翌日。
先生の机には、昨日の一件に関する二つの報告書が並んでいた。
一つは風紀委員会から。
もう一つは万魔殿から。
どちらも同じ事件について書かれたものだが、記録の中心は少し違う。
風紀委員会側には、追跡対象が万魔殿の使用区域へ逃げ込み、追跡を継続した経緯が記されている。
万魔殿側には、事前連絡のないまま追跡が区域内へ持ち込まれ、設営作業が中断したことが記されていた。
先生はその二つを何度か見比べたあと、端末へ視線を移した。
「緊急案件だけ、入力を簡単にするのはどうかな」
向かいで資料を整理していた白石の手が止まる。
「共有シートのですか?」
「うん。昨日は入力してる途中で追跡を続けたんだよね。だったら緊急時だけ項目を減らせば、少しは早くなるかなって」
白石はすぐには答えず、現在使っている共有シートを開いた。
案件名。
発生場所。
概要。
担当。
判断区分。
対応条件。
通常の共同案件であれば、どれも必要な項目だった。
双方が同じ情報を見ながら動くために、これまで整理してきたものでもある。
「減らすなら、どれでしょう」
「概要を短くするとか。判断区分も後からでいいかもしれない」
「担当も、緊急時なら対応している側だけ分かれば足りるかもしれません」
「じゃあ、かなり減らせそうだね」
先生が画面を操作し、仮の入力欄を作っていく。
発生場所。
案件種別。
対応中の組織。
三つ。
昨日のものと比べれば、ずっと少ない。
先生は出来上がった画面を見た。
「これなら早くない?」
白石は画面を見たまま、少し考えていた。
やがて自分の端末を取り出す。
「先生。今から、昨日と同じ状況だと思って入力してみてもらえますか」
「今?」
「はい。追跡対象が目の前を走っていて、万魔殿の区域へ入ろうとしているところです」
先生は仮の入力画面を見る。
場所を選ぶ。
案件種別を選択する。
対応組織を選ぶ。
送信。
「……できた」
「次は?」
「次?」
「万魔殿側が確認します」
先生の指が止まった。
白石は向かい側の端末を操作する。
通知を開き、内容を確認する。
「確認しました」
「うん」
「これで、風紀委員会側が入れます」
先生はしばらく二つの端末を見た。
入力そのものは短い。
昨日までの共有シートとは比べものにならない。
それでも。
「……遅いか」
「少なくとも、追跡しながら行う手順としては」
白石が答える。
「項目を減らしても、シートを開いて入力する必要があります。それから相手側が通知に気づいて、内容を確認する必要もあります」
先生は椅子にもたれた。
「そこは変わらないんだ」
「はい」
昨日、イオリたちが止まった時間は短かった。
それでも追跡中には長かった。
入力を始めた間にも、相手は走り続けている。
そして送信できたとしても、万魔殿側がすぐに見る保証はない。
先生は仮に作った入力欄を閉じた。
「じゃあ、シートを速くするだけじゃ駄目か」
白石は頷く。
「昨日、万魔殿側が必要としていたのは、風紀委員会から判断を求められることではありませんでした」
「追跡中だって分かればよかった」
「はい」
先生は昨日の協議で聞いた言葉を思い返す。
先に分かっていれば、入口で風紀委員会を止めなかった。
搬入口も塞げた。
万魔殿側が欲しかったのは、長い説明ではない。
まして、風紀委員会が入っていいかどうかを判断する時間でもなかった。
何が起きているのか。
誰が動いているのか。
最低限、それだけだった。
「……知らせるだけでいいのかな」
白石が顔を上げる。
「承認を取るんじゃなくて」
先生は端末へ目を落とした。
「今からそっちに入る。追跡中。まずそれだけ飛ばす」
「返答は?」
「待たない」
先生は少し考えてから続けた。
「待てるなら、そもそも普通の共有シートを使えばいい。待てない時だけ、先に知らせる」
白石は手元の資料へ何かを書き込んだ。
「緊急通知、ですか」
「そんな感じかな」
言葉にしてみると単純だった。
これまでの共同案件では、双方が情報を共有し、条件を確認してから動くことを前提としていた。
だが昨日は、その順番そのものが間に合わなかった。
ならば順番を変える。
緊急時はまず動く。
同時に、相手へ知らせる。
詳細は後から残す。
「ただ」
白石が言う。
「これだけでは、決められないことがあります」
「緊急って、どこから?」
「それもあります」
白石は昨日の報告書を一枚取り出した。
「それに、現場が『緊急です』と判断すれば、どんな案件でも通常手順を省略できることになりませんか」
先生は黙った。
追跡。
事故。
火災。
明らかに待つべきではない状況なら分かりやすい。
だが現場では、そこまで綺麗に分かれるとは限らない。
少し急いでいる。
相手の返答を待つのが面倒。
そんな理由まで「緊急」に含まれれば、通常の共有シートを作った意味がなくなる。
「……そこは決めないと駄目だね」
「はい」
先生一人と白石一人で、現場の権限まで決める話でもなかった。
風紀委員会には風紀委員会の事情がある。
万魔殿には万魔殿の事情がある。
昨日の一件を受けた仕組みである以上、双方から意見を聞かずに作れば、また机上だけのものになる。
先生は端末を手に取った。
「アコとイロハに聞こう」
白石が頷いた。
「その方がいいと思います」
昨日に続いて同じ二人へ話を持ち込むことになる。
ただし、今度は事件の責任を確認するためではない。
昨日見つかった穴を、どう塞ぐか。
そのための話だった。
しばらくして。
先生の前にはアコとイロハが座っていた。
昨日のように当事者であるイオリや現場の生徒はいない。
机の中央には、先生と白石がまとめた簡単な案だけが置かれている。
アコが紙を読む。
「緊急時は事前承認を待たず、行動開始と同時に相手組織へ通知……」
その向かいで、イロハも同じ箇所へ目を通していた。
「詳細は事後に共有シートへ記録、ですか」
「うん」
先生は頷く。
「昨日みたいな状況で、普通の手順をそのまま使うのは難しいと思う」
アコは否定しなかった。
「それは私も同意します」
昨日、イオリの話を聞いた時点で、その点について異論はなかった。
「追跡対象を目の前にして、相手側の承認を待つような運用にはできません。現場の対応を遅らせます」
「こちらとしても、毎回判断を求められるのは困りますね」
イロハも続ける。
「緊急事態なら、こちらが返事をする頃には状況が変わっている可能性がありますから」
先生は少し安心した。
少なくとも、緊急時に承認を待たないという方向そのものには、双方とも反対していない。
「じゃあ、この形で――」
「ただし」
アコの声に、先生の言葉が止まった。
アコは紙を机へ戻した。
「このまま運用するのは反対です」
「どこが問題?」
「緊急案件の定義がありません」
やはりそこだった。
アコは資料の一文を指す。
「『現場が緊急と判断した場合』だけでは広すぎます。極端な話、少し対応を急ぎたいというだけでも緊急扱いできてしまいます」
「やっぱりそうなるよね」
「なります」
アコの返答は早かった。
「通常手順を省略できる仕組みを作る以上、使える条件は決めておくべきです」
先生は紙へ書き込む。
「どんな条件ならいいと思う?」
アコは少し考えた。
「まず、生徒の安全に関わる場合」
一つ。
「それから、待機することで被害が拡大する可能性が高い場合」
二つ。
「昨日のような追跡であれば、待機によって対象を見失う可能性が高い場合も含めていいでしょう」
三つ。
白石がそれを記録する。
「共通しているのは、通常手順を踏む時間がないことですね」
「そうです」
アコは頷いた。
「単に急いでいるのではなく、待つことそのものが状況を悪化させる場合です」
先生は書かれた条件を見た。
昨日のイオリの状況なら、すべて説明できる。
追跡対象はすでに万魔殿の区域へ入り、そこで発砲していた。
待てば逃走する。
周囲には設営中の生徒もいた。
通常の確認を待つことに、明確な不利益があった。
「それなら、昨日は緊急でいい?」
先生が確認すると、アコは頷いた。
「私はそう判断します」
「私も、その条件なら異論はないですね」
イロハも答えた。
「ただ」
今度はイロハが紙を指した。
「これ、誰に送るんです?」
先生と白石が止まった。
「万魔殿に……」
先生が答えかける。
「万魔殿の誰にですか?」
「……そこか」
「昨日もそこが問題だったでしょう」
イロハは淡々としていた。
「例えば私に送ることにしても、私がいつでも端末を見ているとは限りません」
「アコも?」
先生が見る。
「同じです」
アコも即答した。
「私個人を緊急窓口にするのは現実的ではありません。会議中や別件対応中で確認できない場合もあります」
「じゃあ、担当者を何人か決める?」
先生の案に、イロハが少し首を傾けた。
「それでも、その人たちが誰も見られなければ同じでは?」
また止まる。
一人では駄目。
数人でも、その誰かを探して連絡するなら時間がかかる。
そもそも昨日必要だったのは、特定の誰かに事情を説明することではない。
現場へ、今起きていることを伝えることだった。
白石が資料の余白へ線を引いた。
「個人ではなく、組織に送る形にできないでしょうか」
アコがそちらを見る。
「組織に?」
「はい」
白石は説明を続ける。
「風紀委員会から万魔殿へ緊急通知を出す場合、特定の誰か一人を宛先にするのではなく、万魔殿側で緊急通知を受け取れる共有先を用意する」
イロハが少し考える。
「複数人が同時に見られる場所、ということですか」
「そうです」
「それなら、誰か一人が見られなくても他の人が確認できますね」
アコも頷いた。
「風紀委員会側にも同じものを用意すれば、逆の場合にも使えます」
先生は二人の話を聞きながら、紙に大きく書き足した。
個人ではなく、組織へ。
これならアコとイロハが直接連絡を取り続ける必要もない。
現場から出された通知を、それぞれの組織が受け取る。
誰が対応するかは、その組織の中で判断する。
「これならいけそう?」
先生が尋ねる。
アコはすぐには頷かなかった。
「形としては」
「まだ何かある?」
「通知する内容です」
アコは先生が最初に作った案を見る。
発生場所。
案件種別。
対応中の組織。
「これを入力するんですよね?」
「今のところは」
「昨日のイオリが、これを入力できたと思いますか?」
先生は黙った。
イロハが小さく息を吐く。
「そこは本人にやらせた方が早いんじゃないですか」
アコも否定しなかった。
「そうですね」
先生は二人を見る。
「イオリに?」
「実際に使うのは現場です」
アコが答える。
「私たちがここで使えると思っても、追跡中のイオリが使えなければ意味がありません」
昨日、共有シートを途中まで入力して、捨てたのもイオリだった。
ならば新しい仕組みが本当に昨日の状況で使えるか。
それを確かめるには、本人に触らせるのが一番早い。
先生は紙を見直した。
緊急案件の条件。
事前承認は待たない。
行動開始と同時に通知。
個人ではなく、組織へ送る。
詳細は事後に共有シートへ残す。
形は見えてきた。
ただし、まだ机の上でしか動いていない。
先生は紙を閉じた。
「じゃあ、試してみよう」
アコが頷く。
「イオリには私から説明します」
「万魔殿側も、通知を受け取った後の動きを確認しておきます」
イロハも立ち上がった。
ここまで話した内容が正しいかどうかは、まだ分からない。
昨日も、共有シートそのものは机の上では問題なく機能していた。
実際の事件が、その想定より速かっただけだ。
同じ失敗を繰り返さないためには、作った仕組みを現場の速度まで持っていかなければならない。
そして、その日のうちに。
昨日、共有シートを閉じて走ることを選んだ本人の手に、新しい緊急通知の試作画面が渡された。
イオリは説明を聞き終え、端末を見る。
画面には三つの入力欄が並んでいた。
発生場所。
案件種別。
対応組織。
「……これ、走りながらやるの?」
アコが答える。
「そのための試験です」
イオリはもう一度画面を見る。
「ふーん」
しばらく触ってから、顔を上げた。
「まあ、やってみれば分かるか」
机の上では、昨日よりずっと速くなった。
それが現場でも速いのか。
答えは、まだ出ていなかった。
試験に使う場所は、風紀委員会の訓練区域の一角だった。
いくつかの建物と通路があり、追跡や制圧訓練にも使われている。今回はその一部を万魔殿の管理区域に見立て、昨日と似た状況を再現することになった。
想定は単純だ。
風紀委員会が不良生徒を追跡。
対象が万魔殿の区域へ逃げ込む。
追跡を止めれば逃走の可能性が高い。
そこでイオリが緊急通知を送り、そのまま追跡を継続する。
万魔殿側は通知を受け、現場へ状況を伝える。
昨日との違いは、それだけだった。
「じゃあ始めるわよ」
イオリは端末を制服のポケットへ入れた。
少し離れたところでは、アコが試験の様子を確認している。
先生と白石もその隣にいた。
万魔殿側ではイロハが通知の受信状況を確認し、数名の生徒が区域内で待機している。
「対象役、開始してください」
白石の合図で、生徒が走り出した。
数秒遅れてイオリが追う。
本物の事件ではない。
相手も訓練だと分かっている。
それでもイオリの動きは速かった。
角を曲がる。
対象役が次の通路へ入る。
その先に、万魔殿区域として設定された境界がある。
イオリは走りながらポケットから端末を取り出した。
画面を開く。
緊急通知。
発生場所。
「……ここ、どこよ」
走る速度が落ちた。
候補がいくつも表示されている。
現在地に近い区域を選択。
次。
案件種別。
追跡を選ぶ。
次。
対応組織。
風紀委員会。
送信。
顔を上げた時には、対象役との距離がかなり開いていた。
イオリは端末をポケットへ押し込み、一気に速度を上げる。
そのまま境界を越えた。
少し遅れて、万魔殿側の端末に通知が入る。
「来ました」
生徒の一人が画面を見る。
「風紀委員会、追跡……場所は――」
確認している間にも、イオリはすでに区域の中へ入っている。
「イオリさん、もう入ってますね」
イロハが言った。
「はい」
「じゃあ、現場に伝えてください」
通知を受けた生徒が区域内の担当へ連絡する。
その頃には、イオリは対象役を追ってさらに奥へ進んでいた。
やがて終了の合図が出る。
イオリは追跡をやめ、その場で立ち止まった。
戻ってきた時には、あからさまに不満そうな顔をしていた。
アコが結果を確認する。
「通知自体は届いていますね」
「届いたでしょうね」
イオリは端末を差し出した。
「でも、昨日だったら逃げられてるわよ」
アコが画面を見る。
「そこまで時間がかかりましたか?」
「かかるって。走りながら場所選んで、種類選んで、所属選んでってやってみてよ」
「三項目だけでしょう」
「止まってやるならね」
アコが黙る。
イオリは試作画面を指した。
「それに場所。私、追いかけながら今いる区域の正式名称なんて見てないから」
白石が記録していた手を止めた。
「確かに」
「昨日だって、相手がどこに逃げるか見ながら走ってたのよ。そこで端末見て一覧から場所探してたら、追跡どころじゃないわ」
先生はイオリの端末を受け取った。
机の上で試した時は、簡単だった。
三項目しかない。
数秒あれば入力できる。
だが、その数秒の間にも現場は動く。
しかも入力する人間自身も動いている。
「じゃあ、もっと減らそうか」
先生が言う。
「場所をなくす?」
「それは困るんじゃない?」
イオリはすぐに返した。
「どこで起きてるか分からなかったら、向こうも何すればいいか分からないでしょ」
「確かに」
「対応組織は?」
「それもいると思う。誰が来るか分からないのは困るでしょ」
「案件種別も必要ですね」
白石が言った。
「追跡なのか事故なのかで、受け取った側の対応が変わります」
必要な情報を並べると、結局三つとも残る。
先生は試作画面を見た。
「減らせないね」
「だから」
イオリが端末を指す。
「減らすんじゃなくて、入力しなくていいようにできないの?」
先生が顔を上げる。
「入力しない?」
「だって、私たちがやりたいのって報告書を作ることじゃないでしょ?」
イオリは画面を操作する。
「緊急だって知らせたいだけなんだから、押したら飛ぶようにすればいいじゃない」
アコが眉を寄せる。
「何も入力せずに?」
「全部じゃないわよ」
イオリは案件種別の欄を指した。
「例えば、これだけ選ぶとか」
追跡。
戦闘。
事故。
その他。
「場所は端末の位置から分からないの?」
白石が考える。
「区域単位なら、自動で付けられると思います」
「じゃあそれでいいじゃない」
「所属も」
先生が続ける。
「送った側で分かる?」
「登録情報を使えば可能です」
白石が答える。
イオリが両手を広げた。
「ほら。私がやるの一個で済む」
アコはまだ試作画面を見ていた。
「案件種別を選んで、送信」
「それくらいなら走りながらでもできる」
「本当に?」
「じゃあアコちゃんが追いかけながら試す?」
「なぜ私が」
「確認したいんでしょ?」
アコは一瞬イオリを見たが、すぐに話を戻した。
「……まず修正しましょう」
イオリは少しだけ笑った。
「はいはい」
先生と白石はその場で試作画面を作り直した。
入力欄を削る。
代わりに、通知を出した端末から自動的に情報を付ける。
送信元。
現在区域。
時刻。
現場側が選ぶのは案件種別だけ。
さらに操作を減らすため、緊急通知を開いた最初の画面に四つの項目を置いた。
追跡。
戦闘。
事故。
その他。
どれかを押す。
確認。
送信。
それだけ。
「確認もいる?」
イオリが聞く。
「誤送信防止です」
アコが即答した。
「そこまで消すつもりはありません」
「じゃあ二回押すだけね」
「そうなります」
イロハが万魔殿側の受信画面を確認する。
そこには、
発生区域。
送信組織。
案件種別。
時刻。
だけが表示される。
詳しい事情はない。
誰を追っているのかも、何人いるのかも分からない。
「ずいぶん簡単ですね」
イロハが言った。
「足りない?」
先生が尋ねる。
イロハは少し考えた。
「緊急通知としては、これでいいんじゃないですか」
意外なほどあっさりした返事だった。
「詳しいことを書いている間に状況が変わるなら、最初から求めない方がいいでしょうし」
「受け取った側はこれで動ける?」
「少なくとも昨日なら」
イロハは画面を指した。
「『この区域に風紀委員会が追跡で入ってくる』と分かります。それなら現場へ伝えられます」
万魔殿側の生徒も画面を見る。
「これなら、通路を空けるくらいはできますね」
「じゃあ、もう一回やってみよう」
先生の言葉に、イオリが頷いた。
「今度はちゃんと追うわよ」
二度目の試験が始まった。
対象役の生徒が走る。
イオリが追う。
先ほどと同じ経路。
同じ距離。
対象が角を曲がり、万魔殿区域へ向かう。
イオリは速度を落とさなかった。
片手で端末を取り出す。
緊急通知。
追跡。
確認。
送信。
すぐに端末を戻す。
走る。
万魔殿側の端末が鳴った。
「通知来ました」
表示を確認する。
追跡。
風紀委員会。
対象区域。
それだけ。
「現場へ」
連絡を受けた生徒が周囲へ声をかける。
「風紀委員会、追跡で入ります! 通路空けてください!」
進行方向にいた生徒が移動する。
別の生徒が対象役の向かった先を見る。
「そっち、先は二つに分かれます!」
イオリが走ったまま答える。
「どっち!?」
「右! 左は行き止まりです!」
対象役が右へ曲がる。
イオリも追う。
少し先で、別の万魔殿生徒が通路を塞いでいた荷物を横へ寄せる。
追跡経路が開く。
イオリはそのまま駆け抜けた。
終了の合図が出たのは、それから間もなくだった。
今度は対象役との距離がほとんど開いていない。
イオリが戻ってくる。
「これなら使える」
最初の時とは違い、返事は早かった。
アコは試験結果を確認する。
「操作に迷ったところは?」
「ない」
「通知を出したことで追跡が遅れた感覚は?」
「ほとんどないわね」
白石も記録を確認する。
「一回目よりかなり短縮されています」
万魔殿側でも、最初の試験より早く現場へ情報が伝わっていた。
それだけではない。
通知を受けたことで、万魔殿側の生徒が追跡班を止めることなく、先に通路を空けている。
昨日とは逆だった。
知らない風紀委員会が突然飛び込んできたのではない。
追跡中の風紀委員会が来ると分かっていた。
たったそれだけで、最初の動きが変わった。
「これで完成?」
先生が尋ねる。
アコは首を横に振った。
「通知部分は、ひとまずこれでいいと思います」
「まだ残ってる?」
「緊急扱いした後です」
アコはイオリを見る。
「現場判断で通常手順を省略できるようにするなら、その判断が妥当だったかは後から確認する必要があります」
イオリも今度は異論を挟まなかった。
「それは分かる」
「緊急通知を出せば何をしてもいい、という仕組みではありませんから」
「うん」
先生も頷く。
「じゃあ、緊急通知を使った案件は必ず後から共有シートに残す」
白石が項目を書き足す。
「通常の記録に加えて、『なぜ通常手順を使えなかったのか』を残すのはどうでしょう」
アコが確認する。
「誰が?」
「実際に緊急判断をした側です」
「それならいいと思います」
イロハも頷いた。
「こちら側から通知を出した場合も同じにしましょう」
先生はそこで少し考えた。
「後から駄目だったって判断されることもある?」
「当然あります」
アコが答えた。
「現場判断を認めることと、判断の責任をなくすことは別です」
イオリが小さく肩をすくめる。
「まあ、そうよね」
「嫌そうですね」
「別に。追わなきゃいけない時に追えるなら、それでいい」
イオリは試験用の端末を見る。
「昨日みたいに、入力するか追うかで迷わなくて済むし」
アコの表情が少しだけ和らいだ。
「なら、現場側としては問題なさそうですね」
「最初から私に触らせればよかったのよ」
「ある程度形にしてからでないと試せないでしょう」
「三項目のやつは使えなかったけどね」
「それを確認するための試験です」
イオリはそれ以上言い返さなかった。
先生は二人のやり取りを聞きながら、今回決まった内容を見直した。
通常案件は、これまで通り共有シートを使う。
緊急時だけは例外。
待機によって安全上の問題、被害拡大、対象の逃走などが起きる可能性が高く、通常手順を踏む時間がない場合。
現場は事前承認を待たずに行動できる。
その代わり、行動開始と同時に相手組織へ緊急通知を送る。
通知は個人ではなく組織へ。
内容は必要最低限。
詳細は事後に共有シートへ記録し、なぜ緊急判断が必要だったのかも残す。
昨日まで存在しなかった手順だった。
「一応、形にはなったね」
先生が言う。
「暫定運用としては」
アコが念を押す。
「いきなり正式運用にはしません。実際に何件か使って、問題がないか確認した方がいいでしょう」
「私もそれでいいと思います」
イロハが答えた。
「追跡以外で使った時にどうなるかは、まだ分かりませんから」
白石もその内容を記録する。
先生は頷いた。
一件の成功で完成扱いにはしない。
昨日の失敗が、まさにそれを教えていた。
机の上で使える。
それだけでは足りない。
現場で使える。
それでも、まだ足りない。
実際の運用の中で使われ、それでも問題が出ないことを確認して初めて定着する。
試験が終わり、万魔殿側の生徒たちが撤収を始める。
イオリも端末を返そうとして、ふと手を止めた。
「これ、もう使えないの?」
アコが見る。
「今日は試験ですから」
「次に本当に何かあったら?」
「暫定運用の準備が終わるまでは従来通りです」
イオリは露骨に嫌そうな顔をした。
「せっかく使えるようになったのに」
「だから準備を急ぎます」
「いつ?」
「イオリ」
「聞いただけでしょ」
アコは一瞬黙ってから、端末を受け取った。
「できるだけ早くです」
「ならいいけど」
イオリはそれ以上急かさなかった。
昨日。
彼女は共有シートを開き、途中で捨てるように閉じた。
今日。
同じ状況を再現しても、最後まで走り続けることができた。
変わったのはイオリではない。
現場へ求める手順の方だった。
先生は、白石がまとめた試験記録を受け取った。
最初の案には修正線がいくつも入っている。
その横に、新しい運用案が記されていた。
一度作って。
使って。
駄目だったから直した。
それだけのことだった。
けれど、最初から机の上だけで完成させるより、その修正線の方がずっと信用できるように思えた。
先生は最後に書かれた一文を見る。
『緊急連携手順――暫定試験運用へ移行』
まだ完成ではない。
それでよかった。