通話を終えた希美は、端末を胸元へ抱えたまま会議室へ戻った。
「お待たせして申し訳ありません。部品供給会社から、支払期限を五日間延長していただけることになりました」
先ほどより表情が明るい。交渉を終えた安堵よりも、いくつかの事業を止めずに済むことへの喜びが表れていた。
「現在手配している部品も、取り消さずに確保していただけます。それから、別の支援団体にも研究内容を説明したところ、追加資料を提出すれば支援を検討してくださるそうです」
「追加資料の提出期限と、支援額の上限は分かりますか」
ユウカが端末を開きながら尋ねる。
「提出期限は三日後です。支援額はまだ確定していませんが、これまでの実績から、部品代の半分程度は期待できると思います」
「確定前の金額は計上できません。支払期限を延長した分だけ、先に反映します」
ユウカは希美から交渉内容を受け取り、資金繰り表へ入力した。
支払日を五日後へ移動させる。だが、その期間には別の事業の支払いが重なっていた。計算結果を更新しても、学園全体の資金不足見込み日は変わらない。
「十二日のままです」
希美の表情から、喜びがわずかに薄れた。
「そうですか……」
「交渉が無駄だったわけではありません。この事業については、今日部品の手配を止めずに済みます。ただ、ミレニアム全体で不足する資金は変わっていません」
「はい。それでも、五日あれば別の方法を探せます」
希美はすぐに気持ちを切り替えた。
五日しかないとは考えない。五日もあるのなら、別の支援者を探し、追加資料を作り、事業を続ける方法を探せる。そうして希美は、これまでも停止寸前の事業を何度もつないできた。
修司は、更新された資金繰り表ではなく、希美が持ち帰った交渉記録を確認した。
「朝倉先生が先ほど交渉しなければ、何が起きていましたか」
「今日中に支払い条件を変更できなければ、部品の出荷が取り消される予定でした。そうなれば、二つの開発チームが試作を続けられなくなります」
「安全上、直ちに必要な部品ですか」
「緊急の修理ではありません。ただ、今月中に予定されている性能試験には必要です。試験が延期されれば、協力してくださっている外部施設にも影響が出ます」
「交渉を依頼したのは、どなたですか」
希美は一瞬、ユウカへ視線を向けた。
「開発チームの生徒です。追加予算が保留になった後、何か別の方法がないか相談を受けました」
「セミナーから、朝倉先生へ交渉を依頼したわけではないんですね」
「はい。でも、部品がなければ試験そのものが止まってしまいます。せめて事情を説明して、待ってもらえないかと思ったんです」
希美が勝手に契約を結び、会計を無視して支出を増やしたわけではない。
支払期限の変更はノアが契約上の問題を確認し、確定した条件もユウカへ共有している。新たな支援についても、金額と条件が決まるまでは予算へ含まれない。手順を隠した者はいなかった。
「期限延長の条件はありますか」
「五日以内に支払計画を提示すること。それから、今回の性能試験が終わった後、結果を供給会社へ報告することです」
「報告資料を作成する担当者は」
「開発チームへ確認します。専門的な内容をそのまま提出するのは難しいので、外部向けの説明は私が手伝うつもりです」
「支払計画の説明は」
「ユウカさんの資料をもとに、私から説明します」
修司は交渉記録の下へ、条件を実行するために必要な作業を追加した。
支払計画の作成、供給会社への説明、性能試験後の報告書、外部向け資料への書き換え。部品の出荷は止まらなかったが、希美が新しく担当する仕事は増えている。
一件だけなら、大きな負担には見えなかった。
「朝倉先生。同じように、予算が保留された後で外部との交渉を引き受けたことはありますか」
「あります。資金がなくても、外部の方に協力していただければ続けられる研究はありますから」
「件数を確認してもよろしいですか」
希美は少し迷った後、ノアを見る。
「ノアさん。お願いできますか」
「承知しました」
ノアは、リオ不在後の契約変更と追加支援の記録を開いた。
検索条件へ、内部予算の保留、外部支援、支払猶予、物品提供、無償保守を入力する。表示された一覧は、一つの画面には収まらなかった。
ユウカは驚かなかった。
「この記録なら、私も確認しています」
「把握していたんですね」
「成立した支援や契約変更は、すべて資金計画へ反映しています。朝倉先生が交渉していることも知っていました」
「では、なぜ継続を認めたのですか」
「私が止めたのは、ミレニアムの予算から追加で支出することです。外部が条件を理解したうえで部品を提供し、契約上の問題もないなら、会計だけを理由に禁止する権限はありません」
ユウカは一覧の一件を開いた。
小型検査機の開発計画。設備更新と時期が重なったため、追加予算は保留されている。その後、希美が外部企業へ技術の用途を説明し、試験用部品の提供を受けていた。
金銭の支出はない代わりに、完成後には企業向けの実演と、三か月ごとの進捗報告が必要になっている。外部との窓口は希美だった。
次の記録は、教育用ソフトウェアの運用事業だった。
利用料だけでは保守費を賄えず、サーバー契約の縮小が検討されていた。希美が教育支援団体へ利用実績を説明し、半年間の費用支援を受けている。
その条件として、利用校への操作説明会と、月ごとの活用報告が追加されていた。説明会の調整と支援団体への報告は、希美が担当している。
三件目は、納品済み機器の無償点検だった。
事業側が想定していた点検回数を超えていたため、ユウカは新たな無償対応を認めなかった。だが、利用者が機器を使えなくなると聞いた希美が開発チームと相談し、外部の整備事業者から一時的な協力を得ている。
費用の支払いは発生していないが、整備事業者へ技術資料を提供するための確認と、利用者への説明が必要になった。その連絡窓口も希美だった。
どの支援にも、理由がある。
部品がなければ試験が止まり、サーバーを縮小すれば利用している生徒が困り、無償点検を断れば納品済みの機器が使えなくなる。
希美は、それぞれの事情を聞き、外部の相手にも伝わる言葉へ置き換え、支援を成立させていた。
「朝倉先生が内容を説明しなければ、成立しなかった支援はどの程度ありますか」
修司の問いに、ノアが過去の交渉記録を照合する。
「正確な比較はできませんが、支援先から朝倉先生の説明を条件として指定されている案件が複数あります。支援後の報告についても、朝倉先生を窓口とする契約が多いですね」
「先生以外の担当者へ変更できますか」
「契約変更を行えば可能です。ただ、支援先が同じ条件を維持するかは分かりません」
希美が交渉を担当することで、普通なら止まる事業を続けられる。
外部の相手も、技術だけを見て支援しているわけではない。専門知識を理解しようとし、問題が起きても逃げずに説明する希美を信用して、猶予や支援を認めていた。
その信用を別の人間へ移すことは、契約書の担当者名を書き換えるほど簡単ではなかった。
「私が対応した方が、話が早いこともあります」
希美が言った。
「開発した生徒たちが直接説明すると、どうしても性能の話が中心になります。でも、外部の方が知りたいのは、何のために使うのか、問題が起きた時に誰が対応するのかという部分です」
「朝倉先生が優先的に支援する事業は、どのように選んでいますか」
「相談を受けた順に内容を確認しています。安全に問題があるものや、契約上認められないものは断ります。そのうえで、続ける方法が残っているなら、協力してくださる相手を探します」
希美は、何でも無条件に認めているわけではなかった。
危険な技術を外部へ出すことも、内容を隠して支援を求めることもない。相手の負担と条件を聞き、開発チームが守れる範囲を確認してから交渉している。
一件ずつを見れば、間違った対応ではなかった。
「事業同士の優先順位は比較していますか」
修司に尋ねられ、希美は答えられなかった。
「限られた支援先を、どの事業へ紹介するか。どの部品の支払いを先に延ばしてもらうか。学園全体として、どの事業を残すかという比較です」
「相談された事業について、必要な支援を探しています。ほかの事業と比べて、どちらかを諦めさせるようなことは……」
言葉が続かなかった。
希美は、相談に来た生徒の話を最後まで聞いてきた。
予算を保留された理由も、資金に限界があることも説明する。それでも生徒が研究の価値を訴えれば、別の方法を一緒に探した。
目の前にいる一人へ、ほかの事業を残すためにあなたの事業は止めるとは言えなかった。その代わりに外部の協力者を探し、支援が見つかれば判断を先へ延ばした。
生徒へ終了を告げずに済み、研究も続けられる。それが悪いことだとは思えなかった。
修司は、一覧に表示された流れを一つの図へまとめた。
内部予算が保留される。
生徒が希美へ相談する。
希美が外部へ説明し、資金、部品、支払猶予を確保する。
事業は継続するが、学園としての継続判断は行われない。代わりに、外部への報告、実演、説明、保守といった仕事が増え、その窓口が希美へ集まっている。
「ユウカさんの予算判断が無視されたわけではありません」
修司が言った。
「朝倉先生が不適切な方法で事業を続けたわけでもありません」
希美は安堵しかけたが、修司は表示された図を閉じなかった。
「ですが、予算を止めても、事業を続けるかどうかの判断にはつながっていません」
ユウカが支出を止め、希美が別の方法で継続させる。
どちらも自分の役割を果たしていた。それでも二つの仕事がつながっていないため、事業は終了も継続も決まらないまま残り続けていた。
修司は、希美の名前へ集まった報告と交渉の数を見た。
「続けると決めていない事業を、続けられる状態だけが作られています」
希美は、修司が表示した図を見つめた。
「その言い方では、続けてはいけない事業を、私が無理に残しているように聞こえます」
「続けるべきかどうかが決まっていない事業です」
修司は言葉を変えなかった。
「不適切な事業だと判断したわけではありません。現時点では、継続と終了のどちらも決められていません」
「終了が決まっていないなら、続ける方法を探してもいいのではありませんか」
「その方法によって、新しい仕事と義務が増えています」
希美は、外部支援の一覧へ視線を戻した。
部品提供も、支払猶予も、費用支援も、相手へ事情を説明し、双方が納得したうえで成立させている。一方的に負担を押しつけたつもりはない。
報告や実演が必要になることも理解していた。支援を受ける以上、結果を伝えるのは当然だと思っている。
「報告は、私が責任を持って行います。開発した生徒たちへ、すべて任せるつもりはありません」
「その仕事を、何件担当していますか」
希美は答えられなかった。
依頼を受けた一件ごとの内容は覚えている。どの事業へ、どの支援先を紹介したのかも分かる。しかし、それらを自分の業務としてまとめて数えたことはなかった。
「ノアさん。支援成立後に朝倉先生が担当している仕事を、種類ごとに分けられますか」
「確認します」
ノアは契約記録から、窓口担当者が朝倉希美となっている案件を抽出した。
進捗報告、支援先との面談、利用者への説明、実演の日程調整、支払計画の提出、契約条件の再確認。似た内容でも事業ごとに別の仕事として発生している。
直近二週間だけで、外部との面談が八件、報告期限が六件、実演が四件、支払条件の調整が五件あった。
生徒から受けた相談や、通常の教師としての仕事は含まれていない。
「これらを、いつ行っていますか」
修司が尋ねた。
「予定表に入れています。急な相談があった場合は、ほかの予定を調整しています」
「今日の予定を確認してもよろしいですか」
希美は少し躊躇した後、予定表の共有を許可した。
朝から外部との面談が続き、移動時間の間にも資料確認が入っている。昼食のための時間は設定されておらず、夕方以降には支援報告書の作成が三件並んでいた。
翌日も、その次の日も状況は大きく変わらない。
「報告書の作成が、夜に集中しています」
ミコリが予定と作業記録を照合した。
「直近の記録では、予定していた外部対応が終了した後に、報告書と説明資料の作成が行われています。複数の日で、最終更新時刻が日付変更前となっています」
「昼間は、生徒たちや外部の方と話す時間に使いたいんです。資料は一人でも作れますから」
「休憩時間を資料作成へ移しているということですか」
「毎日ではありません。それに、今だけです」
「いつまでを予定していますか」
希美は答えを探した。
資金が安定するまで。事業を続けられる見込みが立つまで。誰かが正式な判断を下すまで。
どれも、具体的な日付にはならなかった。
「状況が落ち着くまでです」
「リオ会長が不在になってから、外部交渉は増え続けています。自然に減る条件は設定されていません」
修司の指摘に、希美は唇を結んだ。
終わりが決まっていないことは分かっている。それでも、自分が手を止めれば、今つながっている支援が切れる。
自分の予定を減らすために、生徒の研究や利用者への支援を止めることはできなかった。
「白石さんは、どうすればよかったと考えているんですか」
「継続するかどうかを、組織として判断する必要があります」
「その判断をする人がいなかったんです」
希美の声には、初めて明確な苛立ちが混じった。
「生徒から相談を受けても、私には事業を継続させる予算も、終了させる権限もありません。だから、自分にできる方法を探しました」
「分かっています」
「それなら、なぜ問題だと言うんですか」
「朝倉先生の対応が成功するほど、組織として判断しなくても事業が続くからです」
希美は言葉を失った。
責められているのは、交渉に失敗したことではない。成功したことだった。
外部の相手へ技術の価値を伝え、追加支援を得る。支払期限を延ばし、止まりかけた事業をつなぐ。それは希美が教師として、生徒のために行ってきた仕事だった。
その成功によって判断が先送りされていると言われても、すぐには受け入れられなかった。
「先生が何もしなければ、止まっていた研究もあります」
ユウカが言った。
「助けてもらったことは否定しません。先生が交渉したから、利用者へ迷惑をかけずに済んだ事業もあります」
「では――」
「でも、このままでは駄目なんです」
ユウカは、自分が保留した予算と、その後に成立した外部支援を並べた。
「私が予算を止めたのは、事業に価値がないと思ったからではありません。今の資金では、全部を同じように続けられないからです」
「だから、ミレニアムの予算を使わない方法を探しました」
「その結果、事業が続いているのに正式な予算は付かず、先生が外部との約束を引き受けています」
「約束した仕事は、私が行います」
「先生ができるかどうかの話ではありません!」
ユウカの声が会議室に響いた。
言った直後、ユウカ自身が驚いたように息を止める。それでも、目を逸らさなかった。
「私が止めた予算を、先生が勝手に使ったとは思っていません。契約を隠していたとも思っていません。でも、別の方法で事業が続けば、予算を止めた理由が判断につながらないんです」
希美は黙ったまま、ユウカの言葉を聞いていた。
「先生が五日延ばす。その間に別の支援を探す。次は一か月、その次は半年延ばせるかもしれません。でも、どの事業を残すのか決めない限り、先生が交渉を続けることになります」
「決める人がいなかったから、私にできることをしたんです」
「だから、今から決められる形を作ろうとしているんです」
二人の間に沈黙が落ちた。
ユウカは学園全体の資金を守ろうとした。希美は、正式な判断を待つ間に失われる研究と利用者を守ろうとした。
どちらかが仕事を怠ったわけではない。互いの判断を妨害する意図もなかった。それでも、予算を止める仕事と、外部支援で事業を続ける仕事が別々に行われた結果、終了も継続も決まらない事業だけが増えていた。
修司は、二人の主張が途切れるまで口を挟まなかった。
「今の状態で事業調査を始めても、その間に新しい支援と義務が増えます」
修司は、支援成立後に発生した仕事の一覧を閉じ、新しい項目を表示した。
「十日間、新しい約束を停止してください」
希美が顔を上げる。
「新しい約束とは、どこまでですか」
「新たな外部資金の受け入れ、無償保守の追加、採算を確認していない特注受注、事業審査を通していない販売開始です。新しい支払猶予を前提とした事業継続も含めます」
「十日間もですか」
「既存契約は停止しません。現在の利用者への保守と、安全に関わる緊急対応も続けます。研究そのものや、生徒から相談を受けることも禁止しません」
「でも、新しい支援がなければ、十日以内に止まる事業があります」
「その事業を優先して確認します」
「支援してくださる方が、十日も待ってくれるとは限りません。今断れば、次の機会はないかもしれないんです」
「その可能性はあります」
修司は、失われるものがないとは言わなかった。
「だからこそ、停止期間を十日間に限定します。ただし、確認できていない義務を増やし続ければ、どの事業を残すための支援なのかさえ決められません」
「事情を説明して、待ってもらうことはできます」
「その説明と交渉も、朝倉先生の仕事になります」
希美は反論しかけ、言葉を止めた。
新しい支援を止めるためにも、現在交渉中の相手へ連絡しなければならない。十日後に再び条件を調整するのであれば、その窓口も自分が引き受けるつもりだった。
どの方向へ進んでも、自分が対応することを前提に考えている。
それでも、目の前にいる生徒へ「今は続けられない」と告げることだけは選べなかった。
「それでも、止める側にはなれません」
希美は胸元で手を握った。
「止めることは、技術に価値がないと決めることではありません」
「生徒にとっては同じです。予算を出さない、支援を探さない、今は待ちなさいと言う。そうやって挑戦する前に諦めさせたら、次にもう一度やろうと思えなくなるかもしれません」
穏やかだった声が、少しずつ強くなっていく。
「朝倉先生が断らなければ、誰が断るのですか」
修司の問いに、希美の中で何かが切れた。
「大人が、子供の可能性を否定してはいけません!」
普段の彼女からは想像できない声が、会議室へ響いた。
それは修司への反論であると同時に、希美が決して越えてはならないと自分へ課してきた境界そのものだった。
希美の声が消えた後も、会議室には張り詰めた空気が残った。
ユウカは何か言おうとしたが、修司が先に口を開く。
「その考えを否定するつもりはありません」
希美が顔を上げた。
反論されると思っていたのだろう。握ったままだった手から、わずかに力が抜ける。
「子供の可能性を、大人の都合だけで否定してはいけない。その考え自体は、今回の改善対象ではありません」
「それなら、なぜ止めるんですか」
「何をすれば可能性を守ったことになるのか、決められていないからです」
希美は修司を見つめた。
「研究の話を聞くこと。挑戦する機会を残すこと。予算を追加すること。外部から支援を得ること。販売事業を継続すること。これらは、すべて別の判断です」
「でも、予算も支援もなければ、研究は続けられません」
「今の形で事業を続けられないことと、技術そのものに可能性がないことは同じではありません」
希美には、その違いが言葉の上でしか理解できなかった。
予算を出さない。支援先を紹介しない。今は待つように伝える。
かつて大人たちから向けられた言葉も、最初は穏やかだった。
向いていないから。
失敗して傷つかないために。
将来の役に立たないないことへ、時間を使わせないために。
そうやって理由を並べた後、最後には挑戦する前から諦めることを求められた。
希美にとって「今は待つ」という言葉は、可能性を否定する言葉とあまりにも近かった。
「十日間止めている間に、諦めてしまう生徒もいるかもしれません」
「その可能性はあります」
修司は、そこでも安全な答えを選ばなかった。
「支援者が離れる可能性も、試験の予定が変更される可能性もあります。停止に損失がないとは考えていません」
「それでも、止めるんですか」
「はい。損失があるからこそ、誰か一人の善意だけで決めず、記録したうえで選ぶ必要があります」
希美はすぐに納得できなかった。
これまで自分が支援しなければ、実際に失われていたものがある。継続できた研究も、助けられた利用者も、すべて目の前に残っている。
それを、判断を先送りした結果だとだけ扱うことはできない。
「白石さんの言う十日間は、生徒たちにとっても同じ十日間です」
「そのとおりです」
「大人が仕組みを作っている間、何もできずに待たせるんですか」
「いいえ。研究と相談は続けます。止めるのは、新しい義務を伴う約束です」
修司は、一時停止する対象と継続する対象を分けて表示した。
既存契約に基づく保守、安全に関わる緊急対応、すでに成立している支援は継続する。研究そのものを禁止せず、生徒からの相談も受け付ける。
停止するのは、内容を審査していない外部資金、新しい無償保守、採算を確認していない特注受注、事業審査を通していない販売開始だった。
「相談を聞いた後で、支援を約束しないなんて……」
「相談を聞くことと、継続を保証することを分けてください」
「生徒が求めているのは、話を聞いてもらうことだけではありません」
「だからこそ、相談を受けた後の判断を、朝倉先生一人へ任せない方法が必要です」
修司は、希美の予定表から外部支援に関する仕事を一件ずつ外し、仮の審査欄へ移した。
希美が生徒の話を聞き、技術の価値を外部へ伝える能力は必要だった。だが、資金を受け入れてよいか、事業として継続できるか、支援後の仕事を誰が担当するかまで、一人で背負う必要はない。
「朝倉先生だけを、断る側にするつもりもありません」
希美の表情がわずかに揺れた。
「先生が相談を受け、先生が支援先を探し、先生が継続できるかを決め、成立後の窓口まで引き受ける。今の状態では、すべての責任が先生へ戻っています」
「私が始めた交渉ですから、最後まで責任を持つのは当然です」
「その当然を、案件ごとに繰り返した結果が、現在の予定表です」
修司は、日付変更前まで続いていた作業記録を示した。
「一件を最後まで担当することが問題なのではありません。何件まで担当できるのかを決めず、新しい仕事を追加できることが問題です」
希美は予定表から目を逸らした。
疲れていないわけではなかった。報告書を書きながら何度も同じ行を読み直し、外部との面談中に次の予定を思い出せなくなることもある。
それでも、生徒の相談へ応じられないほどではないと思っていた。
まだできる。
その判断を繰り返すうちに、自分の予定を自分でも数えなくなっていた。
「白石さんの提案を、そのまま運用するのは難しいと思います」
ユウカが言った。
「どこに問題がありますか」
「十日間一律に止めると、安全対応ではなくても、期限を過ぎれば取り返せない案件が出ます。それを全部例外にすれば、今と同じです」
修司はユウカへ視線を向け、続きを待った。
「停止期間は最長十日間。一件ごとに審査が終われば、その時点で解除します。安全に関わるものは即時対応。それ以外でも、期限が迫っている案件は二十四時間以内に一次確認を行います」
ユウカは一時停止案へ、審査に必要な項目を追加した。
現在必要な資金または物品、判断期限、保留した場合に失われるもの、支援を受けた後に発生する仕事。最低限その四つが分からなければ、外部へ新しい約束はしない。
「これなら、ただ十日間待たせることにはなりません。急ぐ理由がある案件から、順番に確認できます」
「審査するのは誰ですか」
希美が尋ねた。
「緊急措置の間は、私が資金と既存予算への影響を確認します。ノアには契約条件と、支援後に必要となる仕事を見てもらいます。技術面は、各案件の責任者から説明を受けます」
「最終的な判断は?」
「少なくとも、先生一人には決めさせません」
ユウカは迷わず答えた。
今後も使う事業判断の手順は、まだ完成していない。それでも、必要な情報を揃えず、希美の信用だけで支援を増やす状態は止められる。
「現在の申請システムへ、仮審査の項目を追加できます」
ノアが画面を確認しながら言った。
「新規支援と契約変更の申請を同じ窓口へ集め、既存契約、安全対応、研究相談を区別します。誰が、いつまでに確認するのかも記録できます」
「運用開始まで、どの程度必要ですか」
「項目を追加するだけなら、本日中に可能です。現在交渉中の案件も、条件が確定していないものは仮審査へ移します」
修司は、ユウカとノアが修正した内容を確認した。
「この内容であれば、調査中に新しい義務が増えることを防げます」
ユウカも項目を確認し、緊急措置としての登録画面を開いた。
「会計責任者として、最長十日間の一時停止を実施します。既存利用者への対応と研究は継続し、期限のある案件から順に確認します」
「……私が反対しても、実施するんですね」
希美が言った。
「資金と契約を管理するための緊急措置です。朝倉先生の信念を採決しているわけではありません」
修司の返答に、希美は視線を落とした。
「ですが、実際に生徒へ答えるのは私です」
「はい。話を聞くことは続けてください。ただし、続けられると約束する前に、仮審査へ戻してください」
希美が返事をするより先に、手元の端末が短く鳴った。
開発チームの生徒から、新しい相談が届いている。
『追加予算が保留になりました。このままでは試作を続けられません。先生からスポンサーへ説明してもらえませんか』
希美は反射的に返答欄を開いた。
『分かりました。私から――』
そこまで入力し、指が止まる。
これまでなら、迷う必要はなかった。
生徒から事情を聞き、外部へ説明する。支援が得られれば研究を続けられる。それで誰かが困るようには見えなかった。
だが今は、その後に発生する仕事が画面へ並んでいる。
支援条件の確認、契約、報告、実演、問い合わせ窓口。誰が引き受けるか決まっていないまま、自分が支援を約束すれば、その仕事も再び自分へ戻ってくる。
希美は、入力した文章を消した。
新しい文面を作る。
『まず、研究内容と、現在必要な支援を確認させてください』
そこまでは書けた。
続けて、外部支援を今すぐ約束できないことを伝えなければならない。だが、その一文を入力するだけで、かつて自分へ向けられた言葉と同じものを、生徒へ渡すように感じられた。
「可能性を否定せずに、断ることなんてできるんでしょうか」
希美は端末を見つめたまま尋ねた。
「断ることだけが目的ではありません」
修司が答える。
「続ける、縮小する、研究へ戻す、条件が揃うまで待つ。終了以外にも選択肢はあります。それを確認するために、十日間、新しい約束を止めるのです」
希美は、書きかけの文章へ視線を戻した。
しばらく迷った末、その下へ一文を加える。
『ただし、継続や外部支援を約束することは、今はできません』
冷たい言葉に見えた。
それでも、何も聞かずに拒絶しているわけではない。研究内容を確認し、別の形で残せる可能性も含めて判断するための保留だった。
希美は何度も読み直してから、送信を押した。
生徒から、すぐに返事は来なかった。
その沈黙が苦しくても、希美は新しい支援先へ連絡しなかった。
ノアの画面では、今送られた相談が最初の仮審査案件として登録される。続いて、保留中だった別の事業も一覧へ追加された。
どの事業にも、止めれば困る相手がいる。
継続を求める生徒がいて、残したい技術があり、支援してきた外部の相手もいた。
赤字の数だけ、続けたい理由があった。