共同案件共有シートの右上には、午後一時七分と表示されていた。
先生は一覧を一番上まで戻し、未処理だけを表示する条件を選び直した。画面の内容は変わらない。念のため更新も行ったが、中央に表示された数字は零件のままだった。
午前中に動いていた共同案件は四件ある。
一件は風紀委員会の担当者判断で完了し、二件は万魔殿内の承認を経て次の担当へ渡されている。残る一件では、生徒への告知内容について先生の意見を求める依頼があったが、そこにも依頼の範囲と終了条件が記録されていた。
先生は文案について意見を返した。
その時点で先生の対応は終了し、採用するかどうかは万魔殿の広報担当が決めている。先生が完成した告知文を確認し直す必要はなかった。
画面を閉じようとして、先生はもう一度だけ未処理件数を見る。
「零件です」
隣の端末から、ミコリが先に答えた。
「分かってるよ。確認しただけ」
「同じ条件で三回確認しています」
「増えていたら困るからね」
「仕事が増えていない状態を、異常とは判定しません」
先生は返す言葉を探したものの、適切な反論は思いつかなかったらしい。未処理一覧を閉じ、今度は自分の予定表を開く。
午後には、外部からの来客も生徒との面談も入っていない。作成期限が今日に設定されている書類は午前中に提出済みで、確認待ちの項目も担当者へ渡っていた。
以前なら、予定表に記録されていない仕事がその隙間へ入り込んでいた。
風紀委員会から連絡が届き、続いて万魔殿から別の説明が来る。双方の意図を確認している間に、新しい問い合わせが追加される。予定表の空欄は休める時間ではなく、まだ名前の付いていない仕事が入る場所だった。
今日は、その仕事が来ていない。
向かいの机では、修司が共同案件の運用記録を確認していた。先生が画面を閉じたり開いたりしていることには気付いているはずだが、休むようには言わない。
先生は自分の予定表を見たまま尋ねる。
「本当に、午後は何もないのかな」
修司は手元の資料を閉じた。
「予定表に入っている仕事はありません。共同案件についても、先生の判断を待っているものは零件です」
「予定表に入っていない仕事は?」
「それを確認するために、共有シートと依頼記録を作ったのではありませんか」
「そうなんだけどね」
先生は椅子の背へ身体を預けた。
休めないほど忙しいわけではない。むしろ、今は休まない理由の方が見つからなかった。
それでも、午後一時に仕事を終えてしまうことへ、どこか落ち着かなさが残る。誰かが困っているのに、自分だけが気付いていないのではないか。連絡を待っている生徒が、別の場所にいるのではないか。
以前は、その可能性を一つずつ確認していた。
確認すれば、たいてい何かが見つかった。見つけた以上は放置できず、先生が引き取る。そうして予定表の空欄は、後から見つけた仕事で埋まっていった。
「先生がいなければ止まる仕事があるか、もう一度確認しますか」
修司が尋ねた。
先生は少し考えてから、ミコリの画面を見る。
「確認できます」
ミコリは担当者のいない案件、先生の回答を待っている依頼、期限を過ぎた確認事項を順に検索した。
「該当する記録はありません。緊急通知についても、現在対応中の案件は零件です」
そこまで確認すると、先生は予定表の午後を選択した。
休暇と入力し、その二文字をしばらく眺めてから保存する。
「じゃあ、午後は休むよ」
「承知しました」
ミコリは先生の予定を更新した。
修司も大げさに安心した様子は見せず、普段どおりに頷く。
「緊急連絡だけ受信できる状態にしておけば十分だと思います」
「近くにはいるつもりだから、何かあったら戻ってくるよ」
「戻る必要がある内容なら、そのように記録されます」
「そうだったね」
先生は苦笑しながら立ち上がり、椅子へ掛けていた上着を手に取った。
出掛ける場所はまだ決めていない。シャーレの近くで昼食を取った後、書店にでも寄るつもりだった。仕事以外の予定を考えること自体、かなり久しぶりに感じられる。
机の端に置いていた端末を持ち上げたところで、通知音が鳴った。
先生の手が止まる。
表示されたのは緊急通知ではなく、万魔殿の式典運営担当から届いた通常の個別連絡だった。
「出る前に一件来たね」
先生は上着を椅子へ戻し、内容を開く。
『万魔殿主催式典における押収品使用について』
翌日に予定されている万魔殿の学内式典で、大型の打ち上げ花火を使用したいという申請だった。
申請対象となっている花火は、数日前に風紀委員会が押収したものだった。許可を得ずに居住区域で打ち上げようとしていた生徒たちから回収され、現在は風紀委員会の保管施設に置かれている。
式典運営担当は、その押収品を一時的に万魔殿へ引き渡すよう求めていた。
風紀委員会側の回答欄には、既に引き渡し不可と記録されている。安全確認が終わっておらず、製造元と火薬量も不明であるうえ、押収品を別の催事へ転用する手順も存在しないことが理由だった。
単に万魔殿からの依頼だから拒否したわけではない。
先生は申請書の続きを見る。
万魔殿側が使用を求める理由には、羽沼マコト議長の意向と書かれていた。
添付された会議記録には、押収品一覧を見たマコトの発言も残っている。
『これほど立派な花火を倉庫で眠らせておくとは惜しい。万魔殿の式典で使えば、我々の威光をより広く示せるではないか!』
マコトらしい発言ではある。
しかし、会議記録には、花火を実際に使用すると決定した記述はなかった。安全確認を誰が行うかも、風紀委員会から引き渡しを受けられなかった場合にどうするかも決められていない。
個別連絡の本文には、式典の準備期限が今日の夕方であることが書かれていた。
『風紀委員会は、マコト議長の意向を十分に理解していない可能性があります。先生からヒナ委員長へ事情をご説明いただき、引き渡しの許可を得ていただけないでしょうか』
先生は回答欄へ指を置いた。
マコトが式典で使いたがっていることは分かる。ヒナが安全確認の終わっていない花火を許可しないことも、容易に想像できた。
双方の事情を説明し、使用できる条件がないか確認する。先生が連絡すれば、少なくとも話を始めることはできる。式典まで時間がない以上、今すぐヒナへ確認した方が早い。
風紀委員会の連絡先を開こうとしたところで、先生の指が止まった。
申請書の最終決定者欄が空白になっている。
先生は連絡先を閉じ、今度は依頼範囲を確認した。
そこには「風紀委員会との調整」とだけ書かれている。先生が事情を伝えれば終わるのか、使用許可が出るまで交渉するのか、代替案まで考えるのかは分からない。
対応終了条件にも、何も記録されていなかった。
先生は端末を持ったまま、しばらく画面を見る。
向かいにいる修司は口を挟まなかった。
「ミコリ」
先生が呼ぶ。
「はい」
「万魔殿として、この花火を使うと正式に決めた記録はある?」
ミコリが関連する共同案件と万魔殿側の承認記録を検索する。
「確認できません。マコト議長の発言は会議記録に存在しますが、使用決定として登録されていません。式典運営担当による申請作成後も、上位判断の承認欄は空欄です」
「やっぱり、まだ決まってないんだね」
「現時点で確認できるのは、マコト議長が使用を希望したことだけです」
先生は、風紀委員会へ送ろうとしていた連絡を削除した。
その代わりに、万魔殿の式典運営担当へ返す文章を作る。
『万魔殿として押収品の使用を決定した記録が確認できません。まず、使用するかどうかを判断する責任者と、正式な決定内容を記録してください』
一度そこで区切り、先生は依頼欄を見直した。
『また、先生には風紀委員会から許可を得る決定権がありません。先生へ依頼する内容と、どの時点で対応終了となるかを確認したうえで、共同案件の正式窓口から再申請してください』
文章を読み返してから送信する。
ほどなくして、式典運営担当から返信が届いた。
『マコト議長ご本人が、式典での使用を希望されています』
先生はその一文を見ても、風紀委員会の連絡先を開かなかった。
『希望していることと、万魔殿として使用を決定したことは同じではありません。マコト議長へ正式な判断を確認してください』
今度の返信は、すぐには来なかった。
個別連絡の状態が正式窓口への確認中へ変わる。申請書には万魔殿側の最終決定待ちと表示され、回答期限も今日の午後三時に設定された。
先生の名前は、担当者欄にも調整役にも追加されていない。
「これでいいかな」
先生は修司へ尋ねた。
「先生が判断できない内容を、本来の決定者へ戻しています。必要な記録も残っています」
修司は申請の状態を確認してから答える。
「先生の仕事として、残っているものはありません」
先生は端末を閉じた。
以前なら、マコトの意向とヒナの判断を知った時点で、その間に立つことを自分の仕事だと思っていただろう。今も、連絡すれば早く進むという考えは消えていない。
それでも、まだ万魔殿自身が決めていないことを、先生が代わりに決定事項へ変える必要はなかった。
先生は上着を取り直す。
「今度こそ行ってくるよ」
「はい。緊急連絡以外は、休暇終了後の確認で問題ありません」
ミコリが先生の端末設定を切り替えた。
先生は執務室を出る直前、もう一度だけ共同案件の画面へ目を向けた。
最終決定者待ち。
そこに自分の名前が入っていないことを確認し、今度は足を止めなかった。
先生を乗せたエレベーターの扉が閉まる。
差し戻された申請書は、万魔殿の上位判断へ送られていた。
『最終決定者を入力してください』
マコトの端末に表示された申請書は、冒頭から彼女へ判断を求めている。
万魔殿の執務室には、式典運営を担当する二人の生徒とイロハがいた。大型花火の使用準備を進めていた担当者たちは、戻された申請書を前にしたまま、マコトの反応を待っている。
マコトは風紀委員会の回答欄へ目を通した。
「安全確認が終わっていない。製造元も火薬量も不明。押収品を式典へ転用する手順もない……ずいぶんと理由を並べたものだな」
「どれも確認できていないのは事実です」
イロハが答える。
「押収された生徒たちも、どこから手に入れたのか説明していません。保管されている花火には、製造元を示す表示も残っていないそうです」
「だからこそ、万魔殿が有効に活用してやろうというのだ。倉庫で処分を待つより、よほど花火も本望だろう」
「花火の本望については分かりませんが、安全が確認できていない物を式典で打ち上げることには反対です」
イロハは机上の資料を一枚めくった。
「予定している式典には、万魔殿の生徒だけでなく一般の生徒も参加します。打ち上げ場所の周囲には、仮設の観覧席もあります」
「それくらいは私も理解している!」
マコトは言い返したものの、使用を命じる承認欄には触れなかった。
代わりに、式典運営担当が作成した申請書へ目を戻す。
使用理由にはマコト議長の意向とだけ書かれ、正式な決定内容、安全確認責任者、引き渡しを受けられなかった場合の代替案は、すべて空欄になっていた。
マコトは、式典運営担当の生徒へ顔を向ける。
「お前たちは、なぜこれを使用することにした?」
問いかけられた生徒は、一瞬だけ隣の担当者を見た。それから姿勢を正し、会議記録を開く。
「先日の準備会議で、マコト議長が式典で使用したいと仰ったためです。運営担当として、引き渡しの手続きを進める必要があると判断しました」
「私は使用を命じたか?」
「明確に、命令としては……」
生徒の声が小さくなる。
「ですが、議長ご本人が希望されていました。式典の規模を大きくすることは、万魔殿の方針にも合っています。ですから、実現するのが私たちの仕事だと考えました」
マコトは会議記録を開いた。
押収品一覧を見た自分が、倉庫へ置いておくのは惜しいと言っている。万魔殿の式典で使えば威光を示せるとも発言していた。
冗談で口にしたわけではない。
実際、その時は使いたいと思っていた。
だが、その後に安全確認を命じた記録も、使用を正式決定した記録もなかった。
「先生へ連絡したのは誰だ?」
「私です」
もう一人の担当者が答えた。
「風紀委員会から引き渡しを断られたため、先生からヒナ委員長へ説明していただけば、再検討される可能性があると思いました」
「私の決定を確認する前にか?」
「マコト議長の意向は、既に確認できているものと……」
担当者はそこで言葉を止めた。
マコトは椅子の背へ身体を預け、申請書の最終決定者欄を見る。空欄の横では、回答期限までの残り時間が減り続けていた。
申請を通したいなら、ここへ自分の名前を入れればよい。
議長権限で万魔殿の正式な要求とし、風紀委員会へ再検討を求めることはできる。それでも拒否されれば、対応が遅いと非難することもできた。
先生へ改めて仲介を依頼すれば、少なくともヒナは話を聞くだろう。
マコトは承認欄を選ばなかった。
「これは、私が決めたことではない」
式典運営担当の二人が表情を強張らせる。
責任を押し付けられると思ったのかもしれない。
マコトはそれを無視して、会議記録に残された自分の発言を指で示した。
「私が使いたいと言ったのは事実だ。しかし、使用を決定した記録はない。安全性を確認した者も、打ち上げに責任を持つ者もいない。それを私の決定として風紀委員会へ持っていったところで、通るはずがないだろう」
「申し訳ありません」
担当者が頭を下げようとする。
「まだ話は終わっていない」
マコトが制した。
「お前たちが、私の名前を勝手に利用したとは思っていない。私があの場で希望を口にし、お前たちは、それを実現することが自分たちの仕事だと考えた。ならば、議長の希望と万魔殿の決定を区別できないままにしていた、こちらの問題だ」
マコトは最終決定者欄へ自分の名前を入力した。
決定内容には、押収品使用申請の撤回、万魔殿が保有する安全確認済みの花火への変更、風紀委員会への再申請を行わないこと、先生への仲介依頼を撤回することを続けて記録する。理由には、押収品の安全性と使用責任者を確認できないためと入力した。
「万魔殿の式典で何を使うかを、先生に決めさせる必要はない。使用するなら私が決める。使用しない時も、私が決める」
担当者が顔を上げる。
「ですが、安全確認済みの花火だけでは、予定していた規模の半分ほどになります。既に式典の告知も出しています」
「式典を中止するとは言っていない」
マコトは万魔殿が保有する備品一覧を開いた。
使用許可が出ている花火の数、設置可能な場所、残された準備時間を確認する。
「大型花火が使えないなら、今ある物で構成を変えろ。一度に打ち上げられないのなら、時間を分ければよい。打ち上げ場所を狭められるなら、その分だけ観覧席を前へ出せる」
「それでも、当初の計画より見劣りする可能性が……」
「万魔殿の威光は、出所も分からない押収品を借りなければ示せないほど安くはない!」
マコトが言い切ると、担当者たちは揃って姿勢を正した。
大きな声そのものは、いつもと変わらない。
しかし、今度は無理な要求を通すためではなく、決まった条件の中で式典を成立させるために使われている。
「構成を変更します。安全確認済みの花火だけで、予定時刻までに組み直します」
「必要な人員と作業時間を記録しろ。追加の判断が必要なら、今度は誰が決めるのかを空欄にするな」
「はい!」
担当者たちは資料を抱え、式典準備室へ戻っていった。
イロハは、更新された決定記録を確認する。
「風紀委員会への説明は、どうしますか?」
「万魔殿の名で出す。押収品の使用を求めたのも、取り下げたのもこちらだ。先生の名前を入れるな」
「申請を作成した担当者名は残しますか?」
「経緯の記録には残せ。ただし、説明責任者は私だ」
マコトは風紀委員会へ送る回答文を開いた。
押収品の使用を求めた経緯、議長の発言を正式決定として扱ってしまったこと、安全確認前の使用申請を撤回すること、代替品については万魔殿が責任を持って確認することを記録し、最後に自分の名義で承認する。
「これでよい。風紀委員会にも、いつまでも万魔殿が先生の背後へ隠れているとは思わせん」
「最初から隠れなければよかったのでは?」
「イロハ!」
「回答を送信しますね」
イロハはマコトの抗議を流し、正式窓口から風紀委員会へ記録を送った。
風紀委員会へ回答が届いたのは、午後二時前だった。
アコはマコト名義の決定記録を開き、最初から最後まで目を通した。申請の撤回だけでなく、なぜ正式決定のない要求が作られたのかも記されている。
先生へ依頼していた仲介も、万魔殿側から撤回されていた。
「追加条件は?」
ヒナが尋ねる。
「ありません。押収品の引き渡し申請は取り下げられています。万魔殿が保有する花火へ変更し、安全確認も自分たちで行うそうです」
「共同案件として残っている確認は?」
「変更後の打ち上げ場所が、風紀委員会の規制区域へ入っていないかという一点だけです。位置は既に記録されています」
ヒナは地図を開いた。
変更後の打ち上げ場所は、当初の計画よりも万魔殿の施設側へ寄せられている。風紀委員会の保管施設や巡回経路からも離れており、周囲の立入制限は万魔殿だけで対応できる範囲だった。
「問題ないわ」
ヒナは確認欄へ承認を入れた。
アコは、マコトの説明文へもう一度視線を戻す。
「議長本人が申請を撤回するとは思いませんでした」
「安全性を無視して押し通せば、事故が起きた時に万魔殿の権威まで傷つく。マコトが守りたいものを考えれば、不自然な判断ではないわ」
「信用しているわけではないんですね」
「別の要求まで信用する理由にはならないもの」
ヒナは端末を閉じる。
マコトへの評価は変えていない。
今回の記録に必要な内容が揃っているから、今回の判断を受け入れただけだった。
「風紀委員会から付け加えることはないと返して。押収品については、予定どおり安全確認と処分手続きを続けるわ」
「承知しました」
アコは正式窓口から回答を返した。
ヒナがマコトへ直接連絡することはなく、マコトもヒナの返事を先生へ確かめようとはしなかった。
それでも、共同案件の状態は「調整完了」へ変わった。
万魔殿の式典準備室では、打ち上げ計画の組み直しが進んでいた。
大型花火三発を中心にしていた当初の構成は使えない。代わりに、安全確認済みの小型花火を時間差で打ち上げ、最後の演出だけを一か所へ集中させる案が作られている。
担当者の一人が配置図を修正し、もう一人が必要な人員を確認する。
変更理由も、マコトの正式決定も、同じ記録の中に残されていた。途中から作業へ加わった生徒も、先生やイロハへ経緯を聞くことなく準備を引き継いでいる。
夕方になる前に、新しい打ち上げ計画が完成した。
承認欄には、安全責任者と式典運営担当、そして最終決定者としてマコトの名前が並ぶ。
先生の名前は、どこにもなかった。
万魔殿の倉庫から安全確認済みの花火が運び出され、予定を変更した打ち上げ場所へ向かう。
規模は小さくなったが、式典の開始時刻は変わらなかった。
日が沈む頃、万魔殿の式典会場には予定どおり生徒たちが集まっていた。
打ち上げ場所は当初よりも会場の奥へ移され、周囲には新しい立入禁止線が引かれている。大型花火を中心に組まれていた発射台も撤去され、安全確認を終えた小型花火用の設備へ交換されていた。
式典運営担当の生徒たちは、変更後の手順を最後まで確認する。
使用する花火の数、打ち上げる順番、点火を担当する生徒、周囲の安全確認を行う担当、中止判断を行う責任者。そのすべてに名前が入り、変更理由と承認記録も残されていた。
準備を終えた担当者が、壇上に立つマコトのもとへ向かう。
「最終確認が完了しました。予定どおりの時刻に開始できます」
「そうか。観覧席からの見え方は?」
「大型花火を使う計画より高さは出ません。その代わり、打ち上げ間隔を短くし、最後の演出へ集中させています」
「ならば問題ない。予定どおり始めろ」
担当者は頷いたものの、その場を離れなかった。
「マコト議長。式典の説明では、花火の変更について触れますか?」
当初の告知では、過去最大規模の花火を使用すると宣伝していた。
事情を知らない生徒でも、実際に打ち上げられる花火が告知より小さいことには気付くかもしれない。何も説明しなければ、風紀委員会によって規模を縮小させられたという噂が広がる可能性もあった。
「触れなければ、誰かが都合のよい理由を付けるだろうな」
マコトは式典用の原稿を開いた。
そこには、万魔殿の功績と今後の方針が長々と記されている。花火の変更については、まだ一行も書かれていなかった。
マコトは原稿の冒頭へ文章を追加する。
「安全確認が完了していない花火の使用を取りやめた。変更は万魔殿の判断であり、現在使用する花火については、万魔殿が責任を持って確認した」
入力した文章を担当者へ見せる。
「これでよい」
「風紀委員会から使用を断られたことは……」
「それは記録を見れば分かる。だが、断られた後に何を使うかを決めたのは万魔殿だ。式典の場で、ヒナの名前まで持ち出す必要はない」
「承知しました」
「それから、押収品の使用申請を作成した者の名前も出すな。最終的に決めたのは私だ」
担当者は短く頭を下げ、打ち上げ場所へ戻っていった。
開始時刻になると、マコトが壇上の中央へ進む。
用意されていた拡声設備が起動し、会場に彼女の声が響いた。
「よく集まった、ゲヘナの諸君! 本日の式典は、万魔殿が示す新たな秩序と発展を、その目で確かめるためのものである!」
原稿にある以上に長い挨拶が続く。
万魔殿の歴史、議長としての功績、ゲヘナにおける統治機関の重要性。待っている生徒たちの中には、花火が始まる時刻を気にして時計を見る者もいたが、マコトは気にせず演説を続けた。
やがて、花火についての説明へ入る。
「当初予定していた大型花火については、安全性を確認できなかったため使用を取りやめた。これは、議長である私の決定だ!」
会場の一部がざわめく。
「万魔殿は、出所の不明な押収品へ頼らずとも、式典を成功させられる! 我々が責任を持って確認した花火だけで、その威光を十分に示してみせよう!」
マコトが腕を上げる。
合図を受けた担当者が、最初の花火へ点火した。
打ち上げられた光は、当初予定していた大型花火ほど高くは上がらない。それでも、間隔を空けずに左右から続けて打ち上げることで、会場の上空が途切れることなく照らされた。
色の異なる花火が順番に開き、最後には複数の光が中央へ重なる。
大きさを補うために組み直した演出は、単に数を減らしたようには見えなかった。
会場から歓声が上がる。
マコトは壇上で腕を組み、当然の結果だと言わんばかりに花火を見上げていた。
式典運営担当の生徒たちは、発射台のそばで最後まで手順を確認している。誰も先生へ判断を求めず、風紀委員会へ追加の許可を取りに走る者もいない。
使用できる物が変わった後も、万魔殿の中で新しい計画が作られ、承認され、その決定に従って式典が行われていた。
同じ頃、先生はシャーレから少し離れた書店にいた。
店内を一通り見て回った後、併設された喫茶スペースで購入した本を開いている。窓際の席からは遠くにゲヘナの空が見え、建物の上に小さな光が続けて上がっていた。
万魔殿の式典が始まったらしい。
先生は本から顔を上げ、窓の外を見る。
大型花火ではないが、打ち上げる位置と間隔が工夫されているため、離れた場所からでも連続する光がはっきり見えた。
机の上に置いていた端末が短く鳴る。
先生は画面を見る。
『共同案件――対応完了』
表示されたのは、それだけだった。
緊急連絡ではなく、確認や判断を求める記載もない。先生が出掛ける前に返した申請が、正式な手順で処理されたことを知らせる通知だった。
詳細記録を開けば、誰が何を決めたのか確認できる。
先生の指は、閲覧の表示へ一度近付いた。
だが、今すぐ確認する必要はない。問題が残っているなら、担当者か次の行動が記録されている。先生の判断が必要なら、依頼範囲と終了条件が届く。
そのどちらもない以上、休暇を中断する理由にはならなかった。
先生は通知だけを確認済みに変え、端末を伏せる。
花火が終わるまで窓の外を眺めた後、途中で止まっていた本へ視線を戻した。
翌朝、先生がシャーレへ入ると、昨日完了した共同案件が通常の記録として一覧に残っていた。
修司は既に執務室におり、ミコリと一緒に前日までの運用状況を確認している。
「おはようございます」
「おはよう。昨日の花火、見えたよ」
先生は自分の席へ着き、押収品使用申請の履歴を開いた。
自分が万魔殿へ返した後、最終決定者欄にマコトの名前が入っている。申請の撤回から代替品への変更、風紀委員会への説明、式典終了後の安全報告までが、同じ履歴の中で完了していた。
途中で判断を引き取った者も、誰かの返事を待ったまま放置した者もいない。
「本当に、終わってるね」
「はい」
ミコリが運用記録を表示する。
「先生が休暇へ入った後、共同案件について先生へ直接連絡された回数は零件です。白石さんへの判断依頼もありません」
「修司も、途中では確認してなかったの?」
「完了通知が届いた時に、状態だけ確認しました。判断や調整には参加していません」
「もし、マコトが押し通すと決めていたら?」
「その場合も、マコトさんが正式決定者として記録へ残し、風紀委員会が受け入れるかどうかを判断していたと思います」
修司は履歴の中にある、風紀委員会の拒否記録を示す。
「重要なのは、マコトさんがこちらの想定どおりに判断することではありません。誰が決めたのか分からないまま、先生へ許可を取りに来る状態へ戻らなかったことです」
「昨日の判断が違っていても、仕組みが動いたこと自体は変わらない?」
「判断の内容に問題があれば、その決定者へ責任を求められます。先生が言葉を補い、誰の決定だったか分からなくなるより、後から修正できます」
先生は、マコトが残した説明文を読む。
そこには、最初の申請が正式決定ではなかったことも、万魔殿側の確認が足りなかったことも記されている。風紀委員会を非難する言葉や、先生が承認したと受け取れる表現はなかった。
「マコトが、自分で撤回したんだね」
「万魔殿の権威を守るためでもあると思います」
ミコリが答える。
「安全確認のない花火を強行し、事故を起こした場合、万魔殿の責任となります。担当者へ責任を移すより、自ら判断を修正した方が、議長としての立場を維持できます」
「理由が何であっても、今回は必要な判断をしたということか」
「はい。ヒナ様との関係が改善したことを示す記録はありません」
「そこまで聞いてないけどね」
先生は困ったように笑った。
マコトはヒナへの対抗心を捨てていない。ヒナも、今回の対応だけで万魔殿を信用したわけではない。
それでも、風紀委員会は記録に基づいて要求を拒否し、万魔殿は自分たちで申請を撤回した。先生がどちらかを説得する必要はなかった。
「これで、最後に残っていた二つも確認できたのかな」
先生の問いに、修司が昨日までの運用記録を開く。
「通常の共同案件であれば、確認できたと考えています」
「通常の、ということは?」
「昨日の案件には、判断する時間がありました。動いていた案件も一件だけです。風紀委員会と万魔殿は、順番に記録を確認してから回答できました」
修司は、これまでに起きた別の問題も表示する。
共有シートへ必要な情報が揃わなかった案件、途中で担当者が変わった案件、現場判断と上位判断の境界が曖昧だった案件。さらに、承認を待つ余裕がなく緊急通知へ切り替えた追跡や、通知を複数の生徒が確認したことで対応責任者が分からなくなった設備事故もある。
それぞれの問題に対して、運用は一つずつ修正されてきた。
「個別の仕組みは、実際の案件で使われています。問題が起きた後も、現場の提案で修正されました。ですが、これらが同時に必要になる状況では、まだ確認していません」
「情報が足りなくて、担当者が途中で変わって、緊急判断まで必要になるような案件?」
「はい。さらに、両組織の上位判断が必要になり、先生へも別の役割を求める状況です」
先生は、表示された七つの項目を見る。
これまでは、目の前にある問題を一つずつ切り分けてきた。
情報が足りなければ必要な項目を決め、引き継げなければ経緯を記録する。判断できなければ権限の範囲を分け、緊急時に間に合わなければ許可を待たず通知する。
先生へ頼む仕事には範囲と終了条件を定め、最後に判断する者も記録する。
「全部を一度に使わなければならない状況が来るかは、分からないね」
「来ない方がよいと思います」
修司は答える。
「大きな問題を起こして、仕組みを試す必要はありません。ただ、今の時点で確認できていないことを、完了したことにはできません」
「そこは相変わらず慎重だね」
「完了後に元へ戻れば、困るのは現場と先生です」
先生は否定せず、昨日の記録へ目を戻した。
少なくとも、通常の案件については先生が休んでも止まらない。マコトの希望が正式決定へ置き換わることもなく、風紀委員会は理由を残して拒否できた。
以前なら先生が間へ入り、両者の言葉を柔らかくしていた部分を、それぞれの組織が自分たちで処理している。
その時、机の端に置かれていた生命の書が淡い光を帯びた。
表紙が開き、案件No.021の記録までページが進む。
『ゲヘナ学園 情報共有の標準化』
前回まで試験運用と表示されていた項目が、順番に更新される。
私的希望と正式決定の分離――確認。
不当要求の正式拒否――確認。
責任終了条件――定着確認。
最終決定者記録――定着確認。
先生不在時の組織間連携――確認。
続いて、新しい確認項目が表示された。
複数問題同時発生時の運用――未確認。
自走確認――進行中。
改善達成率――九十パーセント。
最後に示された案件状態は、完了ではなかった。
案件No.021――継続。
先生は、九十パーセントの表示をしばらく見つめた。
「残り一割か」
「新しい制度を増やせば埋まる一割ではないと思います」
修司が言う。
「今ある仕組みが、余裕のない状況でも維持されるかどうかです」
一件ずつなら処理できる。
時間があれば、記録を確認できる。
判断する者が一人なら、責任も追える。
しかし、複数の問題が同時に起こり、現場と上位判断が入り交じった時にも、同じように動けるとは限らない。
先生は生命の書から、昨日の休暇記録へ視線を移した。
午後の欄には、今も休暇と記録されている。後から共同案件の調整時間が追加された形跡も、誰かへ連絡した履歴もなかった。
昨日の空欄は、仕事を見落とした結果ではない。
先生が引き取らなくても、決める者が決め、説明する者が説明したことで残った時間だった。
それでも、生命の書は閉じなかった。
七つの問題に対する方法は揃っている。
残っているのは、その七つが一度に必要となった時にも、誰か一人へ仕事を戻さず動けるかどうかだった。