緊急通知に「受領」と「対応状況」の項目が追加されてから、数日が経った。
その日の午後、シャーレの執務室には普段より長い机が用意されていた。片側には先生と修司、少し離れたところにミコリが座り、反対側ではヒナが端末に表示された資料へ目を通している。
残る一席の主は、開始予定の時刻を過ぎても姿を見せていなかった。
先生が壁の時計を確認したところで、廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。やがて扉が勢いよく開き、マコトが堂々とした足取りで入ってきた。
「待たせたな!」
謝罪の言葉はない。
マコトは室内を見回し、空いている席がヒナの正面だと気付くと、わずかに眉を寄せた。
「なぜ、ゲヘナの重要事項を確認する会議がシャーレで行われるのだ。万魔殿の議事堂を使えば、もっと格式ある場を用意できたものを」
「マコトが時間どおりに来れば、場所はどこでもよかったと思うけど」
ヒナは資料から顔を上げないまま答えた。
「遅れたのではない。議長として、急ぎ確認しなければならない案件があったのだ」
「開始時刻を過ぎているなら、遅刻でしょう」
「重要な案件は、会議の時刻を選んではくれん!」
マコトは言い切ると、ヒナの正面に置かれた椅子へ腰を下ろした。先生は二人の間に何か言葉を挟もうとしたが、その前に修司が資料を開く。
「全員揃いましたので、始めます」
余計な前置きはなかった。
マコトは椅子へ深く座り、満足げに腕を組む。
「今回、私が呼ばれた理由は分かっている。万魔殿と風紀委員会の共同運用が成果を上げたため、責任者である私へ正式に報告するのだろう?」
「中間確認です」
修司が訂正する。
「現在の運用で何が変わり、何がまだ変わっていないのかを確認します。成功を宣言するための会議ではありません」
「成果が出ているなら、成功と呼んで構わないではないか」
「成果が続くか分からない段階で成功と判断すると、問題が再発した時に原因を見失います」
「そこまで慎重に扱う必要があるのか? 成果が出ているなら、大きく示した方が関係者も動きやすいと思うが」
「数字を大きく見せることと、士気を上げることは別です」
マコトは何か言い返そうとしたものの、修司はすでにミコリへ視線を向けていた。
ミコリが端末を操作すると、机の中央に七つの項目が並ぶ。どれも新しく作られたものではない。先生が風紀委員会と万魔殿の間を往復していた頃、修司が調査の結果として整理した原因だった。
先生は表示された文字を順に見ていった。
自分が毎日のように両組織を訪れ、足りない説明を補い、言葉を選び直していた頃から、それほど長い時間が経ったわけではない。それでも今では、あの頃と同じように一日を過ごす日の方が少なくなっていた。
「最初は、説明不足です」
ミコリが一つ目の項目を開く。
「共同案件では、依頼の目的、現在の状況、相手組織へ求める対応、回答期限を記録するようになりました。必要事項が不足している場合は、処理を始めてから先生へ確認するのではなく、受付時点で依頼元へ差し戻されています」
ヒナが記録を確認する。
「最初の頃は、差し戻されたことで処理が遅れた案件もあったわ」
「はい。ただし、不足した情報を後から確認するために、担当者が作業を中断した案件は減少しています」
「始める前に止めるか、途中で止まるかの違いか」
先生が言うと、修司が頷いた。
「途中で止まった場合、どこまで進んでいるのかを確認する仕事も発生します。必要な情報を先に揃えた方が、全体の手数は少なくなります」
マコトが表示を覗き込む。
「つまり、万魔殿からの依頼も、説明が足りなければ送り返されるということか?」
「風紀委員会からの依頼も同じです」
ミコリが答える。
「そこは分かっている。念のため確認しただけだ」
マコトは平然と言ったが、ヒナは何も返さなかった。
二つ目は、引き継ぎ不足だった。
試験運用を始める前は、途中で担当者が変わるたびに、先生がそれまでの経緯を説明していた。現在は、相手側へ提示した条件と、誰の判断を待っているのかが記録に残る。前任者へ連絡できない状況でも、次の担当者が続きから処理できるようになっていた。
担当変更後も継続した案件の記録が表示される。
先生も、その案件には見覚えがあった。ただし、内容を詳しく知ったのは完了した後であり、途中で質問を受けた記憶はない。
「引き継いだ担当者から、俺への確認はなかったんだね」
「ありません。前任者への追加確認も行われていません」
ミコリが履歴を示す。
「共有された記録だけで、対応が継続されています」
「前の担当者が何を考えていたかまで、記録で分かるの?」
「考えていたことではなく、実際に確認した事実と決定内容が残っています」
修司が答えた。
「本人の頭の中を再現する必要はありません。次の担当者が仕事を続けるために必要な情報があれば十分です」
先生は画面に残った短い履歴を見直した。
以前なら、誰かが何を意図していたのかまで自分が説明しようとしていた。担当者の言葉が強ければ柔らかく直し、説明が足りなければ、過去のやり取りから理由を推測して補っていた。
その作業をしなくても、案件は終わっている。
「次に、正式決定前の調整です」
三つ目の項目と共に、A、B、Cの判断区分が表示された。
担当者だけで処理できるものはA。組織内の上位判断が必要なものはB。双方の条件が衝突し、組織間で調整する必要があるものはC。
以前は条件の違いが見つかった時点で先生へ連絡が届いていたが、現在はAとBで整理できるところまで各組織が処理する。Cになった場合でも、それまでに確認した内容が記録されているため、先生が最初から事情を聞き直す必要はない。
ヒナはC区分の履歴を確認しながら口を開く。
「少なくとも、私のところへ上がってくる時点で、何が決まっていないのかは分かるようになったわ。以前は、万魔殿が何を求めているのかを確認するところから始めることもあったから」
「それでは、まるで万魔殿の依頼が不明瞭だったように聞こえるな」
「実際、回答期限しか書かれていない依頼もあったでしょう」
「急ぎの案件では、簡潔さも重要だ!」
「何をしてほしいのか書かれていなければ、簡潔とは呼ばないわ」
「風紀委員会側にも、現場判断だけで進めた案件があったはずだ!」
「はい」
ミコリが別の記録を表示する。
マコトは一瞬だけ得意げな顔をしたが、ヒナは特に動じなかった。
「だから、判断区分を使っているのよ」
「……分かっているならよい」
先生は二人の応酬を聞きながら、以前とは少し違うことに気付いていた。
互いへの評価は変わっていない。ヒナは万魔殿の依頼を信用し切っておらず、マコトも風紀委員会の独自判断を警戒している。それでも、二人が見ている資料は同じだった。
相手が何をしたかだけでなく、自分たちの側で何が起きたかも、同じ記録から確認できる。どちらか一方の説明を先生が持ち帰り、もう一方へ伝える必要はなかった。
四つ目は、伝達経路の固定だった。
共同案件は共有シートへ登録され、通常の連絡と緊急通知のどちらも、先生個人ではなく各組織の担当へ届く。先日の設備事故でも、風紀委員会から送られた通知は万魔殿側の複数部署へ届き、必要な担当者が現場へ向かっていた。
通知を確認した後、誰が全体を引き取ったのか分からなくなる問題は発生したものの、現場から改善案が提出され、受領と対応状況の項目が追加されている。
「連絡経路そのものは機能しています」
ミコリは、修正後に行われた送受信確認の記録を示した。
「先生を経由しなかったことによる情報の欠落も、現在まで確認されていません」
「当然だ。万魔殿の連絡体制が、先生一人に劣るはずがないからな」
「事故が起きるまで、誰が通知を引き取るか決まっていなかったけど」
ヒナが指摘する。
「あれは試験運用によって、新たな改善点を発見したのだ。失敗ではない!」
「それには同意するわ」
予想していなかった返答だったらしく、マコトはヒナの顔を見る。
「問題が見つかった後、放置せずに直している。今回確認するべきなのは、事故が起きたことより、同じ問題を繰り返さない形に変えられたかどうかでしょう」
マコトはしばらくヒナを見ていたが、やがて腕を組み直した。
「最初から、その意味で言っている」
言葉の上では対立したままだったが、二人が確認している事実は一致していた。修司も、その点をわざわざ指摘しなかった。二人が互いを理解したとまとめれば、今度はその言葉を巡って別の応酬が始まるだけだった。
「五つ目は、先生の経験への依存です」
ミコリが設備事故の記録を開く。
風紀委員会が避難誘導と封鎖を行い、万魔殿の設備担当が電源系統を確認する。事故が収束した後は、現場の生徒たちが通知手順の不足を整理し、改善要望を提出した。
アコとイロハが運用上の判断を行い、双方の担当者が機能を修正する。
事故対応と手順の修正が終わるまで、先生への直接確認は一度もなかった。
先生は改めて記録を追ったが、そこに自分の名前はない。
「事故が起きたことを知ったのも、全部終わった後だったよ」
「そのことで支障は発生しましたか?」
修司が尋ねる。
「いや。何もなかった。ただ、何かあったのに自分だけ知らなかった、というのは、まだ少し慣れないかな」
ヒナが顔を上げる。
「先生が知らなくても処理できるなら、その方がいいわ。必要な報告まで止めるという意味ではなく、先生が最初から最後まで見ていなければならない状態の方がおかしかったのよ」
マコトも事故記録へ目を落とした。
「万魔殿と風紀委員会だけで処理できる問題なら、両者で処理するべきだ。ゲヘナの運営について、何もかも先生へ判断を求めていては、我々の権威にも関わる」
主張の出発点はヒナと異なっていたが、結論は同じだった。
先生は二人の言葉を聞き、もう一度、自分の名前が存在しない履歴を見る。
以前なら、自分が関わっていないことを不安に感じたかもしれない。だが今は、事故が解決したことだけでなく、見つかった問題が次の手順へ反映されたことまで確認できる。
自分が知らなかった時間にも、仕事は進んでいた。
ミコリは五つの項目へ、それぞれ「改善確認」と表示した。
マコトはその結果を見て、満足げに頷く。
「七つのうち五つが改善したのだろう。過半数を大きく超えているではないか。ならば、今回の改革は成功と判断してよいな!」
「組織改善は多数決ではありません」
ミコリが即座に返す。
「五つ改善すれば、残り二つは無視してよいという意味ではないわ」
ヒナも続けた。
「だが、残っているのは二つだけだろう?」
「その二つを確認するために、私たちが呼ばれたのよ」
マコトが眉を寄せる中、ミコリは画面を下へ送った。
改善確認となった五項目の下には、何も表示の付いていない二つの原因が残っている。
一つは、先生の責任範囲が定められていないこと。
もう一つは、両組織の決定へ深く関わっている先生だけが、最終決定権を持っていないことだった。
「これは、最初から変わりようがないのではないか?」
マコトが怪訝そうに修司を見る。
「先生が最終決定権を持っていないこと自体は変えません」
修司は否定しなかった。
「ここから確認するのは、共有表や通知機能だけでは変えられなかった問題です」
修司は六つ目の項目を開いた。
これまで先生が仲介した案件には、最初から最後まで先生の役割が決められていたものはない。
最初に頼まれるのは、相手へ内容を伝えることだった。だが、伝えた相手から質問が返れば、先生が依頼元へ確認する。条件が合わなければ妥協案を考え、決定後には、その内容を相手が納得できるように説明する。
伝言として始まった仕事が、いつの間にか調整と進行確認へ変わっていた。
「先生へ最初に依頼した仕事が終わっても、案件そのものは終わりません」
修司は、過去の履歴を一つ示した。
「相手へ伝えた後に質問が返る。質問へ答えた後に別の条件が出る。そのたびに先生の役割が増えていますが、どこから追加されたのかは記録されていません」
ヒナが履歴を確認する。
「先生が引き受けると言ったのではないの?」
「頼まれれば、そう答えていたと思うよ」
先生は、当時のやり取りを思い出しながら答えた。
「途中で手を離したら、話が止まるからね。相手へ伝えるだけのつもりでも、質問が返ってきたら、そのままにはできなかった」
「いつまで続けるつもりだったの?」
「話がまとまるまで、かな」
先生の答えに、修司が視線を向ける。
「それを決めたのは誰ですか」
「誰かと話して決めたわけではないよ。途中で終わるのも無責任だと思って、自分でそうしていただけで」
「つまり、先生がどこまで担当するかを、先生自身がその場で補っていたことになります」
先生は否定できなかった。
頼まれた仕事を途中で放り出したつもりはない。むしろ、最後まで責任を持とうとしていた。しかし、最初にどこまで責任を持つのかを決めた者はいなかった。終わりが見えないまま、先生が必要だと思った仕事を一つずつ引き取っていた。
「現在は、共同案件ごとに主担当が記録されています」
マコトが共有シートを指した。
「以前と同じではないだろう」
「処理中の担当は分かるようになりました。ただし、決定後に質問や説明要求が届いた場合、誰が対応するかまでは決まっていません」
修司が答えた直後、共有シートの端に新しい通知が表示された。
ミコリが内容を確認し、会議用の画面へ開く。
「先日の設備事故について、追加の問い合わせです」
問い合わせを送ったのは、事故当日に資材搬入口を利用する予定だった学内の団体だった。
搬入口の封鎖によって物資の受け取りが遅れたため、なぜ全面的な封鎖が必要だったのか、安全確認にどの程度の時間を要したのか、今後も同様の事故が起きた場合に同じ対応を行うのか。その三点について説明を求めている。
緊急性はないが、回答期限は翌日の正午に設定されていた。
「事故は終わっているんだよね?」
先生が尋ねる。
「はい。事故対応、設備の安全確認、通知手順の修正まで完了しています」
ミコリは事故記録を表示した。
現場封鎖と避難誘導を行ったのは風紀委員会。設備を停止し、損傷箇所を確認したのは万魔殿側の設備担当だった。双方の担当範囲も、作業内容も記録されている。
それぞれが自分の担当範囲を説明することには、問題がなかった。
だが、問い合わせは一つだった。
「二つの組織から別々に回答すれば、相手がどちらを正式な説明として扱えばよいか分からなくなる。内容を一つにまとめる必要があるな」
マコトが腕を組む。
「万魔殿だけでは、封鎖を判断した理由まで説明できないでしょう」
「風紀委員会だけでも、設備の故障原因は説明できん」
二人の視線が、ほとんど同時に先生へ向いた。
先生も、求められていることは理解できた。
風紀委員会から封鎖の理由を聞き、万魔殿から設備点検の経緯を確認する。両方を一つの文章へまとめれば、問い合わせた側へ分かりやすい回答を返せる。
以前から何度も行ってきた仕事だった。
「先生なら、双方の事情を整理できるだろう」
「一つにまとめてもらえるなら、その方が早いと思う」
先生が回答欄へ手を伸ばす。
「分かった。じゃあ俺が――」
「その前に、三つだけ確認してもいいですか」
修司の声に、先生が手を止めた。
「この件を決めたのは誰ですか」
「設備については万魔殿だ」
マコトが先に答える。
「封鎖と再開の判断は風紀委員会よ」
ヒナも続けた。
「今後も同じ事故で同じ対応を行うか、という点は?」
二人はすぐには答えなかった。
緊急時に現場を封鎖するかどうかは、安全上の状況によって風紀委員会が判断する。だが、事故を防ぐために設備管理や搬入手順を変えるなら、万魔殿側の運用にも関わる。
「そこは、双方で決める必要があるわ」
「万魔殿の管理方法へ風紀委員会が一方的に口を出すことは認められんが、安全上必要な条件については確認してもよい」
言い方は異なっていたが、共同で判断する事項だという点は一致している。
修司は次の質問へ進んだ。
「先生には、何を頼むんですか」
「今、言っただろう。双方の説明を一つにまとめてもらう」
「まとめるだけですか?」
「どういう意味だ」
「封鎖が適切だったと書くのか。設備管理上の問題を中心に書くのか。今後も同じ基準で対応すると答えるのか。その部分まで先生が決めるのでしょうか」
マコトは問い合わせへ視線を戻した。
一つの文章へまとめる以上、単純に二つの記録を並べるだけでは済まない。全面封鎖が必要だった理由を先に書けば、風紀委員会の判断を中心にした説明となる。設備事故の原因を先に書けば、万魔殿の管理上の問題が強く伝わる。
今後の対応についても、現行の手順を続けるのか、封鎖範囲を見直すのか、設備側の点検を増やすのかを決めなければ、回答できなかった。
ヒナが先生を見る。
「説明をまとめてもらうだけのつもりだったけれど、今後の対応まで答えるなら、先生に判断してもらうことになるわね」
「先生には、両組織の決定権がないのだろう?」
マコトの言葉に、修司は頷いた。
「はい。ですが、回答を一つにまとめるよう頼めば、決まっていない部分も先生が埋めることになります」
先生は、まだ空白の回答欄へ視線を落とした。
最初に書こうとしたのは、設備事故が発生したため、安全確保を目的として搬入口を封鎖したという文章だった。それ自体は事実である。
しかし、今後も同じ対応を行うかと問われれば、自分なりに妥当な条件を考えたはずだった。双方が納得できるところを探し、封鎖範囲や確認手順について案を出しただろう。
その案をヒナとマコトが受け入れれば、正式な決定になる。だが、最初に決めたのが誰なのかは、また分からなくなる。
修司は三つ目の質問をした。
「先生の仕事は、どこで終わりますか」
室内が静かになる。
先生が回答を送った時点なのか。追加の質問へ答えた時点なのか。今後の対応について両組織が合意した時点なのか。新しい手順が実際に使われるまで確認するのか。
誰も、すぐには答えられなかった。
「相手が納得すれば、そこで終わりではないか?」
マコトが言う。
「納得しなかった場合は?」
「追加の説明が必要になるだろう」
「誰が行いますか」
マコトは先生を見かけたが、途中で視線を止めた。
一度先生が回答すれば、追加の質問も先生へ返ってくる。説明を補うために双方へ確認し、修正した回答を送るのも先生になる。
相手が納得するまでという条件では、先生の仕事がいつ終わるかは決まらない。
「これが六つ目の問題です」
修司は、責任範囲が定められていないという項目を示した。
「先生へ何を頼むのかだけでなく、どこで先生の仕事が終わるのかが決まっていません。そのため、質問や調整が発生するたびに、先生の役割が増えています」
続いて、七つ目の項目を開く。
「そして、決まっていない部分を先生が補えば、先生には決定権がないまま、決定の責任まで先生へ移ります」
先生は、ヒナとマコトが答えた内容を振り返った。
設備事故の原因は万魔殿が説明できる。封鎖の判断は風紀委員会が説明できる。
分からないのは、今後の対応だった。
「今後も同じ封鎖を行うかどうかは、まだ決まっていないんだね」
「そうね。少なくとも私は、設備の種類や事故の状況を無視して、一律に封鎖範囲を狭くすることには同意できないわ」
「だが、軽微な故障でも搬入口全体を止められては、学園運営に支障が出る。現場判断だけで全面封鎖できる状態は見直すべきだ」
「危険かどうかを確認する前に、万魔殿の承認を待てというの?」
「封鎖するなとは言っていない。範囲を決める基準が必要だと言っている!」
「事故の種類によって変わる以上、今ここで一つの基準にはできないわ」
「だから先生に、双方が受け入れられる条件を――」
マコトはそこまで言って、口を止めた。
また同じ形に戻ろうとしていた。
「両方が決められない場合は、どうするの?」
ヒナも、先生ではなく修司を見る。
「その変更は、必ず今日決めなければならないんですか」
修司が聞き返した。
「問い合わせの期限は明日だぞ」
「事故当日に何をしたかは、明日までに説明できます。今後の手順を変更するかどうかは、別の判断です」
問い合わせへ回答することと、新しい運用を決めることが分けられる。
現在の緊急手順はすでに存在し、事故が起きた場合は現場が安全確保を優先して動く。変更案に合意できなければ、ひとまず現行の手順が残るだけだった。
先生が妥協案を作り、今日中に新しい基準を成立させなければならない理由はない。
「では、今後の対応については検討中と答えるのか?」
「それが事実なら、そう答えるべきです」
修司は即答した。
「決められなかったことを、先生が決めたように見せる必要はありません」
ヒナは少し考え、問い合わせの三つの質問を見直した。
「事故当日の判断は説明する。今後の基準については、現時点では変更を決めていないと伝える。それなら、決まっていないことまで先生に決めてもらう必要はないわね」
「だが、検討を放置するわけにはいかん」
「それは万魔殿と風紀委員会の仕事でしょう。先生の仕事ではないわ」
マコトは反論しなかった。
両組織で合意できなければ、案件が失敗するわけではない。変更案を保留し、必要な情報を揃えてから改めて判断できる。
今までのように、先生が双方の間で条件を探し続ける必要はなかった。
先生は、まだ何も入力していない回答欄を見る。
「俺が間に入らないと、ずっと決まらないと思ってた」
「決まらないまま放置することと、保留として記録することは違います」
修司が答える。
「誰の判断を待っているのか。次に何を確認するのか。それが分かっていれば、先生が抱え続けなくても案件は残せます」
「成立しないことも、結論になる?」
「はい。双方の承認が必要な変更なら、承認されるまでは実施しない。それだけです」
先生はゆっくりと頷いた。
仕事を進めるとは、必ず一つの妥協案へ到達することだと思っていた。しかし、条件が揃わないなら実施しないという結果もある。決められない理由と、次に確認することが記録されていれば、それは途中で投げ出したことにはならない。
ミコリは共有シートの横に、試作用の確認票を表示した。
「今の内容を整理する場合、必要なのは三つです」
最終決定者。
先生へ頼むこと。
先生の対応終了。
「正式な項目追加は、両組織の運用担当へ改善要望として提出します。今回は、この確認票と既存の記録欄を使います」
マコトが三つの項目を読む。
「先生へ依頼するたびに、終了する条件まで書くのか?」
「書かなければ、また話が終わるまで先生が対応することになります」
修司が答える。
「どうしても先生の意見が必要な場合は?」
ヒナが尋ねる。
「何について意見が必要なのかを書きます。そして、先生がその意見を記録した時点で、先生の対応は終了です。その意見を採用するかどうかは、決定権を持つ組織が判断します」
先生が意見を出しても、その後の調整まで自動的に先生の仕事にはならない。採用した組織が正式に決定し、その理由を説明する。
マコトは不満そうに腕を組んだ。
「ずいぶん簡単な話に見えるな」
「難しくしていたのは、決めていない部分を先生が補っていたからです」
ヒナが答える。
「私たちが先に決めておけば、先生に全部任せる必要はなかったのよ」
「風紀委員会も同じだろう。先生へ相談すれば万魔殿と直接話さずに済むと考えていたはずだ」
「否定はしないわ」
ヒナがあっさり認めたため、マコトは追及する言葉を失った。
二人の関係は何も変わっていない。それでも、今回の問い合わせについて誰が何を決めたのかは分かっている。決まっていない部分を、先生が埋める必要もなくなった。
先生は三つの項目を見ながら、改めて確認する。
「誰が決めるのか。俺に何を頼むのか。俺の仕事がどこで終わるのか」
「はい」
修司が頷く。
「最初にそれだけ決めます」
今度は、それを使って問い合わせへ答える番だった。
ミコリは最初の質問と、事故当日の記録を並べる。
全面封鎖を判断した理由。
「この判断を行ったのは、風紀委員会の現場責任者です」
最終決定者の欄に、風紀委員会・現場責任者と記録される。
「ここは私たちで回答するわ」
ヒナは、事故当日にチナツが残した記録を確認した。
搬入口で設備事故が発生し、電源系統から煙が確認されたこと。事故の規模と周辺への影響が分からない段階で、通行を続ければ被害が広がる可能性があったこと。そのため、設備の安全が確認されるまで搬入口全体を封鎖したこと。
ヒナはその内容を風紀委員会の正式回答として承認した。
「先生への依頼は?」
ミコリが尋ねる。
「必要ないわ。安全上の判断については、風紀委員会が説明する」
確認票の該当欄に、依頼なしと記録される。
続いて、安全確認に要した時間についての質問が開かれた。
最終決定者は、万魔殿・設備担当。
マコトは、事故記録に残された点検内容を確認した。
「損傷した接続部を切り離し、電源が遮断されていることを確認した後、周辺設備への影響を調べている。その作業が終わるまで、搬入口を再開できなかったということだな」
「はい」
「ならば、そのまま説明すればよい」
設備の横転によって電源ケーブルの接続部が損傷し、内部で短絡が発生したこと。電源を遮断しただけでは安全を確定できず、損傷箇所の切り離しと周辺設備の確認が必要だったこと。作業完了後、設備担当が再使用に問題がないと判断したこと。
マコトは設備担当の記録を、万魔殿側の正式回答として承認した。
こちらも、先生への依頼はない。
ミコリが二つの説明を、問い合わせへの回答欄へ時系列で並べる。別々の文面ではあるが、誰の判断かが表示されているため、どちらが正式な説明なのか迷うことはない。
マコトが確認画面を覗き込む。
「万魔殿と風紀委員会のどちらを先に表示するかで、受け取られ方が変わるのではないか?」
「事故の発生順に表示しています」
最初に設備の異常が確認され、その後に風紀委員会が封鎖を判断する。電源が遮断され、設備担当の安全確認を経て封鎖が解除された。
表示は組織の序列ではなく、事故当日の時系列に沿っていた。
「万魔殿が先に表示されるなら、問題はない」
「事故の原因が最初に書かれているだけよ」
ヒナが言うと、マコトは聞こえなかったように最後の質問へ目を向けた。
今後も同様の事故が発生した場合に、同じ対応を行うのか。
その項目だけは、最終決定者が一人ではなかった。
緊急時に現場を封鎖する判断は風紀委員会が行う。一方、設備管理や搬入手順の変更は万魔殿が決める。双方へ関係する新しい基準を作るなら、両組織の承認が必要だった。
ヒナは、現時点では現行の手順を変えないと回答する。マコトは、事故の種類に応じて封鎖範囲を変える基準を作るべきだと主張した。
意見は一致しない。
ミコリは、既存の状態欄を開いた。
保留。
その横に、現在の扱いも記録される。
緊急時の安全確保については、現行手順を継続する。封鎖範囲を変更する基準については、風紀委員会と万魔殿の運用担当が事故の種類と設備確認の手順を整理した後、改めて検討する。
新しい基準は決まらなかった。
だが、何も決めずに放置したわけでもない。現在使う手順と、次に確認する内容が記録されている。先生が妥協案を考え続けなくても、案件は保留の状態で管理できる。
マコトは「保留」の表示を不満そうに見る。
「決定できなかったように見えるな」
「実際、変更するとは決まっていないわ」
「だが、万魔殿が判断を避けたわけではない!」
「風紀委員会も避けていない。今ある情報では、安全基準を変えないと判断しているの」
「ならば、検討に必要な情報を揃えればよい。次は万魔殿側から、設備事故の種類と点検手順を整理して提出する」
「風紀委員会側も、事故ごとに必要な封鎖範囲を整理するわ」
互いの意見を受け入れたわけではない。それでも、次に何を確認するかは決まった。先生が間に入らなくても、検討を続ける担当も残っている。
問い合わせへの回答には、現在の緊急手順を継続し、変更については検討中であると記録された。
風紀委員会と万魔殿が、それぞれの確認欄へ承認を入れる。
回答の状態が「回答済み」へ変わり、問い合わせ元へ返される。
先生が回答文を作らなくても、一件の問い合わせに対する正式な回答が完成し、必要な相手へ届いた。
同時に、試作用の確認票で使った三項目を正式に追加するための改善要望が作られた。ヒナとマコトがそれぞれの確認欄へ承認を入れ、実際の表示と運用方法は両組織の運用担当へ引き渡される。
「本当に、俺は何もしてないね」
「会議には参加しています」
修司が答える。
「それでも、回答の作成や決定を先生が引き取る必要はありませんでした」
「何もしていないというより、必要のないところへ入らなかった、ということか」
「はい」
先生は完了した問い合わせを見た。
自分が答えなかった質問が、未処理のまま残っているわけではない。誰が決め、誰が説明したのかを残したまま、正式な回答として完了している。
マコトは試作用の確認票へ視線を戻した。
「今後、先生へ意見を求める場合も、これを記入するのか?」
「先生へ依頼する内容と、対応が終わる条件を記録します」
修司が答える。
「例えば、教育上の問題について意見を求めるなら、先生が意見を記録した時点で対応終了です。その意見を採用するかどうかは、決定権を持つ組織が判断します」
「先生が意見を出した後、追加で確認したいことが生まれた場合は?」
「最初の依頼へ当然のように追加せず、改めて何を頼むのか確認します」
「少々、手間ではないか?」
「これまで、その手間を先生が引き受けていました」
マコトは言葉を止めた。
「先生へ直接質問が届いた場合は、どうするの?」
ヒナが尋ねる。
「誰が決めるべき内容か分かるなら、その組織へ戻します。先生自身の判断が必要なら、依頼内容と終了条件を記録してから受けます」
修司の説明を聞き、先生は少し考えた。
「答えを知っていても?」
「知っていることと、先生が答えるべきことは別です」
先生ならすぐに答えられる質問もある。しかし、先生が答えれば、その回答は次からも先生へ求められる。決定した組織は、自分たちの判断を説明しないままになる。
先生は確認票を見直した。
誰が決めるのか。
自分へ何を頼むのか。
自分の仕事がどこで終わるのか。
「分かった。次からは、最初にそこを確認するよ」
先生が答えると、修司は七つの項目を一つの画面へ戻した。
五つには、すでに改善確認の表示が付いている。残る二つには、今回決めた新しい方法が記録されていた。
「これで、最初に確認した七つの問題すべてに、対応する方法が決まりました」
修司は一つ目から順に示す。
「説明不足には、受付時の必須項目で対応しました」
「引き継ぎ不足には、経緯と決定の記録です」
「正式決定前の調整には、A、B、Cの判断区分を設けました」
「伝達経路の固定には、共有シートと緊急通知です」
「先生の経験への依存には、判断経路と過去の対応記録を残しました」
そして、今回まで残っていた二つへ進む。
「責任範囲については、先生へ頼む内容と、対応が終わる条件を決めます」
「最終決定者を記録し、双方で決められない場合は、先生へ押し付けず、保留か見送りにします」
修司は画面を閉じなかった。
七つの問題と、その右側に並んだ対応方法を、全員が確認できる状態にしている。
先生は一つ目から七つ目までを見直した。
「七つ全部に、答えはできたんだね」
「対応方法が決まっただけです」
修司は最後の二項目を示した。
「先生への依頼範囲と最終決定者の記録は、今日初めて使いました。別の案件でも同じように機能するか、先生へ仕事が戻らないかを確認する必要があります」
「まだ、解決ではない?」
「はい。試験運用の開始です」
マコトは不満そうに眉を寄せる。
「一件を問題なく処理したのだから、もう少し評価してもよいと思うが」
「一件で十分なら、最初の試験運用を始めた時点で終わっていたでしょう」
ヒナが答える。
「次もできるか確かめる必要があるわ」
「分かっている! 念のため言っただけだ」
マコトは席を立ち、万魔殿側の端末を閉じた。
「次の案件でも、万魔殿が責任を持って判断する。先生へ頼らなければ動けない組織だと思われては困るからな」
「風紀委員会も、自分たちの判断は自分たちで説明するわ」
ヒナも立ち上がる。
二人は最後まで互いを信用したとは言わなかった。それでも、自分たちの判断を先生へ預けず、説明まで引き受けることには同意している。
先生は二人を見送った。
廊下へ出た直後、先ほど保留にした封鎖基準について、どちらが先に資料を出すかで再び言い争う声が聞こえ始める。
関係が良くなったわけではない。
ただ、今度の言い争いには、先生が間へ入る必要はなかった。
扉が閉まり、執務室に先生と修司、ミコリだけが残る。
先生は完了した問い合わせを開いた。
風紀委員会と万魔殿、それぞれの説明が同じ記録の中に残っている。今後の基準は保留となっているが、次の担当も確認内容も決まっていた。
先生の名前は、参加者の記録にあるだけだった。
「答えられるのに答えないのは、少し落ち着かないね」
「すぐには慣れないと思います」
修司は否定しなかった。
「でも、俺が答えなくても終わった」
「はい」
その時、机の端に置かれていた生命の書が淡い光を帯びた。
誰も触れていないまま表紙が開き、ページがひとりでにめくられていく。
止まったのは、案件No.021の記録だった。
『ゲヘナ学園 情報共有の標準化』
その下へ、新しい文字が浮かび上がる。
七項目――対応方針確認。
責任終了条件――試験運用開始。
最終決定者記録――試験運用開始。
合意未成立案件――保留運用確認。
続いて、先日の設備事故に関する記録が表示された。
現場による問題発見――確認。
現場提案による運用修正――確認。
自走確認条件――一部成立。
最後に、現在の案件状態が示される。
第二段階――改善定着確認。
継続。
案件が完了したという表示は現れなかった。
今日決めた方法が、次の案件でも使われるかはまだ分からない。ヒナとマコトがいない場所でも、現場担当者が最終決定者を記録し、先生へ頼む範囲を決められるかを確認する必要がある。
それでも、七つの問題すべてに、進むべき方向は示されていた。
先生は、回答を書かなかったまま閉じた端末を見る。
以前なら、そこに残った空白を仕事の途中だと思っていただろう。
今はもう、空白ではない。
先生が答える必要のない場所に、決めた者の言葉が残っていた。