在どちらの対応待ちなのか確認できるようにしてほしい。**
その下には、風紀委員会側と万魔殿側、それぞれから必要性を認める記録が残っている。
修司は要望だけを読んだ。
G-028の細かな経緯までは確認しない。
必要なのは、どの案件で誰が何を判断したかではなく、実際の利用者がどこで不便を感じたかだった。
「どうした?」
先生が書類から顔を上げる。
「共有シートの改善要望です」
「何か問題?」
「一覧で、現在どちらの対応待ちか分かりにくいそうです」
先生は少し考えた。
「確かに、今は『判断待ち』までしか出ないね」
「はい」
「直せそう?」
「大きな変更ではありません」
修司は共有シートの設定を開いた。
現在の案件状態とは別に、対応主体を表示する欄を追加する。
候補は、
風紀委員会。
万魔殿。
双方。
なし。
状態が完了になれば『なし』。
どちらかへ確認を返せば、対応待ちも切り替わる。
修司は一度手を止めた。
「何かある?」
先生が尋ねる。
「表示を追加するだけなら簡単ですが、自動で切り替えるようにすると条件設定が必要です」
「手動じゃ駄目?」
「手動でもできます。ただ、更新を忘れれば表示が古いまま残ります」
先生は少し考えた。
「じゃあ、自動の方がいいか」
「そう思います」
修司は設定を確認し、既存の判断区分や案件状態に影響しない形で追加する。
数分後。
一覧に新しい項目が増えた。
**対応待ち**
G-028。
**なし。**
すでに実施待ちへ移っているためだ。
G-029。
**万魔殿。**
別の案件。
**風紀委員会。**
先生が横から画面を見る。
「分かりやすい」
「実際に使って問題が出ないかは、これからです」
修司は改善要望へ、
**対応待ち表示を追加。運用上問題があれば再度記録してください。**
とだけ返した。
それで作業を終える。
先生が少し不思議そうに尋ねる。
「案件の中身、見ないの?」
「必要ありません」
修司は共有シートを閉じた。
「どの案件で困ったかより、同じ不便が両方から出ていることの方が重要なので」
「そっか」
先生はそれ以上聞かなかった。
修司もG-028を開かなかった。
その案件が途中でどんなやり取りをしたのか。
誰が判断したのか。
どうして三十分ずれたのか。
知らなくても、今回の仕事には支障がない。
現場は案件を処理する。
修司は、使っていて生じた仕組み上の不便を直す。
役割は分かれていた。
◇
それからしばらくして。
万魔殿側の担当生徒が共有シートを開き、一覧に増えた項目へ気づいた。
「……付いてる」
隣の生徒が覗き込む。
「何が?」
「対応待ち」
G-029の横には、
**万魔殿**
と表示されている。
担当生徒は一瞬固まった。
「これ、うち待ちじゃないですか」
「じゃあ仕事して」
「危なっ」
慌ててG-029を開く。
風紀委員会からの確認が入っている。
今度は履歴を最初から読み返す必要はなかった。
何を返せばいいかだけ確認し、必要な回答を入力する。
「便利?」
隣から聞かれる。
担当生徒は作業を続けながら答えた。
「便利です」
「良かったね」
「というか、これなかったら今ちょっと放置してました」
「それは言わない方がいいんじゃない?」
「もう言いました」
二人の会話はそこで終わる。
新しい表示を誰が追加したのか、担当生徒は知らない。
気にもしていなかった。
欲しいと書いた。
必要だという意見がもう一方からも出た。
少し経ったら追加されていた。
それだけだった。
彼女にとって重要なのは、その表示のおかげで今やるべき仕事が分かったことだった。
◇
その日の午後も、共同案件は動き続けた。
先生の端末にはいくつか通知が届いていたが、緊急のものはない。
修司にも、先ほどの改善要望以外に呼び出しはなかった。
先生が一度だけ通知欄を見る。
G-026。
G-027。
G-028。
見覚えのない番号が並んでいる。
「結構動いてるな」
「そうですね」
修司が答える。
「確認する?」
先生はそう言いながら端末へ手を伸ばしかけた。
だが、緊急表示はない。
C区分もない。
先生は少し考え、手を戻した。
「……後でいいか」
修司も共有シートを開かなかった。
ミコリも何も言わない。
この時点で三人はまだ知らない。
G-026が、担当者同士が直接話すこともなく予定通り完了したことを。
G-027では、万魔殿側の担当者が判断区分を間違え、風紀委員会側がそれに気づき、先生へ確認することなく訂正して最後まで処理したことを。
そしてG-028をきっかけに、現場から初めて具体的な改善要望が上がったことを。
修司が知っているのは、一覧表示に一つ不便があったことだけだった。
先生が知らなくても案件は進んだ。
修司が中身を知らなくても、必要な改善はできた。
現場がすべてをやる必要もない。
修司がすべてを見る必要もない。
それぞれが、自分の仕事だけをしていた。
その間にも、共有シートの一覧ではいくつもの『対応待ち』が切り替わり、やがて一つずつ『完了』へ変わっていった。
夕方になって、先生はようやく共同案件の一覧を開いた。
昼過ぎから別件の対応が続き、通知が届いていることだけは知っていたものの、中身までは確認していない。緊急表示もC区分への移行もなかったため、そのままにしていた。
朝より増えた案件番号の横には、『完了』『実施待ち』『調整中』とそれぞれ異なる状態が並んでいる。
「結構動いてたんだな」
先生の声に、資料を整理していた修司が顔を上げた。
「共同案件ですか?」
「うん。ほとんど見てない」
先生は一番上にあったG-026を開いた。
旧校舎北側への資材搬入。万魔殿側から申請され、風紀委員会側が巡回予定との重複を指摘したため、搬入時刻を十五分前倒ししている。その後は予定通りに作業が行われ、北側通路の開放を確認して完了していた。
担当者欄には、先生には馴染みのない名前が二つ並んでいる。
「これ、案件があったこと自体知らなかった」
修司も画面を確認した。
「Aの範囲で処理されていますね」
「みたいだね」
先生はそれ以上G-026を追わず、次の案件へ移った。
G-027は少し違った。
訓練施設の使用時間を調整する途中、万魔殿側の担当者が判断区分をAとしている。しかし、風紀委員会側から通常使用時間を超えることを指摘され、管理担当者の勤務変更を伴うためBへ訂正。その後、万魔殿内部で必要な判断を取り直して調整を終えていた。
先生の指が履歴の途中で止まる。
「間違えてるな」
「はい」
「でも、そのまま直して終わってる」
先生にも修司にも問い合わせは来ていない。
判断区分を間違えたこと自体は問題だったが、それだけで案件が止まったわけではない。相手側が気づき、指摘された側が確認し直し、決められた経路へ判断を上げている。
先生は少しだけ口元を緩めた。
「失敗したことまで、後から知るようになったんだな」
修司は返事の代わりに、履歴へ目を落とした。
間違いを完全になくすことはできない。だが、間違えるたびに先生へ判断を求める必要もない。
少なくともG-027では、それができていた。
先生が一覧へ戻ると、昼間にはなかった項目が目に入った。
**対応待ち。**
案件ごとに『風紀委員会』『万魔殿』『なし』と表示されている。
「これが、さっき直してたやつ?」
「はい。現場から改善要望が来ました」
修司が経緯を簡単に説明する。
複数の案件を担当する際、現在どちらの対応待ちなのか一覧から分からず、毎回履歴を確認するのが手間になっていた。最初に万魔殿側の担当者から要望が上がり、風紀委員会側でも同じ不便が確認されたため、修司が表示を追加した。
「案件の中身も確認した?」
「していません。既存の判断区分や権限を変えるものではありませんでしたから」
修司が必要としたのは、現場がどこで困っているかという情報だけだった。
案件そのものは現場が処理し、仕組み上の不便は修司が直す。
先生は新しく追加された欄を眺めた。
G-029は『万魔殿』。
G-030は『風紀委員会』。
どちらも先生が動く案件ではない。
「分かりやすくなったね」
「実際に使って問題が出れば、また要望が来ると思います」
「その時に直せばいいか」
先生は二つの案件を開かず、そのまま一覧を下へ送った。
そこで、ミコリが席を立った。
「先生。一件、確認していただきたいものがあります」
示されたのはG-031だった。
万魔殿管理区域で行われる設備交換に伴う警備協力。内容そのものは珍しくないが、履歴の途中に『担当者変更』が記録されている。
先生は少しだけ姿勢を正した。
最初の担当者が別業務のため途中で交代し、後任が案件を引き継いでいた。
ところが、その前後に特別な引き継ぎ作業はない。
後任担当者は共有シートに残っていた申請内容、条件変更、風紀委員会側からの回答を確認し、そのまま処理を続けている。最終的に条件が確定し、G-031はすでに完了していた。
「問い合わせは?」
「先生へのものはありません」
「上位判断も?」
「ありません」
先生はもう一度、担当者変更の前後を見た。
以前なら、こういうところで話が途切れていた。
前任者が何を聞いたのか。相手へ何を伝えたのか。どこまで決まっていたのか。それが分からなくなれば、経緯を知っていそうな誰かを探すことになる。
その役目が先生へ回ってくることも少なくなかった。
だが、今回は必要な経緯が最初から残っている。
だから後任は、前任者の記憶ではなく記録から続きを始められた。
「ここまでいけるんだな」
先生が呟くと、修司が頷いた。
「担当者が変わっても情報が残ることは、今回確認できました」
それ以上の説明は必要なかった。
完了という表示が、結果を示している。
先生はG-031を閉じた。
その後も一覧にはいくつか案件が残っていたが、一件ずつ中身を確認することはしなかった。
『対応待ち』を見れば、次に誰が動くのか分かる。先生の判断が必要ならC区分として上がってくる。
今のところ、その表示は一つもない。
なら、先生がすべてを把握している必要はなかった。
「先生」
しばらくして、ミコリが再び声をかけた。
机の端に置かれていた生命の書が、淡い光を帯びていた。
表紙がひとりでに開き、ページに文字が浮かび上がる。
**共同案件運用――継続確認。**
続いて、
**担当変更後の案件継続――確認。**
さらに、
**改善要望――現場より発生。**
**運用改善――反映確認。**
先生は黙って表示を追った。
今日起きたことが、そのまま並んでいる。
特別な成功があったわけではない。
担当者が普通に案件を処理し、別の担当者は判断を間違え、それを相手側に指摘されて直した。使いにくい部分が見つかれば要望が上がり、担当者が途中で変わっても仕事は続いた。
どれも、先生がその場で指示したものではない。
やがて、それまでの文字が薄れ、中央に新しい表示が浮かんだ。
**第二段階――定着確認。**
先生はその文字をしばらく眺めてから、共同案件一覧へ目を戻した。
その時、G-029の状態が更新された。
**完了。**
少し遅れてG-030も切り替わる。
**完了。**
先生はどちらも開かなかった。
「確認しないんですか?」
ミコリに聞かれ、先生は少し考えてから答えた。
「必要になったら見るよ」
そう言って端末を閉じる。
風紀委員会と万魔殿の関係が良くなったわけではない。今日案件を担当した生徒たちも、互いを好きになったわけではなく、相手の顔すら知らない者もいる。
それでも必要な情報が残り、判断する範囲が分かっていれば、仕事は続く。
仲良くなることと、仕事ができることは同じではない。
生命の書には、まだ『第二段階――定着確認』の文字が残っていた。
その横で、先生が閉じた端末には、彼が最後まで中身を確認しなかった案件の『完了』が静かに並んでいた。