第一避難所へ到着した先生を迎えたのは、扉を打つ激しい雨音だった。
車両から入口までの短い距離を歩いただけで、傘を差していたにもかかわらず、上着の肩から袖まで濡れている。屋根から落ちる水はカーテンのようにつながり、道路の端では側溝へ流れ込めなかった雨水が浅い波を作っていた。
万魔殿の施設担当者が扉を開け、先生を中へ招き入れた。
公会堂を利用した第一避難所には、すでに多くの生徒が集まっている。
入口では濡れた靴を拭くための布が配られ、奥には毛布と飲料水が並べられていた。壁に設置された案内板には、現在使用できる道路、開設されている避難所、次の情報更新時刻が大きく表示されている。
何も分からないまま待たされているわけではないと理解できても、避難してきた生徒たちの不安まで消えるわけではなかった。
「先生、こちらです」
受付を担当する生徒に案内され、先生は現地責任者のもとへ向かった。
「依頼を受けて来ました。俺は何をすればいい?」
「ありがとうございます。受付の所属確認と、落ち着かない生徒への対応をお願いします。避難経路や輸送について質問された場合は、私へ引き継いでください」
「分かった。生徒支援班が来るまでだね」
「はい。到着予定は、現在の道路状況でおよそ一時間後です」
現地責任者は、先生の依頼内容をその場でもう一度確認した。
担当する仕事と終了条件は、シャーレを出る前に読んだものから変わっていない。先生が避難所へ到着したことで、新しい仕事が際限なく追加されることもなかった。
先生は上着を脱ぎ、受付机の横へ移動した。
避難者の名簿には、所属、氏名、避難してきた地区、体調についての欄がある。記入された内容を確認し、空欄があれば本人へ尋ねるのが先生の仕事だった。
最初に来た生徒は、借りた毛布を肩へ掛けたまま、濡れた鞄の中を何度も探していた。
「生徒手帳が見つからない?」
先生が声をかけると、生徒は困ったように頷いた。
「急いで出てきたから、寮に置いてきたかも……。ないと入れない?」
「大丈夫。所属と名前を確認できれば受付はできるよ。生徒手帳を取りに戻る必要はないからね」
先生は名簿の確認欄へ事情を書き、現地責任者へ渡した。
本人確認は別の記録から行われ、生徒は毛布と飲料水を受け取って奥へ案内された。手帳がないことを理由に入口で待たせたり、雨の中へ戻したりする必要はなかった。
次に来た生徒は、受付を終えてもその場から動こうとしなかった。
何度も端末を確認しているが、連絡は届いていないらしい。
「何か心配なことがある?」
先生が尋ねると、生徒は端末を握り締めた。
「友達が南側の学生寮にいるの。さっきまで連絡できていたのに、急に返事が来なくなって……」
「友達の名前と所属は分かる?」
「うん。でも、先生が迎えに行くの?」
期待を含んだ視線を向けられ、先生はすぐには答えなかった。
ここで「行く」と約束すれば、生徒は安心するかもしれない。しかし、先生には寮へ向かう経路も、現地の浸水状況も分からない。
何より、避難誘導は先生へ依頼された仕事ではなかった。
「今、南側の学生寮を担当している人に確認してもらうよ。名前を教えてくれる?」
生徒から名前と所属、最後に連絡を取った時刻を聞き、先生は現地責任者へ引き継いだ。
情報は共同案件の照会欄へ入力される。
南側学生寮は上階が安全で、東側道路も使用できていたため、輸送を待つ第二陣に指定されていた。後回しにされたのではなく、避難計画に従って寮内で待機している。
風紀委員会の誘導班も、すでに現地へ向かっていた。
ただし、まだ学生寮には到着しておらず、友人本人の状況までは確認できていない。
先生は分かっている範囲だけを生徒へ伝えた。
「風紀委員会が寮へ向かっている。友達の名前も伝えたから、確認できたらここへ連絡が来るよ」
「先生が直接見たわけじゃないんだよね?」
「うん。だから、絶対に大丈夫とは言えない。でも、誰も向かっていないわけでもないよ」
生徒は不安そうなままだったが、先生と一緒に壁際の椅子へ移動した。
先生は無理に安心させようとはせず、返事が届くまでその生徒の話を聞いた。
避難所へ入ってくる生徒は、その後も途切れなかった。
西側地下通路の閉鎖に加え、北側の路面電車も止まったことで、帰宅できなくなった生徒が第一避難所へ集まり始めている。
受付の名簿は次々と埋まり、壁の表示では避難者数が十三人から四十人、六十人と増えていった。
先生は所属確認を続けながら、同じ質問を何度も受けた。
「いつ帰れるの?」
「次はどこへ移るの?」
「寮は大丈夫?」
先生は、自分で答えられない質問を曖昧に処理しなかった。
帰宅可能時刻は現時点で未定。次の情報更新は午後三時。避難所の変更については決定されていない。学生寮には風紀委員会が向かっている。
案内板に表示された内容を一緒に確認し、それ以上の判断が必要な質問は現地責任者へ渡した。
すべてに答えることはできなくても、誰へ確認すればよいかは示せる。
先生が受付へ入ってから二十分ほど経った頃、雨音がさらに強くなった。
公会堂の広い窓へ、大粒の雨が斜めに叩きつけられている。入口の扉が開くたびに風が吹き込み、床へ敷いた布が大きくめくれた。
施設担当者が扉を押さえ、避難してきた生徒を中へ入れる。
「走らないでください! 受付は順番に行います。体調の悪い人は、先に申し出てください!」
列の後ろに並んでいた生徒の一人が、息を切らしながら外を指した。
「道路、水が増えてる! さっきまで靴の下くらいだったのに!」
現地責任者が入口から外を確認した。
道路の中央はまだ見えている。しかし、両端から広がった水が車線の一部へ達していた。
直後、共同案件へ施設管理部門から警告が届いた。
上流側で測定された雨量が当初の予測を大きく上回り、第一避難所周辺の排水設備は稼働しているものの、流入量が処理能力を超え始めている。
このままの雨量が続いた場合、第一避難所へ接続する道路は三十二分後に車両通行の停止基準へ達する。
公会堂そのものが、すぐに浸水するわけではない。
だが、接続道路が閉鎖されれば、避難所は周囲から孤立する。停電や体調不良者が発生しても、必要な物資や車両を送り込めなくなる可能性があった。
現地責任者は先生へ判断を求めず、受付担当へ指示を出した。
「現在の避難者数を確定してください。未受付の生徒も含めます」
「はい!」
「施設担当は非常電源と備蓄を再確認。交通担当には、現在こちらへ回せる車両数を照会します」
先生も受付に並ぶ生徒の数を確認し、担当者へ伝えた。
やがて、避難所内にいる人数が確定する。
百十二人。
公会堂の収容人数には、まだ八人分の余裕がある。
しかし、この先も避難者が増え続ければ、間もなく定員へ達する。接続道路が閉鎖された後では、別の避難所へ移すことも難しくなる。
交通担当から、現在動かせる車両について回答が届いた。
大型車両二台と中型車両一台。運転手を含め、すべて第一避難所へ向かう準備はできている。
一度に運べる人数は九十人。
避難者全員を一度で移動させるには、二十二人分が足りなかった。道路が閉鎖されるまでに往復する時間もない。
「追加車両の手配を要請します」
現地責任者は、第一避難所からの移動が必要になる可能性を共同案件へ登録した。
そこには現在の避難者数だけでなく、負傷者がいないこと、道路閉鎖までの予測時間、使用可能な車両と不足人数、移動先として万魔殿議場を利用できることまで記載されていた。
判断が必要なのは、第一避難所から避難者を移すかどうか。
風紀委員会には、道路を安全に使用できる時間と誘導要員の配置。
万魔殿には、追加車両の確保と議場での受け入れ開始。
それぞれの判断依頼が、ヒナとマコトへ同時に送られた。
先生の端末にも報告は表示されているが、承認の操作はできない。先生は現地で状況を見ていても、避難経路や車両を決める責任者ではなかった。
現地責任者が先生へ向き直る。
「先生。移動が決定された場合は、改めて担当範囲をお送りします。それまでは、現在の受付と生徒対応を続けてください」
「分かりました」
先生は頷き、受付へ戻った。
自分が何をすべきか尋ねる必要はない。新しい決定が下されるまで、今の仕事は終わっていなかった。
共同案件では、七項目の隣に「第一避難所再避難」と記された新しい検証欄が追加された。
必要な情報が一度の報告に揃い、決められた経路で判断者へ届いたことで、説明と伝達経路の二項目が緑へ変わる。
残る五項目は、まだ「継続確認中」だった。
事前に用意した議場と車両で足りるのか。
不足する二十二人分を、誰がどの権限で補うのか。
先生へ判断を預けず、組織だけで新しい計画へ切り替えられるのか。
雨が降る前に決めた条件だけでは、もう答えられない問題だった。
入口の外では水位が上がり続け、道路閉鎖までの予測時間が三十一分へ変わった。
雨から逃げ込んだはずの第一避難所は、三十一分以内に全員が出なければならない場所へ変わろうとしていた。
第一避難所から送られた判断依頼は、風紀委員会本部と万魔殿へ同時に届いた。
アコは、現地報告と施設管理部門の水位予測を並べて確認した。
第一避難所へ続く西側道路は、三十一分後に車両通行の停止基準へ達する。公会堂への浸水は今のところ予測されていないが、道路が閉じれば避難者は孤立する。
「接続道路の水位上昇は、予測より十二分早まっています」
アコの報告を聞き、ヒナは低地区の地図を開いた。
第一避難所から万魔殿議場までの経路には、西側道路と中央大通りを使用する。中央大通りに冠水の報告はなく、現時点では車両が通行できる。
ただし、西側道路を安全に使える時間は限られていた。
「現場の見込みは?」
「二十五分以内に最後の車両を出せば、安全に通過できるとしています。通行停止基準へ達する前に、風紀委員会が道路を閉鎖します」
「第一避難所からの移動は必要ね。風紀委員会は西側道路を確保して、車両が揃い次第、誘導を始めて」
「南側の班を回しますか?」
アコが候補を示すと、ヒナは首を横へ振った。
「南側学生寮の確認が終わっていない。そこの班は動かさないで。中央地区の予備班を向かわせる」
中央地区の警戒は薄くなるが、現時点で危険箇所は報告されていない。避難中の地区から部隊を引き抜くより、まだ余裕のある場所から動かすべきだとヒナは判断した。
「西側道路の閉鎖は、最後の避難車両が通過した時点か、停止基準へ達した時点の早い方。現地責任者に任せるわ」
「承知しました」
アコは第一避難所からの移動承認と、部隊の再配置、道路管理についてヒナの決定を記録した。
風紀委員会が決めるのは、安全に移動できる経路と時間、そして必要な誘導要員までだった。
避難先と輸送車両については、万魔殿側の判断が必要になる。
ヒナは先生へ連絡を入れなかった。
第一避難所の中で先生が生徒対応を続けていることは、共同案件で確認できる。先生へ経路を尋ねても、使える道路が増えるわけではなかった。
万魔殿では、イロハが不足する輸送人数を表示していた。
「現在確保している三台で、九十人を運べます。第一避難所の避難者は百十二人なので、二十二人分足りません」
「追加できる一般車両はないのか?」
「北側路線の車両は、路面電車から降りた生徒の輸送に使用中です。南側の車両を動かすと、学生寮からの避難に影響します」
マコトは交通状況を見た。
余っている車両がないのではない。すでに別の仕事を与えられている車両を、こちらへ回せないのだ。
第一避難所のために南側から車両を奪えば、まだ避難できていない生徒の移動手段が減る。問題を別の地区へ押しつけるだけでは、解決したことにならない。
「万魔殿の送迎用大型車はどうした」
イロハが車両一覧を切り替える。
「議場の役員を運ぶため、庁舎前で待機しています。三十五人乗りですが、これを避難用へ回すと役員の移動手段がなくなります」
「議場は避難所として開けたのだろう。今から役員がどこへ移動する必要がある」
「予定では、各施設の視察へ向かうことになっています」
「中止させろ」
マコトは即答した。
「空席を運ぶために車を残し、避難してきた生徒を雨の中へ置くつもりか。大型車は第一避難所へ向かわせろ」
「現地まで九分ほどかかります」
「間に合うのだな?」
「風紀委員会が西側道路を避難車両優先へ変更します。今出せば間に合います」
「ならば決定だ。役員には議場の受け入れを手伝わせろ。視察する場所が避難所になったのなら、現場まで出向く手間も省ける」
イロハは役員送迎用の大型車を避難輸送へ変更した。
三十五人乗りであれば、不足している二十二人に先生と現地担当者を加えても一度に運べる。
続いて、万魔殿議場の受け入れ状況を確認する。
床の養生と机の移動は終わっている。毛布と飲料水も運び込まれ、第一避難所から百人以上を受け入れても収容人数には余裕があった。
「第一避難所から議場への移動を承認します。追加車両も手配済みです」
イロハが決定を記録すると、風紀委員会側の承認と一つの対応計画へまとめられた。
移動開始は即時。
避難先は万魔殿議場。
風紀委員会は道路の安全確保と車両誘導を担当し、万魔殿は輸送車両と議場での受け入れを担当する。
第一避難所の現地責任者は乗車順を決め、避難者数を車両ごとに記録する。
ヒナとマコトは直接話していない。それでも、相手の回答を待って決定を遅らせることなく、それぞれの権限で必要な仕事を引き受けていた。
二人の決定が揃い、第一避難所へ再避難の開始が通知された。
第一避難所の端末へ、再避難の決定が届いた。
現地責任者は内容を確認すると、避難所内の表示を更新した。
『第一避難所から万魔殿議場へ移動します』
その下には、移動を始める時刻、使用する車両、乗車順、到着先が記されている。
次の情報更新時刻も表示されていたため、避難所内にいた生徒たちが一斉に受付へ押し寄せることはなかった。
不安そうな声は広がったが、何が起きているのか分からないまま移動を命じられたわけではない。
「この建物が危ないの?」
「今すぐ浸水するわけではありません。ただ、周辺の道路が閉鎖される可能性があります。安全に移動できるうちに、万魔殿議場へ移ります」
現地責任者が説明している間に、先生の端末へも新しい依頼が届いた。
第一避難所からの移動決定に伴い、先生の担当範囲と終了条件が更新されている。
先生は避難所内にいる生徒を落ち着かせ、現地責任者が決めた乗車順を伝える。移動中に不安や体調不良を訴える生徒へ付き添い、万魔殿議場へ到着後は生徒支援班へ引き継ぐ。
避難経路、車両配置、乗車順そのものを決める権限はない。
終了条件は、最後の避難車両が万魔殿議場へ到着し、支援班への引き継ぎが完了した時点へ変更されていた。
先生は内容を最後まで読み、承認する。
共同案件の「第一避難所再避難」では、事前調整、先生への依存、責任範囲、最終決定者にも緑色が入った。
準備済みの議場が移動先として使われ、先生への判断依頼を挟まず、ヒナとマコトがそれぞれの権限で再避難を承認している。
残るのは、実際に百十二人を万魔殿議場へ引き継げるかどうかだった。
先生は、現地責任者から渡された乗車順を確認した。
最初の車両には、体調不良者と低学年の生徒を優先して乗せる。次の車両には、北側地区から避難してきた生徒。残る生徒は、到着した車両へ順番に案内する。
先生が決めた順番ではない。
それでも、なぜその順番なのかを生徒へ説明し、不安なく乗れるようにすることはできる。
「体調の悪い人から先に移動します。呼ばれていない人は、荷物をまとめてここで待っていてください。車両は全員分来るから、慌てなくても大丈夫です」
先生の声に、避難所内のざわめきが少しだけ小さくなった。
窓の外では、風紀委員会の車両が到着している。生徒たちが安全に乗り降りできるよう入口前を区切り、西側道路から一般車両を別の経路へ誘導し始めていた。
先生はその様子を見て、入口へ足を向けかけた。
濡れながら柵を運ぶ風紀委員の人数は多くない。自分が外へ出れば、少しくらいは早く進むかもしれない。
だが、画面には中央地区からの増員班があと二分で到着すると表示されている。車両への荷物積載にも、万魔殿の交通担当者が割り当てられていた。
一方、避難所内で生徒対応を担当する者は、先生と受付の生徒だけだった。
その時、先生の端末へ修司から連絡が入る。
「先生。更新された依頼は届いていますか」
「うん。確認したよ」
先生は入口の外へ視線を向けた後、受付に残る生徒たちを見た。
「外も気になるけど、増員が向かっている。俺が出たら、今度は中の仕事が空くからね。ここに残るよ」
わずかな沈黙の後、修司が答えた。
「はい。それが先生に任されている仕事です」
「修司君に止めてもらわなくても、今回は分かったよ」
「それは失礼しました。こちらから申し上げることが一つ減りました」
修司の声はいつもと変わらなかったが、先生には、その返答が少しだけ柔らかく聞こえた。
連絡が終わると同時に、最初の輸送車両が入口前へ到着した。
現地責任者が乗車対象となる生徒の名前を読み上げ、先生は一人ずつ車両へ案内していく。
道路閉鎖まで、残り二十六分。
大型車両二台と中型車両一台が、先に到着していた。万魔殿の役員送迎用車両も、予定より早くこちらへ向かっている。
車両が揃えば、時間内に全員を運べる。
先生が次の生徒を呼ぼうとした時、壁際の椅子に座っていた生徒が立ち上がった。
南側学生寮にいる友人を心配していた生徒だった。
端末には、まだ友人の避難完了を知らせる連絡が届いていない。
「君は二台目だよ。荷物を持って、列に並ぼう」
先生が声をかけても、生徒は動かなかった。
「友達が来るまで、ここにいる」
「風紀委員会が寮へ向かっている。確認できたら、移動先の議場にも連絡は届くよ」
「でも、私が先に行ったら、あの子がここへ来た時に誰もいない」
第一避難所へ続く道路は、まもなく閉鎖される。友人が自力でここへ来られる状況ではないと説明しても、生徒は端末を握ったまま首を横へ振った。
外では、最初の車両へ乗る生徒の名前が呼ばれている。
道路閉鎖まで、残り二十三分。
先生は入口へ助けを求めるのではなく、生徒の向かいに腰を下ろした。
今ここで先生に任されているのは、車両の数を増やすことでも、南側学生寮へ迎えに行くことでもない。
目の前で動けなくなっている一人を、置き去りにしないことだった。
先生は、端末を握ったまま動けずにいる生徒と向き合った。
「友達がここへ来ると思っているんだね」
生徒は小さく頷いた。
「避難するなら、この公会堂だって話してたの。私だけ議場へ行った後で、あの子がここに来たら……」
「今は西側地下通路も北側の路面電車も使えない。この避難所へ来る道も、もうすぐ閉鎖される。友達が一人でここへ向かうことはないと思う」
「でも、まだ連絡が来てない」
先生は否定せず、生徒から聞いた名前の照会状況を確認した。
共同案件には、南側学生寮へ到着した風紀委員会の誘導班から新しい報告が届いている。寮内に残っている生徒の確認が始まり、避難待機者の一覧へ名前が追加されていた。
その中に、生徒が探している友人の名前もあった。
先生は端末の画面を見せる。
「友達は学生寮にいる。風紀委員会とも合流できているよ。けがをしたという報告もない」
生徒は画面へ顔を近づけ、名前を何度も確かめた。
「まだ避難できてないんだよね?」
「うん。だから、もう安全だとは言えない。でも、誰にも気づかれずに残っているわけじゃない。友達の居場所も、そこに誰が向かっているかも分かっている」
「私が議場へ行ったことは、あの子にも伝わる?」
「第一避難所からの移動先は、南側の誘導班にも共有されている。君の受付記録も議場へ引き継がれるから、友達が避難した後に探す場所は分かるよ」
先生が言葉を重ねるうちに、生徒の端末へも避難所変更の通知が届いた。
第一避難所の閉鎖予定と、万魔殿議場への移動。議場に到着した後も、南側学生寮の避難状況を確認できることが記されている。
生徒はまだ迷っていたが、やがて端末を鞄へ入れた。
「本当に、あとで会える?」
「会えるように動いている人たちがいる。俺は、その人たちが今どこまで進んでいるのかを、君と一緒に確認できる」
必ず会えるとは約束しなかった。
それでも、生徒は椅子から立ち上がった。
先生は乗車順を変更せず、現地責任者から指示された二台目の列へ生徒を案内する。
「先生は?」
「俺は最後の車両までここにいる。議場では生徒支援班が待っているから、この照会番号を見せて。続きは向こうでも確認できるよ」
先生が渡した番号を、生徒は端末へ保存した。
やがて名前を呼ばれ、何度か避難所を振り返りながらも車両へ乗り込んだ。
先生は追いかけなかった。
友人を探しに行くことも、安心できるまで隣に座り続けることもできない。今はまだ、この避難所に残っている生徒たちがいる。
一人を置き去りにしないことと、一人だけに付き添い続けることは違う。
先生は次の名簿を受け取り、三台目に乗る生徒の確認を始めた。
第一便となる二台の大型車両が、公会堂の前を出発した。
風紀委員会が西側道路への進入を制限し、避難車両を中央大通りへ誘導する。雨水は道路の両端から中央へ迫っていたが、まだ車輪が取られる深さではない。
共同案件では、車両ごとに状態が表示されていた。
第一号車、三十人、乗車確認済み。
第二号車、三十人、乗車確認済み。
出発時刻と到着予定時刻も記録され、万魔殿議場の受け入れ担当が二台分の人数を確認する。
車両が動き出した時点で、第一避難所側の責任は交通担当へ渡った。議場へ到着すれば、今度は生徒支援班が引き継ぐ。
道路閉鎖まで、残り十八分。
中型車両への乗車も始まっていた。
第一便が出発したことで公会堂内の人数は減ったが、外の雨はむしろ強くなっている。入口に近い床には、扉が開くたびに吹き込んだ雨水が広がり、施設担当者が何度拭いても追いつかなかった。
「送迎用の追加車両、到着します!」
入口を担当していた生徒の声に、先生は窓の外を見た。
強い雨の向こうから、万魔殿の紋章を付けた大型車両が近づいてくる。普段は役員の送迎に使われているらしく、避難用の車両としては不釣り合いなほど外装が整えられていた。
待機していた生徒の一人が、思わず声を漏らす。
「本当に、あれに乗っていいの?」
「そのために来た車両だからね。感想は、無事に着いてから聞かせて」
先生が答えると、張り詰めていた周囲から小さな笑いが起きた。
追加車両は入口前へ停まり、乗車口が開く。
道路閉鎖まで、残り十五分。
中型車両が三十人を乗せて出発する。
第一避難所に残っている避難者は、最後の大型車両へ乗る二十二人となった。
現地責任者は公会堂内を一室ずつ確認し、取り残された生徒がいないことを確かめる。施設担当者も備蓄庫と救護室を調べ、非常電源以外の設備を停止させていった。
先生は残っている生徒の名前を読み上げ、一人ずつ追加車両へ案内した。
受付記録では百十二人。
先に出発した大型車両二台で六十人、中型車両で三十人。最後の車両へ乗る二十二人を合わせれば、人数に過不足はない。
全員の乗車後、先生は現地責任者と一緒に名簿を照合した。
「避難者百十二人。全員の乗車を確認しました」
「公会堂内にも残留者はいません」
「それでは、閉鎖をお願いします」
施設責任者が第一避難所の扉を施錠し、共同案件の状態を「閉鎖済み」へ変えた。
先生と現地担当者も車両へ乗り込み、最後の一台が出発する。
道路閉鎖まで、残り九分だった。
西側道路では、風紀委員会が水位を監視しながら最後の車両を待っていた。車輪が水を押し分けるたび、歩道まで濁った飛沫が上がる。
車両が閉鎖地点を通過すると、現地責任者がすぐに柵を動かした。
『第一避難所からの最終車両通過。西側道路を閉鎖』
通知は交通担当と万魔殿議場へ同時に届いた。
その二分後、水位は車両通行の停止基準へ達した。
第一避難所は道路から切り離されたが、その中に取り残された者はいなかった。
万魔殿議場は、朝までの姿をほとんど残していなかった。
中央に並んでいた机は壁際へ移され、広い床には毛布と簡易の仕切りが敷かれている。正面の大型画面には演説原稿ではなく、避難所ごとの収容人数と道路の状態が表示されていた。
先に出発した三台はすでに到着している。
生徒支援班が一人ずつ名前を確認し、第一避難所の受付記録を引き継いでいた。
先生たちの車両が議場前へ停まると、待機していた担当者が乗車口まで迎えに来た。
「第一避難所からの最終便ですね」
「はい。生徒二十二人と、先生、現地担当者です」
車両内の名簿が議場側へ渡される。
到着した生徒の名前が一人ずつ確認済みへ変わり、第一避難所から出発した百十二人と、議場で受け入れた百十二人が一致した。
負傷者なし。所在不明者なし。別の避難所へ誤って移動した者もいない。
最後に先生が担当していた生徒の照会番号と、不安を訴えていた理由を支援班へ伝えた。
「南側学生寮にいる友人の避難状況を待っています。新しい報告が来たら、本人へ伝えてください」
「承知しました。こちらで引き継ぎます」
生徒支援班が受領を記録すると、先生へ送られていた依頼が完了へ変わった。
第一避難所の受付補助から始まり、再避難中の生徒対応を経て、万魔殿議場の支援班へ引き継ぐ。
定められていた終了条件が満たされたことで、先生の仕事はそこで終わった。
共同案件では、「第一避難所再避難」の最後の一項目が緑へ変わる。
一 説明――判断に必要な情報の欠落なし。
二 引き継ぎ――避難者百十二人と受付記録を議場へ移管。人数差異なし。
三 事前調整――準備済みの議場と輸送変更の権限を使用。
四 伝達経路――現地、交通、議場へ共同案件から同時通知。
五 先生への依存――先生への判断依頼なしで再避難を実施。
六 責任範囲――状況変更後も各担当と終了条件を更新。
七 最終決定者――ヒナが経路と部隊配置、マコトが施設と輸送を承認。
第一避難所の再避難について、七項目すべてに二度目の緑色が並んだ。
準備していた避難所が使えなくなり、車両も不足した。それでも、仕事の境界や情報の行き先は崩れなかった。
先生は議場の隅へ移動し、濡れた上着を椅子の背へ掛けた。
その時、先ほどの生徒が人の間を縫うようにして近づいてきた。
「先生。友達のこと、何か分かった?」
先生は共同案件を開いた。
南側学生寮の誘導班から、数分前に状況更新が届いている。
友人の名前は、今も避難待機者の一覧に入っていた。
「寮にいることは確認できている。風紀委員会の人たちも一緒だよ」
「まだ、こっちへ来てないの?」
先生が答えようとした直後、端末から警告音が鳴った。
南側学生寮からの緊急報告だった。
南側学生寮では、一階玄関から入り込んだ雨水が廊下まで広がっていた。
誘導に到着した風紀委員会の班は、寮内に残っていた生徒を三階へ集めている。
避難待機者は二十八人。風紀委員は四人。負傷者はいない。
建物の上階は、現時点では安全だった。
しかし、予定していた東側道路の水位が、輸送車両の到着前に閉鎖基準へ達していた。車両は学生寮へ近づけず、徒歩で移動させるにも、道路を横切る水の流れが強すぎる。
地下の設備室にも浸水が始まり、寮の電力は非常用へ切り替わっていた。
非常電源の継続予測は四十八分。
それを過ぎれば、照明と通信設備を維持できなくなる可能性がある。
現地責任者は、人数、現在地、負傷者の有無、建物の状態、使用できない経路、残された時間を一つの報告へまとめた。
『南側学生寮。生徒二十八人、風紀委員四人。全員三階へ退避済み。負傷者なし。東側道路冠水により、予定経路での避難不能。非常電源の継続予測四十八分。代替となる避難経路および輸送手段の決定を要請』
報告は共同案件を通じ、風紀委員会本部と万魔殿へ同時に送られた。
議場で画面を見ていた生徒が、友人の名前を見つける。
「この中にいる」
「うん。風紀委員会の人たちと三階にいる。今すぐ建物が崩れたり、流されたりする状況ではない」
先生は、分かっていることだけを伝えた。
「でも、道がないんでしょ?」
「今まで使う予定だった道は通れなくなった。これから別の方法を決めることになる」
生徒は先生の袖をつかんだ。
先生は立ち上がりかけたが、自分の依頼が完了していることと、南側学生寮への対応責任者を確認した。
判断者欄には、ヒナとマコトの名前が表示されている。
その時、修司から連絡が入った。
「先生。南側学生寮の報告は確認されていますか」
「見ているよ。第一避難所の仕事は終わった。でも、俺への新しい依頼はまだ届いていない」
先生は不安そうに待っている生徒を見た。
「対応する人も決まっている。だから、必要になるまではここに残るよ」
「承知しました」
修司は、先生を止めなかった。
止める必要がなかった。
画面では、「第一避難所再避難」の七項目がすべて緑色になっている。
その下に、新しく「南側学生寮」と記された対応欄が作られた。
七つの改善は、想定外の問題を消してはくれない。
それでも、学生寮に誰がいるのか、どこが危険なのか、何が足りないのか、そして誰が次の判断を下すのかは、雨の中でも失われていなかった。
非常電源が停止するまで、残り四十七分。
二十八人を外へ出す方法だけが、まだ決まっていなかった。