「そっち行ったわよ! 回り込んで!」
イオリの声が路地に響く。
直後、角の向こうから銃声が返ってきた。
壁際へ飛び込んだ風紀委員の横を弾丸が抜け、積まれていた空箱をまとめて吹き飛ばす。
「うわっ!」
「足止めのつもりでしょうね。構わない、追うわよ!」
イオリは遮蔽物から身を乗り出し、逃げていく生徒たちへ撃ち返した。
「げっ、まだ来る!」
「だからイオリだけは撒けないって言ったじゃん!」
「言ってないで走って!」
ゲヘナの制服を着崩した三人組が、騒々しく路地の奥へ消えていく。
風紀委員会が追っているのは、朝から校内で騒ぎを起こしていた不良生徒たちだった。
最初は授業を抜け出した程度なら、ここまで大掛かりにはならなかった。
ところが途中で別の生徒たちと揉め、派手に銃撃戦を始め、止めに入った風紀委員を見るなり逃走。その途中でも屋台をひっくり返し、備品を壊し、追いつかれそうになるたびに発砲している。
逃げれば逃げるほど、後始末だけが増えていた。
「イオリ先輩!」
後方から部下が追いついてくる。
「一人、右へ分かれました!」
「二人回して! そっちは任せる!」
「了解!」
二人の風紀委員が別の路地へ飛び込んだ。
イオリは残る部下とともに、二人組を追う。
前方を走っていた一人が振り返った。
「もう諦めてよ!」
「誰のせいでこんなに走ってると思ってるのよ!」
「そっちが追ってくるからでしょ!」
「逃げるからでしょうが!」
返事代わりに銃弾が飛んできた。
イオリは舌打ちして身をかわす。
「反省する気ゼロね、あいつら!」
「そもそも反省するような人たちなら、ここまで逃げてないと思います!」
「分かってるわよ!」
角を曲がる。
二人の姿が一瞬見えなくなった。
イオリは速度を落とさず、部下へ声を飛ばす。
「位置は?」
「確認します!」
端末を見ながら走っていた部下が顔を上げる。
「南東へ移動中です。このままだと大通りに出ます!」
「その前に挟む。東側の班は?」
「回り込んでます!」
「そのまま行かせて!」
大通りまで出られると面倒だった。
人混みに紛れられるだけならまだいい。
あの調子で撃ちながら逃げ続ければ、今度は露店や通行人まで巻き込んで、さらに騒ぎが大きくなる。
今日だけで壊された備品の報告書が何枚になるのか、考えたくもない。
「見つけた!」
部下が叫んだ。
前方の交差点。
逃走中の二人がこちらを振り返り、ぎょっとした顔をする。
「早っ!」
「何で追いつくの!?」
「風紀委員なめるんじゃないわよ!」
イオリが距離を詰める。
二人は慌てて左へ曲がった。
その先を見た瞬間、イオリの表情が変わった。
「……そっち行くの?」
大通りとは逆方向。
二人が選んだのは、東側の区画だった。
今日は万魔殿が数日後の催事に向けて設営作業を行っている。朝の巡回予定を確認した際、風紀委員会側にもその情報は共有されていた。
当然、今のイオリも知っている。
「イオリ先輩、あそこって……」
「万魔殿が使ってる」
部下の顔が曇る。
追っている二人はそんな事情など気にしていなかった。
むしろ前方に積み上げられた資材や設営物を見て、逃げ込むには都合がいいと思ったらしい。
「ラッキー! あそこ入ろう!」
「隠れる場所いっぱいあるじゃん!」
「待ちなさい!」
止まるはずもない。
二人はそのまま区画の入口へ飛び込んだ。
「最悪……!」
イオリたちも入口まで走る。
中では万魔殿の生徒たちが設営作業をしていた。
大型の看板。
運び込まれた机や椅子。
装飾用の資材。
搬入車両も残っている。
その間を、不良生徒二人が駆け抜けていく。
「ちょっと、何!?」
「危ない!」
突然の侵入者に、万魔殿の生徒たちが作業を止めた。
逃走中の一人が後ろへ向けて数発撃つ。
イオリたちは入口脇へ避けた。
弾丸が設営途中の看板へ当たり、固定前だった装飾が派手な音を立てて落ちる。
「ちょっとぉ!? 何してくれてるんですか!」
万魔殿側から悲鳴混じりの怒声が上がった。
「イオリ先輩!」
部下が端末を取り出した。
「万魔殿の使用区域です。共同案件として連絡を入れます!」
「早く!」
イオリは逃走方向を見ながら答えた。
部下が共有スプレッドシートを開く。
新規案件。
関係組織。
場所。
状況。
必要な対応。
だが、入力を始めたところで、イオリが振り返った。
「まだ?」
「今、状況を――」
区画の奥から銃声が響いた。
続いて、
「こらー! 資材の上に乗らないでください!」
という万魔殿の生徒の怒鳴り声。
逃走中の二人は止まるどころか、設営場所の奥へ入り込んでいる。
「……貸して」
イオリが手を出した。
「え?」
「端末」
受け取って画面を見る。
必要事項を入力して送信する。
そこから万魔殿側の担当者が通知に気づく。
内容を確認する。
必要なら現場へ確認を取る。
回答する。
それまで、あの二人が同じ場所で待っていてくれるわけがない。
イオリが画面を見ている間にも、逃走中の生徒が資材の間を横切った。
「いた!」
風紀委員の一人が叫ぶ。
向こうもこちらに気づいた。
「あ、まだ入口にいる!」
「今のうちに逃げよう!」
二人がさらに奥へ走る。
イオリは端末を部下へ返した。
「無理」
「はい?」
「こんなの入力して、向こうが確認するの待ってたら逃げられるわよ!」
「でも、ここから先は万魔殿の――」
「分かってる!」
イオリ自身、勝手に入れば問題になることくらい理解している。
以前のように、何も確認せず相手の領域へ踏み込んでいいとは思っていない。
だから一度は止まった。
共有する手段もある。
決められた流れもある。
普段なら使えばいい。
だが、そのために立ち止まっている今も、相手は逃げ続けている。
「イオリ先輩、どうします?」
部下が判断を待つ。
区画の奥では、万魔殿の生徒たちが逃走中の二人を避けながら、倒れそうになった資材を押さえていた。
このまま好きに走り回らせれば、設営どころではなくなる。
イオリは銃を構え直した。
「追う」
「でも――」
「ここで逃がしたら、もっと面倒になる」
部下を見る。
「私が責任取る。行くわよ!」
風紀委員たちが続いた。
「風紀委員会!?」
区画へ入ってすぐ、万魔殿の生徒がイオリたちに気づいた。
「ちょっと待ってください! 何で入ってきてるんですか!」
「説明は後!」
「後じゃありません! ここ今、万魔殿が――」
「分かってるわよ! だからそいつら止めるの手伝いなさい!」
「何でこっちが怒られてるんですか!?」
イオリは返事をせず、逃走中の二人を追う。
前方には資材が積まれ、普段なら通れるはずの通路が何か所も塞がれている。
地形を把握していない。
それだけで追跡速度が落ちた。
一方、逃げる側はそんなことを気にしない。
積まれた箱の隙間を抜け、机を飛び越え、邪魔なら蹴飛ばして進んでいく。
「こらーっ! それ今日並べたばっかりなんですけど!」
「ごめーん!」
「謝ればいいと思ってるんですか!?」
万魔殿の生徒の怒声が響く。
イオリが角を曲がると、逃走中の一人が積まれていた箱を蹴った。
箱が崩れ、通路へ散らばる。
「邪魔!」
イオリは勢いを落とさず飛び越える。
後ろから部下たちも続く。
だが次の分岐で、二人が左右へ分かれた。
「また!?」
イオリは一瞬だけ迷った。
右と左。
どちらがどこへ繋がっているのか分からない。
「イオリ先輩、どっちを――」
「右に二人! 残りは左!」
判断した直後。
「左、行き止まりですよ!」
横から声が飛んだ。
イオリが振り向く。
さっき抗議していた万魔殿の生徒だった。
「何?」
「そっちは資材置き場です! 外へ抜けるなら右!」
イオリは即座に指示を変えた。
「全員右! 回り込む!」
風紀委員たちが走る。
万魔殿の生徒がその背中へ叫んだ。
「ただし途中に搬入口があります!」
イオリが急停止しかける。
「先に言いなさいよ!」
「今言ったでしょうが!」
「場所は!?」
「次の角を左、その先!」
イオリは通信機を取った。
「東側の班、聞こえる!? 万魔殿区域の搬入口へ回って! 場所は――」
万魔殿の生徒から聞いた位置を伝える。
『了解!』
通信を切る。
「他に出口は?」
イオリが尋ねると、万魔殿の生徒は少しむっとした。
「あるけど、何で私が――」
奥から再び大きな物音。
二人ともそちらを見る。
設営用の幕が倒れ、その向こうを逃走中の生徒が走っていった。
万魔殿の生徒の眉が跳ね上がった。
「……あれ、高かったんですよ」
「知らないわよ」
「絶対捕まえてください」
「最初からそのつもりよ!」
「だったらこっち! 裏の通路塞ぎます!」
万魔殿の生徒が走り出した。
「ちょっと、あんたまで来るの!?」
「これ以上壊されたら困るんです!」
「だったら先に道教えて!」
「だから今案内してるでしょう!」
言い争いながら、二人は同じ方向へ走る。
正式な共同案件として処理されたわけではない。
共有スプレッドシートへの入力も途中で止まったままだ。
風紀委員会は勝手に区域へ入り、万魔殿側はそれに腹を立てている。
それでも、目の前で逃げ回る二人を捕まえたいという一点だけは一致していた。
「右!」
万魔殿の生徒が叫ぶ。
イオリが迷わず曲がる。
その先に、逃走中の生徒の背中が見えた。
「見つけた!」
「あっ、追いつかれた!」
「何で万魔殿まで手伝ってんの!?」
「あなたたちが私たちの設営壊したからでしょうが!」
背後から怒鳴り声が飛ぶ。
逃走中の二人が顔を引きつらせた。
「敵増えてるじゃん!」
「知らないわよ、走って!」
再び二人が逃げ出す。
イオリは銃を構えながら、その背中を追った。
「絶対逃がさないわよ!」
その横では、万魔殿の生徒が別の通路へ向かって仲間へ指示を飛ばしている。
連携と呼ぶには、あまりにも騒々しい。
だが少なくとも今だけは、風紀委員会と万魔殿が同じ二人を追っていた。
そしてイオリには分かっていた。
捕まえた後。
今度は自分が、万魔殿から追及される番になる。
「そっち! 右!」
「分かってる!」
「いや、そっちじゃなくて次の右です!」
「紛らわしいのよ!」
「人の案内に文句言わないでください!」
万魔殿の生徒が叫び、イオリが怒鳴り返す。
その少し先では、逃走中の二人が資材の間を縫うように走っていた。
「何なのあいつら!」
「知らない! とにかく逃げて!」
「こっち地形分かんないんだけど!」
「追ってる方も分かってないから大丈夫!」
「何が大丈夫なのよ!」
イオリの銃撃が足元を掠め、二人が悲鳴を上げながら左右へ飛ぶ。
そのまま近くの通路へ逃げ込もうとしたところで、反対側から万魔殿の生徒が顔を出した。
「こっち来ました!」
「塞いで!」
「えっ、私たちが!?」
「今そこにいるでしょう!」
「風紀委員会って毎回こんな雑なんですか!?」
文句を言いながらも、二人の万魔殿生徒が近くにあった台車を押した。
通路の中央へ横向きに止める。
逃走中の二人が目を剥いた。
「ちょっ!?」
「何してんの!?」
「こっちだって設営滅茶苦茶にされてるんですよ!」
急停止。
方向転換。
だが、その数秒でイオリとの距離が縮まった。
「一人もらった!」
「うわっ!」
一人が横へ飛ぶ。
イオリの弾を避けたものの、着地した先には風紀委員が二人待ち構えていた。
「げ」
「はい、そこまでです!」
「待って、話し合お――」
「散々撃っておいて今さら何を話すのよ!」
二人がかりで取り押さえられる。
「一人確保!」
「あと一人!」
残った生徒は仲間を見捨てて走った。
「ちょっと! 助けてよ!」
「ごめん! あとで差し入れ持ってくる!」
「裏切り者ーっ!」
叫び声を背に、最後の一人が資材置き場へ飛び込んでいく。
イオリも追おうとする。
「待って!」
横から腕を引かれた。
「何よ!」
「そこ、今通れません!」
万魔殿の生徒が前方を指す。
見れば、大型の舞台装置らしきものが通路の半分以上を塞いでいた。
「じゃあどこから行くのよ!」
「だから案内しますって! こっち!」
「最初からそうしなさい!」
「あなたが勝手に走るからでしょうが!」
二人はまた走り出した。
後ろから風紀委員が追い、さらに万魔殿の生徒が何人か続く。
もはや誰が追跡班なのか分からなくなっていた。
逃走中の生徒が後ろを見て、顔を引きつらせる。
「増えてない!?」
「止まりなさい!」
「嫌!」
「止まってください!」
「万魔殿まで!?」
「設営費弁償してください!」
「そっち!?」
逃走中の生徒がさらに速度を上げた。
だが、その先は搬入口だった。
大型車両を入れるための扉が開いている。
「やった!」
外へ飛び出そうとする。
ところが。
「残念」
入口の向こうから声がした。
先回りしていた風紀委員たちが並んでいる。
逃走中の生徒が固まった。
「……ずるくない?」
「何がよ」
背後から追いついたイオリが答える。
「そっちだけ人数多いじゃん」
「風紀委員会相手に人数の公平性求めるんじゃないわよ」
「じゃあこっち!」
逃走中の生徒が最後の悪あがきで横へ走る。
そこには設営用の長机が並んでいた。
机へ飛び乗り、そのまま向こう側へ――
「それ以上壊すなーっ!」
万魔殿側から一斉に怒声が飛んだ。
逃走中の生徒がびくっと肩を跳ねさせる。
その一瞬。
イオリが一気に距離を詰めた。
「捕まえた!」
「うわっ!」
勢いのまま二人で床へ転がる。
「痛たた……!」
「散々走らせておいて、痛いで済むと思ってるの?」
「だって捕まりたくなかったし……」
「当たり前でしょうが!」
追いついた風紀委員が手早く拘束する。
「確保しました!」
イオリは立ち上がり、制服についた埃を払った。
「……やっと終わった」
周囲を見る。
倒れた箱。
位置のずれた机。
外れた装飾。
途中で放置された台車。
設営用の幕は半分床に落ちている。
そして、その惨状を見ている万魔殿の生徒たち。
イオリの動きが止まった。
先ほどまで一緒に走っていた生徒も、荒れた設営場所を眺めている。
数秒の沈黙。
「…………」
「…………」
イオリは視線を逸らした。
「犯人は捕まえたわよ」
「はい」
「二人とも」
「はい」
「逃がさなかった」
「そうですね」
万魔殿の生徒が倒れた看板を指差した。
「で?」
「……何よ」
「これ」
「そいつらが壊したんでしょ」
「風紀委員会の弾も当たってますけど」
イオリが看板を見る。
確かに、見覚えのある弾痕があった。
「…………」
「…………」
「細かいこと気にするわね」
「どこが細かいんですか!?」
静寂は一瞬で終わった。
「そもそも何なんですか! いきなり不良生徒が飛び込んできたと思ったら、その後から風紀委員会まで!」
「だから追跡中だったって言ってるでしょう!」
「連絡くらいしてください!」
「する時間なかったのよ!」
「一言でもいいでしょう!」
「誰に!?」
「こっちにですよ!」
「だからその『こっち』の誰に連絡すれば即座に現場まで伝わるのよ!」
万魔殿の生徒が口を開き――止まった。
イオリもそこで言葉を切った。
少しだけ妙な間が生まれる。
「……それは」
「ほら」
「いや、でも!」
万魔殿の生徒も引かなかった。
「だからって無断で入っていいことにはならないでしょう!」
「逃げてる相手に『ちょっと待って、今から申請するから』って言えると思う!?」
「そんなこと言ってません!」
「同じでしょうが!」
「違います!」
「何が違うのよ!」
周囲の生徒たちは、さっきまでの追跡より一歩離れた場所から二人を見ていた。
風紀委員の一人が小声で隣へ尋ねる。
「止めます?」
「今入ったら両方から怒られそう」
「ですよね」
一方、万魔殿側でも。
「さっき二人で一緒に走ってなかった?」
「走ってたね」
「結構息合ってたよね」
「言ったら怒られるから黙ってよ」
本人たちには聞こえていなかった。
「イオリ先輩」
別の風紀委員が恐る恐る割って入る。
「何!?」
「共有シートの入力……途中のままです」
イオリが止まった。
「……あ」
部下が端末を見せる。
新規共同案件の入力画面。
場所と概要までは入っているが、送信されていない。
万魔殿の生徒も画面を覗く。
「本当に入力しようとはしてたんですね」
「したわよ!」
「途中でやめてるじゃないですか」
「だから間に合わなかったの!」
「結果だけ見たら無断侵入ですよ」
「結果だけ見るな!」
また声が大きくなる。
そこへ、拘束されていた不良生徒の一人が口を挟んだ。
「ねえ」
「何よ!」
イオリと万魔殿の生徒が同時に振り向く。
「私たち、もう帰っていい?」
「いいわけないでしょ!」
「いいわけないでしょう!」
今度は綺麗に重なった。
不良生徒が肩をすくめる。
「仲いいじゃん」
「どこが!」
「どこがですか!」
また重なった。
周囲の何人かが吹き出す。
イオリの眉間に皺が寄った。
「笑ってないで、この二人連れていきなさい!」
「はい!」
風紀委員たちが拘束した二人を立たせる。
「えー」
「反省文?」
「当然!」
「何枚?」
「今から増やしてほしい?」
「黙ります」
二人は大人しくなった。
騒ぎの中心だった不良生徒たちが連れていかれると、現場に残ったのは風紀委員会と万魔殿の生徒たちだった。
そこで初めて、全員が改めて周囲を見る。
追跡中は気にしている暇もなかったが、設営場所への影響は小さくない。
壊れた物だけではなく、作業も完全に止まっている。
イオリもさすがに軽く流せる状態ではないと分かった。
「……被害、どれくらい?」
先ほどまでより少しだけ声の調子を落として尋ねる。
万魔殿の生徒も、今度は怒鳴らなかった。
「まだ分かりません。壊れた物を確認しないと」
「風紀委員会側で壊したものも分けて」
「分けるんですか?」
「当たり前でしょ。そこまであいつらのせいにはできないわよ」
万魔殿の生徒が少し意外そうにイオリを見る。
「……分かりました」
「あと、追跡に協力した生徒の名前も」
「何に使うんです?」
「報告に決まってるでしょう。勝手に手伝わせたことにされたら困るし」
「別に手伝わされたわけじゃないです。こっちも捕まえたかったので」
「だったらそう書く」
イオリは部下へ指示を出し、被害状況の確認を始めさせた。
騒ぎが終わった以上、今度は後始末が必要になる。
ただ、共有シートへ事後記録を残せば終わり、という話でもなかった。
風紀委員会が万魔殿の使用区域へ事前承認なしで入った事実は変わらない。
万魔殿側の作業を中断させ、被害も出ている。
一方で、あの場で追跡を止めていたら、不良生徒たちは搬入口から逃げていた可能性が高い。
どちらか片方だけを見れば簡単だった。
追跡を優先した。
無断で入った。
どちらも事実だった。
「これ、どうします?」
部下が尋ねる。
イオリは途中で止まっていた共有シートの入力画面を見る。
「事後記録は残す」
「共同案件として?」
「そうするしかないでしょ。ただし、通常処理したみたいには書かないで」
イオリは少し考えた。
「緊急追跡中に万魔殿使用区域へ対象が侵入。事前確認を行う時間がなく、現場判断で追跡を継続。万魔殿側の設営作業へ影響あり」
部下が入力していく。
「それから、現場で万魔殿側の協力を受けて対象二名を確保」
先ほど案内していた生徒が口を挟む。
「三人じゃなかったんですか?」
「一人は入る前に別班が捕まえたのよ」
「ああ」
「何?」
「いや、ちゃんと捕まえてたんだなって」
「喧嘩売ってる?」
「褒めたんですけど」
「そう聞こえないのよ!」
また始まりそうになり、部下が慌てて間へ入った。
「イオリ先輩、続きお願いします!」
「……以上。送って」
「判断区分は?」
そこでイオリは止まった。
通常なら、案件内容に応じてA・B・Cを選ぶ。
だが今回は、そもそも事前判断を取らずに行動している。
今からAやBとして処理するのも妙だった。
「……分からない」
イオリが素直に答える。
部下が驚く。
「イオリ先輩が?」
「何よ、その反応」
「いえ」
イオリは画面を見る。
「これ、普通の案件じゃないでしょ」
万魔殿側の生徒も覗き込んだ。
「緊急、みたいなのないんですか?」
「ない」
「じゃあ今回みたいなのは?」
「だから困ってるのよ」
誰も答えを持っていなかった。
共有シートは、双方が確認しながら共同案件を進めるために作られている。
今回のように、確認する前に行動しなければならない事態を前提にはしていない。
イオリはしばらく画面を見てから、判断区分を空欄のままにした。
「勝手に決めない方がいい。経緯ごと上に回して」
「分かりました」
万魔殿側の生徒も頷いた。
「こっちも報告します」
「万魔殿にも?」
「当然です。こっちだって設営を止められてるんですから」
「……まあ、そうよね」
そこで二人は顔を見合わせた。
事件中は目の前の相手を捕まえるだけでよかった。
終わった今は、風紀委員会と万魔殿、それぞれの立場へ戻らなければならない。
イオリは小さく息を吐いた。
「……面倒ね」
「こっちの台詞です」
「何よ」
「何でもありません」
万魔殿の生徒は倒れた看板を起こし始めた。
イオリも少し迷ってから、その端を持つ。
「え?」
「何よ」
「手伝うんですか?」
「うちが壊した分もあるって言ったでしょ」
二人で看板を起こす。
さっきまで追跡のために同じ方向へ走り、終わった途端に怒鳴り合った相手だった。
だからといって、急に仲良くなったわけではない。
「もう少しそっち持ってください」
「持ってるわよ」
「傾いてます」
「注文多いわね!」
「落としたらまた壊れるでしょう!」
「分かったから引っ張らないで!」
結局、最後まで静かにはならなかった。
その頃。
風紀委員会と万魔殿、それぞれに同じ一件の報告が上がり始めていた。
犯人確保。
現場協力。
無断突入。
設営作業への被害。
そして、
緊急時、既存の共同案件処理では対応が間に合わなかった。
一つの事件について、成功と問題が同時に記録されていた。
やがてその報告は、先生のところにも届くことになる。
事件が終わったあと、風紀委員会と万魔殿の双方から報告が上がった。
追跡対象は全員確保。
万魔殿側の現場生徒も途中から追跡に協力し、逃走経路の封鎖に加わった。
結果だけを見れば、取り締まりは成功している。
だが同時に、風紀委員会は事前連絡なしで万魔殿の使用区域へ入り、設営作業を中断させた。追跡中の銃撃によって、一部の備品にも被害が出ている。
どちらか一方の報告だけで処理できる話ではなかった。
そのため、双方の関係者が同じ場所に集まることになった。
風紀委員会側からはアコとイオリ。
万魔殿側からはイロハと、現場にいた生徒。
先生と白石は、どちらにも属さない立場として同席していた。
机の上には、双方から提出された報告が並べられている。
先生は一通り目を通してから顔を上げた。
「まず、起きたことを順番に確認しよう」
誰かを責めるためではない。
同じ事件について、風紀委員会と万魔殿では見えているものが違う。
それを揃える必要があった。
「イオリ。万魔殿の区域に入る前、共有シートを使おうとはしたんだよね?」
「はい。部下が開きました」
「入力も始めていた?」
「途中までは」
「でも、送信せずに追跡を続けた」
イオリは頷いた。
「待ってたら逃げられてましたから」
迷いのない返事だった。
「もう二人とも中に入ってたし、設営してる生徒もいた。あそこで私たちまで止まったら、好きに逃げ回られるだけです」
「イオリ」
隣からアコが声をかける。
「分かっています。追跡を続けた判断については、私も異論はありません」
イオリが横を見る。
「じゃあ、アコちゃん――」
「ただし」
アコはそこで言葉を切った。
「追跡を続ける必要があったことと、万魔殿側に何も伝わらないまま入ったことは別です」
「……それは分かってる」
先ほどまで現場で言い合っていた時とは違い、イオリも強くは反発しなかった。
実際に何が起きたのかは、自分が一番よく知っている。
万魔殿の生徒たちは、最初から追跡に協力してくれたわけではない。
突然入ってきた風紀委員会を見て、まず何が起きているのか確認しようとした。
事情を知らなかったのだから当然だった。
先生は向かい側を見る。
「万魔殿側は、追跡を止めてほしかった?」
現場にいた生徒が首を横に振った。
「そこまでは言ってません」
「許可が出るまで区域の外で待ってほしかったわけでもない?」
「はい。あの状況で待ってたら、たぶん搬入口から逃げられてました」
イオリが少しだけ身を乗り出す。
「でしょ?」
「イオリ」
「……分かってるって、アコちゃん」
イオリは椅子へ戻った。
イロハが報告書を机へ置く。
「こちらが問題にしているのは、風紀委員会が追跡したことそのものではありません」
いつもの気怠そうな調子ではあるが、話している内容は明確だった。
「何が起きているのか、こちらの現場がまったく知らなかったことです」
「でも」
イオリがイロハを見る。
「それを説明してる時間もなかったわよ」
「でしょうね」
あっさり認められ、イオリが少し意外そうな顔をした。
イロハは続ける。
「なので、説明してから入ってくださいとも言っていません」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
「それが決まっていなかったから、こうなったんじゃないですか?」
イオリが黙った。
先生も二人の会話を聞きながら、机上の共有シートへ目を落とした。
今回使おうとした仕組みは、双方が案件を確認し、条件や担当を共有したうえで動くためのものだ。
通常の案件では機能している。
問題が起きたのは、それを使おうとしたにもかかわらず、使い切る時間がなかったからだった。
「現場では、何が分かっていれば違った?」
先生が尋ねる。
万魔殿の生徒は少し考えた。
「追跡中だって分かるだけでも違ったと思います」
「それだけ?」
「はい。少なくとも、入口で風紀委員会を止めようとはしませんでした」
イオリが視線を向ける。
「それに」
生徒は続けた。
「先に分かっていれば、搬入口を塞げました。あそこから逃げられるって、私たちは知ってましたから」
「……確かに」
イオリが小さく呟いた。
実際、追跡の途中で一番困ったのは、万魔殿側の区域の構造が分からなかったことだった。
現場の生徒が加わってからは、逃走経路をかなり絞れている。
「最初から分かってたら、もっと早く捕まえられたかも」
「こちらも設営をあそこまで荒らされずに済んだかもしれません」
「それは……悪かったわよ」
万魔殿の生徒がイオリを見る。
「そこはちゃんと分けて報告してくれてたので、分かってます」
イオリは少しだけ視線を逸らした。
アコが二人のやり取りを見てから、先生へ向き直る。
「つまり、万魔殿側が求めていたのは事前承認ではなく、状況の通知だったということですね」
「そうなると思います」
イロハが答える。
「こちらとしても、緊急追跡のたびに許可を求められても困ります。返事をする頃には状況が変わっているでしょうし」
「それなら」
先生が共有シートを見る。
「今回、これを使うこと自体に無理があった?」
「通常の使い方では、そうだと思います」
アコが答えた。
「入力して、相手側が確認し、必要な判断を返す。今回そこまで待つ余裕はありませんでした」
「項目を減らせば間に合うかな」
先生の問いに、今度は白石が口を開いた。
「難しいと思います」
それまで白石は、双方の報告を確認しながら話を聞いていた。
「今回時間がかかったのは、入力項目の数だけではありません。入力後、相手側が確認する必要があります」
イロハが頷く。
「こちらも共有シートを常に見ているわけではありませんからね」
「そうすると」
白石は画面を見る。
「通常案件を処理するための仕組みと、今回必要だったものは、役割が違うのではないでしょうか」
先生が白石を見る。
「役割?」
「共有シートは、双方で案件を確認して調整するためのものです」
白石は一度言葉を切った。
「でも今回、現場が必要としていたのは調整より先に、即座に知らせることでした」
部屋が静かになる。
先生は、その言葉を頭の中で整理した。
許可ではない。
承認でもない。
相手の判断を待つことでもない。
ただ、今から何が起きるのかを伝える。
それだけでも、現場の動きは変わっていた。
「でも、その『知らせる』って」
イオリが口を開く。
「誰に?」
全員の視線が集まる。
「私、あの時万魔殿の誰に連絡すればよかったの?」
誰もすぐには答えなかった。
「アコちゃん、知ってた?」
「……いいえ」
アコは素直に認めた。
「緊急時の連絡先として、特定の窓口は決めていません」
「こっちもですね」
イロハも続ける。
「通常案件の担当は決めていますけど、緊急事態のために常時誰かが待機しているわけではありません」
「じゃあ仮に連絡しようとしても」
先生が言う。
「誰に知らせれば現場まで届くのか、決まってなかったんだ」
「そうなります」
アコの表情が少し険しくなる。
それはイオリ個人の判断だけで解決できる問題ではなかった。
イオリは現場で追跡を続けた。
万魔殿側は、何も知らない状態で突然その追跡へ巻き込まれた。
どちらかが手順を忘れたわけではない。
そもそも、その状況で使う手順が存在していなかった。
先生は机の上に紙を置いた。
「一度、分けよう」
書きながら確認する。
「まず、今回の追跡について」
イオリを見る。
「追跡を止めて承認を待つ余裕はなかった」
アコが頷く。
イロハも異論を挟まない。
「次に、万魔殿側について」
今度は向かいを見る。
「何も知らされなかったことで、最初の対応が遅れた。作業にも余計な混乱が出た」
「はい」
現場の生徒が答える。
「そして、今使っている共有シートは、こういう緊急案件には間に合わない」
白石が続けた。
「加えて、緊急時にどこまで現場判断で行動できるのかも明確ではありません」
アコがそちらを見る。
「現場判断の範囲……」
「今回はイオリさんが追跡を続けました」
白石はイオリを見る。
「結果として対象は確保できています。ただ、同じような状況が起きた時、どこまでなら相手組織の確認を待たずに動いていいのかは決まっていません」
「それは必要でしょうね」
イロハが答える。
「毎回、現場の判断だけに任せるわけにもいきません」
イオリも今度は反発しなかった。
「……私だって、好きで勝手に入ったわけじゃないわよ」
「分かっています」
アコが答える。
「だから、次も同じ判断をあなた一人に背負わせる形にはしたくありません」
イオリがアコを見る。
「アコちゃん……」
「何ですか」
「いや、別に」
イオリはそれ以上何も言わなかった。
先生は紙に残った内容を見る。
通常案件の共有方法はある。
しかし、緊急時には間に合わない。
相手組織へ即座に知らせる方法もない。
そして、現場がどこまで独自判断で動けるのかも決まっていない。
今回の事件で見つかった問題は、その三つだった。
「じゃあ」
アコが先生を見る。
「この場で緊急時の運用まで決めますか?」
先生は少し考えたあと、首を横に振った。
「今日は決めない方がいいと思う」
「理由を聞いても?」
「今回だけに合わせた仕組みにしたくないから」
先生は報告書を指した。
「今回は追跡だった。でも、急いで動かなきゃいけないのって、それだけじゃないよね」
「事故や火災もありますね」
白石が言う。
「他にも想定しておくべき事例はあると思います」
イロハも頷いた。
「一度持ち帰って、どんな状況を緊急案件として扱うのか整理した方がよさそうですね」
「私もそれでいいと思います」
アコが答えた。
ここで無理に答えを出す必要はない。
少なくとも、何が足りなかったのかは共有できた。
先生は二つの報告書を重ねた。
同じ事件について書かれた、風紀委員会と万魔殿からの報告。
片方には、追跡を止められなかった理由。
もう片方には、何も知らされなかった現場の混乱。
どちらも間違っていなかった。
だからこそ、どちらかを直せば済む話でもなかった。
「今日はここまでにしよう」
先生の言葉で、張っていた空気が少し緩んだ。
アコが書類をまとめ、イロハも席を立つ。
イオリも立ち上がりかけて、向かいにいた万魔殿の生徒を見た。
少し迷ってから声をかける。
「……さっきはありがと」
「何がです?」
「道。教えてくれたでしょ」
万魔殿の生徒は一瞬だけ目を丸くした。
「こっちも捕まえないと設営が終わらなかったので」
「それでも助かった」
「……どういたしまして」
それで終わるかと思ったが、万魔殿の生徒は少し考えて付け足した。
「次は、入ってくる前に知らせてください」
イオリが眉を寄せる。
「だから、それができなかったって話を今してたでしょうが」
「次までにはできるようにしてください」
「私に言わないでよ」
イオリは横を見る。
「ね、アコちゃん」
「なぜ私を見るんですか」
「偉い人だから」
「あなたも考えるんですよ」
「えー」
先ほどまでの言い争いとは違う。
その程度のやり取りで、二人は部屋を出ていった。
先生は机に残った紙を見る。
問題は解決していない。
けれど、事件が始まる前とは違っていた。
通常の手順では間に合わない状況がある。
そんな時にも、現場を止めず、相手を置き去りにもしない方法が必要になる。
その答えは、まだない。
だから次は、それを考える。