非常電源が停止するまで、残り四十七分。
南側学生寮から届いた報告を前に、風紀委員会本部の空気が張り詰めていた。
大型画面には、学生寮周辺の道路と浸水範囲が表示されている。予定していた東側道路はすでに閉鎖基準へ達し、車両だけでなく徒歩での移動も危険と判定されていた。
学生寮にいるのは、生徒二十八人と風紀委員四人。
全員が三階へ退避し、負傷者はいない。建物自体にも、現時点で倒壊や火災につながる異常は確認されていなかった。
問題は、外へ出るための経路がないことだった。
「現在の水深なら、ロープを使って一人ずつ東側道路を渡らせることはできるかもしれません」
アコは現地から送られてきた映像を拡大した。
道路を横切る濁流は、生徒の膝より少し上まで達している。風紀委員が先導し、建物や街路樹へ固定したロープを使えば、移動できる可能性はある。
ただし、流れの中には折れた看板や木片が混じっていた。映像の端では、倒れたごみ箱が水に押され、道路を勢いよく流されている。
ヒナはしばらく映像を見た後、現地責任者へ尋ねた。
「三階の状況は?」
『全員を三つの部屋へ分けています。階段は二階まで使用可能で、三階への浸水はありません。体調不良者もいません』
「建物内の物資は?」
『飲料水と非常食を確認中です。少なくとも、すぐに不足する量ではありません』
「上階に留まることで、新しく発生する危険は?」
『通常電源は停止しています。非常電源も四十七分後に切れる見込みですが、照明と通信以外に大きな影響はありません。換気は窓から行えます』
現地からの回答と、施設管理部門が保管していた学生寮の構造図が共同案件へ追加された。
最新の予測水位と比較しても、三階まで水が達する可能性は低い。仮に一階の浸水が拡大しても、上階へ留まる方が、濁流の中を移動するより安全だった。
学生寮の裏手は斜面に接しており、二階の踊り場へ直接通じる側面出入口がある。現在は浸水しておらず、東側道路が安全になれば、一階の廊下を通らずに避難できることも確認された。
「ヒナ委員長」
現地責任者の声が無線から届く。
『生徒たちを外へ出すのであれば、こちらで先に経路を作ります』
「出さないで」
ヒナは即答した。
『しかし、非常電源が――』
「建物から出すことが避難ではないわ。今より危険な場所へ動かすなら、それは避難とは呼べない」
ヒナは学生寮の周辺地図から、外へ向かう経路表示を消した。
「南側学生寮を、一時避難場所として使用する。生徒は三階から動かさず、部屋ごとの人数と体調を確認して」
『ここで待機するのですか?』
「道路を安全に使えるまでね。階段の水位を監視し、状況が変わった場合は屋上へ移動できるよう準備して。今は外へ出ないことを優先する」
『承知しました』
現地責任者の返答を受け、ヒナは風紀委員会側の担当を切り替えた。
寮内の風紀委員は、生徒の安全確保、人数確認、階段と浸水範囲の監視を行う。
外にいる部隊は、東側道路の水位と流れを観測する。道路を再開できるかどうかは、現場で安全を確認した班が判断する。
本部は、雨量の変化に応じて必要な部隊を配置する。
「十分ごとに人数と体調を報告。水位は五分ごとに確認して」
アコが指示を記録する。
「非常電源が停止した後はどうしますか?」
「携帯無線へ切り替える。現地の無線はあと何時間使えるの?」
『予備電池を含め、二時間以上です』
「なら、連絡は途切れない。照明が消える前に、携帯灯と予備電池を各部屋へ分けておいて」
道路を使えない以上、無理に救助方法を作るのではなく、使えるようになるまで安全を維持する。
避難方法を決める欄へ、ヒナの判断が記録された。
『即時移動を行わず、学生寮三階で待機』
非常電源が停止するまでの時間は、まだ減り続けている。
だが、それは生徒たちを危険な道路へ出さなければならない期限ではなくなった。
万魔殿では、マコトが風紀委員会の安全判定を確認していた。
学生寮へ向かわせる予定だった輸送車両は、閉鎖された東側道路の手前で待機している。
万魔殿の役員の一人が、車両一覧から物資輸送用の大型車を選び出した。
「議長。この車両なら通常の輸送車より車高があります。水深だけを見れば、学生寮まで到達できるのではないでしょうか」
「横から流れている水の速さはどうなっている」
「それは……風紀委員会の測定では、通行基準を超えています」
「ならば出せん」
マコトは車両を選択しかけていた役員の手を止めた。
「車両を出せることと、出してよいことは別だ。道路の安全は風紀委員会が判断する。途中で動けなくなれば、救助対象を増やすだけだろう」
「では、何もせず待つのですか?」
「待つための準備をしろと言っている」
マコトは施設管理部門から届いた学生寮の構造図と設備一覧を開いた。
「地下の設備室へ浸水している。通常電源は完全に切れ」
「すでに非常電源へ移行しています。外部の切替設備から遮断すれば、復旧に時間がかかりますが」
「今は復旧の早さを競っているのではない。漏電させるな」
施設管理部門が、学生寮へ供給されている通常電源を外部から遮断する。
これで水に浸かった設備へ電気が流れる危険はなくなった。非常電源が停止した後も、建物そのものが使えなくなるわけではない。
イロハは、寮内の物資確認を進めていた。
「各階の備蓄と生徒が持っている分を合わせれば、飲料水と非常食は六時間以上持ちます。毛布と携帯灯もあります」
「窓と屋上への経路は?」
「三階の窓は開閉可能です。屋上への階段も、現時点では使用できます」
「ならば、今すぐ動かす理由はないな」
マコトは待機計画の万魔殿側を承認した。
施設管理部門は、電気と建物設備の安全を監視する。
交通担当は車両を東側道路の手前で待機させ、道路再開の通知を受け次第、学生寮へ向かう。
万魔殿議場では、生徒二十八人と風紀委員四人を受け入れられる場所を確保したままにする。
イロハは、風紀委員会と万魔殿の決定を一つの対応計画へまとめた。
「移動条件は、東側道路の水位と流速が基準以下となり、現場の風紀委員が路面を確認した時点です。それまでは車両を進入させません」
「よし。待機中の運転手にも、勝手に入るなと伝えておけ」
「早く助けに行きたいと、現場から要望が出るかもしれません」
「早く動くことと、早く解決することは同じではない」
マコトは学生寮の映像へ視線を戻した。
「中にいる者が無事なら、その状態を守れ。道が安全になった時、全員を一度で運び出せるようにしておけばいい」
待機計画には、輸送再開の条件、使用する車両、移動先、受け入れ担当者まで記録された。
何時に水が引くかは、まだ分からない。
それでも、水が引いた後に誰が何をするのかは、すでに決まっていた。
南側学生寮の三階では、風紀委員が生徒たちを三つの部屋へ分けていた。
一室ごとに人数を確認し、窓際から離れた場所へ毛布と飲料水を集める。携帯灯は各部屋に二つずつ配置され、残りは階段と廊下の監視用に確保された。
一階からは、水が扉や家具へぶつかる鈍い音が響いている。
音がするたび、生徒たちは不安そうに廊下へ顔を出した。
「外へ逃げないの?」
「風紀委員会の車は来てるんでしょ?」
「道路が使えないって、いつまで?」
現地責任者は、生徒たちを一室へ集めた。
「今から外へは出ません。道路の流れが強く、建物の中より危険だからです」
「でも、電気が消えるんでしょ?」
「非常電源が停止した後は携帯灯を使います。本部との連絡も無線で続けます。飲料水と食料は足りています」
「じゃあ、助けが来るまで何もしないの?」
「ここで安全に待つことが、今するべき行動です」
何も決められないから残るのではない。
建物の上階に留まる方が安全だと判断され、電源が消えた後の照明や通信、道路が再開した後の移動手段まで用意されている。
それでも、生徒たちの表情は晴れなかった。
外へ向かう車両が見えれば、救助が進んでいると分かる。誰かが駆け込んでくれば、自分たちを助けに来たのだと思える。
一方、部屋の中で待つことには、何も進んでいないように感じさせる怖さがあった。
現地責任者は、最初の人数確認を始めた。
一つ目の部屋に九人。
二つ目の部屋に十人。
三つ目の部屋に九人。
合計二十八人。体調不良者なし。
報告は携帯端末から共同案件へ送られ、風紀委員会本部と万魔殿が受領した。
次の確認は十分後。
水位の報告は五分後。
通常通信が停止した場合の連絡先も、各風紀委員の端末へ保存されている。
非常電源が停止するまで、残り四十二分。
時間は減っているが、準備されていない仕事は一つずつ減っていた。
万魔殿議場の大型画面にも、南側学生寮の待機計画が表示された。
先生のそばにいた生徒は、友人がいる部屋の人数確認が終わったことを確かめた。
けが人はいない。
水と食料もある。
風紀委員も一緒にいる。
その下には、避難方法として「三階待機」と表示されていた。
「どういうこと?」
生徒の声が震える。
「車は行かないの?」
「今の道路を通る方が危険だと判断されたんだ。水が引くまで、三階で待つことになった」
「じゃあ、助けに行かないの?」
周囲にいた生徒たちも、先生へ視線を向けた。
先生は、決定内容を言い換えて安心させようとはしなかった。
学生寮の中にいる者へ、何も起きないと約束することもできない。
「外へ連れ出すだけが、助けることじゃないよ」
「でも、電気も消えるんでしょ?」
「消える前に、照明と無線を準備している。道路が安全になったら、待機している車両が迎えに行く」
生徒は納得できない様子で画面を見た。
「待つしかないってこと?」
先生は答えようとしたが、その言葉を飲み込んだ。
生徒が知りたいのは、設備や道路の説明だけではない。離れた場所にいる友人が、暗くなる学生寮で何を感じているのかだった。
その時、先生の端末へ新しい依頼が届いた。
送信元は、南側学生寮の現地責任者。
依頼内容には、学生寮に残っている生徒への遠隔支援と記されていた。
先生は画面を開き、最初の一行から読み始めた。
先生へ届いた依頼には、南側学生寮に残る生徒への遠隔支援と、担当する範囲が記されていた。
学生寮の生徒と通信し、不安や体調について話を聞くこと。
万魔殿議場へ避難した友人との連絡を補助すること。
避難経路や移動時刻については判断せず、質問を受けた場合は現地の風紀委員へ引き継ぐこと。
終了条件は、非常電源が停止する前に各部屋の待機体制が整い、現地責任者が生徒対応を引き継いだ時点とされている。
先生は最後まで確認し、依頼を承認した。
「俺が避難方法を決める仕事じゃない。でも、待っている間に一人にしないことはできる」
そばにいた生徒は、先生の言葉を聞いても学生寮の表示から目を離さなかった。
非常電源が停止するまで、残り三十九分。
先生は議場に設けられた通信席へ移動した。万魔殿の担当者が学生寮との回線を開き、現地責任者へ先生の担当範囲を伝える。
『こちら、南側学生寮です。音声と映像、どちらも届いています』
画面には、三階の一室が映し出された。
集められた机の上に携帯灯と飲料水が並び、窓から離れた壁際には毛布が敷かれている。生徒たちは先生の姿を見ると少し安心したように顔を上げたものの、その後ろでは数人が不安そうに廊下を見ていた。
「先生です。まず、みんなの声が聞こえていることを確認したい。体調が悪くなった人や、けがをしている人はいる?」
『いません』
現地責任者が答えた後、生徒たちもそれぞれ首を横へ振った。
「分かった。道路が安全になるまで、みんなは三階で待機することになっている。外へ出られる時刻は、まだ決まっていない」
『いつまで待てばいいんですか?』
「それも、今は答えられない。次の雨量確認は五分後、水位の報告も同じ時刻に来る。状況が変わらなくても、決められた時間には必ず情報が届くよ」
安心させるためだけの時刻を口にすることはできない。
それでも、次にいつ確認が行われるかが分かれば、終わりの見えないまま放置されているわけではないと伝えられる。
一人の生徒が画面の近くへ来た。
『議場には、もうみんな着いていますか?』
「第一避難所から移動した百十二人は、全員到着している。君たちの受け入れ場所も用意されているよ」
『じゃあ、電気が消える前に迎えに来てください』
「車両は道路の手前で待っている。でも、今は走らせられない。電気が消えることより、濁流の中を移動する方が危険だと判断されたからね」
生徒は納得できない様子で唇を噛んだ。
先生は、それ以上の説明を重ねなかった。
怖いから早く外へ出たいという気持ちは、設備の安全性を何度説明しても消えない。今必要なのは、恐怖が間違っていると教えることではなかった。
「暗くなった後の準備はできている?」
先生が尋ねると、現地責任者が携帯灯と予備電池を映した。
『各部屋に二つずつ配りました。廊下と階段にも配置しています。通常通信が切れた後は、携帯無線を使います』
「飲料水は?」
『部屋ごとに分けました。非常食もあります』
「それなら、次は誰がどの部屋にいるかを、みんなで確認しよう。電気が消えた後も、隣に誰がいるか分かるようにしておこう」
先生は生徒たちの名前を読み上げる役目を、現地責任者へ渡した。
一つ目の部屋に九人。
二つ目の部屋に十人。
三つ目の部屋に九人。
返事があるたび、画面上の名簿に確認済みの表示が入る。
全員分の返事を聞き終えた先生は、議場で待っている生徒へ振り返った。
「友達と話せるよ。今なら通常の回線が使える」
生徒は一瞬ためらった後、通信席へ近づいた。
画面の向こうで、学生寮にいる友人が呼ばれた。
姿を見せた友人は、濡れた髪をタオルで拭きながら画面の前へ座った。
互いの顔を確認しても、二人はすぐには話さなかった。
先に口を開いたのは、議場にいる生徒だった。
「なんで先に来なかったの」
声には安心よりも、怒りに近いものが混じっていた。
『行けるなら行ってる。車を待ってたら、道が水に沈んだの』
「連絡くらいできたでしょ」
『急に電波が悪くなったんだから仕方ないでしょ。そっちこそ、先に公会堂へ行けって言ったじゃん』
「言ったけど……本当に置いていくつもりじゃなかった」
『置いていかれたなんて思ってない』
「だったら、もう少し早く返事してよ」
『だから、できなかったって言ってるでしょ』
二人の声が少しずつ大きくなる。
先生は会話を止めなかった。
離れた場所で何が起きていたのか分からなかったから、不安が怒りへ変わっている。どちらかを宥めて綺麗に仲直りさせても、互いの恐怖までは消えない。
やがて、学生寮側の生徒が視線を落とした。
『一階に水が入ってきた時、本当はすごく怖かった』
議場側の生徒も、握っていた端末を机へ置いた。
「私も、名前が出てくるまで怖かった」
『今は風紀委員の人たちもいる。電気が消えても、携帯灯があるって』
「暗いのは平気なの?」
『平気じゃない。でも、道路が開くまでここにいる』
「連絡が切れたら?」
『次につながるまで待ってる』
議場側の生徒は、少しだけ目元を拭った。
「じゃあ、今度は私が待つ。議場にいるから」
『分かった。次に会ったら、さっきの文句をもう一回聞く』
「それまで忘れないでよ」
『そっちこそ』
二人の会話を聞いていた周囲の生徒たちから、張り詰めていた息が漏れた。
先生はそこで初めて、現地責任者へ通信を戻した。
「議場側への連絡事項はありますか?」
『避難が始まった場合は、こちらから共同案件へ記録します。個別に迎えを求める必要はありません』
「分かりました。こちらでも同じ内容を伝えます」
先生は通信席を離れず、残る生徒たちの話を順番に聞いた。
電気が消えるのが怖い。
一階で聞こえる音が気になる。
水がもっと上がったらどうするのか。
先生は、分からないことを分かったようには答えなかった。
二階の階段に設定した線まで水が達した場合は屋上への移動準備を始めること。現時点では、その線まで達していないこと。五分ごとに風紀委員が確認していることを伝えた。
生徒たちは完全には安心しなかった。
それでも、次に何が起きたらどう動くのかを知るにつれ、何度も廊下へ飛び出す者はいなくなった。
非常電源が停止するまで、残り十分。
現地責任者は、各部屋の最終確認を行った。
携帯灯、予備電池、飲料水、非常食、毛布。
通常通信の停止後に使う携帯無線も、動作に問題はない。
一階の水位は上がっているが、二階へ続く階段に設定された警戒線までは達していなかった。
雨量は増加を続けている。
学生寮の中では、電源が消える前に最後の準備が進められていた。
風紀委員会本部では、現地の通常通信が停止した場合に備え、無線の受信担当者が共同案件を開いて待機している。
万魔殿の施設管理部門も、非常電源の残り時間と地下設備室の状態を監視していた。
道路手前の輸送車両は、エンジンを停止したまま待っている。運転手には、風紀委員会の再開通知が届くまで動かないよう改めて指示が出されていた。
非常電源が停止するまで、残り五分。
先生へ依頼された遠隔支援の終了条件も近づいていた。
各部屋の待機体制は整い、現地責任者が生徒対応を引き継ぐ準備もできている。
先生は最後に、画面の向こうにいる生徒たちへ伝えた。
「この通信は、もうすぐ切れる。でも、本部との連絡までなくなるわけじゃない。何か変わったら、風紀委員の人へ伝えて。無線を通して、同じ記録に届くからね」
『先生は、もう話せないんですか?』
「通常の回線が戻るか、みんなが議場へ到着したら、また話せる。それまでは、現地にいる人たちへ引き継ぐよ」
先生は、いつまでも自分がつながっているとは約束しなかった。
その代わり、自分との通信が終わった後に誰が生徒たちを支えるのかを示した。
現地責任者が画面の前へ立つ。
『ここからは私たちが対応します。先生、引き継ぎをお願いします』
「生徒二十八人、体調不良者なし。三部屋への配置と、議場側の連絡先を確認済みです」
『受領しました』
共同案件へ引き継ぎ完了の記録が入る。
その時点で、先生へ送られていた依頼は完了となった。
残り一分。
学生寮の照明が、一度だけ小さく明滅した。
画面に細かな乱れが入り、音声が途切れる。
議場側の生徒が思わず机へ手を伸ばした。
「待って――」
残り時間が零になった。
学生寮からの映像と音声が同時に消え、議場の画面には通信停止の表示だけが残った。
南側学生寮の三階では、天井の照明が消えた。
窓の外も厚い雲に覆われ、室内は一瞬で暗くなる。
何人かの生徒が声を上げたが、すぐに携帯灯が点いた。
壁際の二か所、入口の横、廊下、階段。
事前に決めた場所へ小さな光が並び、互いの顔が見える程度の明るさを取り戻す。
「全員、その場から動かないで。部屋ごとに人数を確認します」
現地責任者が声をかける。
一つ目の部屋、九人。
二つ目の部屋、十人。
三つ目の部屋、九人。
生徒二十八人、全員異常なし。
風紀委員四人にも問題はなかった。
携帯無線を起動し、本部の受信担当者を呼び出す。
『こちら南側学生寮。非常電源停止。携帯灯へ切り替え済み。生徒二十八人、風紀委員四人、全員異常なし。三階待機を継続します』
無線を受けた本部担当者が、内容を共同案件へ記録する。
通常通信が途切れてから十七秒後、南側学生寮の状態が再び更新された。
送信手段は変わったが、報告する内容と行き先は変わらなかった。
シャーレでは、修司とミコリが共同案件を確認していた。
学生寮からの映像が途切れた瞬間、修司は通常通信の表示から無線受信欄へ視線を移した。
先生からの連絡は来ない。
学生寮へ向かおうとしているという報告もなかった。
「先生への遠隔支援依頼は、終了条件を満たしています」
ミコリが告げる。
「はい」
「南側学生寮では、現地責任者が生徒対応を引き継ぎました。先生からの追加判断もありません」
「確認しました」
修司はそれだけ答えた。
以前であれば、先生が自分から動かないよう説明する必要があった。
今はもう、誰かに止められなくても、先生自身が自分の仕事の終わりを理解している。
共同案件では、無線による二度目の定時報告が届いた。
水位は上昇中。
生徒二十八人、風紀委員四人。体調変化なし。
三階待機を継続。
その直後、気象観測の雨量が、この日最も高い数値へ達した。
学生寮の一階は完全に浸水し、水は二階へ続く階段の下段まで上がっている。
それでも、屋上への移動準備を始める警戒線には達していない。
風紀委員会は危険な道路へ部隊を入れず、万魔殿も待機中の車両を動かさなかった。
三階の窓には、携帯灯の小さな光が並んでいる。
外では濁った水が道路を流れ続けていたが、その中へ出ようとする者は一人もいなかった。
非常電源の停止から三十七分後、ゲヘナ自治区の雨量が初めて低下へ転じた。
南側学生寮の三階では、携帯灯の明かりを頼りに待機が続いている。
十分ごとの人数確認に変化はなく、生徒二十八人、風紀委員四人の全員に体調不良はなかった。
一階は完全に浸水しているが、水位は二階へ続く階段の途中で止まっていた。屋上へ移動する警戒線には達していない。
雨量が減ったという報告を受けても、風紀委員会はすぐに生徒を動かさなかった。
雨が弱まったことと、道路を通れることは同じではない。
東側道路の水位は下がり始めていたが、流れはまだ強く、濁った水の下にある路面の状態も確認できていなかった。
東側道路の確認へ向かったのは、イオリとチナツだった。
二人は道路へ入る手前で車両を降り、水位表示と流速計の値を確認した。
道路脇には、上流から流れてきた看板や木片、ごみ箱が積み重なっている。水面から見えている物だけではなく、流れの下にも何が沈んでいるか分からなかった。
「見た感じ、さっきより水は減ってるわね」
イオリが道路の先へ目を凝らす。
学生寮までは、直線ならそれほど遠くない。待機している輸送車両も、風紀委員会が再開を記録すればすぐに動ける位置にいる。
交通担当から、確認の連絡が届いた。
『水位の低下を確認しています。車両を進入させられますか』
イオリは道路へ足を入れる前に、流速計の数値を見た。
「まだ無理。水が減っただけで、安全になったわけじゃない」
『学生寮では三十二人が待機しています。可能な限り早く――』
「分かってるわよ。だから、途中で車両を止めないために確認してるの」
イオリは連絡を切り、長い棒で路面を探りながら進んだ。
道路の中央には深くなっている場所があり、足を踏み入れれば膝近くまで水に沈む。別の場所では、倒れた案内板が排水口を塞いでいた。
チナツは案内板の位置を共同案件へ記録し、撤去に必要な人数を要請した。
「路面の陥没は確認できません。ただ、この案内板を除かなければ排水が進みません」
「先にそっちを片づける。車両は待機のままにして」
『承知しました。進入許可が出るまで動かしません』
交通担当は、それ以上の催促をしなかった。
風紀委員会の増員が到着し、道路脇を塞いでいた案内板と木片を取り除く。排水口へ流れ込む水が増え、道路の中央に残っていた水位も少しずつ下がっていった。
イオリとチナツは、車両が通る予定の経路を端から端まで確認した。
路面の陥没や新たな漂流物はなく、流速も通行基準を下回っている。学生寮前の乗降場所も、車両を停められる状態まで水が引いていた。
チナツが最後の測定結果を入力する。
「東側道路、避難車両に限り通行可能です。一般車両は引き続き進入禁止とします」
「学生寮前まで確認済み。輸送車を入れて」
共同案件の道路状態が、閉鎖から限定開放へ変わった。
ヒナや先生へ許可を求める連絡は送られていない。閉鎖と同じく、安全条件を直接確認した現地担当者が再開を決めた。
通知を受け取った万魔殿の交通担当は、待機させていた車両を動かす。
使用するのは、第一避難所からの再避難にも使った三十五人乗りの役員送迎車だった。
生徒二十八人と風紀委員四人。全員が一台で移動できる。
マコトの新しい承認を待つ必要はなかった。道路が再開した場合にどの車両を使い、どこへ運ぶかは、待機計画の中ですでに決められている。
輸送車両が東側道路へ入った。
南側学生寮では、携帯無線から避難再開の連絡が流れた。
『東側道路を避難車両に限り開放。輸送車両は学生寮まで六分。三階からの移動準備を開始してください』
現地責任者は、すぐに生徒たちへ声をかけた。
「車両がこちらへ向かっています。部屋ごとに荷物をまとめて、呼ばれるまで待ってください」
「今度は本当に外へ出ていいの?」
一人の生徒が尋ねる。
「風紀委員会が学生寮前まで道路を確認しています。ただし、一般の車はまだ通れません。決められた経路から外れないでください」
携帯灯と余った飲料水は一か所へ集め、持ち運べる分だけを車両へ積む。
現地責任者は、出発前の人数確認を行った。
一つ目の部屋、九人。
二つ目の部屋、十人。
三つ目の部屋、九人。
生徒二十八人、全員確認。
風紀委員四人にも異常はない。
外から車両の到着を知らせる警笛が聞こえた。
風紀委員が側面出入口と二階の踊り場を確認する。水はそこまで達しておらず、避難経路に異常はなかった。
生徒たちは浸水した一階を通らず、風紀委員の指示に従って側面出入口から車両へ向かった。
最初の九人が乗車し、次の十人が続く。最後の九人が建物を出ると、現地責任者は三階の各部屋と階段をもう一度確認し、残留者がいないことを報告した。
『南側学生寮、生徒二十八人、全員乗車。風紀委員四人も乗車します。建物内残留者なし』
交通担当が人数を受領し、車両の状態を移動中へ変えた。
道路の両側には、イオリたちが撤去しきれなかった小さな漂流物が残っている。それでも、確認された中央の経路には障害がなく、車両は速度を落としながら進んだ。
風紀委員会の先導車が前を走り、後方にも一台がつく。
途中で水位が再び上昇した場合は学生寮へ戻らず、近くの高所へ移動する手順も用意されていたが、その必要はなかった。
輸送車両は東側道路を抜け、中央大通りへ入る。
『南側学生寮からの輸送車両、危険区域を通過』
その報告を受け、イオリは東側道路を再び閉鎖した。
一般車両まで通れる状態ではない。避難に必要な一台を通した後は、排水と路面確認を続ける。
移動できたからといって、道路の危険まで消えたわけではなかった。
万魔殿議場では、南側学生寮の到着予定時刻が大型画面へ表示されていた。
先生のそばでは、友人を待っていた生徒が何度も入口と画面を見比べている。
「あと二分だよ」
先生が声をかけても、生徒は頷くだけだった。
やがて議場の外へ車両が到着し、受け入れ担当者が入口へ向かった。
乗車口が開き、最初の生徒が降りてくる。
到着した者の名前が、共同案件上で一人ずつ確認済みへ変わった。
九人。
十九人。
二十八人。
生徒の人数に差異はない。
続いて風紀委員四人の到着も確認され、南側学生寮にいた三十二人全員の引き継ぎが完了した。
待っていた生徒は、人の間に友人の姿を見つけると駆け出した。
濡れたタオルを首へ掛けた友人も、議場の中を見回して相手に気づく。
二人は互いの前で足を止めた。
「遅い」
「道がなかったの」
「連絡も遅い」
「電気が消えたんだから仕方ないでしょ」
議場側の生徒が、相手の肩を軽く叩いた。
学生寮から来た生徒も叩き返そうとしたが、その前に腕を回される。
「ちょっと、濡れてる」
「知ってる」
短い抗議の後、友人も相手の背中へ腕を回した。
先生は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
二人の再会に、自分が入る必要はなかった。
南側学生寮から最後の引き継ぎ記録が届くと、共同案件の検証欄が更新された。
一 説明――人数、現在地、危険箇所、残り時間、必要な判断を記録。
二 引き継ぎ――学生寮から輸送車両、輸送車両から万魔殿議場へ、人数差異なく移管。
三 事前調整――電源停止、通信切替、道路再開の条件を事前に決定。
四 伝達経路――通常通信の停止後も、無線を経由して共同案件へ情報を集約。
五 先生への依存――先生が避難方法を決めることなく、待機と移送を完了。
六 責任範囲――風紀委員会、万魔殿、先生の担当範囲と終了条件を維持。
七 最終決定者――ヒナが安全確保、マコトが施設と輸送を決定。
「南側学生寮」と記された七項目が、すべて緑色へ変わった。
道路が使えなくなっても、電気が消えても、当初の避難計画を取りやめても、誰が何をするのかは失われなかった。
雨が降り始めた直後の初動でも、安全だった第一避難所から急遽移動した時も、七項目はそれぞれの仕事を次の担当者へつないだ。
そして、外へ出る方が危険になった南側学生寮では、移動そのものを中止し、安全な場所で待つために機能した。
異なる状況で七項目が働いたことを確認し、共同案件の状態が「対応完了」へ変わった。
雨が弱まり始めた頃、先生はシャーレへ戻った。
濡れた上着を抱えたまま執務室へ入ると、修司とミコリが共同案件の最終記録を確認していた。
「南側学生寮の二十八人、全員が万魔殿議場へ到着しました」
ミコリが報告する。
「風紀委員四人を含め、人数差異および負傷者はありません。豪雨対応で開設された避難所についても、受け入れと引き継ぎが完了しています」
「そっか」
先生は安堵したように息を吐き、空いている椅子へ腰を下ろした。
「俺は、ほとんど何も決めていないんだけどな」
「はい」
修司は否定しなかった。
「そこは否定してくれないんだね」
「事実ですので」
「相変わらずだなあ」
先生は苦笑したが、その表情に不満はなかった。
自分が決めなかったからといって、何もしなかったわけではない。
不安を抱えた生徒の話を聞き、必要な相手へ情報を渡し、離れた友人同士をつないだ。依頼された仕事が終われば次の担当者へ引き継ぎ、自分の判断で範囲を広げることもしなかった。
修司は共同案件を閉じる。
「先生が決めなくても、必要な判断は行われました。先生の関与が必要な仕事については、範囲を定めた依頼も届いています」
「うん。俺が全部やらなくても、助けられるんだね」
「一人でなければ、ですが」
先生は静かに頷いた。
その時、執務室の机に置かれていた生命の書が淡い光を放った。
修司もミコリも触れていない。
閉じられていた表紙が自ら開き、ページが風もないのにめくられていく。
「白石さん。生命の書に更新を確認しました」
修司は立ち上がり、開かれたページへ近づいた。
九〇%と記されていた数値が光に滲み、新しい数字へ変わる。
一〇〇%。
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
『案件No.21』
『ゲヘナ自治区 組織間連携不全』
『修正進捗 一〇〇%』
『判定 完了』
修司は表示を確認したが、ページへ手を加えなかった。
生命の書が自ら示した結果を、ただ見届ける。
先生も席を立ち、修司の隣から完了表示を見た。
「これで、終わったんだね」
「はい。少なくとも、生命の書はそう判断しています」
窓の外では、まだ細い雨が降っている。
だが、朝から執務室を満たしていた激しい雨音は消え、軒先から落ちる水滴の音が一つずつ聞こえるようになっていた。
先生がすべてを背負ったから、生徒たちが救われたのではない。
ヒナが安全を決め、マコトが施設と輸送を用意し、アコとイロハがそれぞれの組織へ仕事を渡した。イオリとチナツが道路を確認し、現地の担当者たちが最後まで生徒を守った。
先生も、その中で自分へ渡された仕事を果たした。
誰か一人が中心に立たなくても、必要な仕事は途切れなかった。
生命の書のページには、一〇〇%の表示が静かに残っていた。