第四十四話 呼んだのはユウカ
ユウカは、同じ資金繰り表を三度目に開いた。
数式を一つずつ追い、入金予定と支払期限を照合する。保守費用の見込みを変え、設備の稼働率を下げ、未確定の発注をすべて除外しても、結果は変わらなかった。
現状を維持すれば、十二日後に運転資金が不足する。多目的自律支援ドローンの大口注文を受ければ、九日後。設備更新と複数の事業を停止した場合でも、延ばせるのは二十一日後までだった。
大口注文は、売上だけを見れば魅力的だった。だが、代金の大半が入るのは納品後であり、それまでに部品代と外注費、人員の追加費用が発生する。現在の契約条件では、売れるほど先に出ていく資金が増えてしまう。
その事実には、注文の条件が届いた日に気づいている。正式に受注する前なら会計担当の権限で止められるため、ユウカは即日保留にした。
問題を見落としていたわけではない。必要な対応を怠っていたわけでもない。それなのに何度計算しても、十二日という数字は画面から消えてくれなかった。
「また見直していたの?」
声をかけられ、ユウカは端末から顔を上げた。
会議室へ入ってきたノアが、数枚の契約書を抱えている。その一番上には、保留中の大口注文に関する追加仕様書が載っていた。
「見直しているんじゃないわ。前提が変わっていないか確認していただけ」
「結果は?」
「変わらない。変わってくれないのよ」
思ったより強い声が出た。苛立っている相手はノアではないと分かっていても、言葉を引っ込めることはできなかった。
ノアは気にした様子を見せず、追加仕様書を机へ置く。
「注文先から回答期限の確認が来ているわ。追加機能についても、こちらの希望をほとんど受け入れるそうよ」
「保留を継続して。仕様を増やせば、必要な部品と検査工程も増える。今の条件で受けたら、資金不足が三日早まるわ」
「承知しました。三つの対応案については?」
「全員、四日前に受領済み。質問にもその日のうちに回答したし、昨日は決定期限も通知した。でも、まだ何も選ばれていない」
ユウカは机の上に並べた三種類の資料を見た。
現状を維持し、その間に追加資金を確保する案。大口注文を受け、短期間で別の運転資金を調達する案。設備更新と複数事業を停止し、支払い可能な期間を延ばす案。
どれを選んでも、何かを失う。だからこそ、影響を受ける部門と予想される損失まで記載し、判断できる形にした。
だが、判断できる資料を作ることと、誰かが判断することは同じではなかった。
「先生は、まだ戻っていないのね」
ノアの問いに、ユウカは予定表を開いた。
朝倉希美。シャーレに所属し、ミレニアムの生徒たちからは先生と呼ばれている女性教師である。
本来なら、二時間前に最初のスポンサーとの面談を終え、セミナーへ戻ってくる予定だった。ところが、一件目の交渉が長引き、そのまま部品供給会社との面談へ向かっている。午後には、別の支援団体との会合まで入っていた。
「戻る予定ではあるわ。でも、今からこちらへ移動しても、次の面談まで三十分もない」
「今日の交渉が成立すれば、十二日よりは延ばせるかもしれないわね」
「延びるだけよ」
ユウカは、表示された予定表から目を逸らした。
希美が資金を持ち帰れば、支払い期限は延びる。それでも、どの事業を続け、どこまで赤字を許容するのかという問題は残る。新しく確保した資金も、何も決めないまま使えば、やがて同じ場所へ戻ってくる。
それでも希美は交渉をやめなかった。
生徒たちが作った技術には、まだ可能性がある。資金さえ確保できれば、今すぐ何かを諦めさせずに済む。そう話す希美の目の下には、昨日より濃い影があった。
ユウカは何度も、交渉を増やす前に事業を整理すべきだと伝えた。希美も、それが正しいことは理解している。
ただ、誰の可能性を残し、誰に待ってもらい、何を終わらせるのか。それを自分一人で決めることだけはできなかった。
ユウカにもできない。
会計担当として、支払える金額と期限は示せる。個別の支出を止める権限もある。しかし、複数の研究と事業を比較し、学園全体として何を選ぶのかは、会計だけで決めるべきではなかった。
正しい数字を出すほど、決められない理由だけが明確になっていく。
「ユウカちゃん」
ノアに呼ばれ、ユウカは顔を上げた。
「先生の次の面談を止める?」
ユウカはすぐには答えられなかった。
止めることはできる。セミナーから緊急の連絡を入れれば、希美は戻ってくるだろう。
だが、戻ってきた希美へ、何を頼むのか。
三つの案から選んでもらうのか。それでは、今度は事業を終わらせる責任まで先生へ渡すことになる。新しい資金を探してほしいと頼めば、今日と同じ仕事を続けさせるだけだ。
何を求めるのか決められないまま呼び戻すことは、助けることではない。
「今の時点では、戻す理由を説明できないわ」
「そう」
ノアは反対しなかった。
「注文先には、保留継続と伝えておくわね。契約上の回答期限も、もう一度確認しておきます」
「お願い」
ノアが会議室を出た後、ユウカは一人で予定表を見つめた。
予定時刻を過ぎても戻らない希美と、四日前から決裁されない三つの案。その二つが、同じ画面に並んでいる。
このまま十二日が過ぎるまで、先生が資金を集め続けるのか。
資金が尽きる方が先か、先生が倒れる方が先か。そんな比較をしなければならない時点で、通常の手段ではもう解決できない。
ユウカはセミナーの管理端末を開き、利用可能な外部支援窓口を検索した。
学園間融資、契約相談、技術事業者向けの資金支援。どれも金銭面の相談には使えるが、誰が事業を選ぶのかという問題までは扱わない。
検索結果の末尾に、見慣れない項目が一つ表示された。
『緊急組織支援』
詳細を開くと、正式名称の下に、小さく通称が記されている。
『S.C.H.A.L.E.経営支援対策室』
『通称 モームリ』
冗談のような名前だった。
対応実績も、担当者も、申請後の流れも表示されていない。組織の問題と先生の業務負荷を入力し、支援が必要と判断された場合に限って申請を送信できるとだけ書かれていた。
学園の資金状況を、正体の分からない窓口へ渡すことになる。申請した結果、会計管理の失敗を追及される可能性もある。
ユウカは入力画面を開いたまま、しばらく指を動かせなかった。
自分の計算は間違っていない。対応案も提出した。注文も止めた。それでも、外部へ助けを求めることが、自分の仕事を投げ出す行為のように思えてしまう。
けれど、先生が倒れるまで待った後で、あの時はまだ緊急ではないと思ったなどと言いたくなかった。
ユウカは申請欄へ、感情ではなく確認できる事実だけを入力した。
『技術事業の継続判断が停止しています』
『資金不足まで十二日』
『朝倉希美先生へ、資金調達と外部交渉が集中』
『既存の意思決定手段では解決不能』
送信前の確認画面へ進むと、端末が入力内容の審査を始めた。
数秒後、結果が表示される。
『先生業務負荷 危険域』
『組織意思決定機能 停止』
『通常対応による改善 困難』
『モームリへの案件移管を推奨』
画面の下には、承認と取消の二つの項目が並んでいた。
承認を選べば、知らない誰かがミレニアムへ来る。何をされるのかも、どこまで介入されるのかも分からない。
それでも、何も決まらないまま希美だけが動き続けるよりはよかった。
「お願いします」
ユウカは承認を選び、申請を送信した。
これまで彼女は、誰かが決められるように数字を揃え、案を作り、期限を知らせてきた。今回はそれだけで終わらせず、自分で誰かを呼んだ。
ゲヘナからモームリへ帰還した修司は、転送の光が消えるのを待たず、生命の書の前へ歩いた。
背後ではミコリが、案件中に取得した記録の保存と世界線への接続解除を進めている。生命の書には、先ほどまで介入していた世界線の結果が表示されていた。
『案件No.021』
『世界線000021』
『介入結果 終了条件達成』
修司は結果を一度だけ確認し、次の項目を開いた。
「案件No.000の情報開示を要求します」
『閲覧権限 制限』
考慮も保留もなく、返答は即座に表示された。修司は照会項目を変更する。
「世界線000000の記録を照会します。柊美琴との関連情報に限定してください」
『閲覧権限 制限』
「案件の発生時期は確認できますか」
『閲覧権限 制限』
「終了条件は」
画面が一度だけ明滅した。
『終了条件 未設定』
修司の指が止まった。
閲覧を拒絶するだけなら、すべて同じ文言で済む。にもかかわらず、生命の書は、終了条件が設定されていないことだけを開示した。
終わらせる方法が決まっていないのか。そもそも、終了させるべき案件として成立していないのか。あるいは、必要な条件を生命の書自身も観測できていないのか。
推測はいくつでも作れるからこそ、今の段階でどれか一つを答えとして採用することはできなかった。
「修司。案件終了直後の連続照会によって、新たな情報が開示された事例はありません」
ミコリの声は普段と同じだった。ただ、修司には、返答までにほんのわずかな間があったように感じられた。
「今回は、終了条件が未設定であることだけ確認できました」
「有効な情報と判断しますか」
「現時点では判断できません。ただ、すべての情報が一律に制限されているわけではないと分かりました。照会する項目を変えれば、ほかにも確認できる可能性があります」
「照会を継続しますか」
修司は画面から視線を外さなかった。
案件No.000という番号が現れた日と、柊美琴に関する情報が制限された日は同じだった。それが偶然である可能性は残っているが、偶然だと切り捨てるには、修司にとって柊美琴という名前は重すぎた。
かつて、自分が救えなかった人間。助けを求める言葉を待っているうちに、取り返しがつかなくなった相手だった。
あの頃の修司は、本人が何も言わない以上、踏み込むべきではないと思っていた。相手の意思を尊重しているつもりで、拒絶されることを恐れ、判断の責任を本人へ押しつけただけだった。
だから修司は、二度と「何も言われなかった」を見過ごす理由にはしない。生命の書が答えなくても、問いかけることだけはやめないつもりだった。
「照会は継続します。ただし、今の情報だけで結論を出すつもりはありません」
そう答えた直後、室内に短い通知音が響いた。
生命の書の表示が強制的に切り替わり、新たな文面が展開されていく。
『緊急組織支援申請を受信』
『申請元 ミレニアムサイエンススクール』
『申請者 早瀬ユウカ』
修司は柊美琴の名前が消えた画面を見つめ、一度だけ息を吐いた。
問いを手放したわけではない。ただ、順番を変える。今まさに助けを求めた人間を、過去のために待たせる理由はなかった。
「申請内容を表示してください」
画面に、ユウカが入力した情報が並んだ。
『技術事業の継続判断停止』
『資金不足まで十二日』
『朝倉希美先生へ資金調達・外部交渉が集中』
『既存意思決定手段では解決不能』
添付資料には、現状を維持した場合、大口注文を受けた場合、設備更新と複数事業を停止した場合の三つが整理されていた。それぞれの影響範囲と必要な手続き、想定される反発まで記載されている。
資料の作成日は四日前だった。申請者は問題に気づいたばかりではなく、必要な計算と選択肢の作成を終えたうえで、決定が下りない状態を四日間経験している。
「数値の整合性を確認します」
ミコリの瞳に淡い光が走った。
「計算上の矛盾は検出されません。未計上となる可能性がある支出についても、注記欄に最大値が記載されています。資金不足までの期間は、申請内容と一致します」
「対応案は実行可能ですか」
「いずれも実行可能です。ただし、選択によって複数の研究、事業、生徒の活動へ異なる影響が生じます」
修司は三つの案を順番に開いた。
どれを選んでも、何かを失う。それ自体は異常ではない。予算も人員も時間も有限である以上、すべてを同時に守ることはできず、優先順位を定め、選ばなかったものに対する責任まで引き受ける者が必要になる。
ユウカは、そのことを理解しているからこそ三つの案を作った。それでも、どの案にも決裁が下りていなかった。
「申請者は、資金援助を要請していません」
ミコリが言った。
「はい」
「契約交渉の代行も、事業停止の強制執行も求めていません。申請内容は、組織支援のみです」
修司は申請文の最後まで目を通した。
そこには、自分たちが赤字を出したから助けてほしいとも、先生が判断を誤ったとも書かれていない。誰かを責める言葉を避け、いつ何が起き、誰に業務が集中し、どの手段を試しても決定へ至らなかったのかだけが記録されている。
感情を抑えた文面だったが、感情がないわけではなかった。
余計な一言で申請を退けられたくない。自分の判断で誰かを悪者にしたくない。それでも、何もしないまま先生が壊れていくのだけは見たくない。
十二日という数字より、その慎重さのほうが修司には切迫して見えた。
「対応案の提出から四日が経過しています」
修司は添付された記録の日付を確認した。
「申請者は、判断ができずに何もしなかったわけではありません。自分の権限で可能な対応を済ませたうえで、この窓口を利用しています」
ユウカは計算し、案を作り、注文を保留することで被害の拡大も防いでいる。それでも組織が動かないと分かった時点で、通常の連絡経路を離れ、正体の分からない緊急支援窓口を使った。
助けを求めたというより、自分の権限で切れる最後の非常線を切ったのだろう。
「支援方針を、資金確保として登録しますか」
「いいえ。資金不足は、現状が続いた場合に生じる結果です。少なくとも申請者は、必要な金額と期限、選択可能な対応を把握しています」
「では、赤字事業の整理でしょうか」
「それも現時点では判断できません。どの事業を継続すべきかは、それぞれの目的と価値を確認してから決める必要があります」
四日前に提出された三つの案を並べても、内容に致命的な不足は見当たらない。
「今確認できる問題は、計算の失敗ではありません。計算結果を、組織の意思決定へつなげる機能が止まっています」
数字も案も存在し、関係者は決定が必要であることを理解している。それでも決まらないのなら、足りないのは能力ではなく、決めるための構造だった。
そして、その空白を埋めるように、朝倉希美という一人の教師へ外部交渉が集中している。資金不足まで十二日あっても、先生が十二日間持つとは、どこにも書かれていなかった。
「修司」
生命の書に新たな表示が現れた。
『世界線000022』
『通常対応による改善 困難』
『介入案件として登録』
『案件No.022』
文字列が確定すると同時に、室内の床へ転送用の光が走る。
「派遣対象、白石修司及びミコリ。確定しました」
「確認しました」
修司は必要な資料を端末へ移し、三つの対応案だけを別に保存した。どれを採用するか決めるためではなく、なぜ誰も採用できなかったのかを確かめるためだった。
「今回の目的を確認します」
ミコリが修司の隣へ立つ。
「朝倉希美先生の業務負荷軽減、及びミレニアムの資金不足解消ですか」
「どちらも必要です。ただ、資金を確保するだけでは、次に赤字が発生した時、朝倉先生が再び同じ対応を引き受けることになります」
修司は転送座標の先に表示された、ミレニアムサイエンススクールの名を見た。
「誰か一人が答えを出さなければ動けない状態では、その人が不在になった時点で組織が止まります。朝倉先生がその役割を代行し続ければ、今度は朝倉先生へ判断と交渉が集中します」
「申請者への最初の確認事項は」
「提出された三案の内容ではありません。資料だけで確認できることを、もう一度説明させる必要はないでしょう」
内容を理解している相手へ、初対面の人間が計算方法を教える必要はない。修司が確認すべきなのは、もっと手前にある。
「選択肢が揃っているにもかかわらず、なぜ誰も選ばなかったのか。まずは、その理由を確認します」
転送の光が強くなり、ミコリの輪郭とモームリの室内が白く染まっていく。
最後まで残っていた生命の書の画面には、二つの案件番号が表示されていた。
終了条件のない、案件No.000。
そして今、助けを求める声によって始まった、案件No.022。
修司は前者を忘れないまま、後者へ向かった。
転送の光が消えると、修司の視界に、白を基調とした広い通路が現れた。
壁面には複数の情報端末が埋め込まれ、生徒が近づくたびに研究予定や設備の稼働状況が切り替わっていく。天井付近では小型の搬送機が音もなく行き交い、床に引かれた案内光が、それぞれの目的地まで動き続けていた。
ゲヘナとは違う種類の騒がしさだった。怒鳴り声も銃声も聞こえない代わりに、絶え間なく流れる通知音と機械の駆動音が、学園全体を動かしている。
その中央で、一人の生徒が待っていた。
短い髪に眼鏡を掛けた少女は、片腕に複数の資料を抱え、もう片方の手に端末を持っている。姿勢は崩していなかったが、修司たちの姿を確認した瞬間、肩からわずかに力が抜けた。
安堵したのだと分かったのは、その一瞬だけだった。少女はすぐに表情を引き締め、二人の前へ歩み寄る。
「早瀬ユウカです。ミレニアムの生徒会、セミナーで会計を担当しています。緊急組織支援申請を送ったのは私です」
「初めまして。白石修司です。申請内容を確認し、モームリから派遣されました」
「同じく、ミコリと申します。今回の案件では、白石さんの支援及び記録を担当いたします」
二人の名乗りを聞いたユウカは、小さく頭を下げた。
正体の分からない窓口へ送った申請である。自動返信だけが届き、誰も来ない可能性も考えていた。資金不足を起こした責任者として事情を聞かれ、判断の遅れを追及されることも覚悟していたが、それでも呼ばないよりはよいと思った。
目の前に現れた二人が、自分の望んだ支援者なのかはまだ分からない。それでも、申請が届き、実際に誰かが来た。その事実だけで胸の奥に生まれた安堵を、ユウカは顔へ出さないようにした。
「本来なら、朝倉先生も一緒にお迎えする予定でした」
そう言って手元の端末を確認する。到着予定時刻を、すでに三十七分過ぎていた。
希美からは、スポンサーとの面談が長引いているという連絡が一度届いたきりである。その後に予定されていた部品供給会社との交渉も、まだ中止された形跡がない。今ごろ移動しているのか、それとも別の相談を持ちかけられているのか、ユウカには判断できなかった。
「先生は、複数のスポンサーとの資金調整に出ています。こちらへ戻る予定でしたが、交渉が長引いているようです」
「現在、連絡は取れていますか」
「面談中です。緊急連絡には応答できますが、今すぐ戻ってくるよう伝えるほどの事態ではありません」
そこまで答えたところで、ユウカは自分の言葉に引っかかった。
資金が尽きるまで十二日。学園全体の事業判断は四日間止まったままで、その穴を埋めるため、先生が朝から複数の交渉先を回っている。
それを緊急事態ではないと言うなら、何が起きれば緊急になるのだろう。倒れてからでは遅いと思ったからこそ、モームリを呼んだはずだった。
「……いえ。訂正します」
ユウカは端末を握り直した。
「少なくとも私は、通常の状態ではないと判断しました。だから申請しました」
修司は訂正前の言葉を責めなかった。
「分かりました。朝倉先生との面談は、戻られてからにします。先に、申請時点の状況を確認してもよろしいですか」
「はい。会議室を用意しています」
ユウカの案内で通路を進む間にも、周囲ではいくつもの技術試験が行われていた。
窓の向こうでは、脚部の形状が異なる作業用ロボットが、瓦礫に見立てた障害物を越えている。別の区画では、複数の小型機が互いの位置を調整しながら荷物を運び、生徒たちが動作結果を端末へ記録していた。
どの機体も正常に動いている。少なくとも、技術の未熟さによって経営が悪化した学園には見えなかった。
途中、修司たちの頭上を一機のドローンが通過した。機体の下部には救急用品を収納するための容器が取り付けられ、左右には照明と小型の通信装置が搭載されている。ユウカが申請書へ記載していた、多目的自律支援ドローンと同じ系統の機体だった。
その直後、ユウカの端末へ通知が入る。
『追加仕様に関する見積もり確認』
続いて、別の通知が重なった。
『納品済み機体の無償点検依頼』
ユウカは内容を確認したが、その場では返信しなかった。
「今の通知は、申請にあった事業のものですか」
「はい。ただし、大口注文については受注を保留しています。現在の条件で受ければ、部品の先行購入と人員の追加が必要になり、現状維持より早く資金が不足します」
「保留の判断は、いつ行いましたか」
「注文の条件が確定した当日です。正式に受注するまでは、私の権限で止められます」
「承知しました」
修司はそれ以上、注文の危険性を説明しなかった。
ユウカは横目で彼を見る。なぜ受注してはいけないのか、売上が増えるのに資金不足が早まる理由は何か。外部から来た人間なら、そこから確認すると思っていた。
必要であれば、製造原価や入金予定日、追加仕様に伴う工数まで説明できるよう準備してある。だが、修司が確認したのは、ユウカが注文を止めた時期と、権限の範囲だけだった。
彼は、自分が気づいていない初歩的な問題を探しに来たのではない。自分がどこまで対応し、それでも何が残ったのかを見ようとしている。そのことに気づき、ユウカの胸にあった警戒が少しだけ薄れた。
会議室へ入ると、長机の上に資料が並べられていた。
資金繰り表、事業別の損益、契約一覧、支払期限、入金予定、設備の更新計画。さらに、各案を実行した場合に影響を受ける研究室と事業の一覧まで用意されている。
ユウカは自分の席へ着き、修司とミコリへ資料を差し出した。
「申請へ添付できなかった明細です。必要であれば、計算過程から説明します」
修司は最初に資金繰り表を開いた。
数字を一つずつ追うのではなく、計算の前提と更新日時、作成者、確認者を見ていく。ミコリも同じ資料を読み取り、申請時点から変更された箇所を抽出した。
「朝倉先生が今日行っている交渉の結果は、まだ反映されていませんか」
「はい。成立していない資金調達は計上していません。成立した場合の延長日数は、別表に分けています」
「大口注文の入金は」
「契約時に一部、残額は納品後です。先に必要となる部品代と外注費を賄えないため、受注した場合のほうが資金不足は早まります」
「設備更新を停止した場合、二十一日まで延長できるという計算に、停止に伴う違約金は含まれていますか」
「含めています。契約解除ではなく延期が可能なものは延期し、解除が必要なものだけ違約金を計上しました」
ユウカは質問へ即答していく。
修司が確認しているのは、足し算や引き算ではなかった。見落としが起こりやすい前提と、数字の外側にある条件だけを確かめている。
数回の確認を終えると、修司は資金繰り表を閉じた。
「計算過程の説明は不要です。申請内容との整合性も取れています」
ユウカは返事をするまでに、わずかな時間を要した。
褒められたわけではない。それでも、四日間誰にも選ばれなかった案を、初めて中身のあるものとして扱われた気がした。
自分の計算が正しいことなど、最初から分かっている。ノアにも確認してもらっていた。それでも判断が止まったままでいると、本当はどこかに重大な見落としがあるのではないか、自分が正しいと思い込んでいるだけではないかと、少しずつ不安になっていく。
いっそ計算違いであれば、直すだけで済んだ。だが、数字は正しかったからこそ、何かを選ばなければならない。
「三つの対応案についても確認しました」
修司が続ける。
「いずれも、資金不足までの期間を延ばすことは可能です。ただし、何を優先するかによって選択が変わります」
「はい」
「現状維持は、判断を十二日後まで延期する案ではありません。十二日以内に別の資金を確保できるという前提の案です」
「そのとおりです」
「大口注文の受注は、売上を確保する代わりに、九日以内の追加調達を必要とします。設備更新と複数事業の停止は、二十一日まで延長できますが、研究及び将来の事業化へ影響が出ます」
「はい。ですから、どれを選ぶかは会計だけでは決められません」
会計担当として、いくら足りないのかは示せる。何を止めれば、何日延ばせるのかも示せる。だが、どの技術に将来性があり、どの事業がミレニアムにとって必要なのか、その判断まで会計の数字だけで決めれば、赤字であるという理由だけで研究を切ることになる。
一方で、技術的な価値だけを理由にすべてを続ければ、支払いに使える資金が尽きる。だからこそ、誰か一人の都合で決めないよう、必要な情報を揃えた三案を提出したのだ。
「対応案の提出先を確認してもよろしいですか」
「セミナーの関係者、各事業の責任者、予算へ影響する研究部門です。全員、受領済みです」
「追加情報を求められていますか」
「いいえ。質問された内容には、提出した当日に回答しました」
「決定期限は通知しましたか」
「三日前と昨日、二度通知しています。今日中に方針が決まらなければ、一部の支払いについて停止準備へ入ることも伝えました」
「現在、決定待ちとなっている理由は、記録されていますか」
ユウカは答えられなかった。
誰かが明確に反対しているわけでも、提出した案を無視しているわけでもない。全員が数字を理解し、判断が必要だと認めている。それでも、自分が最終的に決めるとは言わなかった。
技術部門は技術の継続価値を、事業責任者は利用者への影響を、会計は資金の限界を説明する。それぞれが自分の持つ情報を出し、誰かが全体を見て選ぶのを待っている。
その間にも、希美は少しでも時間を稼ぐため、スポンサーを回っていた。資金を確保できれば、今すぐ何かを止めずに済む。今日を越えれば、また次の日へ延ばせるが、その繰り返しが希美の予定を埋め、食事の時間を削り、帰宅を遅らせている。
ユウカは何度も止めようとした。
まだ決まっていない支援を、予算へ入れることはできない。先生がどれだけ交渉しても、根本的な解決にはならない。そう伝えるたびに、希美は穏やかに笑った。
生徒たちが作ったものには、まだ可能性があるから。もう少しだけ時間があれば、続けられる方法を探せるから。
その言葉を聞くと、ユウカは強く反対できなくなった。止めれば、自分が生徒の可能性を切り捨てる側になる気がする。しかし止めなければ、先生は今日も次の交渉先へ向かう。
どちらも正しくないと分かっているのに、正しい選択肢を示せない。だから、正体の分からない窓口にまで助けを求めた。
修司は、ユウカが答えを探している間、質問を重ねなかった。急かして結論を言わせることも、沈黙を代わりの言葉で埋めることもしない。
会議室の奥には、使われていない席がある。
ほかの椅子より大きくも、豪華でもない。ただ、その席の前に置かれた端末だけが閉じられ、誰の資料も置かれていなかった。
ユウカは、なるべく見ないようにしていたその席へ目を向けた。
そこに座る人がいなくなってからも、決裁記録だけは残っている。どの研究へ予算を付けたのか、どの事業を止めたのか、どの技術を赤字でも学園に必要だと判断したのか。結論は確認できても、何を基準に選び、どこまでの損失を許容し、誰の意見をどう比較したのかまでは残っていない。
以前は、その席に座る一人が、すべてを見て決めていた。
「提出された三案に、判断できないほどの情報不足はありません」
修司は資料を机へ戻した。
「申請者も関係者も、決定が必要であることを理解しています。それでも四日間、誰も選んでいない」
ユウカは膝の上で手を握った。
この答えを口にすれば、自分たちが何も変わっていないと認めることになる。
あれほど大きな出来事を経験し、会長がいない状況を受け入れ、それぞれができる仕事を続けてきた。それでも、全体を見て何かを選ぶ場面では、今も一人の判断を待っている。
修司は空席ではなく、ユウカを見た。
「では、なぜ誰も選んでいないのですか」
ユウカは空いたままの会長席を見つめ、答えた。
「リオ会長がいないからです」
その言葉を口にした瞬間、ユウカには、これまで見ないようにしてきた空白が初めて形を持ったように感じられた。
リオがいないこと自体は、誰もが知っている。だが、その不在によって何の仕事が失われたのかを、ユウカたちは確かめてこなかった。残された決裁記録を参照しながら、それぞれが自分の仕事を続ければ、いつか以前と同じように動けると思っていた。
修司はすぐに対応案を示さなかった。三つの資金計画ではなく、閉じられた端末が置かれた会長席へ視線を向ける。
「分かりました。では、最初に確認させてください」
その声に責める響きはなく、空席を誰かで埋めるよう求める様子もなかった。
「リオ会長は、この席で何を決めていたのですか」