雨が上がった翌朝、ゲヘナの低地区には、まだ濡れた土と泥の匂いが残っていた。
風紀委員会の現地確認班として東側道路へ入ったイオリは、靴底へまとわりつく泥に顔をしかめながらも、歩く速度を落とさなかった。隣ではチナツが端末を手に、路面と側溝の状態を一つずつ記録している。
「陥没はなし。側溝の詰まりも、昨日より減っています」
「輸送車両は通せそうか?」
「避難車両に限れば問題ありません。ただし、一般車両の規制解除は路面が乾いてからの方が安全です」
イオリは頷き、その場で通行区分を更新した。ヒナへ許可を求める連絡は送らない。現地を確認した担当者が、共有された基準に従って決めることになっている。
少し先の建物の壁には、泥水が残した横線があった。イオリの腰よりわずかに低い位置まで、水が来ていた痕跡だった。
「チナツ、これも撮っておいてくれ」
「最高水位の記録ですね」
「次は、ここまで来てから慌てるわけにはいかない。通行止めと避難開始の基準に使える」
チナツは壁面を撮影し、位置情報と時刻を添えて保存した。
東側道路の安全確認が共有画面へ反映されると、待機していた万魔殿の施設担当が区域へ入ってきた。路面の清掃、排水設備の点検、破損箇所の確認と、作業は決められた順番で始まる。
誰も先生の到着を待ってはいなかった。
万魔殿議場では、避難所として使用された区画の片づけが進んでいた。
折り畳み椅子が畳まれ、毛布と非常食の残数が確認される。窓際には浸水を防ぐために運ばれた荷物が残り、床の一部には避難者の靴から落ちた泥が薄く伸びていた。
片づけを手伝っていた二人の生徒は、机を元の位置へ戻しながら言葉を交わしていた。
「次の部屋替え、同じ棟を希望しよう」
「急にどうしたの?」
「議場と南側学生寮に分かれたせいで、昨日はお互いの無事が分かるまで時間がかかったでしょ」
「同じ棟でも、雨の時に一緒にいるとは限らないけど」
「少なくとも、探す場所は減る」
少し強引な理由に、もう一人は呆れたように笑った。
「分かった。次は一緒に申請しよう」
二人はそれ以上昨日のことを語らず、並んで次の机へ手を掛けた。
議場の中央では、マコトが被害箇所を確認していた。傍らに立つイロハが、交換の必要な備品と修繕箇所を読み上げている。
「椅子が十二脚、照明が二基。床材は入口付近の張り替えが必要です。使用した毛布と非常食は、補充分を含めて再発注します」
「補充分を以前と同じ数に戻すだけでは足りん。今回の最大収容人数を基準にしろ」
「承知しました」
「それと、この議場を大雨時の指定避難所として登録する。昨日使えたから、では不十分だ。開放条件と管理責任者を決めておけ」
マコトの指示を、イロハはすぐに記録した。
そこへヒナとアコが入ってくる。マコトは一瞬だけ身構えたが、ヒナは議場の様子を見回した後、真っ直ぐマコトへ視線を向けた。
「議場を開けた判断は正しかったわ」
マコトはすぐには答えなかった。予想していなかった言葉に、わずかに目を見開いている。
「当然だ。生徒を雨の中へ置いてまで守る床ではない」
そう答えてから、マコトは腕を組んだ。
「風紀委員会が東側道路を閉鎖し、その後の再開まで現地へ任せた判断も、悪くはなかった」
「そう。なら、それでいいわ」
握手も、謝罪もなかった。二人の関係が急に良くなったわけでもない。
それでも、相手の判断を認める言葉は、先生を介さずに交わされた。
アコは二人を交互に見た。
「今のは、お互いを評価したという理解でよろしいのでしょうか」
「聞こえたままでいいわ」
「それ以上掘り下げると、両方とも撤回しそうなので、この辺りにしておきましょう」
イロハの提案に、アコも黙って頷いた。
マコトは咳払いを一つすると、議場入口の壁を指さした。
「ところで、ここには記念の銘板が必要だな。『万魔殿がゲヘナを救った偉大なる議場』と――」
「申請名は『大雨時指定避難所』にしておきますね」
イロハは最後まで聞かずに入力を終えた。
ヒナは何も言わずに踵を返したが、その口元はほんのわずかに緩んでいた。
同じ頃、シャーレでは、先生が共同案件管理画面を眺めていた。
新しく登録されたのは、低地区で傾いた案内板を撤去するだけの小さな案件だった。豪雨で土台が緩み、このまま放置すれば道路側へ倒れるおそれがあるらしい。
以前なら、現地を見つけた生徒が先生へ連絡し、先生が風紀委員会と万魔殿の双方へ話を通していた。
しかし、画面にはすでに担当者の名前が並んでいる。周辺の安全確認と一時的な通行規制は風紀委員会、案内板の撤去と路面の補修は万魔殿施設部。作業の開始条件と終了条件まで記載され、双方の担当者が受領済みになっていた。
先生は無意識に連絡先一覧を開き、ヒナの名前を探しかけたところで指を止めた。
数秒後、誰にも連絡しないまま画面を閉じる。
「今回は、誰にも止められませんでしたね」
向かい側の席で資料を整理していた修司が言った。
「連絡する理由がなかったからね。担当も決まっているし、何をもって終わりにするのかも書いてある」
「はい」
「それでも、何か忘れているような気がするけど」
「これまで先生が担当外の作業まで引き受けていたためです。仕事が足りないのではなく、余計な仕事が来ていないだけでしょう」
「もう少し優しい言い方はなかった?」
「事実を曖昧にすると、再発防止になりません」
先生は苦笑しながら、椅子の背へ身体を預けた。
ほどなくして、案件の表示が更新される。風紀委員会による安全確認が完了し、施設部の作業員が現地へ入った。その後も案内板の撤去、路面の点検、通行規制の解除と、記録は滞りなく進んでいく。
先生のところへ判断を求める連絡は、一度も来なかった。
最後に作業後の写真が添付され、案件の表示が緑色へ変わる。
「終わった」
「ええ」
「俺、何もしていないよ」
「それが問題になる案件ではありません」
先生は、撤去された案内板の跡を写した写真を見つめた。何も起きなかったことを示す、何の変哲もない一枚だったが、その静けさが妙に新鮮だった。
「先生へ判断を求める項目は、最初から設定されていませんでした」
修司の言葉に、先生は小さく頷いた。
「待たなくてよくなったんだね」
「少なくとも、この案件については」
「そこで全部うまくいったと言わないのが、修司らしいなあ」
「案内板を一本撤去しただけで、組織全体を評価するのは早計です」
「はいはい。慎重に見守ります」
先生が画面を閉じようとしたところで、ヒナとマコトから最終報告が届いた。
ヒナの報告には、避難した生徒全員の帰寮が確認され、残る道路復旧も各担当部署の通常業務へ移行したと記されている。末尾には、業務連絡とは少し異なる一文が添えられていた。
『先生。今後は、必要な時に必要なことだけ、正式に頼るわ。それまでは、私たちに任せて』
先生はしばらくその文章を読み、静かに息を吐いた。
続いて、マコトからの報告を開く。
『万魔殿議場は、本日付で大雨時指定避難所として正式に登録した。修繕、備蓄の補充、今後の受け入れ体制については、この私の名において進める。ゆえに先生が逐一心配する必要はない!』
そこまでは、議長としての完了報告だった。
『ただし、次にゲヘナが困難へ直面した際には、特別に協力させてやろう。光栄に思うがいい!』
先生の口元から、堪えきれなかった笑いが漏れた。
「マコトらしいなあ」
「表現はともかく、内容は適切です。どちらの報告にも、先生へ追加の判断を求める記述はありません」
「うん。でも、もう頼らないとは書いていない」
「頼る必要がある場面まで排除するのは、改善ではなく硬直化です」
「そうだよね」
先生は二人への返信欄を開いた。ヒナには報告への礼と、今後も必要な時は遠慮なく呼んでほしいという短い文章を返す。
マコトには避難所の登録に対する礼を書いた後、少し考えてから一文を付け加えた。
『次に必要になった時は、正式な依頼としてお願いします』
送信直後、修司がわずかに眉を動かした。
「条件を付けましたね」
「協力することと、何でも引き受けることは違うんでしょう?」
「理解していたのですか」
「修司は俺を何だと思っているの?」
「理解していても実行しない方だと思っていました」
「否定しきれないのがつらいなあ」
午後になると、シャーレへ届くゲヘナ関係の通知はさらに減った。
雨の影響が消えたわけではない。道路の補修も、濡れた備品の交換も、避難所として使用した施設の点検も続いている。ただ、それぞれの仕事が、それぞれの担当者のところへ戻っていた。
先生は新しい紅茶を淹れ、修司の前へ置いた。
「修司は、どうして改善案が使われた後まで、あれだけ確かめるの?」
修司はカップへ伸ばしかけた手を止めた。
「案件を完了させるためです」
「それだけ?」
先生に問われ、修司はすぐには答えなかった。窓の外では雲の切れ間から差した光が、雨に洗われたシャーレの外壁を照らしている。
「以前、似た状態の組織へ関わったことがあります」
修司は視線をカップへ落としたまま話し始めた。
「一人の社員へ、正式な担当以上の仕事が集まっていました。業務一覧を作り、担当を分け、引き継ぎ方法も提案しました。会議では承認されましたし、現場からも理解したという返事を受けました」
「でも、続かなかったんだね」
「はい。俺は提案が承認されたことを、改善が実行されたことと同じように考えていました。実際には仕事がその人へ戻り、分担表も更新されなくなっていた」
「その人は?」
修司の指が、カップの取っ手へ触れたまま止まる。
「柊美琴という社員です」
その名前を聞いた瞬間、ミコリの視線がわずかに揺れた。
「柊、美琴さん……」
復唱した後、ミコリは数秒間黙り込んだ。普段なら質問に対して即座に応答する彼女には珍しい間だった。ミコリの前に開いていた検索表示が一度だけ明滅し、何も示さないまま閉じる。
修司が顔を上げた。
「ミコリ?」
「問題ありません。関連情報の照合に、一時的な遅延が発生しました」
「以前の職場の社員です。モームリの記録にないのは当然でしょう」
「……はい」
ミコリはそう答えたが、いつものようにすぐ次の資料へ視線を移さなかった。
先生はその様子を見たものの、今は問いたださないことにした。
「美琴さんは、今どうしているの?」
「分かりません」
修司の声は変わらなかった。
「ある日、会社へ来ませんでした。休暇申請も退職手続きもなく、連絡も取れなかった。自宅にも戻っていませんでした」
「今も?」
「少なくとも、俺が確認できた範囲では」
先生はそれ以上、美琴について尋ねなかった。修司が感情を表へ出していないからこそ、その先へ踏み込むべきではないと分かった。
「だから、提案しただけでは終わらせないんだね」
「同じ失敗を繰り返さないためです」
「それだけかな」
修司が先生を見る。
「美琴さんを救えなかったことを、今も自分一人の責任にしているように聞こえた」
「原因が一つではなかったことは理解しています」
「理解していることと、そう思えることは違うよ」
修司は反論しなかった。
「先生を必要としない組織を作ることが、目的ではありません」
やがて、修司は言った。
「先生がいなければ何も決められない状態を、そのままにしないことです。組織が自分で決めるべき仕事と、先生へ頼む仕事を分ける。決めた仕組みが現場で使われ、問題が起きれば自分たちで直せるところまで確認する。それが俺の仕事です」
「俺にしかできない仕事を残した、ということ?」
「先生にしかできないと断定するのは危険です。個人の代替不能性を前提にすれば、別の依存を作ります」
「そこは相変わらず厳密だなあ」
「ですが、生徒が先生へ頼みたいと望む仕事はあります。それを否定する必要もありません」
修司はそこで一度、言葉を切った。
「重要なのは、何を頼むのか、どこまで任せるのか、いつ終わるのかを先に決めることです。先生が際限なく責任を抱え込まない形であれば、協力そのものを避ける理由はありません」
先生は紅茶の表面へ視線を落とした。
「組織が自分で動けるようになるほど、俺がここにいる意味もなくなるんじゃないかって、少しだけ思っていたんだ」
「先生が判断を代行し続けることだけを、自分の役割だと考えていたのですか」
「そういうつもりはなかったけど、いつの間にか、役に立つことと引き受けることが同じになっていたのかもしれない」
「ならば、分けて考えるべきでしょう」
「うん」
先生は顔を上げた。
「頼まれた内容を最初に確認する。必要なら現場にも行く。でも、組織の代わりに決めない。終わった仕事は、きちんと担当者へ返す」
修司は黙って続きを待っている。
「それから、自分一人では無理だと思った時は、黙って抱え込まずに伝える。休む必要がある時も同じ」
「最後の部分が最も重要です」
「そこだけ強く言う?」
「先生に関して、最も再発する可能性が高いためです」
「最後まで容赦がないなあ」
「実行されるかどうかは、今後の記録で判断します」
先生はしばらく修司を見つめ、それから肩を揺らして笑った。
「やっぱり、俺は修司に助けられたよ」
「結果については、生命の書が判断しています」
「そこは感情で受け取ってくれてもいいと思うけどな」
修司は答えず、机上に置かれた生命の書へ目を向けた。
『改善達成率 100%』
案件完了を示す表示が、静かに光っている。その光がふいに強さを増し、同時にミコリが顔を上げた。
「白石さん。生命の書による帰還条件の確定を確認しました。帰還経路の形成を開始します」
修司の表情は変わらなかったが、紅茶のカップへ伸ばしていた手だけが、わずかに止まった。
「もう帰るんだね」
先生が言った。
「案件は完了しましたので」
「そうか」
二人の間に短い沈黙が落ちる。窓の外では、止んだ雨の雫が軒先から一滴だけ落ち、午後の日差しの中で小さく光った。
帰還経路の形成が進む間に、先生はヒナとマコトへ、修司とミコリが今日この世界線を離れることを伝えた。
日が傾き始めた頃、執務室の扉がノックされる。
最初にヒナが入り、その後ろにアコが続いた。少し間を空けて、マコトとイロハも姿を見せる。
四人が持ってきたのは、風紀委員会と万魔殿の双方が確認した共同対応の終了記録だった。
先生が受け取ろうとすると、ヒナが先に言う。
「承認を求めに来たわけではないわ。シャーレで保管する分を渡しに来ただけ」
「共同案件の終了判断は、双方の担当部署で完了しています」
アコが説明し、イロハも頷いた。
「次回の見直し日も記載しました。手順に問題が出れば、その日を待たずに双方で修正します」
マコトは書類の末尾に並んだ二つの印章を指す。
「これは我々が決めた記録だ。先生の署名は必要ない」
先生は書類へ目を通し、保管棚へ収めた。
「受け取ったよ」
それだけで手続きは終わった。
ヒナは修司へ向き直る。
「あなたが作った方法を、そのまま守り続けるつもりはないわ」
修司は静かに続きを待った。
「使いにくくなれば、私たちで変える。それでいいのよね」
「はい。そのための仕組みです」
「万魔殿側の記録も残す。次に問題が起きても、同じところからやり直す必要はない」
マコトの言葉に、イロハが頷く。
「議長の記憶だけに頼らずに済むよう、共有保管しておきます」
「なぜ私の記憶だけが信用されていないような言い方になるのだ」
「重要な判断ほど、記憶だけに頼らないと決めたばかりではありませんか」
マコトは反論しかけ、結局は口を閉じた。
アコが先生へ視線を向ける。
「先生も、必要のない判断まで引き受けないでください。風紀委員会の案件が誤って送られた場合は、こちらへ戻していただいて構いません」
「うん。そうするよ」
先生が迷わず答えたため、アコは少しだけ意外そうな顔をした。
「何か?」
「いえ。もう少し抵抗されると思っていました」
「俺だって、少しは学ぶよ」
「少しでは困ります」
即答したアコの隣で、ヒナがわずかに口元を緩めた。
四人は、それ以上長居しなかった。別れのための式典も、形式的な感謝状もない。それぞれに、まだ終わらせるべき仕事が残っている。
ヒナは扉の前で一度だけ振り返った。
「次に会うことがあるとすれば、別の用件がいいわね」
「同感です」
修司が答えると、ヒナは短く頷いた。
四人が部屋を出た後も、廊下ではヒナとマコトが次の合同確認日について話している。声の調子は決して穏やかではなかったが、どちらも先生を呼びに戻ってはこなかった。
執務室へ静けさが戻る。
床に描かれていた光の輪は、すでに二人が入れるほどの大きさになっていた。
「白石さん。帰還経路の形成は最終段階です」
ミコリの報告に、修司が生命の書を閉じようとする。
その直前、ページがひとりでにめくれた。
帰還処理に必要な記録が高速で切り替わり、その途中で一枚だけ動きが止まる。
『案件No.000』
『世界線000000』
『閲覧権限 制限』
表示されたのは、それだけだった。
数秒後、ページは再びめくれ、案件No.021の帰還画面へ戻る。
修司は生命の書から目を離さなかった。
「ミコリ。今の記録は?」
「世界線000000に登録された制限案件です。現時点の権限では、案件名、対象者、介入記録のいずれも取得できません」
「帰還処理に、別の案件を参照する必要がありますか」
「通常はありません」
ミコリは一度言葉を止めた。
「先ほど発生した、柊美琴さんに関する情報照合の遅延と関連している可能性があります。ただし、現時点では確認できません」
先生は修司を見る。修司の表情は変わっていなかったが、生命の書を支える指には、わずかに力が入っていた。
「美琴さんと、この世界線が関係しているかもしれないの?」
「分かりません」
修司は即答した。
「今あるのは、二つの異常が同じ日に発生したという事実だけです。関係があると判断するには足りません」
冷静な答えだった。それでも、生命の書を閉じるまでには、普段より少しだけ時間がかかった。
「帰還後に確認します」
「承知しました」
ミコリが応じた直後、床の光が完成した円を描く。
「帰還経路の形成を完了しました」
先生は机の前から立ち上がり、修司のもとへ歩み寄った。
「修司」
「はい」
先生は右手を差し出した。
「ありがとう」
修司は差し出された手を見た後、その手を握り返した。
「先生とゲヘナの皆さんが、自分たちで決めた結果です」
「それでも、修司が来なかったら始められなかった」
「始めるきっかけを作ることも、業務に含まれます」
「本当に、最後まで仕事で通すんだね」
先生が笑うと、修司は否定も肯定もしなかった。
握手を終え、二人は手を離す。
「今回の運用が続く限り、同じ理由で私たちが再介入することはありません」
「じゃあ、もう会わない方がいいんだ」
「案件上は、そうなります」
先生は少し寂しそうにしながらも、笑って頷いた。
「それなら、もう会わないで済むように頑張るよ」
「頑張りすぎないための改善です」
「そうだった」
先生は自分で言ってから笑った。
ミコリが光の輪の前に立ち、修司へ視線を向ける。
「白石さん。移動を開始できます」
「分かりました」
修司は先生へ一礼し、そのまま光の中へ入ろうとする。
「白石さん」
ミコリが呼び止めた。
「何ですか」
「別れの挨拶としては不十分です」
「業務上必要な事項は、すべて伝えました」
「業務上ではなく、一般的な対人交流としての指摘です」
修司は沈黙した。先生は何も言わずに待っている。
「……お元気で、先生」
ようやく修司が告げると、先生は穏やかに笑った。
「修司もね。次のところでは、自分が休む側になることも忘れないで」
「留意します」
「そこは約束してほしかったなあ」
「実行可能性を確認できない約束はできません」
「やっぱり最後まで修司だね」
光が二人を包み始める。
ミコリは先生へ一礼し、修司も最後に小さく頭を下げた。次の瞬間、二人の姿は光の中へ溶けるように消えた。
床に残っていた輪も縮まり、やがて跡形もなく消える。
一人になった執務室で、先生はしばらく二人が立っていた場所を見つめていた。
やがて自分の席へ戻ると、端末に新しい通知が届く。
共同案件の判断依頼ではなかった。
豪雨の後から雨音を聞くと眠れなくなった生徒が、先生との面談を希望しているという申請だった。
依頼画面には、話を聞いてほしいという目的、三十分の希望時間、面談後に継続支援が必要となった場合の引き継ぎ先まで記載されている。
先生は一番下まで読み、翌日の予定を確認した。
空いている時間を指定し、受諾のボタンを押す。
その間にも、低地区の道路補修は進み、避難所の備蓄品は新しい基準に沿って補充され、風紀委員会と万魔殿の記録はそれぞれ更新されていた。
誰も、先生から指示が届くまで手を止めてはいない。
先生は今、自分を必要としている一人の生徒へ向き合えばいい。
ゲヘナはもう、先生が答えるのを待っていなかった。