先生はモームリ   作:風神ぷー

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第四十五話 会長が決めていた

 

 

「リオ会長は、この席で何を決めていたのですか」

 

修司に問われ、ユウカは空席へ目を向けた。

 

質問の意味が分からなかったわけではない。ただ、どこから答えればよいのか分からなかった。

 

「予算の配分、設備投資、研究計画の承認……あとは、技術を事業化するかどうかです。事業を継続するか、終了するかも、リオ会長が決めていました」

 

「外部との契約については」

 

「ノアや法務担当が条件を確認していました。でも、契約を結ぶかどうかの最終判断はリオ会長です」

 

「技術的な安全性は」

 

「開発した部門から報告を受けたうえで、リオ会長が判断していました」

 

「赤字でも継続する価値があるかどうかは」

 

そこまで尋ねられ、ユウカは返事を止めた。

 

公共性、技術的な将来性、学園への貢献、研究として残す価値。会計の数字だけでは測れないものを含め、最後に結論を出していたのもリオだった。

 

「……それも、リオ会長です」

 

答えながら、ユウカは自分が挙げた内容を頭の中で並べた。

 

予算、技術、安全、契約、公共性、事業化、継続、終了。どれも異なる担当者と情報を必要とする。それなのに、最後は一人の名前へ集まっていた。

 

修司は、その答えを聞いても三つの対応案へ手を伸ばさなかった。

 

「今挙げていただいたのは、リオ会長が決めていた内容です。決める前に何をしていたのかも確認できますか」

 

「決める前、ですか」

 

「誰から、どのような情報を集め、意見が対立した場合に何を優先していたのか。結論を出すまでの仕事です」

 

ユウカは資金繰り表の横に置かれた三案を見た。

 

今回も、必要な情報は集めてある。技術部門からは、設備更新を延期した場合の影響を受け取った。各事業の責任者からは、停止によって生じる損失と利用者への影響が提出されている。ユウカは、それらを資金面から比較できる形にしていた。

 

だが、技術的な価値と資金の限界が衝突した時、どちらを優先するのかは決められていない。

 

「技術に関する情報は、各部門が提出していました。予算と資金繰りは私が、契約条件はノアが確認しています。必要なら、利用者や外部の専門家からも意見を集めていました」

 

「集まった情報を比較していたのは誰ですか」

 

「リオ会長です」

 

「判断に必要な情報が足りない場合は」

 

「リオ会長が担当者を呼んでいました」

 

「意見が対立した場合は」

 

再び、答えは同じだった。

 

リオ会長が双方の説明を聞き、必要な資料を追加させたうえで決めていた。

 

当時は、それを不自然だと思ったことがない。リオは必要な情報を短時間で把握し、各部門の主張に流されず、学園全体にとって最も適切だと考えた結論を出していた。

 

判断が早く、決定後の指示も明確だったため、仕事が一人へ集まりすぎていると問題視する者はいなかった。少なくとも、ユウカはその状態を止めようとは考えなかった。

 

むしろ、リオが決めるまでに必要な情報を不足なく揃えることこそ、自分の役目だと思っていた。

 

「過去の決裁記録を確認させてください」

 

修司が言った。

 

ユウカは思わず、資金繰り表の残日数を見た。

 

「今から過去の記録を調べるんですか」

 

「はい」

 

「資金が不足するまで、十二日しかありません。今日中に方針が決まらなければ、一部の支払いについて停止準備へ入る必要もあります」

 

声を荒らげるつもりはなかった。

 

それでも、四日間待ち続けた後で、さらに調査が必要だと言われれば不安になる。修司まで結論を先送りしようとしているのではないかという疑念が、わずかに浮かんだ。

 

修司はユウカの焦りを否定せず、机上の三案へ視線を落とした。

 

「十二日しかないからこそ確認します。今回の三案から一つを選ぶだけであれば、今日中に行うこともできます」

 

「それなら――」

 

「ただし、次に別の事業判断が必要になった時、また同じ理由で止まります」

 

ユウカは続けかけた言葉を呑み込んだ。

 

「資金不足への対応を遅らせるつもりはありません。しかし、私が代わりに一案を選び、それを実行させるだけでは、ミレニアムの意思決定機能は戻りません。私がいる間だけ動く状態へ変わるだけです」

 

修司が選んだ案なら、少なくとも誰かが責任を引き受けた形にはなる。十二日という期限も延ばせるかもしれない。

 

だが、修司がこの世界線を離れた後は、また誰も選べなくなる。それでは、リオの空席を一時的に外部の人間へ貸しただけだった。

 

「記録の確認に、どの程度必要ですか」

 

ユウカが尋ねた。

 

「最初に、異なる結論が出た事業を数件確認します。継続、終了、研究段階への差し戻し、それぞれの記録が必要です」

 

「それなら、ノアに協力してもらいます。契約と決裁記録の管理は、ノアが担当していますから」

 

ユウカは端末から連絡を送り、事情と必要な資料を伝えた。

 

数分後、会議室の扉が開く。

 

「お待たせしました」

 

柔らかな声とともに入ってきたのは、淡い色の長い髪を揺らした少女だった。先ほどユウカと契約書を確認していた、生塩ノアである。

 

ノアは端末を持って修司たちの向かいへ座ると、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「改めまして、生塩ノアです。セミナーでは、記録と契約管理を担当しています。必要な資料があると聞きました」

 

「白石修司です。リオ会長が在任していた時期の事業判断について、継続、終了、研究段階への差し戻しが行われた記録を確認したいと考えています」

 

「期間の指定はありますか」

 

「まずは直近一年分から、財務状況が近いものをお願いします。特定の事業だけに偏らないよう、技術分野と利用者も分けてください」

 

「承知しました。少々お待ちください」

 

ノアはすぐに記録システムへ接続した。

 

検索条件を入力すると、会議室の画面へ複数の事業記録が表示される。開発部門の技術報告、ユウカが作成した予算資料、契約上の問題、利用者から寄せられた要望。事業によって項目数に差はあっても、決定に関係した資料は整理されていた。

 

修司は一件目の記録を開いた。

 

災害時の通信を補助するための設備で、運用費が当初の計画を上回っている。技術部門からは継続要望が出され、ユウカの記録には、同じ規模で続けた場合の追加予算が記載されていた。

 

最終判断は、規模を縮小したうえでの継続。

 

決裁者の欄には、調月リオと表示されている。

 

二件目は、既存設備より高い処理能力を持つ演算装置の導入計画だった。性能試験には成功していたが、維持費が大きく、用途の一部が別の設備と重複している。

 

最終判断は、導入計画の終了。

 

決裁者は調月リオ。

 

三件目は、外部販売を想定した携帯端末だった。試作品への評価は高かったものの、保守体制と製造原価に問題があり、販売を始める条件が揃っていない。

 

最終判断は、販売を見送り、研究段階へ戻す。

 

そこにも、同じ名前が記録されていた。

 

資料の作成者も、意見を提出した部門も異なる。だが、どの記録でも、最後に表示される決裁者は調月リオだった。

 

「判断理由の記録はありますか」

 

修司が尋ねると、ノアは各案件の決裁欄を開いた。

 

「決定内容と実行条件は残っています。通信設備であれば、対象地域を限定すること。演算装置は、既存設備との統合が可能か再検討すること。携帯端末は、保守体制と製造原価が改善された場合に再審査すること、と記録されています」

 

「その条件を、どのような基準で選んだかは」

 

ノアの指が止まった。

 

「リオ会長が資料を確認し、必要な担当者から直接説明を受けていました。決定後の条件と指示は記録していますが、複数の情報をどう比較したのかまでは……記録対象になっていません」

 

ノアの表情から、いつもの穏やかさがわずかに薄れた。

 

記録を担当する者として、自分が残すべきものを残していなかったと思ったのだろう。

 

修司は、画面に並ぶ資料を確認してから答えた。

 

「記録の不足ではありません」

 

ノアが顔を上げる。

 

「技術報告、予算、契約条件、利用者の要望、決定内容、実行条件は残っています。既存の手順で記録対象となっていた情報は、すべて確認できます」

 

「では、何が足りないのでしょうか」

 

「記録するべき判断手順が、最初から定められていませんでした」

 

決定に必要な材料は残っている。最終的に何を選んだのかも分かる。

 

しかし、どの材料を重く扱い、対立する意見をどう比較し、誰がどの段階まで判断へ参加するのか。それは規則にも手順にもなっていなかった。

 

リオ自身が、必要な情報を選び、比較し、結論を出していたからだ。

 

修司は、決裁者欄に並ぶ同じ名前を見た。

 

「確認するべきなのは、リオ会長が何を選んだかではありません」

 

ユウカとノアが、修司へ視線を向ける。

 

「選ぶために、何をしていたかです」

 

修司は、三件の決裁記録を同じ画面へ並べた。

 

提出された資料と最終判断は確認できる。ただ、報告が出揃ってからリオが結論を出すまでの間に、何を確認していたのかは一覧だけでは分からなかった。

 

「ミコリ、決裁前に行われた追加照会を、時系列で抽出できますか」

 

「可能です。会議記録、資料の更新履歴、担当者への通知を照合します」

 

ミコリが記録へ接続すると、三件の決裁画面の横に、それぞれ異なる履歴が表示された。

 

災害時の通信設備では、技術部門と会計から最初の資料が提出された後、リオは対象地域の通信障害件数と、過去の避難誘導における利用実績を追加で求めていた。運用費だけを減らすのではなく、必要性が高い地域を残したうえで規模を縮小している。

 

演算装置の案件では、性能試験の結果を受け取った後、既存設備の稼働率と処理能力を確認していた。新しい装置の性能が高いことは否定せず、既存設備との用途が重複していることを理由に導入計画を終了している。

 

外部販売を想定した携帯端末については、利用者からの評価に加え、故障時の修理時間、交換部品の供給量、問い合わせへ対応できる人数を調べさせていた。その結果、技術そのものは残しながら、販売だけを見送っている。

 

「決裁前に求められた情報が、案件ごとに異なります」

 

ミコリが照合結果をまとめた。

 

「通信設備では公共上の必要性、演算装置では既存設備との重複、携帯端末では販売後の保守能力が追加で確認されています」

 

「追加資料を求めた記録は、すべて残っているんですね」

 

修司の問いに、ノアが頷く。

 

「はい。リオ会長から担当者へ資料の提出を求めた場合は、依頼内容と提出結果を保存しています。口頭で説明を受けた時も、決定後に必要な条件は記録していました」

 

「誰から説明を受けるかは、事前に決まっていましたか」

 

「いいえ。案件によって異なります。リオ会長が必要だと判断した相手を、その都度呼んでいました」

 

「判断のための常設会議は」

 

「ありませんでした。複数の部門が関係する場合でも、全員が一度に集まるとは限りません。リオ会長が個別に確認し、最後に結論を出していました」

 

修司は、三件の記録を時系列に並べ直した。

 

最初に、技術報告や予算資料、契約条件が提出される。リオが不足している情報を選び、担当者へ追加の確認を求める。それらが揃うと、継続、終了、研究段階への差し戻しといった結論を出し、実行条件と担当者を指定する。

 

決裁後の仕事は記録として残る。だが、どの情報が不足していると判断するのか、対立する価値をどう比較するのかは、リオ以外の誰にも定められていなかった。

 

「不在時の代行手順はありますか」

 

ノアは記録システムを検索したが、該当する規程は表示されなかった。

 

「通常の予算執行や契約確認であれば、セミナー内に代行手順があります。ただ、複数部門にまたがる事業の開始や終了については、代行者が定められていません」

 

「以前、リオ会長が一時的に連絡を取れなかった時は?」

 

ユウカが記憶をたどった。

 

「緊急性のない案件は待っていました。支払いなど期限のあるものは、私が既存予算の範囲で対応しています。でも、長期間不在になることは想定していませんでした」

 

不在を想定していなかったのではない。

 

リオがいなければ決められない仕事が、これほど多いとは考えていなかったのだ。

 

会長が戻るまで数日待つだけなら、それで問題は起きない。過去には実際、それで対応できていた。

 

だが今は、戻る日が決まっていない。

 

「リオ会長が制度に従って決めていたのではありません」

 

修司は、判断前後の履歴を一つの図へまとめた。

 

技術部門、会計、契約担当、利用者から伸びる線が、すべて中央に置かれたリオの名前へ集まっている。そこから継続、終了、事業化という決定が各部門へ返されていた。

 

「リオ会長自身が、意思決定の仕組みとして機能していました」

 

ユウカの眉がわずかに動いた。

 

「でも、リオ会長の判断が間違っていたわけではありません」

 

反論するような言葉になった。

 

リオの行動をすべて肯定できるわけではない。それでも、少なくとも事業判断において、リオは必要な資料を読み、誰よりも広い範囲を見ていた。

 

結果だけを見れば、合理的な判断も多い。通信設備を一律に止めず、必要な地域へ残したことも、保守できない製品を販売しなかったことも正しかった。

 

今の問題を説明するために、かつてのリオの仕事まで誤りだったことにされたくなかった。

 

修司はユウカの言葉を否定しない。

 

「判断内容の評価ではありません。正しい結果を出せることと、その方法をほかの人が継続できることは別です」

 

「リオ会長にしかできなかったから、問題だったということですか」

 

「正確には、リオ会長にしかできない状態を、組織として変更しなかったことが問題です」

 

リオが優秀であったことと、組織の仕組みが十分であったことは同じではない。

 

一人で正確かつ迅速に決められる者がいる間は、手順を作るより、その人へ任せたほうが早い。周囲も自分の担当資料を渡せば仕事を終えられるため、誰も全体の流れを疑わなくなる。

 

その方法が機能すればするほど、依存は問題として見えなくなる。

 

「現在の事業判断も、同じ形で整理できますか」

 

修司に尋ねられ、ユウカは今回の三案に関係する資料を表示した。

 

技術部門からは、設備更新を止めた場合の影響が届いている。事業責任者からは、契約と利用者への影響が提出され、ユウカは資金不足までの期間と必要な削減額を計算していた。

 

ノアも契約上の期限と、停止した場合に発生する違約金を確認している。

 

必要な材料は揃っていた。

 

修司が現在の流れを、先ほどと同じ図へ追加する。技術部門、会計、契約担当から伸びた線は、以前と変わらず中央へ向かった。

 

だが、その先にあるリオの名前だけが灰色になっている。

 

「各部門から提出された後、この資料はどこへ送られていますか」

 

「セミナーの共有決裁です」

 

ユウカが答えた。

 

「最終決裁者は」

 

「設定されていません。リオ会長の権限は停止されていますが、代行者は登録されていないので」

 

「その状態で、提出された資料はどうなりますか」

 

ノアが現在の履歴を開いた。

 

「関係者全員へ確認通知が送られます。技術部門は、会計だけで研究価値を判断できないと回答しています。会計からは、技術的な優先順位を決められないと返しています。契約担当は、継続か停止かが決まらなければ手続きを進められません」

 

誰も仕事を放棄してはいない。

 

それぞれが、自分の担当範囲で答えられることには回答している。判断できない内容についても、何が不足しているかを正確に返していた。

 

しかし、すべての回答が揃っても、それらを比較して一つの結論にする者がいない。

 

資料は関係者の間を移動し、最後には再び共有決裁へ戻る。四日前から、その繰り返しが続いていた。

 

「結局、リオ会長の決裁欄だけが空いたままなのね」

 

ユウカは画面を見つめた。

 

自分は十二日という期限を示した。三つの案を作り、全員へ送った。それでも決まらなかった理由を、リオがいないからだと答えた。

 

今までは、その言葉を状況の説明として使っていた。だが、目の前の図では、何が失われたのかがはっきりしている。

 

リオの不在によって消えたのは、最後に名前を入れる者だけではない。必要な情報を選び、異なる価値を比較し、選ばなかったものへの責任まで引き受ける仕事そのものだった。

 

修司は、以前の流れと現在の流れを並べた。

 

「空いている箇所へ、別の名前を登録するだけなら難しくありません」

 

「だったら、すぐに代行者を決めるべきです」

 

「誰を登録しますか」

 

その問いに、ユウカは画面を見た。

 

技術部門は、研究価値を判断できる。ノアは契約と記録を把握し、利用者からの要望も整理できる。朝倉先生は外部との交渉に優れている。

 

だが、現在の資金状況と、三案が各部門へ与える影響を最も把握しているのは自分だった。

 

十二日という期限を計算したのも、自分である。判断を先延ばしにすれば、どの支払いから止まるのかも分かっている。

 

誰かが引き受けなければならない。

 

その責任を、ほかの誰かへ押しつけたくはなかった。

 

「私を登録してください」

 

ノアがユウカを見る。

 

「ユウカちゃん?」

 

「技術面は各担当者に確認します。契約はノアに、利用者への影響は各事業責任者に聞く。必要な情報を揃えたうえで、私が最終判断します」

 

ユウカは迷わず、灰色になった決裁欄を指した。

 

「私が、リオ会長の代わりに決めます」

 

それは思いつきではなかった。残り十二日を減らし続ける時計の前で、ユウカには最も早く、最も責任のある答えに思えた。

 

修司はユウカの申し出を聞いても、作成した図の中央へ彼女の名前を置かなかった。

 

「その案には賛成できません」

 

返答を予想していなかったのか、ユウカは一瞬だけ言葉を失った。

 

「なぜですか。現在の資金状況と、三案を実行した場合の影響は把握しています。技術的な問題についても、各部門へ確認できます」

 

「ユウカさんに必要な情報を集める能力がないとは考えていません」

 

「では、判断する能力が足りないと?」

 

「いいえ。ユウカさんにできるかどうかは、今回の問題ではありません」

 

修司は、リオへ情報が集まっていた過去の図を複製した。

 

中央に置かれた調月リオの名前を消し、代わりに早瀬ユウカと入力する。技術部門、会計、契約、利用者から伸びる線が、今度はすべてユウカへ集まった。

 

「先ほど確認した構造と、何が違いますか」

 

ユウカは画面を見つめた。

 

中央にある名前以外は、何も変わっていない。

 

「私は会計担当です。少なくとも、リオ会長より資金面へ多くの時間を使えます」

 

「現在も予算管理、資金繰り、支払い判断、大口注文の確認を担当しています。それに加えて、すべての事業について、技術的な価値、公共性、契約上の問題を比較し、最終判断まで引き受けることになります」

 

「必要な仕事なら、やります」

 

「ユウカさんが不在の時は、誰が決めるのですか」

 

答えようとして、ユウカは口を閉じた。

 

ノアが代行できる業務もある。通常の予算執行なら、担当者ごとに権限が分かれている。しかし、学園全体に関わる事業判断を、そのままノアへ渡すことはできない。

 

別の代行者を決めても、その者へ同じ仕事が集まるだけだった。

 

「不在になる予定はありません」

 

ユウカは、かつて何度も使われてきた言葉を口にした。

 

少なくとも、この資金問題が解決するまでは休まない。その程度の覚悟は当然だと思っている。

 

修司は、その覚悟を評価する言葉を返さなかった。

 

「予定がなければ、不在にならないとは限りません。体調を崩す可能性もあれば、別の緊急対応が必要になることもあります」

 

「今は、起きていない問題を心配している場合ではありません」

 

「現在の問題も、同じ考え方によって発生しています」

 

ユウカの眉が寄る。

 

「リオ会長が決められる間は、不在時の仕組みを作る必要がないと考えられていました。今度はユウカさんが決められるから、ほかの人が判断できる仕組みは後でよいとする。それでは、名前を変えただけで同じ状態を残すことになります」

 

ユウカは反論できなかった。

 

リオがいなくなった後、自分がどれだけの仕事を引き受けてきたのかは理解している。会計を止めれば、学園の支払いが止まる。だから、忙しくても資料を確認し、急な予算相談にも対応してきた。

 

そこへ最終判断まで加われば、自分が席を離れられない理由はさらに増える。

 

それでも、十二日という期限は消えない。

 

「では、誰が決めるんですか」

 

声に焦りが混じった。

 

「全員で話し合っている間にも、支払期限は来ます。責任者が一人もいなければ、結局は今と同じです」

 

「責任者を置かないとは言っていません」

 

修司はユウカを中央に置いた図を閉じた。

 

「誰が決めるかを選ぶ前に、何を決める必要があるのかを分けます。一人ですべてを決めることと、責任者を明確にすることは同じではありません」

 

「技術、安全性、予算、契約を、それぞれ別の人が判断するということですか」

 

ノアが尋ねる。

 

「その方法が適切かどうかも、これから確認します。少なくとも、技術的な価値を会計担当者一人へ決めさせ、資金の限界を技術担当者一人へ決めさせる形にはしません」

 

すべての判断を多数決にすればよいわけでも、関係者を集めれば責任が生まれるわけでもない。

 

どの情報を誰が確認し、誰がどこまで決めるのか。意見が一致しない場合に、何を基準として次の段階へ進むのか。決定後の責任を、誰が引き受けるのか。

 

リオが一人で行っていた仕事を分けなければ、適切な責任者も決められない。

 

「十二日しかないことは変わりません」

 

ユウカは念を押した。

 

「はい。ですから、緊急対応と、今後も使用する意思決定手順を分けます」

 

修司は、ユウカが提出した三案の横に、当日中に必要な作業を表示した。

 

「支払い停止の準備は、予定どおり進めてください。停止対象、通知期限、契約上の影響を確認できる状態にします。ただし、準備することと、実際に停止を決めることは分けて記録してください」

 

「大口注文は、保留のままでいいんですね」

 

「はい。採算と資金調達の見通しが確認できるまで、新たな義務は増やしません。現在の三案については、必要な調査を終え、誰がどの範囲を判断するのかを明らかにしたうえで、期限付きの暫定方針を決めます」

 

「その間に、今後の手順も作るということですか」

 

「先に、作るために必要な情報を集めます。リオ会長の判断結果を、そのまま規則へ置き換えるつもりはありません」

 

ユウカは中央から消された自分の名前を見た。

 

任せられなかったのではない。

 

自分一人へ任せないと決められた。

 

その違いを受け入れるには、少し時間が必要だった。能力があるなら、できる人間が引き受ければよい。そうしてきたからこそ、ユウカは今の役職にいる。

 

だが、その考え方を続ければ、優秀であることが仕事を断れない理由になる。

 

「ユウカさん」

 

修司に呼ばれ、ユウカは顔を上げた。

 

「支援を申請した人を、次の支援対象へ変えるつもりはありません」

 

叱責でも慰めでもない声だった。

 

ユウカがリオの代わりを引き受ければ、現在の資金問題は早く動くかもしれない。しかし、その先でユウカ自身が止まれば、今度は誰が申請を送るのか。

 

モームリを呼んだ者まで、同じ構造へ入れるわけにはいかなかった。

 

「……分かりました」

 

ユウカはすぐに納得したわけではない。それでも、自分を最終決裁者へ登録する画面は閉じた。

 

「支払い停止の準備は進めます。それと並行して、リオ会長が行っていた判断作業を確認します」

 

「お願いします」

 

ノアも、表示されていた過去の記録を整理し始めた。

 

「リオ会長が不在になってから、完全に止まった仕事と、別の人が代わりに行っている仕事を分けた方がよさそうですね」

 

「はい。誰にも引き継がれなかった仕事だけでなく、正式な担当を決めないまま、誰かが引き受けた仕事も確認する必要があります」

 

修司は現在の業務記録を開いた。

 

事業の開始と終了、予算を超える設備投資、複数部門にまたがる優先順位の決定。それらはリオの不在後、ほとんど動いていない。

 

一方で、資金不足が表面化しないよう支払いを延期し、スポンサーへ追加支援を求め、外部との関係を維持する仕事は続いていた。

 

「この外部交渉を担当しているのは、すべて朝倉先生ですか」

 

「すべてではありません」

 

ユウカが訂正した。

 

「契約条件はノアが確認していますし、必要な金額と期限は私が出しています。でも、スポンサーへの説明と、新しい支援の交渉は先生が担当しています」

 

「担当として正式に割り当てられていますか」

 

「最初から決められていたわけではありません。先生が交渉した方が話を聞いてもらいやすかったので、少しずつ増えていきました」

 

希美は、技術の内容を外部の人間にも理解できる言葉へ置き換えることができた。

 

研究者が性能や数値を中心に説明しても伝わらなかった価値を、誰のために、どのような場面で役立つのかという形で語る。生徒の活動を一方的に売り込むのではなく、相手が支援できる範囲も聞いたうえで条件を調整する。

 

一度成功すれば、次も希美に任される。

 

別の事業でも支援が必要になれば、再び希美が呼ばれる。そうして外部交渉だけが、正式な決定を待たないまま増えていた。

 

会議室の扉が開いたのは、修司が希美の予定表を表示した時だった。

 

「遅くなってしまって、本当にすみません」

 

一人の女性が、息を整えながら室内へ入ってきた。

 

朝倉希美。片手には資料の入った鞄を持ち、もう片方の手には端末を握っている。走ってきたのか、髪がわずかに乱れていたが、待たせた相手へ向ける表情には穏やかな笑みを保っていた。

 

「朝倉希美です。ミレニアムでは、先生として生徒たちの支援をしています。白石さんとミコリさんですね」

 

「白石修司です。お忙しいところ、ありがとうございます」

 

「ミコリと申します。よろしくお願いいたします」

 

希美が席へ着こうとした直後、手にした端末が鳴った。

 

表示された相手を確認すると、希美の表情に迷いが浮かぶ。通話を拒否しかけた指が止まり、ユウカと修司を交互に見た。

 

「申し訳ありません。部品供給会社からです。先ほどの交渉について、確認したいことがあるのだと思います」

 

「今、出なければならない連絡ですか」

 

修司が尋ねる。

 

希美はすぐには答えられなかった。

 

「今日中に支払条件を調整できれば、いくつかの事業を止めずに済むかもしれません。少しだけ、待っていただけますか」

 

希美は会議室を出ると、廊下で通話に応じた。

 

閉まりきらなかった扉の向こうから、穏やかな声が聞こえてくる。

 

「はい、朝倉です。先ほどはありがとうございました。追加資料はこちらでまとめますので、生徒への確認は私を通してください」

 

疲労を感じさせない声だった。

 

だからこそ、何件目の交渉なのかは、相手には分からない。

 

ユウカは廊下に立つ希美を見ながら、膝の上で手を握った。

 

「リオ会長が決めていた仕事は、誰も引き継げませんでした」

 

希美は相手の話を聞きながら、次の面談時刻を端末へ入力している。

 

「でも、決まらないまま事業を止めないための仕事は、先生が引き受けています」

 

リオは決めることで、ミレニアムを動かしていた。

 

希美は、決めなくても済む時間を稼ぐことで、止まりかけたミレニアムを動かしている。

 

修司は希美の予定表と、会長席へ集まっていた業務の図を並べた。

 

「次に確認するべき仕事が決まりました」

 

会長席に集まっていた線は途切れたままだった。その代わり、決定を先へ延ばすための仕事が、今度は朝倉希美という一人の教師へ集まり始めていた。

 

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